2010.12.20
26話 会社登記と社名の由来
26話 会社登記と社名の由来
テーマ:第5章 26話 会社登記
みなさん、こんばんは。与沢 翼です。
本日は、
第5章
⇒ 26話 会社登記と社名の由来
をお送りします。
現在、日本の株式会社をコントロールしていのは、平成18年(2006年)5月1日より施行された会社法です。
現行の会社法では、最低資本金規制が撤廃され、1円の資本金でも登記が可能となりました。
我々が登記をしたのは2006年3月10日ですから、そのときは、まだ会社法の適用を受けず、原則的には、資本金は1000万円必要である時代でした。
しかし、当時の商法においても、新事業創出促進法という法律によって、最低資本金規制の特例として、1000万円の最低資本の免除を受けることが可能であったため、当社においては、この適用を申請し、確認会社という形で、1000万円に満たない620万円で設立が可能であったのです。
それらの手続きも全て、税理士事務所に勤めていた創業メンバーの一人「福田」がやってくれたため、極めてスムーズに苦労なく設立が可能となりました。
会社をこれから作る人のために、知識を整理しておきますと、
会社を作るためには以下のものを準備する必要があります。
■社名
■印鑑
■定款の目的(事業内容)
■お金約21万〜35万円
以上です。
ちなみに、法人の設立登記を代理出来る機関として主要なところは、
税理士
行政書士
司法書士
弁護士
あたりです。
私の感覚では、意外にも税理士さんが一番安くやってくれたりします。
登記の代行を激安でやって、本業の税務顧問へつなげる意図などがある場合です。
以下では、先ほどの会社設立に必要な4つの要素を詳しく説明します。
■社名
会社名については、平成18年5月1日以前は、同一市区町村内で、同じような名前で登記することは禁止されていました。
これは、類似商号の規制と呼ばれます。
しかし、今の会社法が施行された平成18年5月1日以降、類似商号を使うこともできるようになったのです。
例えば、渋谷区で、エスラグジュール株式会社を登記することが、昔はできなかったのですが、今は原則できるということです。
しかしながら、
何人も、不正の目的をもって、他の会社であると誤認されるおそれのある名称又は商号を使用してはならない。
という規定があり、差し止めをすることもできます。
ですから悪意を持って他社と同じ名前を付けることはできないわけです。
また、不正競争防止法第4条では、「故意又は過失により不正競争を行って他人の営業上の利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責めに任ずる。」とも規定しています。
つまり、「類似商号で登記をすることができても、他社の商号を悪用し、他社の営業上の利益を侵害すると、訴えられる可能性がある、ということです。
結局は、類似商号を基本的に禁止するものではないが、やっぱり調査はして、近くに同じ名前ですでに大きくて有力な企業がある場合はやめた方がいいということが言えます。
ちなみに、法務局に行くと、類似商号を調査することができるようになっています。
■印鑑
印鑑については、法人3大セットとして、代表印、銀行印、角印があります。
代表印は、登記印とも呼ばれ、会社の最も重要な印鑑になります。印鑑登録をし、印鑑証明の対象となります。
代表印が押されるということは、会社を代表する社長が、会社の意思として行った法律行為として認識されます。
銀行員は、その名の通り、銀行の口座の届け出印として使用されます。
角印は、請求書や納品書などに押印されます。つまり多くは会社の取引行為に使われるものです。
■定款の目的
設立においての最大のテーマは、これです。
ちなみに、定款とは、会社の憲法のようなものです。
一番大事な会社内の決まりごとです。
この会社は何を目的に作られたのか?を表明する部分が定款の目的(つまり会社の存在意義)です。
法人設立後にやろうと思っていることや将来的にやりそうな事業の内容を書くことになります。
たとえば、
アパレルであれば、
紳士服・婦人服・子供服・スポーツ用衣類の企画・製造並びに輸出入販売
など。
サーバーのホスティングなどでは、
情報通信システムに係る機器、及び装置類の販売・レンタル
などです。
独特の言い回しがあるので、専門家に聞いたり、書籍やネットで調べる必要があります。
ちなみに、この定款の目的ですが、個数が多すぎると、怪しい会社だと思われます。
どんなに多くても8つぐらいにした方が良いです。
実際には、定款の目的外の仕事をしたからといって、直ちに違法になったりはしないのですが、法律上、目的の範囲外の行為は原則無効です。
法律家の世界ではよく言われるお話ですが、例えば、会社が政治献金をした場合、それは、定款の目的の範囲内の行為なのか?ということで議論されたりします。
これは昔の最高裁判例で、定款の目的の範囲内だとされ、事実上、政治献金が認められることになったのですが、株主などは、その気になれば、定款の目的の範囲外の行為として、会社の役員が行った法律行為の取り消しを求めることもできます。
したがって、やっぱりなるべく実態に即した内容を書いておくべきですね。
最後に、
■お金
ですが、これの大部分は登録免許税と言われるものです。
原則的には、資本金の1,000分の7ですが、15万円未満の場合は一律15万円が下限となります。
たとえば、資本金3000万円の会社を作ろうとすると、21万円かかわけですが、資本金1000万円のときは、7万円ではなく、15万円となります。
まぁ普通の会社は15万円と覚えておけばOKです。
他には、公証人役場というところで、定款の認証(OK)をもらう必要があるのですが、これに印紙代も含めて9万(公証人手数料5万円+収入印紙代4万円)ほどかかります。
が、しかし、最近では電子公証と呼ばれる、ネットベースの方法で、収入印紙を浮かせることができるので、ここでは5万と見てよいと思います。
以上で20万です。
あとは、代理してもらう方への報酬次第です。
私の知る限り最安で1万〜1万5千円
最高で15万ぐらいまで、結構開きがあります。
ぜひ安いところをネットで探されるとよいと思います。
以上です。
今日は知識偏重となってしまいましたが、これから会社を作られる方には少しでもお役に立てるよう書いてみました。
ちなみに、当社の社名の由来ですが、
Es という言葉は、自我、つまり自分を意味しています。
デカルトが言った、われ思う、ゆえにわれあり、という言葉が、この自我を表象する言葉であると言われることがあるのですが、要は、自分を深く認識し、考える存在でありたいということです。
差別化された存在、他とは異なる特徴を持った変り種でありたいという意味合いがあります。
そして、LUXOURE(ラグジュール)とは、
luxury(ラグジュアリー)とcouture(クチュール)を合体させた造語です。
luxuryは、ゴージャスなという意味ですね。
そして、coutureとは、高級な衣料品もしくは、衣料メーカーのことを指します。
以上をまとめると、
「他とは少し異なった、ゴージャスなファッション企業」になりたい、という意味が込められている感じです。
その名の通り、当社は変わった存在になりました(笑
ですから、社名は大事ですね。
皆さまのネーミングにお役に立てればと思い、初めて由来を公開してみました。
それでは〜^^
お蔭さまで好評です^^
『起業の帝王学
』
月に840円(4〜5回配信)で、起業の技術を余すところなく公開していきます。
今月いっぱい無料で、試し読みできます。
1日1クリック宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし! 私も毎日学んでいます。
2010.12.17
25話 シェアオフィスでの創業
25話 シェアオフィスでの創業
みなさん、こんばんは。与沢 翼です。
ブログリニューアルしちゃいました。いかがですか?^^
来週にかけてもうちょっと洗練させます。
さて、
本日は、
第5章 起業
⇒ 25話 シェアオフィスでの創業
をお送りします。
お金が集まり、アイディアが固まった私たちは、次に事務所の検討に入りました。
3つのプランが浮上しました。
1つ目は、私の自宅(大宮)の一室を使って創業
2つ目は、渋谷、桜が丘の10坪ほどのオフィス。
⇒当時MIXIで出会った先輩社長が友人の社長さんを紹介して下さり、その方が引っ越しを検討されているということで、オフィスを引きつがないか?とのお話をいただいておりました。
3つ目は、新宿曙橋のシェアオフィス
⇒当時、同じく早稲田の学生起業家で、お友達でもあった黒田美帆ちゃんの芸能事務所プリンシパルエージェンシー
が入っていたオフィスとシェアをする話。
それぞれのコストは、
自宅が0円
渋谷が18万
シェアオフィスが5万
原宿のデニーズで真剣に議論をした私たち。
やっぱり一番良いのは、渋谷だ!
でも、18万だと結構すぐ資本金がなくなるよ。
自宅だと埼玉は遠い。
まずは、5万のシェアオフィスで創業させていただくのがバランス的に言っても良さそうだ。
満場一致で決定。
2010年3月1日。
みんなで出社しました。
こんな感じの場所でした。
仕切りの右側だけが僕たちのスペースです。
写真は、創業メンバーの一人。
これしか写真がなかったのですみません。
共有で使える会議室が2坪ほど。
デスクスペースが2坪ほど、計4坪ほでしたかね。
資本金でまず買ったのは寝袋。
ドンキホーテで、趣味の悪い寝袋を6つ買いました。
創業して間もなく、みんな泊まり込むようになり、夜は寝袋でおやすみ。
曙橋駅から徒歩10分ほどなのですが、みんなで、歩いてよく飯を買いに行きました。
私は、ガストのテイクアウトにはまり、マヨネーズたっぷりのチキン竜田弁当を毎日食べ、この頃から少しずつ太り始めたような。
私たちの思いでの場所はシェアオフィスだったわけですが、この選択肢は正しかったと思っています。
まずメリットは、
■通常のオフィスに比べて初期費用が格段に安い点。
■月額家賃も割安な点
■退去にかかる費用がない点
■パーテーションや机、イス、会議室セットなど最低限のものが無料で貸していただける点
■人脈が広がる点
です。
主に、マネーの面のメリットが多くなりますが、コスト削減し、立ち上がるまでじっくり焦ることなく時間を取れるという意味では、シェアオフィスは絶好の仕組みだと思います。
また、人脈形成という意味でも、他の入居者と仲良くなれたりしますし、近しい人を誘って交流会が行われたりするので、情報収集や対人コミュニケーション能力を養う意味でも優れていると思います。
逆にデメリットは、
■やっぱり窮屈ですね。他の方もいるので、完全にオープンには過ごせません。
それから
■独自性を出すことができないので、会社のブランドは育たないと思います。
エンドユーザー向けビジネスであれば関係はないと思います。
そんなところでしょうか。あとは特にデメリットもありません。
シェアオフィスと検索すると、膨大な検索結果が出てきます。
今後創業を考えられている方は、最初の段階ではぜひご検討をお勧め致しますよ。
私たちは、保証金も10万、造作費も退去費もかかっていないので、本当にコスト削減につながりました。
結果的に、私たちは、2006年3月1日〜2006年9月いっぱいまでこのシェアオフィスを利用させていただき、早稲田大学の中へ移転していったのです。
その詳細は、27話 ビジネスプランコンテスト優勝でお話したいと思います。
それでは。
お蔭さまで好評です^^
『起業の帝王学
』
月に840円(4〜5回配信)で、起業の技術を余すところなく公開していきます。
今月いっぱい無料で、試し読みできます。
1日1クリック宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし! 私も毎日学んでいます。
2010.12.09
24話 セルシオ売却による資金集め
24話 セルシオ売却による資金集め
テーマ:第5章 24話 資金集め
みなさん、こんばんは。与沢 翼です。
本日は、
第5章 起業
⇒ 24話 セルシオ売却による資金調達
をお送りします。
私の10代で最大の努力が詰まった車。それがセルシオでした。
私が売却を決意したのは、2005年12月の暮れ。
いずれはこの車を売って、資本金にすることはわかっていたけれど、3年乗った愛車を手放すのは当時若かりし私には一大決心でした。
しかし、二つを天秤にかけ、動き出した私。
今の車 ≦ 未来の成功
こういう本質的な選択肢の場合、二兎追うものは一兎もえず。
そこで、とにかく1円でも高く売ろうと決意。
車買取業者を約10社呼び、だいたいのセルシオ相場を掴む。
あとは、釣りあげです。
彼らの仕事は仕入れ。きちんと車を買い取ってこそ仕事です。
つまり売れる車は欲しいのです。
当時のセルシオは引っ張りだこの人気車種。
内装、外装ともに傷はない、カールソンのアルミを履いている、エアサスキットやテレビキットもついている、走行も少ないなど、言えることは全部アピールして、売り値を釣りあげました。
結果的には、371万円と、この車を交換しました。
ビッグモーター
という業者でした。
私は、このあとにベンツのSクラスも売っていますが、そちらにおいては、買った金額よりも高く売るという魔法を使いました。
まぁ世の中の大半の成功は、情報と交渉でできているわけです。
そして、私は400万円を当初出したのですが、残りの29万円は、当時の彼女に借りました。
もちろん今では返済が終わっています。
そして、創業メンバーの福田が100、鈴木が50、Gさんが50を出資して下さり、残りPCなどを20万円分私が現物出資して、計620万円でスタートしたわけです。
私の車売却の資金調達は特殊な例ですが、持っている私財を全て高値で売る、というのは資金調達としては正しいです。
例えば、ブランド品や、不要な家具、書籍や洋服など。
買取の財産として業者が正当な価格を付けるのは、ブランド品と車ぐらいです。
これらも、油断をすれば買いたたかれます。
ポイントは、一社に見せて売らないこと。
最低5社を比較して、一番高いところに売る。
さらに、○○さんはいくらつけると言っているといって、競合の名前と金額をずばり言う。
それに火が付く業者はさらに上を提示してくれるはずです。
そして、洋服や家具などは、トレジャーファクトリーなどで売却すべきではありません。
私はよく利用させていただいているのですが、残念ながら高値は付きません。
それよりも、ヤフオクです。
これ以外にありません。
もしヤフオクのノウハウがあれば、家のガラクタが軍資金に化けます。
普通の実家クラスで30〜数百万ぐらいの品は眠っているものです。
ぜひ今後起業される方はまずヤフオクで実家の不用品を売り飛ばすと覚えておいて下さい。
このお金が将来100倍、1000倍になって戻ってくるので、ご家族も納得することでしょう(笑
現代における最強の資金調達はヤフオクであると私は考えています。
本気で実践される方のために何冊かお勧め書籍を並べておきます。
■■ お薦め商品 powered by Amazon
¥ 1,029
¥ 1,500
¥ 1,680
¥ 1,470
できる100ワザ 儲かる!ヤフオク&モバオク (できる100ワザ ネットオークション (できるシリーズ)
¥ 1,575
実家の品を売りつくしたあとは、仕入れをして売るようにステップアップする道もあります。
軍資金は確実に貯まるようになるでしょう^^
かなり本気でやりたい方はこちらです。
実際にヤフオクで月70万円売りあげている主婦の情報。
業界騒然!大御所たちも知らなかった極秘ノウハウを一挙公開 子育て専業主婦が1日2時間で月収70万円を稼ぐヤフオク必勝法「ヤフオクザベスト×eBayザベスト」
これであれば500万の軍資金なんて7か月で貯まってしまいますね。
さて、次に重要な視点は、近い人(恋人、親、友人)から借りる方法です。
何も一人から100万も200万も借りる必要はありません。
30万でいいんです。そうすれば貸しての負担も少ない。
それを5人から借りましょう。これだけで、150万円。
立派な会社が始められます。
たくさんの人に借りると煩わしいと思うかもしれませんが、起業したあとの債権者の数は、数十〜数百社です。
5人なんてのは、なんてことはありません。
取引者数が多いのは、法人の常です。
さらに、創業メンバーからの出資を募る。
これも立派な公募増資だと思います。
なぜなら、当社の創業メンバーだって、元はmixiから始まった出会いですよ。最初は他人です。
自分を信じてもらい、出資してもらう公募増資と何ら変わりません。
結局私は、メンバーとの別れに際し、ほとんどの株式を買い取ったのですが、創業期にお金があったのは感謝すべきことです。
また、全く関係のない発起人を探してくることも現実的に可能です。
中小企業の社長さんが良いでしょう。
彼らに、プランと自分の人となりを気に行ってもらえれば、300万〜1000万ぐらいはわけなく出資してくれます。
数年後に成功していれば、3倍〜5倍で買い戻すとでも言ってみて下さい。
期待してくれるはずです。本当に成功していれば、買い戻せばよいと思います。
出資者のキャピタルゲインです。
もしくは、2〜3年後から純利をこれだけ出して、そのうちの30%を配当に回し、元本を返していく、とでもいえばよいでしょう。
彼らは明確な回収の絵を望んでいるので、このように具体的な話をするとよいです。
そして、あとは経営者として本当にそうなるようやるだけです。
他に思いつく資金調達手法としては、私が今0からどうするか?と聞かれれば、ネットビジネス(アフィリエイトと情報販売)で500万〜1000万程度の軍資金を短期で集中して作って、即会社をやると思います。
最終はでかいことをやるにしてもやっぱり最初の元手は必要です。
その集め方としてネットビジネスは、完全にベストプランです。他の手段が迂遠に思えます。
以上をまとめますとこうなります。
?資産を売却する。車とブランド品は業者でもよいが、それ意外は全てヤフオクで。
?近い人から細切れに借りる。大きく借りると関係悪化につながりますが、細切れであれば、関係悪化とまでは行きません。大きい金を一人の方から借りると貸してによっては、後に色々トラブルになります。
?創業メンバーからの出資
?出資者となる中小企業系の先輩社長さんを探す。大企業の社長さんはサラリーマンとして就任されている場合が多く、あまり自由にお金を動かせないのと、探すのが大変ですし、まずそもそも会ってもらえないと思います。
?ネットビジネス(アフィリエイトと情報販売など)をやる。
以上です。
お蔭さまで好評です^^
『起業の帝王学
』
月に840円(4〜5回配信)で、起業の技術を余すところなく公開していきます。
今月いっぱい無料で、試し読みできます。
1日1クリック宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし! 私も毎日学んでいます。
2010.12.07
23話 創業メンバーとの出会い
23話 創業メンバーとの出会い
みなさん、こんばんは。与沢 翼です。
本日は、
第5章
⇒ 23話 創業メンバーとの出会い
をお送りします。
EsLuxoureの最初の創業メンバーは、地元大宮の中学時代からの友人,福田でした。
なぜ福田と再開したのかはわかりません。
彼は僕と同じやんちゃな子で、一時は本物の暴走族でした。
パンチパーマに単ラン、ボンタンでCBRを乗っていましたねw。
ですが、もともと性格が優しく、温和な人柄であり、きっとそんな世界が合わなかったのか、私よりも早く更生したのを記憶しています。
お互い真面目になった22歳のころ、彼に再開し、MIXIを紹介してもらったり、二人でビジネスを色々考たりするようになりました。
彼は、当時税理士法人で働いていました。
はて?福田と一緒に会社をやることになったのはなぜだったかな?
その部分は完璧に忘れてしまいました(笑 なぜ再開できたのかも覚えていません。
これじゃあ自伝になりませんな。
でもきっととても自然な流れだったんだと思います。
そして、一度は別れた福田が昨日(12/06)から当社に戻ってきてくれました。
こんなに嬉しいことはありませんね。
また会社を一緒に引っ張っていきたいと思います。
そしてもう一人同じ中学のメンバーO君が創業メンバーに加わる予定でしたが、とても変わりものだったため、なんとなく自然消滅となってしまいました。
その変わっているところが起業には向いていると思ったんですけどね。O君今元気にしているかな?^^
そして、二人目の創業メンバーは、鈴木取締役
です。
当時彼はまだ19才でした。
とても私を慕ってくれているのがわかりました。
出会いはMIXIです。
関西の和歌山から出てきていて、立命館大学だったかな?名門大学を蹴ってこちらのビジネス専門学校に来ているということでした。
一緒にトリガーというビジネスプランコンテストの観覧に行かないですか?と誘われたのです。
そのあと、新宿あたりの居酒屋で、4人ぐらいで飲みに行きましたね。
懐かしいなぁ。一緒にこうしている今、縁というものは不思議なものだと思いますね。
そして、3人目が大学の後輩。彼にもMIXIで出会いました。
私の起業サークルの副代表にもなってもらいました。
神戸出身でオシャレな優等生といった感じ。
最後は、さんざん生意気なことを言われ、喧嘩別れもしましたが、そんなドラマも起業にはつきものです。
今では良い思い出です。
そして、残り2人(WEBデザイナーとプログラマー)のGさんとSさんは、これまたMIXIで出会った友人が紹介してくれました。
このお二人とも喧嘩別れをし、創業時点から退社までの8か月分の未払い給与を2年近くかけて完済しました。
でも、それをきちんと返したから今がある。
そして、彼らなくしては当社はできていませんので、今ではとても感謝しています。
このような形で5人の優秀なメンバーと出会うことができ、6人で私は会社を作りました。
しかし、鈴木取締役の海外留学や後輩の学業との両立、オリジナルシステムを作る上での技術パワーの不足、資金の枯渇、私の戦略の不備などなど、学生や若さゆえのハードルもあり、全てがぽんぽんぽんと上手くいったわけではありません。
若かったし、無知だったし、商売の実感もないし。
みんながそんな感じで始めた素人創業でした。
それでも少しずつ経験を積んで大人になってきたのです。
結果思うのは、やっぱり飛び込めば形になるということ。
躊躇してやらなければ私は今起業のことは何もわからなかったはずです。
実績よりも飛び込む勇気の方が価値は高いと思いませんか?
また、創業メンバーを集めるポイントとしては、事あるごとに誰に対しても、こんな仲間を探している、こんなことをしたいんだ、といったビジョンや夢を語り続けることです。
そうすると時間の経過とともに自然に人が集まるようになっていきます。
納得できる人との出会いには、数か月以上はかかりますので、まずはアイディアを固め、ゆとりをもって探し始めるとよいでしょう。
以上
次回は、24話 セルシオ売却による資金集め
をお送りします。
ここでは、創業時期の資金調達の方法を網羅的に御紹介しますので、皆様のお役に立てると思います。
お楽しみに。
お蔭さまで好評です^^
『起業の帝王学
』
月に840円(4〜5回配信)で、起業の技術を余すところなく公開していきます。
今月いっぱい無料で、試し読みできます。
1日1クリック宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし! 私も毎日学んでいます。
2010.12.03
21話 起業サークル結成
21話 起業サークル結成
テーマ:第4章 21話 起業サークル結成
皆さん、こんばんは。与沢翼です。
本日は、
第4章 大学時代
⇒ 21話 起業サークル結成
をお送りします。
ようやく21話まで来ました。
さて、それでは、行きます。
起業を決意した私が、すぐに行動を起こしたのが、サークル作りでした。
起業サークルCREW(クルー)という名で、起業に関心のある学生を東京中から集めたのです。
理由は、人脈でした。
それまでサークルに入ったこともなかった私ですから、知り合いが少ないのなんのって。
大学の友人といえば、民法のゼミの友達だけでした。
もう勉強がないのであれば、それこそ、サークルを作ってやろうと思ったのです。
こうして、私は起業サークルCREWの代表に就任し、メンバーを増やしていったのです。
ただ、サークルといっても、たいしたことはしないです。
月に1〜2回飲み会を開催して、さらに起業や投資関連などのイベントがあれば、一緒に行きます。
しかし、この期間に学生というものを良く理解できたと思っています。
私は、ちょっと出自がみんなとは違うため、価値感がやっぱりずれていたのです。
学生さんを見て総じて思ったことは、みんな、気さくで、人なつっこいなぁ、という点です。
みんな優しくて穏やかな人が多かったです。
みんなはさぞ育ちがいいんだろうなぁ、なんて一人で解釈していました。
なので、私はこのときかなり自分までその影響を受けていい人にそまっていたと思います(笑。
しかし、その後、起業をして思ったのは、いやこれは本来の、「ずぶとい俺、心に鬼を持った俺じゃないとやっていかれないぞ」ってことです。
そして、私は起業の厳しさから、閉鎖的な性格に戻っていったのです。
そして、最近またブログを書き始めてから、色々な人とも交流するようになり、いい人になってきた感があります(笑。
この起業サークルCREWですが、早稲田大学理工学部の友人に頼んできちんとホームページも作り、結構いい感じでやってました。
しかし、実際には私が半年もせずして起業してしまったがために、サークルはわずかな期間で自然消滅してしまいました。
ただ、このときのサークル結成は私のコミュニケーション能力を養う観点や、その後の自信という意味では大きかったと思っています。
私はそれまで、ヤンキーという世界にどっぷりつかり→たった一人の受験期間を、司法試験も含めれば3年続けていたため、多様な価値観の人と触れ合うというのが、とても苦手でした。
しかし、このサークル活動や、ドリームゲートの合宿などに参加したことで徐徐に異なる価値観の人が好きになっていきました。
異なる価値観の人といた方が、発見が多くて楽しい。
これが今の私の信条です。
そして、サークル結成と同時に始めたのがMIXIでした。
2005年の10月頃だったと思います。
このMIXIを通じて私は、取締役の鈴木やその他の創業メンバーと出会ったのです。
したがって、MIXIは当社の生みの親ともいえます。
それぐらい感謝しています。
MIXIでの出会いは冗談抜きで素晴らしいですよ。
また私はブログで出会った子と実際に会って3時間で付きあったことがあります。
しかも1年続きました。
今はブログで多くの起業家と出会っていますが、現代において、このソーシャルメディアによる出会い力と気づき力は大変重要な気がします。
ソーシャルメディアでチャンスを獲得するという視点は常に保有しておいたほうが良いと思います。
もうネットで出会うなんて、っていう発想自体が、悪い言い方ですが、かなり遅れていると思った方がいいです。
むしろネットで人脈のきっかけを作り、深く入り込んでいく。
生涯の戦友が見つかる。そういう時代です。
さぁこれからもソーシャルメディアを盛りあげていきましょう!^^
以上です。
お蔭さまで好評です^^
『起業の帝王学
』
月に840円(4〜5回配信)で、起業の技術を余すところなく公開していきます。
今後起業を視野に入れられている方、創業間もない方にはお役に立てると思います。
今月いっぱいは無料で、試し読みができます。
1日1クリック宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし! 私も毎日学んでいます。
2010.12.01
20話 社長のカバン持ち
20話 社長のカバン持ち
テーマ:第4章 20話 社長のカバン持ち
皆さん、こんばんは。与沢翼です。
本日は、
第4章 大学時代
⇒ 20話 社長のカバン持ち
をお送りします。
19話でお伝えした選抜大会で合格を果たした私は、翌日の2005年9月19日、伊藤塾高田馬場校へ、塾をやめる旨を伝えに出向きました。
2年間通ったこの塾も、志半ばでやめることになった。
これからはその分、起業家として必ず成功しよう。
と誓い、事務局の方々に簡単に挨拶をしてきました。
しかし、司法試験の難しさに逃げたと思われるだろうと思い、あまり多くは語らず、さっと出てきてしまいました。
専用ロッカーには、六法全書や膨大な参考書、テキストがしまわれており、これを全て今日中に持ち帰らねばなりません。
風呂敷のような布に包んだり、紙袋を両手に持ったりして、大変な帰宅を果たしたのを覚えています。
今でも実家の本棚には膨大な司法試験の書籍やテキストが残っています。
9月20日〜 私は晴れて起業をするという本願に向かって行動することになりました。
自分の中で決めていたことがあります。
それは半年後に必ず起業する、ということです。
今思えば、何も知りませんでしたが、期限だけはいつも切ります。それが私の癖であり、目標に近づくための簡単なコツだと思っています。
今の知識が100だとすれば、当時は1ぐらいでした。
そんな中、いよいよ社長のカバン持ちに挑戦するときがきました。
私は、西新宿にあるベンチャーコントロール
という会社に配属されました。
主に社長室に隣接した秘書室というところに席を設けさせていただき、秘書の方々のお仕事をお手伝いさせていただきました。
なんと、秘書の方は3名(男性2名、女性1名)もおり、各人から色々とお話をお聞かせていただいたり、昼食にご同行させていただいたりしました。本当に優しく素敵な秘書の方達でした。
その他には、新宿サザンテラスで行われた役員会議に同席させていただいたり、新卒内定者の方々とのお食事会に参加させていただくこともありました。
さらに、グループ企業のエステを視察に行ったり、フランチャイジー開拓事業などを勉強させていただいたり、最終課題として、フランチャイズ業界を徹底的に調べてレポートとして書きあげ発表したりしたものです。
このときは、社長、役員がずら〜っと並んでおり、今でも大変緊張したを覚えています。
ある意味人生初のプレゼンでした。
これら目で見た経験は起業を目前にしていた自分にとっては大きな経験だったと思います。
最後にはうちにぜひ来いと言っていただき、社長にも感謝しております。
そして、インターン中に最も印象に残っているのは、六本木ヴェルファーレで行われた合同イベントです。
USENグループのGyao × ベンチャーコントロールグループのrealstyle.jpというファッションECサイト
により豪華アーティストを呼んだファッションライブイベントが開催されたのです。
そのときの記事があったので、こちらをご参照ください。
島谷ひとみ
melody
AAA
臼田あさ美
ソニン
香里奈
安めぐみ
若槻千夏
倖田來未
といったかなり豪華なメンバーが集まっていたのです。
こちらのイベントをヴェルファーレのVIPルームから眺めさせていただいたのは、本当に圧巻でした。
双方の幹部が、ワイン片手に芸能人と話しているのは、本当にバブリーな光景でしたね。w
社長業というのは、こんなにバブリーな世界なんだなぁとある意味、変な先入観を持ってしまったかもしれません。
が、実際はあれは年商100億オーバーの一部の成功者の世界です。
いずれにせよ私は、このインターンシップを経て、より一層会社というものが明確にイメージできるようになっていました。
モチベーションはさらに高まったと言えます。
次回は、起業サークル結成をお送りします。
今日の記事が少しでも面白かった方は、ワンクリックいただけると幸いです。。
宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし! 私も毎日学んでいます。
2010.11.30
1話 誕生
皆さん、こんばんは与沢翼です。
本日から、本のような形で私のヒストリーと起業ノウハウを連載で執筆していきます。
全66話前後を想定しています。
毎日1~2話ずつ、更新していくつもりです。
さて、それでは、生い立ちから。
最初の方は幼少期のことなので、ちょっと退屈かもしれませんが、ぜひ我慢いただければ幸いです(笑!
小学校ぐらいからおもしろくなります(笑
第1章 生い立ち
1話 誕生
です。
左が妹、右が私です。小さいときから犬が大好きで、犬に囲まれて生きてきました。
将来はペット通販やりたいな~(笑
私は、1982年11月11日生まれ。A型、さそり座、戌(いぬ)年です。
埼玉県の秩父市という、ど田舎の病院で生まれました。
母は、小学校の先生、父は日本の時価総額10位に入る大企業の重役です。
母と父は、両方、千葉大学の出身で同じ大学で出会い、卒業後すぐに結婚しました。
翼と名づけられたのは、父が大学時代までパイロットを目指していたから。
実際には、裸眼の視力が悪化し、適格要件を欠いてしまったと聞いています。
そんな父は、私が飛行機のパイロットになることを期待していたといいます。
結局私はパイロットにはなりませんでしたが、父は、10年ほど前アメリカで現地法人の副社長をしていたころ、アメリカの航空免許を取得した、と聞いています。
アメリカでは飛行機に乗って楽しんでいるそうです。
母は、文系ですが、父は理系で、大学時代から光ファイバーの研究をしていたそうです。
私はいつも、空飛ぶラジコンヘリコプターなどおもしろいものを見せてもらった記憶があります。
そして、幼少期のころは、埼玉県の秩父市 → 千葉県の松戸市 → 埼玉県の草加市と移り住み、生活をしました。
仕事大好きな父親とは、ほとんど一緒にいた記憶がありません。
当時の私の性格は、神経質で、臆病、極度のさみしがり屋でした。
きっと意外で驚かれるかもしれませんが、
母親が保育園に預けると、門のところをつかんで、泣きわめいていました。
今でも母親が仕事へ行き、私を置いていってしまう光景を覚えています。
今考えれば母親も大変だったろうと思います。
自転車で鉄の棒に突っ込んで額(ひたい)を派手に切ったり、遊び場で転んで、アゴを縫ったり、よく怪我をしていました。
なんとか成長しましたが、ひどく神経質な子供でよく怪我をしていたという印象は強いです。
きゅうりとレーズン、グリーンピースが大嫌いでした。
今でも結構嫌いです(笑
ただ、母親には優しい子供でした。
お母さんの買い物の荷物を毎日、持って、当時5階のマンションの階段を上っていたのを覚えています。
以上
2話 小学校時代 へ続く
今気になっている書籍です。↓
皆さん、こんばんは与沢翼です。
本日から、本のような形で私のヒストリーと起業ノウハウを連載で執筆していきます。
全66話前後を想定しています。
毎日1~2話ずつ、更新していくつもりです。
さて、それでは、生い立ちから。
最初の方は幼少期のことなので、ちょっと退屈かもしれませんが、ぜひ我慢いただければ幸いです(笑!
小学校ぐらいからおもしろくなります(笑
第1章 生い立ち
1話 誕生
です。
左が妹、右が私です。小さいときから犬が大好きで、犬に囲まれて生きてきました。
将来はペット通販やりたいな~(笑
私は、1982年11月11日生まれ。A型、さそり座、戌(いぬ)年です。
埼玉県の秩父市という、ど田舎の病院で生まれました。
母は、小学校の先生、父は日本の時価総額10位に入る大企業の重役です。
母と父は、両方、千葉大学の出身で同じ大学で出会い、卒業後すぐに結婚しました。
翼と名づけられたのは、父が大学時代までパイロットを目指していたから。
実際には、裸眼の視力が悪化し、適格要件を欠いてしまったと聞いています。
そんな父は、私が飛行機のパイロットになることを期待していたといいます。
結局私はパイロットにはなりませんでしたが、父は、10年ほど前アメリカで現地法人の副社長をしていたころ、アメリカの航空免許を取得した、と聞いています。
アメリカでは飛行機に乗って楽しんでいるそうです。
母は、文系ですが、父は理系で、大学時代から光ファイバーの研究をしていたそうです。
私はいつも、空飛ぶラジコンヘリコプターなどおもしろいものを見せてもらった記憶があります。
そして、幼少期のころは、埼玉県の秩父市 → 千葉県の松戸市 → 埼玉県の草加市と移り住み、生活をしました。
仕事大好きな父親とは、ほとんど一緒にいた記憶がありません。
当時の私の性格は、神経質で、臆病、極度のさみしがり屋でした。
きっと意外で驚かれるかもしれませんが、
母親が保育園に預けると、門のところをつかんで、泣きわめいていました。
今でも母親が仕事へ行き、私を置いていってしまう光景を覚えています。
今考えれば母親も大変だったろうと思います。
自転車で鉄の棒に突っ込んで額(ひたい)を派手に切ったり、遊び場で転んで、アゴを縫ったり、よく怪我をしていました。
なんとか成長しましたが、ひどく神経質な子供でよく怪我をしていたという印象は強いです。
きゅうりとレーズン、グリーンピースが大嫌いでした。
今でも結構嫌いです(笑
ただ、母親には優しい子供でした。
お母さんの買い物の荷物を毎日、持って、当時5階のマンションの階段を上っていたのを覚えています。
以上
2話 小学校時代 へ続く
2010.11.29
2話 小学校時代
第1章 生い立ち
2話 小学校時代
当時5~6歳のころ、とても精神的に弱く、神経質だった私を周囲の方々が心配し、生まれの地でもある母方の祖父母の家(埼玉県秩父市)で、私は預かってもらうことになったのです。
自分でも、「おばあちゃん、おじいちゃんと暮らす」と言ったそうです。
こうして、私は小学校1年生のころから父と母、妹と離れ、祖父母の家で生活を始めました。
小学校は、長瀞(ながとろ)第二小学校という荒川に隣接した田舎の小さな小学校でした。
1学年にクラスは一つしかなく、生徒数は、約30人ほどです。
そのクラスのみんなと、ずっと小学校6年生まで一緒なのです。というか中学まで一緒です。
私は、小学校3年生ころから、少しずつ周囲とは違う雰囲気を醸し出すようになり、少しずつ浮き始めていきました(笑
何が違かったかというと、当時から一人で大きなことをいつも言っていました。
悪くいえば虚言癖(きょげんへき)です(笑。
日本中のおもちゃを集めたい
ミニ四駆を全て揃えたい
ゲームソフトは全部欲しい
ドラゴンボールのスカウターを本物にしたい。
空を飛べるおもちゃはないだろうか?
などとにかくおもちゃ、ゲームに対する欲がとてつもなかったです。
おばあちゃん、おじいちゃんは成績が良いと何でも買ってくれるので、勉強はそれなりにして、だいたい学年で1~2番ぐらいでした。
最初は友達からも「ちやほや」され、仲も良かったのですが、年を重ねれば重ねるほど、クラスで浮いていき、だんだん友人はいなくなりました。
小学校高学年になった時には、先生が私に「マジ切れ」したらしく、授業中のみんながいる中で、机とイスを思いっきり蹴飛ばされたのです。
それは、もう回転して真後ろを向くぐらい吹っ飛ばされました。
あげくに、「手袋爆弾」と当時呼ばれていた「軍手の固まり」まで投げつけられたのです。
なぜそうなったのかは全く覚えていません。
たぶん、私が授業中に何かいったのかなぁ?とは思います。
あのとき先生に言われた言葉は今でも覚えています。
「お前なんか、早く大宮に帰っちまえ!」
でも先生泣いていました。
私のことが心からムカついたんだと思います。
忘れもしない5年生のS先生。
私も当時はビビりました。大人に人生でないぐらい切れられたのですから。
結構、蹴られて痛かった記憶もあります。
人間強烈な体験はそのシーンが脳裏に焼き付いているものですね。
他にも、お母さん、お父さんがはるばる遠くから来てくれる授業参観。
私は、手に靴下をはめて、後ろから見ているお母さんにサインを送ったり・・・
母は相当恥ずかしかったそうです。
下校中に先生に左側を歩きなさい、といわれると、後ろを向いて左側(つまり前を向いていれば右側)を歩いたり・・・
そんな変な子でした。
皆さんに大変迷惑をかけたんだと思います。
そんなこんなで、小学校6年生にもなると、もう田舎の小学校に正直嫌気がさし、早く大宮に行きたいという意欲が一段と強まりました。
当時、母たちはすでに埼玉県の大宮に引っ越しており、たまに遊びに行っていたのです。
長瀞(ながとろ)の田舎と比べると、大宮はまさに、革命的な巨大都市に見えたのです。
当時から浮浪(ふろう)グセがある私は、一人で電車に乗って、熊谷(くまがや)とか大宮とか、秩父(ちちぶ)とか、大きな都市に繰り出し、ゲームセンターでゲームをやったり、お小遣いでおもちゃを買ったり、頻繁にうろうろしていました。
当時、学年のアイドルMさんがいましたが、恋は実らぬまま(笑、
小学校の6年3学期という超微妙な時期に、埼玉県大宮市大砂土東小学校というところへ転校していったのです。
そこでは思いもよらないことが起こりました。
私は田舎にいたため、ほんの少しだけ、言葉がなまっていたみたいで、それを理由にいじられたのです。
また、「新人は給食の片付けをしろ」と女の子に言われたのに対し、それはもう人生で初めてぶちきれて、教室のデスクを「ちゃぶ台返し」し、その女の子を泣かせてしまったのです。
すると、クラス中の人間から、転入生のくせに生意気だと言って、切れられ、いじめを受けたのです。
クラス中どころか、今度は一学年に6クラスぐらいある、私にとっては巨大小学校のため、横のクラスの奴にまでいじめられた記憶があります。
結果的にいうと、いじめは、1~2か月しか続きませんでした。
が、その間は、上履きに画びょうが入っているとか、「よざる」などと変に呼ばれるなど、典型的なのもやられました(笑。
ただ、私がゲームソフトを大量に持っていたり、当時、新築の家に住んでいたことから珍しがられ、急速にクラスの一部の男子と仲良くなり、そこから自然といじめが消えていったのです。
しかし、私はこのとき、この恨みいつかはらしてやる、と心に刻んだのです。
そんな最悪な小学校6年最後の3学期を終えて、大宮市立八幡中学校に進学することになりました。
この中学校である一人の不良少年に出会い、私の人生の全てが始まっていくのです。
3話 中学校時代へ 続く
19話 起業の決意
19話 起業の決意
テーマ:第4章 19話 起業の決意
皆さん、こんばんは。与沢翼です。
本日は、
第4章 大学時代
⇒ 19話 起業の決意
をお伝えします。
実は今でこそ、事業に対して恐れがなくなった私ですが、22歳の起業決意をした当時は、かなりびびっていたのが正直なところです。
21歳当時、テレビでは、ホリエモンが連日テレビに登場していました。
2004年のことです。
東大中退か。
ジーンズでなんか不思議な人だな〜、頭いいんだろな〜。
これがテレビでホリエモンを見た最初の印象でした。
弁護士を目指して一心不乱だった私にとって、当時のホリエモンが、相当気がかりな存在になったのは間違いないです。
ですが、このとき私が起業の道に行くことはありませんでした。
それから2005年の2月。
22歳になった私は、ヒルズ族という言葉が連日世の中をめぐる中で、一冊の本を購入しました。
この本には、六本木ヒルズレジデンスに住んでいるか、もしくは六本木ヒルズに会社がある若き大物起業家が紹介されていました。
このとき初めて資本金の額や従業員数を意識し、企業間での比較を行ったりしたのを今でもよく覚えています。
ほりえもんがやはり一番印象に残ったのを覚えています。
そのあと、こんな本も読みましたね。
さらに、以前も紹介したネットエイジ西川社長の「起業は楽しい」という本に偶然出会った私は、そこで明確に自分が起業するということを意識し始めました。
それまではどこか雲の上の話という印象を持っていたのですが、この本のおかげで一気に当事者意識が芽生えました。
あっさりと基礎が書かれているぐらいの本の方が、意外に自分の運命を変えたりするのかもしれません。
さて、これらの本を読んだのは2005年の2〜3月のことでした。
起業を意識し始めた私は、法律の勉強を続けながらも、意識の半分ぐらいが起業に向かってしまったのです。
次から次へと経済系、ビジネス系の本を読みました。
とにかく自分にできることはそれしかなかったからです。
とくに大前研一さんの以下の本に大変な影響を受けたものです。
さらに、大学の図書館では、日経ビジネスを毎号読んでいました。
どんどん蓄積されるビジネスの情報。
そして、どんどんイメージができてくる自分の会社。
私の気持ちは日ごとに高まっていったのです。
そんなとき、2005年の夏。
たまたまあるイベントの企画を教えてもらう機会がありました。
経済産業省後援団体ドリームゲート主催
現役のTOP起業家のカバン持ちをさせてもらい、実際に社長業をこの目で見るというもの。
私は、自分の心の中でこう決めました。
本物の社長の近くで過ごしてみて、それでもなお起業したいと本気で思うのであれば、俺は司法試験をやめてすぐに起業しよう。
実は、応募するかどうか2週間以上悩みました。
法律しか勉強してこなかった俺が選抜で他の学生に勝てるだろうか?
これが最も心配だった事項です。
しかし、悩みに悩み、応募をしました。
今でも忘れない2005年9月18日。
単身で品川にセルシオで乗り込みました。
選抜試験は二段階に分かれていました。
1次試験が、面接。
2次試験が、30秒プレゼン。
私は、とても緊張し、意識朦朧というような中で試験に挑戦しました。
1次試験で自分の生い立ちを話すと、とても驚かれ、興味をもたれたを覚えています。
このとき、俺の人生って面白いんだな、と初めて思いました。
そして、2次のプレゼンでは、台の上に立って、大人数を面前に、自分の起業にかける想いを30秒で伝えました。
しーんとしていました。
初めての経験に心臓が飛び出るくらい緊張したのを覚えています。
私は確か次のように話しました。
私には、今は何もありません。
でも起業への熱い想いがあります。
本物の社長さんの近くで少しでも起業を知りたいんです。
それだけの想いで今日ここに来ています。
必ず近くで吸収します。
本当にストレートで何の飾り気もない言葉でした。
しかし・・・・
192名の学生の応募の中から確か数十名の学生が選ばれた。
私の名前は最後まで呼ばれませんでした。
・・・・・・・・
そして、
これからドリームゲート賞(優秀賞)を発表します。
早稲田大学 与沢 翼君
本当に感動し、その場で涙が出ました。
合格できただけではなく、優秀賞までいただけたのです。
写真の左下にいるのが僕です。優秀賞をもらって、前でスピーチさせてもらったときの写真です。
この瞬間、私は法律の勉強をやめ、起業家になると強く決意したのです。
これが私の起業の決意の瞬間でした。
本当に一瞬で決めた感じです。
これは天が導いていると思ったのです。
もし、これに落ちていたら私の起業はもっと遅くなったでしょう。
本当に感謝しています。
そして、この会場で、ネクシーズの近藤社長、ブックオフの坂本社長、インボイスの木村社長、クララオンラインの家元社長の講演を聞き、さらにビジネスの奥深さと楽しさを想像することができました。
私の決意は強固になりました。
この企画は本当によかったので、今の学生さんのためにもあれば良いのにと思いますが、一節によるとお金がものすごくかかるということ。
当時の2005年といえば、ベンチャー界はまさにバブル。
幻の企画だったようです。
運がよかったですね。
ドリームゲートの松谷代表には大変感謝しています。
以上
1クリック宜しくお願い致します^^
独立するならまずはIT技術を完全マスターすべし!
私も毎日学んでいます。
2010.11.28
5話 不良の世界へ
第1章 生い立ち
⇒ 5話 不良の世界へ
高校を中退した私は、ここからさらにエスカレートしていくことになります。
ここからの約1年はほぼ誰の制御も利かない状況でした。
昼の仕事なども始めてはみたものの、このときはほとんど続きませんでした。
悪友が私の家に下宿している状態でした。
高校中退組は意外にも多く、当時は高校に行っていない人間の方が多いんだと思っていたくらいです。
高校中退者は、私の周りに裕に数百人はいました。
自分たちの中学の同級生も一人、また一人と高校をやめほとんど、同じグループが全員中退するまでそれほど時間はかかりませんでした。
当時、俺は高校だけは行く、とか言っていたやつもいましたが、半年も持ちませんでしたね。
みんなが高校をやめると、おめでとうと言って歓迎会をしたものです。
チームができ始めてから私がしたことは、とにかくバイクを集めることでした。
移動時にバイクがあると、箔がつき、周囲への影響を強められるからです。
私自信が初めて単車を買ったのは高校1年の年の5月、退学した翌月です。
熊谷の先輩から、カワサキのZRXを買いました。
すでに中学のときに無免許で掴まっていた私は、免許をとるこができませんでした。
しかしそんなこともお構いなく、このZRXで夜な夜な走り回っていたのです。
このときはすでに大宮全体の不良グループが出来上がっており、いつも大宮駅構内にタムロしていました。
とくに、ニューシャトルというモノレールのような電車の改札前のマクドナルドをシャトルマックと呼び、ここに来る日も来る日も集まり、遊んでいました。
あるときから、大宮駅構内で検問をするなど言い始め、生意気そうなやつを捕まえては喧嘩を売るようになりました。
といっても、こちらは常に2~30人の集団なので、ほとんど喧嘩になることはありません。
ですが、稀に、喧嘩になることもあり、白昼堂々、大宮駅東口の一般道路などで、殴り合いの喧嘩をしていました。
もう警察の顔を見るのは2日に一回、自宅の前に警察が来るのは月に2~3回の出来事でした。
当時は高校中退の友人と警察の友人が最も多かったです。
また、その頃、テレビでガチンコファイトクラブというのをやっており、私たちはこれをバイブルさながらに共有し、みんなでボクシングの影響を受けていったのです。
ゲームセンターでやることはまずパンチングマシン。
このパンチ力の重さで偉さに影響が出るほどです。
週に2~3回は、殴っていました。
私、一度このパンチングマシンをおもい切りなぐり、手を骨折したことがあります。
笑
また、検問ではないですが、パトロールというのもあり、大宮駅構内を集団でぐるぐる回り、巡回していました。
どちらも私たちのためにあるような代物なのに、それを自らやるとは、勘違いも甚だしいですね。
当時のパトロールのことを彼女に話したら、「パトロールって何?マジきもい」と言われました。w
はい。キモイと思います。最悪です。
その他には、○○会というそっち系の会にも入り、的屋(屋台)の手伝いをしたり、パチンコの台打ちをさせられたり、そっち系の方のお子さんの子もりなどもしていました。
私は生意気なのですが、多くの人に可愛がってもらい、交遊関係は大人にまで広がっていきました。
中学時代私を殴っていた先輩方も、高校一年の当時は、どんどん私を避けていくようになりました。
そんなこんなですき放題にやっていると、確か高校一年の夏ぐらいに
大宮、最大最強となる暴走族が結成されました。
○○○天
ものすごくカリスマ的な総長が結成した暴走族で、私たちはそのかっこよさに魅了され、友人たちもどんどん参加していったのです。
私も時をずらして、参加を決意し、旧車を買うお金を貯めるために夜勤の土方仕事などを頑張ったものです。
そして、そのチームは当時、黒髪パンチ(黒髪のパンチパーマ)が義務付けられていたのですが、その踏ん切りがついたのは16才の誕生日を迎えた頃でした。当時パンチパーマへの抵抗がかなりあったのです。
そして、資金もたまり、決意を固めた私は、新入メンバーが先輩に挨拶に行く、顔合わせと呼ばれる集会に参加させてもらいました。
超ロングのベンチコートにコルク半をかぶった先輩方が族車で爆音とともに、集団でガストに入ってきたときは、わくわく感と同時に、なんとも言えない緊張が走ったのを今でも覚えています。
またつい半年前まで一緒に遊んでいた友達は、特攻服に身をつつみ、旧車にまたがり、遠い存在になってしまったような感覚さえありました。
私も早く追いつかなきゃ、そんな風に当時は感じていました。
そして、私は先輩方にチームに入れていただきたいという宣誓と約束をし、特攻服の資金も納め、その集会をあとにしたのです。
しかし、その直後、私は、警察の御用となり、家族の愛に気づき、更生を誓うことになったのです。
詳しくは、8話で。
当時私が載っていた
名車
CBXです。
奇跡的に写真がありました。
実家に帰ればたくさんあると思うんですがね(笑
三段シート、アップハン、フルビート、RPMの直管という王道仕様です。
これも色々ないわくのあったバイクで当時、相当苦労しました。
私はこの第5話をピークとして、以後真面目になっていきました。
以上
第2章 社会へ
⇒ 6話 15才、初めての仕事
へ続く