tukinohaの絶対ブログ領域

2011-04-22

「社会人」の概念史 「社会人」の概念史を含むブックマーク

最近、東京都副知事にして作家(!)であらせられる猪瀬直樹氏が、twitterで以下のようなに呟いていました。

仕事をしない専業主婦は、パートでもなんでも仕事をして社会人になってください。(放射線量の:引用者)数値の意味がわかるようになるしかありませんから。不確かな気分で子どもを不安にさせてはいけません。

http://twitter.com/#!/inosenaoki/status/60776864368693248

この文章でもっとも重要な単語が「社会人」であることは明らかでしょう。「社会人」とは仕事をしている人間であり、また、市民としてふさわしい理性を身に着けた存在である。裏返せば「仕事をしていない主婦は馬鹿だ」というわけです。

(東京都民でもない私としては)この発言にとやかく言うつもりはないのですが、「社会人」という言葉が他人を罵倒するうえで「有無を言わせない」便利な言葉として使われるようになったのはいつ頃からなのか、気になったので調べてみました。というのも、私の研究対象である大正期の書物ではほとんど目にしない、比較的新しい言葉であるように思われるからです。


1.国語辞典

こういうときのオーソドックスな手段は、国語辞典の年代ごとの用法の変化を見ていくことでしょう。私が調べた範囲では以下の通り。

大日本国語辞典」(1928年):項目なし

「大言海」(1932年):項目なし

「広辞林」(1934年):項目なし

「言林」(1949年):「1社会の一員としての個人 2実社会で活動する人」

広辞苑」(1955年):「言林」と同じ。

30年代後半から40年代前半の辞典が見つからない……と思ったら、同じ調査をした論文がありました。

CiNii 論文 -  「社会人」概念に関する歴史社会学的考察--「社会人」とは誰か?

この論文では「言林」よりも先に「社会人」という項目を立てた辞典として「言苑」(1938年)を挙げています(その次が「言林」)。定義は「一箇人としてではなく、社会の一員としての人」。よって、辞典において「社会人=職業をもっている人」という定義が初めて登場するのは1949年、と言えそうです。


2.近代デジタルライブラリー

次はタイトルないし章題に「社会人」が含まれているものを国会図書館のデジタルライブラリーで検索してみましょう。http://kindai.ndl.go.jp/

「社会人類」「社会人心」などを無視すると、最初に引っかかるのは杉森孝次郎『社会人の誕生』(1922年)です。これについては前掲論文で紹介されていますが、次のような文脈。「階級人として死し、社会人として再生するのだ。国民人として死し、社会人として再生するのだ」。杉森は大正時代における「社会の発見」を論じるうえでしばしば言及される(またそれ以外ではほとんど言及されない)人物ですが、ここでの「社会人」は「非階級的」(マルクス主義への対抗)、「非国民的」(この時期の杉森は国際連盟に好意的)という意味でつかわれており、「職業をもっている人」という意味はまったくありません。

加藤拙堂(この人は官製社会運動を調べているとよく出てきます)の『人間味』(1926年)には「刑餘の人と社會人」という章が含まれています。加藤はここで、監獄から出所した人が社会に適応するため、周囲の「社会人」が援助を与えるべきだと説いているのですが、ここでも「社会人」は「罪人ではない」くらいの意味しかありません。

これ以降に出版された著作についてはオンライ公開はされていないので、実際に国会図書館まで行って閲覧するしかありません。というわけで、他日を期すことにします。


3.その他の用例

ここまで見てきた限りでは戦前における「社会人=職業をもった人」の用例は見当たらないのですが、近年の国語辞典(例えば『日本国語大辞典』2006年)では「社会人」の用例として高見順『故旧忘れ得べき』(1935-36年)が引用されています。「学生から社会人に成長すると〜」と書かれているらしい(未確認)。

ついでに帝国議会会議録データベースで検索をかけ、政治家が「社会人」をどう使っているのか調べてみました。http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/

1945年から46年にかけてのものが引っかかりましたが、例えば「軍人としてでなく、一般社會人として」http://bit.ly/fTAkKC とか、「大多數の人が正しい社會人であり、時に少數の非社會人がある、其の非違は斷乎之を取締る」http://bit.ly/ezmxhy みたいな使い方がほとんどです。しいて現代的な用法を挙げるなら、以下のものでしょうか。

青年學校の名前は或は變へなければならないかも知れない、併し青年學校に本來課せられた仕事は、やはり日本の青年の八割位に當る者の教育でありますから、是非とも是は充實さして魅力のあるものとして、一面に於ては公民としての資格を養成すると同時に、他面に於ては社會人として立つのに必要な職業教育をする機關として、是非保存しなければならないのではないかと私個人は考へて居ります

第90議会衆議院「昭和十九年度第一予備金支出の件(承諾を求める件)外十一件」昭和21年09月10日、日高第四郎の発言 http://bit.ly/h89O7D

高見順の場合と同じく、「学生」と区別される概念として「社会人」が使われています。


4.推論

データ不足ではありますが、1930年以前には「社会人」と「職業」を結びつける用法は見当たらず、30年ごろから50年ごろまでに、そのような用法が確立したと考えられます。

ただ、どのような場合であれ「社会人」の明確な意味を指し示すことは困難です。社会人とは何かと何かを区別し、その一方を指し示すための概念であり、変化したのはその切り分け方であると言えるでしょう(当たり前か)。特殊領域(軍隊、国民、監獄、学校etc)と区別されるより一般的な領域として「社会人」が名指されてきたように思われますが、何を特殊領域とみなすかは使用者や時代によって大きく変化します。

関係があると思われるのは、戦間期から40年代にかけて、ホワイトカラーからブルーカラーへと広まっていった新規学卒者市場、でしょうか。学生から職業への間断のない移動が一般化することで、「学校社会」から区別される「一般社会」が職場と同一視されることになり、社会人が職業人と結びついた、と考えられます。この推論の当否も含め、別の機会にまた調査を行いたいと考えています。

B_DB_D 2011/04/25 20:03 あまり程度の低いツイッター発言を引用してきても、"場のエネルギー準位"自体が上がりませんよ。
妖精さんの小説は、まぁ、なんと言うかごく素直に作品を受け止め吸収するまでに、数年置くという回り道が必要になることもありますとだけ。(そこまで流行りモノを目の敵にして嫌いなワケでもないんですが。)

ryanigamiryanigami 2011/04/26 17:51 いつもロミオ論を読ませていただいています。
私はつい最近、「社会人」という言葉のイメージの変容について大学の講義で耳にしました。(私自身は理系大学生なのですが)

「社会」というのは、本来は「交際の場」や「交際をつくる過程」を指すものであって、そういう意味では学校も社会であると言えた。ここでいう交際というのは他人と係わり、多種多様の考え方を吸収することである。昔は社会人とは、集合体の中にいて周りに影響力を与える活動をする人を指していた。
また、社会という言葉は目的を共有する活動集団という意味も持っていたが、次第とその目的は多くの場合で利益=金を示すようになた。今では社会人とは、自立して賃金を稼ぐ人という意味合いをも持つようになった。(→罵倒語としての「社会人」)
ではボランティア人や専業主婦は社会人であるといえるのか?

そんな内容の講義であったと覚えています。
社会人=職業が結び付いたのは、多くの活動集団がその第一目的を徹底的な利益追求としたからではないでしょうか。それによって本来は社会であった教育機関と社会(会社)が区別されるようになった。
つまり「学校社会」も「一般社会」も同じ社会の枠組みにあったものが、「一般社会」が金に執着するものとなったことで「学校社会」とは区別されるようになった。社会は「一般社会」を指し、社会人は賃金を得る為に働く人を示すようになった。

私はこう考えました。理系の素人が長く拙い文章失礼いたしました。
ロミオ論楽しみにしています。

tukinohatukinoha 2011/04/27 00:21 >>BDさん
話の枕に、こういう無意味な話をするのが好きなんです。単なる趣味ですね。

>>ryanigamiさん
Rewriteが発売延期で涙目の私です。はじめまして。
日本における「社会」概念の変遷については、明治初期に翻訳語として「社会」が生まれた時期を除いてはほとんど研究がないので、貴重な話を教えてもらいました。
societyを福沢諭吉は「社交」と訳していますし、「部分社会」という言い方で会社や組織を指す用法も明治期には頻繁に見られます。その先生がおっしゃっているのは、その辺のことでしょう。そして、「社会」の目的がやがて利益を得ることに収斂されていく、という話も、おそらく正しいのではないかと思います。
というのも、「市民社会」という言葉が1925年ごろから使われるようになるのですが、その言葉を使い始めたのはマルクス主義系の人々で、やがて「市民社会とは経済的社会のことである」という理解が定着していったわけです(植村邦彦『市民社会とは何か』)。「市民社会」という言葉が現代の社会を表すキーワードとして用いられたことを考えると、このことの意義は大きいと言えるでしょう。
これを、もうちょっと具体的な史料に即して論証できたら面白いんですけどね……。

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