現在位置:
  1. 朝日新聞デジタル
  2. 社説

社説

朝日新聞社説のバックナンバー

 大学入試問題に非常に多くつかわれる朝日新聞の社説。読んだり書きうつしたりすることで、国語や小論文に必要な論理性を身につけることが出来ます。会員登録すると、過去90日分の社説のほか、朝刊で声やオピニオンも読むことができます。

2012年11月10日(土)付

印刷用画面を開く

このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

解散の前に―一票の格差を忘れるな

赤字国債発行法案が今国会で成立する見通しになり、野田首相が早期の衆院解散に踏み切る条件がひとつ、整う。ゆきづまった政治を動かすには、首相が「近いうち」の解散の約束を果た[記事全文]

デモと公園―都は集会の自由侵すな

反原発デモを企画した市民に思わぬ壁が立ちはだかった。これまでと同じく、国会や官邸に近い日比谷公園にまず集まろうとしたら、管理する東京都が不許可にしたのだ。裁判所でも認め[記事全文]

解散の前に―一票の格差を忘れるな

 赤字国債発行法案が今国会で成立する見通しになり、野田首相が早期の衆院解散に踏み切る条件がひとつ、整う。

 ゆきづまった政治を動かすには、首相が「近いうち」の解散の約束を果たすことが欠かせない。与野党がようやくその環境整備に動き出したことは、一歩前進といえよう。

 だが、ここで改めて首相と民主党に強く求めておかねばならないことがある。

 最高裁に違憲状態と断じられた衆院の「一票の格差」を、すみやかに是正することだ。

 この問題で、民主党の姿勢は不誠実と言わざるをえない。

 民主党は来週、次のような法案を国会に再提出するという。

 ▼小選挙区の一票の格差を正す「0増5減」。

 ▼最高裁が合理性がないと判断した、都道府県にまず1議席を割り振る「1人別枠方式」の条文の削除。

 ▼国会が身を切る姿勢を示すための比例定数の40削減と、比例区の一部に少数政党に有利になる連用制の導入。

 比例定数の削減や連用制導入では各党の賛否が割れ、合意が得られる見通しはない。

 なのに、民主党は一括処理にこだわっている。なぜか。

 解散させないため、あえて野党に反対させ、法案成立を阻もうとしているのではないか。

 そのあげく、「0増5減」もできないまま解散になったらどうなるか。

 裁判になれば違憲判断が下るのは間違いない。選挙無効が宣言され、やり直し選挙が迫られる可能性も出てくる。

 立法府の権威が傷つくだけではない。主権者である国民をないがしろにする暴挙でもある。

 「違憲状態のまま唯々諾々と投票はできない」と、有権者のあいだで投票ボイコットが広がったとしても不思議はない。

 そうなれば、政治が大混乱することは避けられまい。

 ここは、首相みずから事態打開に動くしかない。

 「0増5減」は、とりあえず一票の格差を2倍未満におさえる意味がある。今国会では最低限の緊急避難措置として、「0増5減」を先行処理すべきだ。

 そのうえで、選挙権の平等をどう図るかや、定数削減と選挙制度のあり方については時間をかけて検討すればいい。

 首相の諮問機関である選挙制度審議会をただちに立ち上げ、衆参の役割分担をふまえた抜本的な議論をゆだねるのだ。

 最高裁は参院も違憲状態と指摘している。この際、両院を同時に改革する好機である。

検索フォーム

デモと公園―都は集会の自由侵すな

 反原発デモを企画した市民に思わぬ壁が立ちはだかった。

 これまでと同じく、国会や官邸に近い日比谷公園にまず集まろうとしたら、管理する東京都が不許可にしたのだ。裁判所でも認められず、あす11日のデモは中止となった。国会周辺での抗議活動だけにするという。

 憲法が定める「集会の自由」はどこにいってしまったのか。

 裁判所が訴えを退けた理由はいくつかある。

 数万人の人出が予想される別の催しが、同じ日に公園で開かれる▽集合場所とされる広場では、市民団体が見こむ1万人は入りきらない▽現に7月に同様の集会があったときに、一部で混乱を招いた――などだ。

 別の公園利用者に迷惑がかからぬよう、不許可をふくめ、一定の調整がなされること自体を否定するつもりはない。

 見すごせないのは、都が最近になって、園内では有料の大音楽堂と公会堂以外での集会を禁止すると言い出したことだ。ずっと大目にみてきたが、本来の決まりどおりにするという。

 市民の集会やデモの抑えこみをねらった、運用方針の改悪であるのは明らかだ。

 裁判所は判例を踏まえ、「当日の公園の利用状況や収容能力を前提とする限り、不許可もやむを得ない」と述べているのであって、包括的な規制にお墨付きを与えたわけではない。

 過去に若干の混乱があったとしても、締めだしに走るのでなく、次はそうならぬように主催者とともに手立てを講じる。それが、市民を助け、支える自治体のとるべき道ではないか。

 他者とふれあい、情報を交換することによって、人びとは考えを深めることができる。集会やデモは意見を形づくる場であるとともに、その成果を表明する有効な手段だ。それはネット時代にあっても変わらない、大切な基本的人権である。

 憲法学者から最高裁判事になった故・伊藤正己氏は、似たような問題が争われた裁判で、こんな意見を述べている。

 道路、公園、広場などの「パブリック・フォーラム」が表現の場所として用いられるときには、所有権や管理権にもとづく制約を受けざるを得ない。しかし、そうだとしても、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要がある――と。

 30年近く前の見解だが、その価値は色あせない。

 いや、議員による間接民主主義が十分に働かず、国民の声を政治に反映させる回路を築き直さねばならない今だからこそ、かみしめるべき指摘である。

検索フォーム

PR情報

朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内事業・サービス紹介

アンケート・特典情報