『国際主義』編集会議(IEGと略)の紹介 Version.2

  2002・7・15  伊藤 一

【以下は、季刊『コム・ネット』2号ならびに『国際主義』43号に掲載したものを、4月および7月のIEG会議での討議を踏まえて修正したものです。これをVersion.2として、今後も修正・改訂作業を継続し、その際の討議や異論も公開しながらバージョンアップしていく予定です。当初の文書からどこを加筆、削除、改訂しているかを明示するデータは今後アップしていきます。疑問やご意見、ご批判をよせていただけると幸です。 津村 洋】

 ◇ 「〈1〉概略」と「〈2〉経過」とは、先の作成のとき時間に追われたため、経過の各時代の論理関係を追わずにまとめられるように、〈2〉の項をたてたものです。
 今回、〈1〉に経過を少し加えたため、〈1〉と〈2〉との区分があいまいになってしまいました。
 いずれ整理して合体するか、〈2〉をより年表的なものにするかなど、いくつか考えましたが、かなりかかりそうなので、とりあえず、この段階で提出します。


 〈1〉概略

 私たちIEGに至る潮流は、60年代末闘争が挫折した後、その克服を目指して72年に「共産主義研究会」として出発した小政治グループです。

 私たちの源流は、70年代初頭、社会主義協会(太田派)―社青同のフラクション(=総評左派労働運動の基盤に立脚しながら、社会主義協会を社会党から分離させ共産主義党に発展させることを目指すフラクション)の一つである愛知社会主義協会・社青同フラクションです。当時、社会主義協会から分離してレーニン主義党建設を目指す動きが各地方で起こっていました。

 71年に、そのフラクションの一つである神奈川県委員会が社会主義協会から分離し日本労働者階級解放闘争同盟(=「人民の力派」)を結成した際に、愛知フラクションは、それを社会党から分離した党建設への先進的立場と評価しながらも、まだ社会主義協会に戦闘的な労働者が多くいるので分離は時期尚早と捉え、協会に止まりました。しかし、社会主義協会が「人民の力派」や協会内での同調に警戒を強め引き締めをはかったこともあり、社会主義協会全体を社会党から分離する条件がなくなったと判断し、72年に、社会主義協会からの分離することを決定しました。この過程で、一時、「人民の力派」への合流を追求しています。

 この合流への論議はなかなか進展しないながら、愛知グループはそれを継続追求しようとしていますが、「人民の力派」から除名された九州グループメンバーが愛知グループに独自の組織形成を提起し、72年に、彼らと共産主義研究会を結成しました。

 当初、共産主義研究会は、社会主義協会時代から引き継いだ基幹産業労働運動を基軸におく革命論(ゼネスト革命論またはそれに近い路線)をとっています。しかし、60年代末の新左翼諸党派・全共闘の挫折以後、70年代の日本では、本工労働者を中心とする運動とは少し別のところから、部落解放闘争を筆頭とする反差別闘争、在日中国人や在日朝鮮人・韓国人の入官体制との闘い、反公害・反開発などの現地住民闘争、そして寄せ場、中小零細など非基幹部門労働者の闘いなどが、共産党と対立しながら、新しい活力を持って高揚しはじめていました。

 共産主義研究会は、75年に、中央指導部の半数(旧九州グループ)が、「人民の力派」から分離したグループと「裏取引」でなし崩し的な統合を行うために、路線論議を通じた統合を当然とする愛知グループ系を押さえ込む目的で、中央書記局凍結・議長全権掌握までを画策して破綻し、共産主義研究会から離脱することになりました。この官僚主義的暴挙を働いた部分が、また、反差別闘争への露骨な嫌悪を隠さなかったことも契機に、共産主義研究会は、この組織問題克服の過程を、同時に、旧来の基幹産業労働者中心の階級闘争論や、反差別闘争などの新しい運動などを、プロレタリア階級闘争の内容として根本から捉え返す機会としました。共産主義研究会は、『なにをなすべきか』の政治闘争論などを手がかりに、75〜76年の第六回大会と第六回大会三中委とで、この総括をまとめ、その後の、政治諸闘争や諸運動の基礎としています。
こうして、75年以後、社会主義協会系運動の組合主義的革命路線を総括・転換し、三里塚実力闘争を筆頭とする政治諸闘争、部落開放闘争を始めとする反差別闘争などの取り組みを強化しました。

 この当時、私たちは、一方で、いわゆる広義の「労働情報系」諸党派が、反差別闘争、住民闘争をはじめ様々な課題別戦線に応える姿勢をもったことを積極的に評価し、出来るだけ合流を追求しました(「三里塚闘争に連帯する会」への参加など。後に、三里塚反対同盟の分裂的事態や戦旗派批判の評価をめぐる論争を経て脱退(『マルクス・レーニン主義をかかげて』No.12参照)。しかし他方で、かつて新左翼が(この限りで正当にも)対決・克服を重視した日本共産党の対米従属論・民族排外主義や経済主義・組合主義、既成左翼の思想・運動に対して、広義の「労働情報系」左翼が分界線をあいまいにしてゆくことに危機感を持ち、「新左翼運動の右翼的清算反対」の見解に立って、新左翼の破綻を、一般論ではなく具体的に点検・検証することに力を入れています。

 70年代後半から80年代前半まで、歴史の短い小グループとしては、それなりに政治闘争組織化を推し進めたと思います。しかし、共産主義運動への基礎的・原則的理解(政治闘争、経済闘争、党などの理解。階級的闘いと改良闘争、党の闘いと党外闘争・個別闘争との関係………他)と、当時、組織化していった政治諸闘争、反差別闘争の内容との整合性、一貫性に問題が起き、いろいろな矛盾にぶつかり始めました。「共産主義運動の基礎的・原則的理解」は、党綱領の原則部分に要約されるべき内容にあたります。当時、私たちは「党綱領」を採択するまでに至っていませんが、原則部分については、エルフルト、ボルシェヴィキ綱領を継承できるという見解に積極的に立っていたので、この矛盾は、エルフルト・ボルシェヴィキ綱領の基本思想と、当時の私たちの(主観的にはエルフルト・ボルシェヴィキ綱領の発展・具体化として組織化を進めたはずの)政治諸闘争・諸運動との間の不整合という性格のものでした(ただし、問題の所在をこのように整理できたのはかなり後のことです)。

 私たちは、当時、次の観点を重視していました。すなわち、“帝国主義本国の階級闘争では、労働者もまた被抑圧民族からの超過利潤収奪の分け前を得ているので、自国帝国主義の被抑圧民族への支配・進出と闘い、国益主義・民族排外主義と闘う自覚を成長させることなしには、資本家に対する労働者の利益を求めるだけの経済主義意識は社会排外主義に成長することが避けられない”ことです。そして実際に、この観点をもたない既成左翼の運動や広義の「労働情報系」党派の運動が、それゆえの後退をたどったものと思われました。すなわち、労使対立の意識という「経済主義」意識をプロレタリア階級意識と捉える通説を克服しなければならないことを理論上も実戦経験からも強く実感するにいたっています。しかし、エルフルト、ボルシェヴィキ綱領の原則綱領部分では、この観点が根拠づけられるのではなく、反対に、政府・資本に反対する意識をプロレタリア階級意識と捉える一般的内容となっています。―――そうであると、党綱領を獲得することは、現下の諸闘争を基礎づけるのでなく、それに反する性格をもつことにもなってしまいます。

 ―――当時、青年共産主義者同盟(準)を中心とする私たちの活動は、政治闘争と社会闘争との関係、組織(党)内と外部との相互関係などをめぐる背反に陥り、「社会主義国家」評価をめぐるジレンマもかかえ、革命への展望・路線の根本からの点検を余儀なくされました。こうして「政治サークル」への撤退=「政治サークル化」の是非の論議が始まりました。

 私たちは、『なにをなすべきか』から継承した政治闘争論の重要な一核心として、組織内部事情から活動を規定してはならず、全人民にとっての課題・任務から組織活動を規定しなければならない、という立場に立って、諸闘争への取り組みを追求しています。にもかかわらず、こうした闘いの組織化のためにも、「組織内部」の思想的な再構築に力を振り向けるため、従来の政治諸闘争・諸活動から大幅に後退する選択を迫られました。

 私たちは、「組織事情」で、いつのまにか闘争から手を引いたり乗り移ったりする従来の左翼に多く見られた行動を、労働者住民の左翼への不信を著しく形成する行動として、上述の理由からもっとも避けなければならない行為と捉えてきました。そのため、私たちが突きつけられたジレンマは非常に深刻なものとなっています。後退のなかでも、そのことを最大限避けるため、私たちは、この後退を「政治サークル化」として組織決定し、それを機関誌誌上をはじめとして公然化し、また、三里塚反対同盟をはじめ、各戦線に対して、そのことを報告し意見・批判を受ける活動を行いながら、この「政治サークル化」を行いました(87年「2月総会」)。

 83年以降、特に87年から91年にかけては、それを中心課題に、私たちは、マルクス主義の各領域の再学習・点検、国際共産主義運動総括、われわれの経験の総括にとりくみ、91年に、「過渡期」規定を結び目に、ジレンマを基礎的なところで脱却したと認識できたので、それを「展望」として採択し、『国際主義』編集会議としての再出発を行ないました。

 しかし、それから10年以上を経過した現在も、まだ立脚点を基礎的なところに止める思想サークル的な段階にあります。『国際主義』編集会議という名称は、実体とほぼ合致してます。

 91年から現在まで、この「展望」を唯一の立脚点として、その適用・点検を課題に活動を行なってきました。
 この間、ワーカーズ系の諸氏などとの協議会活動や、国外革命家との交流・共同活動などを経験し、現在、「展望」の見直しや、組織活動の再点検を要するところに来ていると考えています(先のIEG会議での討議など)。この点で、共に活動してきた諸氏など、IEG外部の率直な意見を求めてゆく意向です。

 コム・ネットの発展を通じて、IEGの性格、任務などを練り直してゆきたいと考えています。


 〈2〉経過

 以下、われわれの潮流の経緯を簡単に紹介します。

・70年〜72年……学生(全共闘)基盤というところに60年代末闘争の敗北があったと捉え、当時の国労の反マル生闘争をはじめ基幹産業労働運動を中心とする「労働運動の戦闘的翼」に立脚することで、その敗北打開を追求。社会主義協会―社青同の「協会変革フラクション」。

・72年。社会党―社会主義協会から離脱し、共産主義研究会発足。
 「マルクス主義の原則」での党建設、統合を追求(「原則」は、黒田主体性哲学、宇野理論のマルクス主義解釈への批判、現代世界の「変容」規定=帝国主義的性格否定への批判、日本の対米従属規定への批判などに重点)。(結集への「3項目の確認」。「進め共産主義の大道を」(72年共産主義研究会結成大会採択。『大道』創刊号))

・74〜75年。「人民の力派」から除名された三県委員会との組織統合をめぐって、旧九州グループのW,K(議長、中央書記局員)が、組織討議を避けて密室討議で「統合」を行うため、中央書記局凍結・議長全権掌握を提案し、これをめぐる三回の第四回大会と、第五回大会で、W,Kグループは共産主義研究会から脱退し、三県委員会(→「連帯派」)に合流(『大道』39号)。この組織内論争を、『一歩前進、二歩後退』などを検討・摂取しながら推進し、初期ボルシェヴィキ組織論の(後に後退した内容も含めて)積極的意義を評価する。

・75〜76年。従来の旧左翼型の「本工・就業労働者」「職場細胞」建設中心の運動が、反差別闘争などを従属的位置にとどめてきたことを再検討し、この旧左翼型の階級闘争論の転換を追求する(第六回大会決議。第六回大会三中委決定)。この検討に際して、『なにをなすべきか』第三章に着目・重視。また、マルクスの政治闘争の規定に着目。
 その後、日本帝国主義の韓国―アジア侵略との闘い、三里塚闘争、反原発闘争、反差別闘争など闘い、日本の他民族抑圧―民族・差別排外主義に対する政治闘争組織化を重視。 70年代後半以後、三里塚闘争を重点的に闘う(日本帝国主義の「場内平和」を揺るがすことが、日本の抑圧下にあるアジア人民などとの連帯の基礎になるという政治評価を重視)(パンフ『三月開講実力阻止へ』(78年)『20〜30年代、スターリン、トロツキーの国際党派闘争とファシズム・人民戦線』(79年)

 ・82年〜87年。綱領的思想と運動内容との乖離・背反。
 われわれは、エルフルト、ボルシェヴィキ綱領に対する黒田主体正論や宇野理論など「反スタ」派による批判・訂正を、スターリン派のマルクス主義歪曲と並ぶ、共産主義運動混迷のもう一方の要因ととらえ、マルクス主義の基本思想とされてきたエルフルト、ボルシェヴィキ綱領(の原則部分の思想)への厳格な立脚を追求してきた。われわれの潮流は、党(または革命組織の)綱領を獲得できていなかったが、原則部分は、エルフルト・ボルシェヴィキ綱領継承論に立ち、その土台上にわれわれの活動を展開・具体化したつもりでいた。しかし、80年代には、この綱領的思想と、その土台上に具体化したはずの運動との内容の整合性が怪しくなってきた。
 特に、

 @、どのような内容までを「プロレタリア的な階級意識」と捉えるのかの理解、基準が綱領的思想と、政治諸闘争などを通じてわれわれが理解し具体化してきた内容とが違ってきたこと、あるいは対立し始めたようにさえ見えたこと、

 A、あらゆる闘いをブルジョア国家権力とのプロレタリア階級の闘いに連関させ集約させるべきであるという当時のわれわれの綱領的思想(=マルクス主義的革命運動の基本性格と考えていた内容)と、当時の反差別諸闘争が、そうした一元的集約(=日本共産党の旧来の反差別運動など)と対立・対抗することによって、より階級的・根元的な闘いを形成・高揚させた事実をどのように捉えるのかの問題。また「社会主義になれば差別はなくなる」という命題は正しいのか、という反差別闘争と闘う戦線からの左翼への疑問・告発にどのように答えることが必要なのかをめぐる混迷。

 B、社会主義国家をめぐるジレンマ。現存する「社会主義」は(著しい官僚主義的歪曲を被っているが)資本主義国家とは異なる体制であるという基本規定と、それら諸国が一斉に長期にわたって資本主義国家への解体をたどっているという現状評価とのジレンマ。 ―――これらの領域で自己矛盾を強めていた。

 また、相互に自覚されないままに、「党建設」をめぐる考え方の違いが拡大していた。それは、(a)各個別闘争・大衆運動は資本主義を改良する闘いに止まるので党を建設し党に結集しなければならない、という旧来の思想と、(b)各闘争を発展させるために党建設が必要、という捉え方の違いなどに現れた。

・87年〜91年。その総括・点検を、マルクス主義全体への理解の点検を含めて行う(80年に形成した青年共産主義者同盟(準)として行う)(青共同87年2月総会での「政治サークル化」(『国際主義』18、19号)。(なお、この課題は82年から取り組みを開始)

 理論上では、「マルクス主義の百科全書」といわれるエンゲルスの『反デューリング論』をめぐって、これまで、黒田哲学、宇野理論などからの批判(哲学上の客観主義、経済主義《経済決定論》など)に対して強く擁護してきたが、この文書の歴史的位置や各部分を検討し、黒田、宇野理論とは非常に違う内容ではあるが、多くの根本的な批判・克服を要する点があること、それらが、共産主義運動の歴史的限界に密接であることが明らかになった――こうした評価に転換。

・91年。上述のジレンマを、「過渡期」理解の転換に行き着くことで、基礎レベルでは打開したと捉え、青年共産主義者同盟(準)を『国際主義』編集会議という政治サークルに再編。再出発を追求(「展望」の採択)(『国際主義』22号)。

・89年〜91年の東欧・ソ連「社会主義国家」崩壊が左翼陣営を震撼させた。92年に、IEGは、『国際主義』24、25号で、「マルクス主義」「ソ連・東欧崩壊」に対する日本の左翼各党派の見解をまとめ、評価を提出。
 また、同時期、社労党から分かれたワーカーズ、歴史科学研究会が組織した「社会主義再生シンポジウム」に参加し、ワーカーズ系との交流を始める。

・ワーカーズ系など一部を除き、国内左翼潮流との路線論議をなかなか実現できないこともあり、フィリピン共産党反対派、スリランカJVPとの交流・討議などを重視。ワーカーズや建党協メンバーと取り組む。

・われわれの潮流は、80年代までは、広義の労働情報系運動が、それぞれの政治内容をあいまいにした大同団結主義的な結合を追求したことに対する批判を重視した。しかし、他方で、従来のこの立場は、左翼勢力の分立を傍観視するものであったと総括し、諸勢力の積極的要素・萌芽を発展的に結合することを土台に据えた諸勢力の合流追求を始める(『国際主義』24号)。
 98年『共産党宣言』150周年をきっかけに、建党協が呼びかけた協議会形成を、この点で積極的に受け止め、建党協、ワーカーズなどとともに99年のコム・未来に参加する(『国際主義』28号など)。
 また、この年発足する「共産主義運動年誌編集委」にIEGメンバーが参加。

・01年。建党協は、諸勢力へのセクト主義的分立の克服などと語りながら、コム・未来をなし崩し的に「一本化」しようともくろみ、会員・他グループへの情報統制(名簿の排他的独占、原稿・投稿にぎりつぶしなどまで行使しての)を止めどなく拡大するなど、セクト主義・官僚主義を露呈させた。
 協議会にとって、参加者・参加団体の自主性の保証や透明性を不可欠と捉えるワーカーズほか各会員とわれわれIEGは、コム・未来「民主派」(→「三者共同議案派」)を形成して、コム・未来「生田議案派」と分離し、コム・ネット発足に至る。
 コム・未来発足に際してわれわれIEGが課題とした左翼諸組織の合流・統合問題を、コム・未来の破綻を踏まえてどのように総括・検討し直すのかは、今後の宿題として残っている。 


 〈3〉 現状。諸論点

 IEGは、91年結成大会以後、大会を行っていないので、結成大会で採択した「展望」が、公式の立脚点になっています。
 「展望」は、マルクス主義解釈、革命論の基礎(原理)領域を中心とした文書です。
 「展望」は、従来のマルクス主義解釈に対して、過渡期(=プロレタリア国家、プロレタリア独裁)の捉え方の変更に焦点をおいています。

  (A) 過渡期規定の変更

 旧ソ連共産党―スターリン派は、過渡期の国有生産手段を「社会主義的生産様式」とはっきり規定しています。この意味は、国有生産手段の生産力を増大させるならば、それ自体が、経済の社会主義的性格を拡大再生産し成長させること、すなわち資本主義的性格払拭にどこまでも向かってゆくということを意味します。従来、共産主義運動は、スターリン派を批判する勢力も、概して、過渡期を、社会主義・共産主義の側にある体制か、そうでなくとも、資本主義と社会主義の「中間」のように捉えてきました。

 しかし、「展望」では、過渡期の国有経済を、資本主義の最終局面である特殊な国家資本であると捉え直しています。この評価に立てば、過渡期の国有資本は、社会主義実現のためには、変革・廃絶しなければならない対象であること、それなしに保守的に防衛するならば、その国家資本の資本主義的性格が再生産され、資本主義国家への回帰が避けられない、という結論が出てきます。

 ソ連、東欧諸国などの「社会主義国家」が、一斉に、資本主義国家に回帰していった根本的な基盤は、この点に求められると捉えるに至りました。

 レーニンは、『国家と革命』などで、「プロレタリア独裁」を説明する際に、「ブルジョア独裁」など階級独裁一般を例にとって、類比させています。しかし、これは誤解を生んできました。ブルジョア国家権力は、経済的な搾取階級であり経済的に優勢な階級であるブルジョアジーを基盤にもつため、その国家の政策は、自然発生的に、支配階級であるブルジョアジーの階級的利益を反映するものとなります(的確な反映、まずい、不充分な反映などがあるとしても)。ところが、プロレタリアは、階級である限り「無産者」であり、経済的弱者です。しばしばプロレタリア国家でプロレタリアが多数者として支配階級になると語られますが、プロレタリアは、ブルジョア国家でもプロレタリア国家でも経済的に優勢な階級になることはありません。プロレタリアが生産手段を所有して経済的弱者を脱するときは、階級対立がなくなり、国家・国有経済もなくなる共産主義社会形成の段階です。

 すなわち、「プロレタリア国家」は、資本主義国家のような、「経済的土台の支配的階級」が「政治権力の階級性格」に反映される社会体制、階級国家の基本構造をもつものではないのです。

 プロレタリア国家とは、経済的土台はまだ資本主義が優勢で、政治的上部構造を、資本の自由な運動・利潤追求を制限できる勢力が掌握した状態を意味します。すなわち、プロレタリア国家は、全一的な階級性格をもった経済的社会構成ではなく、経済的土台と政治的上部構造との間に対立・矛盾をはらんだ不安定な革命過程を意味します。それゆえ、その資本主義(=特殊な国家資本主義)を共産主義社会に向けて変革する力が弱まれば、プロレタリア国家は、ごく「自然」にブルジョア国家に回帰・着地するものとなります。これは、革命戦争過程で、革命勢力の闘いが弱まれば自然に革命前の体制に回帰してしまうことと同一です。

 プロレタリア国家やスターリン主義の基本性格を捉える上で、プロレタリア国家を、経済―政治・社会全体にわたる全一的な体制(=プロレタリア体制)であるという理解を脱することが不可欠です。この点で、レーニンの「プロレタリア独裁」の説明の仕方は訂正される必要があります。

 この規定は、プロレタリア国家やその権力自体が、自動的には(=たとえば資本主義国家の権力のように経済的有力階級に直接支えられて)プロレタリア的性格を意味するわけではなく、それが、過渡期を共産主義社会に変革・発展させる的確な政策を提出した際に、その政策に表現される内容だけ、プロレタリア階級性格が発揮されることを示唆します。すなわち権力を取ったプロレタリア勢力が、国家とその国有経済とを如何に利用し、それ自身を廃絶に向けるのかの内容の基礎・基準となります。社会全体の変革(自主的、対等な社会=人間関係の形成、それを基礎づける経済的平等、分業への固定からの解放など)を促進する限りで、そして、国家資本主義が必然的に生み出す国家資本主義官僚の特権を制約・縮小してゆく限りで、プロレタリア国家と国有経済とは、プロレタリア的・共産主義的性格を持つことができるということです。

 スターリン派は、この特殊な国家資本主義の利潤・特権に基盤をもつ勢力として成長し、それゆえ、その保守的な保持を基本性格としています。スターリン派は、一方で、この国家資本に利益をもつために、それが普通の私的資本・資本主義国家に回帰することに抵抗します。他方で、その国家資本主義が共産主義的な協同社会に変革されるならば、特権が消滅するので、その変革を目指す勢力への過酷な弾圧・粛清を対象ともします。

 そして、スターリン派は、国家資本主義の保守的保持を、「社会主義建設」といつわり、実際に社会主義・共産主義建設をめざす労働者弾圧を必要とするため、組織の官僚統制、思想統制、歴史偽造などを必要不可欠とします。スターリン派のフラクション禁止、公開討議禁止、執行機関の自己補充などの組織論も、その産物です。

 スターリン派は、過渡期の国家資本主義の保守的保持という性格のため、直接は、その解体をめざす外部の資本主義国家や国内外の私的資本復活勢力と闘うものの、長期的には、その国家資本主義の必然的な運動から、資本主義国家への回帰を許容せざるを得ない勢力です。

 スターリン派の覇権確立とは、過渡期の国家資本主義の土俵上で、その共産主義への変革をめざす革命勢力が、その現状維持をはかろうとする勢力に敗北したことを意味するものです。

 スターリン派の発生や覇権確立をめぐって、これまでの共産主義運動で、歴史要因説(ソ連の低生産力、孤立。ロシアの資本主義・文化の未発達など)、主体要因説(ボルシェヴィキの理論の弱点、革命期のボルシェヴィキ党員の戦死・弱体など)などが多くの見解が主張され論争されてきました。その大半は、一度はプロレタリアが権力・主要産業を掌握した「プロレタリア国家」または「社会主義国家」で、すなわち、本来、社会主義・共産主義に進むはずのプロレタリア国家と革命派が、なぜスターリン派に敗退したのか、という論理の枠組みでの「要因探し」となってきました。そのため、この論議は、「敗退要因」を見つけだし特定しなければならない、という性格をもって論争されています。―――しかし、反対に、過渡期の国家資本主義は、自然成長生のままでは、スターリン主義(それと共通する性格の勢力)を形成し、資本主義国家への回帰・着地につながるものなので、この前提が適切とはいえないものです。「要因」という意味では、プロレタリア国家の国家資本主義を変革・廃絶し共産主義社会に進める上で革命派の力が弱かったこと一般を上げることが出来るに止まります。したがって、必要なことは、「敗北要因」特定ではなく、ソ連などプロレタリア国家を共産主義社会に変革するための具体的な諸条件です。スターリン主義をめぐる論議は、この側面から行われる必要があり、また、そのことによって、「失敗要因探し」ではなく、共産主義運動をいかに強める必要があるのかの建設的論議の土台もつくられるものとなります。

 スターリン派は、“ソ連はプロレタリアの国家で、資本主義国家の解体攻撃にさらされている→従って、プロレタリア国家を防衛しなければならない→したがって、その国家機構や制度(官僚と官僚機構なども含まれる)を守らなければならない→特権・格差などは、(資本主義など階級社会の階級対立とは違って)本質的なものではないので、それを問題にしてプロレタリアの権力・政府を批判するなどはプロレタリア国家を弱める本末転倒の行為で、プロレタリア国家打倒をめざす資本主義勢力に手を貸すものである”………という論理をもって、国家を肥大化させ、その正当化をはかり、批判を封じてきました。
 プロレタリア国家の多くの活動家・労働者は、官僚主義などに反対しながらも、資本主義に対してプロレタリア国家を防衛しなければならないという一点で、スターリン派の官僚支配を強化する役割までも果たしてきました。資本主義との対決や、共産主義への社会変革により強い熱意・革命性をもつ部分ほど、こうした傾向にからめ取られたところに、共産主義運動をめぐる深刻な悲劇があります。
 プロレタリア国家を、社会体制として「非資本主義的」体制と捉える点でスターリン派と評価を共通にするならば、「外部」からの破壊の攻撃と闘うことが、「内部」の官僚主義などをめぐる問題よりも、第一義的、根本的な任務であるというスターリン派党・国家官僚の前提に根本的に抗することは不可能になります。プロレタリア国家の社会経済体制が、まだ国家資本主義であることを明確にし、それゆえ、防衛一般=保守的防衛では、プロレタリア国家の資本主義的要素を防衛し、結局は、その解体に向かってしまうことを労働者住民が広く理解する必要があります。その防衛は、「特別な防衛の仕方」を必要とすること、すなわち、プロレタリア国家の資本主義的、官僚主義的、差別的性格を打破・克服する内容をもつことが必要条件になること、労働者住民と党・国家とが、この共通前提の上で、プロレタリア国家の防衛を、過渡期社会の全社会的な変革と並行して課題とすることが綱領的な土台に据えられることが必要です。

  (B)、「政治」「社会」

 91年の「展望」採択時は、まだぼんやりしていましたが、「展望」に基づく共産主義運動総括などを進める過程で、この規定と、「政治革命」「社会革命」問題とが密接に関係することが明らかになってきました(『国際主義』26,27号など)。

 第一に、権力奪取や、その権力による資本収奪=国有化が、社会主義・共産主義形成に直結はしないことを明らかにすることによって、社会主義・共産主義社会(社会主義的・共産主義的生産様式)を形成するために、「社会」領域変革が独立した根本的な位置をもつことが明瞭になります。

 第二に、そのことによって、「共産主義への変革にとって、政治革命は不可欠だが、社会革命が根本的な内容になる」という基本的な相互関係が出てきます。

 第三に、さらにそこから、権力奪取の以前(=資本主義国家)とそれ以後(=過渡期)での「社会革命」が、一方で、政治的位置を転換するものの(前者では、ブルジョア国家権力と対抗しながら進めなければならない、後者では、プロレタリア国家権力の支援を利用できる)、他方では、根本的な共通性・連続性(資本主義的な経済的土台上で、資本主義的要素を再生産する社会性格と対抗しながら進めなけれならない)があることが明瞭になります。―――すなわち、いずれの時代の「社会革命」も、過渡期が資本主義国家に回帰する可能性を減らし、共産主義への変革を成功させる(またはそのための犠牲・苦痛を減らす)本質的な意義をもつことが明瞭になります。

 ―――「展望」での過渡期の規定は、この意味で、現在、資本主義国家での階級闘争の性格把握にとっての基礎となるものと捉えるに至っています。 (「政治革命先行説の検討」『共産主義運動年誌』2号)

  (C)、共産主義運動の分立・分裂

  @、「社会主義国家」―「過渡期」をめぐる評価の分極化と
    国内外共産主義運動分裂・分立との関係

 「展望」の過渡期規定は、共産主義諸潮流の分立とその克服の示唆となりました。
 解体前のソ連など「社会主義国家」をめぐる評価の分裂・対立が、国際共産主義運動の分裂・分立にとって、根本要因の一つとなってきました。

 ソ連など「社会主義国家」は、一方で、通例の資本主義国家とは異なる社会性格を形成し、資本主義・帝国主義陣営と激しく対立するとともに、他方で、その多くが官僚主義的・統制的性格、所得格差・社会差別などを拡大・許容する存在となっていました。

 その結果、既成「社会主義国家」の社会性格を、どの面に着目して捉えるのかによって、本質的・根本的に「プロレタリア」的体制の側にあると捉える思想(スターリン派、トロツキー派など)と、その「資本主義的」性格を重視する思想(いわゆる「国家資本主義」論)とに評価が分かれてゆくことになります。――この対立は、前者は、生産関係として、社会主義的性格を再生産する社会と捉えることを意味し、後者は資本主義的生産関係と捉えるという、根本的な階級性格をめぐる正反対の立場からの対立を意味しました。そのため、思想的・政治的な対立が非和解的になってゆきます。他に、毛沢東派は、ソ連=資本主義、中国=社会主義と評価を振り分けることで、上述の両極とは異なる立場をとっていますが、理論性格は上述両者の折衷にとどまっています。あるいは、ソ連などを「資本主義」でも「社会主義」でもない「第三の体制」(官僚的集散主義など)と捉える多くの思想が、マルクス主義から離れています。

 この対立は、(スターリン派主流派以外の潮流にとっては)スターリン派、スターリン主義をどのように捉え克服するのかの根本にかかわるので、あいまいにできない点となってきました。

 実際には、ソ連・中国論をめぐる理論は、さらに細かく分立してます(第四インター内の諸評価。日本では、革共同の「反スタ」論とブント系の諸規定など)。しかし、これら分立の土台と、その分立が非和解的性格を強く帯びた条件には、ソ連・中国などの階級性格をめぐる評価が、上述の両極に押しやられる条件があり、そのため、その「中間」の様々な見解が、より実状に合致しているように見えながら、理論的には確たる根拠を持てない状況が存在していました。

 共産主義潮流の分立の根拠は、「社会主義国家」規定をめぐる分立以外にもありますが、この問題は歴史的にも論理上も大きい位置を占めています。

 他の社会的事象をめぐる場合と同様に、「プロレタリア革命―社会主義国家」をめぐっても、その進歩的側面、否定的側面をめぐる両者の度合い、関係などについての評価の差異、多様性が生まれるのは当然ですが、問題は、その違いが、非和解的な対極陣営を形成することに直結するのかどうかにあります。

 「過渡期」を、資本主義の最終局面であり、その資本主義的性格を廃絶・変革する攻防(革命)の最終局面であることがふまえられれば、その具体評価をめぐる様々な相違も、間の立場がない両極陣営への分化を強いられるものとはならなくなるはずです。

 私たちは、上記のように、80年頃から、「現状評価」として、「社会主義国家」の多くが、ブルジョア的後退・解体に向かっていると捉えています。そして、“実状の評価”としては同様に感じていた労働者・活動家が少なくないとも感じていました。――しかし、この捉え方は、従来の「マルクス主義」的な「過渡期―社会主義論」とは整合できないものでした。なぜなら、一方で、ソ連、中国などを(従来の意味で)過渡期または社会主義と捉えるならば、それは基本的に生産力増大とともに共産主義に向けて発展しているはずで、解体するとすれば例外的な事態ということになるので、大半の諸国が一斉に長期にわたって解体に向かうということは、生産力と生産関係をめぐる基礎的な内容と真っ向から抵触することになるからです。他方で、元々「国家資本主義」=資本主義国家であったという理解にたてば、「解体」という問題自体が消滅しますが、この場合は、「解体」「ブルジョア化」等々という批判・対決の対象ではないことになり、これも実感からかけ離れるものでした(この後者は、ワーカーズ諸氏との間で大きい論点になるところと思いますが)。

 繰り返しになりますが、上述の「二律背反」は、「過渡期」というものが、本来、「社会主義、共産主義体制」の側にあり、それゆえ、生産関係として社会主義・共産主義(への発展)を再生産する根本性格を持っている、という前提から生まれる両極分化です。われわれも、この前提にとらわれ続け、この両極の選択を迫られる理論的立場と、現実評価との落差・乖離にジレンマを感じ続けてきました。

 「過渡期」規定の捉え返しによって、このジレンマから脱却できたと、私たちは捉えています。

 A、政治闘争、共産主義運動の結合・合流を目指す私たちの経緯

 私たちは、91年以前も、他潮流との政治闘争、諸闘争をめぐる共闘・共同活動を常に追求してきました。
 その際、内部事情から共闘を組んだり離れたりすることを排し、組織内外を問わず共通して確認することが可能な客観的な政治任務・政治的要請に基づいて共闘陣形を追求することを重視しています。

 これは、私たちが、75年までの基幹産業・本工・就業労働者基軸の方針の転換を模索した際に、『なにをなすべきか』の「全面的評価」「全面的政治暴露」「全人民的政治」を検討し、摂取した立場です。

 『なにをなすべきか』や、その「全人民的政治」は、これらは、現在の社会運動・左翼運動の中ではきわめて評判が悪いものですが、それは誤解または転倒した解釈を前提とし、それに対する批判・反発という意味合いの強いものです。

 ブント系は、かつて、この「全面性」を非常に強調しましたが、それは、演繹的な理論展開の自己完結的な体系性のようなものと捉えられていて、その〈世界認識―戦略―戦術〉に合致しない運動を切り捨てたり分解したりする根拠とされてきました。悪評を被るのも当然です。

 しかし、こうした性格を一面的なものと批判し、その対極に位置するものとして、『なにをなすべきか』が根拠づけようとした「全面性」の基本性格があります。

 第一に、様々な事象の「全面」=積極面・否定面の両側面などを見落とさずに捉えることの義務づけであり、第二に、そのことを、自分の組織・運動も、同様の基準で両側面(発展的な面も、欠陥・限界も)を捉えること(それを公開することを含めて)にまで貫徹させることを意味します。すなわち、「全面性」とは、「綱領」とか「過渡期世界論」などから演繹的な体系を自足的・自己完結的に展開することを批判・制約する意味をもっています。

 私たちが、共闘をめぐっても、この立場を重視したのは、共産主義運動上で、こうした意味での「全面的評価」を欠いたご都合主義が横行し、革命運動に深刻な打撃を与えてきたと考えるためです。その一典型例として、社会民主主義に対する共産党の立場をあげることができます。「同盟軍」としての全面賛美から一転して「日和見主義」と断罪するという「ある日突然」の転換が、国際共産主義運動でも、日本でも幾度も行われています。そして、共産党―スターリン主義を批判しているはずの左翼党派が、様々な運動に対して、全面的担ぎ上げから手のひらを返すような断罪に転じること(「全人民の先頭」から一夜にして「反革命」に転じることなど)も今に至るまで横行しています。

 党派間の共闘であれ、様々な運動との関係であれ、違う勢力の間では、積極評価面も、認識の違いや批判面もあることは当然です。この両面を常に明らかにして、そのときどきの情勢から、共闘が望ましいのか別個に取り組むことが望ましいのかを対外的に明らかにしながら政治的陣形を形成し発展させることが、共産主義運動の基本的な立場になるはずです。それを欠いて、組織事情によって、褒めあげたり断罪したりするようでは、闘争を通じた労働者や左翼の質的成長、相互信頼・団結の成長など不可能です。

 こうした理由で、私たちは、いかに共闘を組むか(組まないか)、それをめぐる諸勢力との共闘追求の討議を、政治闘争の重要な一環=内容そのもの(政治陣形形成)と捉えてきました。

 この立場は、基本的には正当であったと考えています(実際、的確に適用できたかどうかは、情勢や相手勢力の分析・評価がどこまで正しかったかに関わるので、これ自身の総括・点検は必要ですが)。

 しかし、この問題を、個々の政治課題から、党派分立克服などを含む党派関係全般に広げようとすると、ここで、「社会主義国家」や「スターリン主義」をめぐる対立がかかわってきて、壁にぶつかってきました。

 かつて、共産主義者同盟(紅旗派)は、“スターリン主義は正しいのか誤っているのかなどの論議を続けて党建設を遅らせることは許されない”と主張し、左翼諸党派の統合を主張しました。確かに、分立克服―統合を直接追求する立場をまじめに押し進めると、こうした立場に行き着くことになりますが、スターリン主義評価を後景化させた合流追求という立場には到底同意できませんでした。その結果、私たちは、左翼党派の分立・細分化という事態に対して、傍観的立場に立つことになりながら、それに疑問を感じる状態を続けてきました(『国際主義』16号、86年など)。

 それに対して、91年の「過渡期」論捉え返しによって、分立の「非和解性」を打開する論理上の一土台を得たことは、私たちにとっては、政治課題をめぐる共闘の追求(=大同団結主義的なものでなく、互いに共通面・相違面を把握した上で、政治的任務・課題との関係で検討し、思想闘争を伴うものとしての共闘追求)の立場を、左翼勢力の合流への活動にまで同じ論理で関連させることを可能にするという位置をもちました。

 私たちは、共産主義運動の分裂・分立を、共産主義運動全体の到達段階の歴史的限界下で、先進的・積極的要素が対立的に分有されることによって引き起こされた事態であり、したがって、その克服は、それぞれの積極的要素を発展的に合流させる創造的活動を通じて共産主義運動の歴史的制約を克服することによって実現される………という観点に至っています(『国際主義』24号「共産主義者の建党協議会」)

 これは、実践上は困難を多く抱える課題で、率直なところ、コム・未来では(多くの成果を得てはいても)失敗しています。
 また、左翼諸党派が、それぞれ一定の影響力を持っていたが故に、その党派闘争が運動に悪影響を与え、また合流による効果を多くの労働者が期待するというかつての政治状況と、左翼党派の直接的影響力が後退した現在とでは、分裂・分立克服をめぐる課題の性格が大きく変わっていることも事実です。現在、組織統一によって組織的物質力を直接強化するという課題は、必ずしも直面した課題とはなっていず、思想的・政策的な協同の切磋琢磨・練り上げと、そのための理論上・実践上の協力とが重点課題になっていると思われます。

 こうした諸評価の検討も含めて、私たちは、「展望」による既存「過渡期」規定の転換が、重要な土台の一つになっていると捉えています。
  
  (D) 組織論

 私たちは、党組織への考え方について、他の多くの左翼党派に対して、特に、以下の諸点を強調し重視してきています。

 (a)スターリン派だけでなく、その官僚主義を批判した新左翼系などの少なくない潮流が、同様の官僚主義に陥ったことを非常に重視し、その根本的克服を課題とする。

 (b)スターリン主義を「過度の集中制」と性格づけることに反対し、スターリン派の官僚主義的組織論は、大会への集中を欠いた「中途半端な集中制」であると把握する。そのため、分散主義や形式のあいまいさに「スターリン官僚主義」の克服方向を求める構造改革派などの組織論を批判する

 (c)「民主主義」と「集中制」とを相反する概念と捉え、党組織論を「民主」と「集中」とのバランスと捉える組織観を批判。これは、「民主」「集中」の概念として誤っており、また、この理解では、「集中的」行動が求められるときは「民主主義」の制限も当然(避けられない、等々)というスターリン派の党内民主主義制限を正当化する他はなくなる。

 ―――72年共産主義研究会結成以降、大体、以上の見解を共通させていますが、大きく分けて、3っつの異なる段階をもっています。

 @、72年〜75年。

「階級意識の段階論」(後述)に立ち、党組織内外の区分を厳格にする。『一歩前進、二歩後退』などの検討から、組織内民主主義の具体内容として(たとえば、フラクション活動の承認)スターリン主義的官僚主義克服を意図する。少数意見の保証や公表などは、少数見解にとっての「権利」という以上に、少数見解にとっても多数見解とっても、組織内外の労働者大衆に対する「精神的義務」と理解する必要など重視。しかし、中央指導部に際だった官僚主義を発生させ、党組織のあり方として限界・誤りを感じる(→75・76年、第6回大会、および3中委で転換)。

 A、76〜85年頃まで

 「階級意識の段階論」を、『なにをなすべきか』などを手がかりに克服・転換を図り、
革命組織の官僚主義・閉鎖性打破の課題は、「組織内」の問題・視点ではなく、無産者の主体形成(階級形成)の視点から捉えなければならないこと、たとえば、革命組織の党内論争公開(大会議事、その他論争などの公開)、少数見解の公表などの課題は、(組織内外を問わず)労働者大衆全体が、それを通じて、革命・階級闘争に対する理解を明瞭にし、成長させることを根本目的とするので、その基準から組織論、機構、運営などを具体化しなければならない、という視点を獲得・重視。
当時、三里塚実力闘争を始め、国家権力との実践的な大衆的対決重視。ここから、組織内外にわたる公開討議などの重視と戦闘行動の統一性との一体化を重視。

 また、当時スターリン官僚主義を克服するものとして、分散主義的・多元的組織論(またはその傾向)が左翼組織や市民運動で強まったが、これらは、権限を行使するが、責任を負わず点検を受けにくい「隠然たる指導部」を成長させるもう一つの官僚主義組織であると批判する。これらの組織のスターリン主義組織に対する「超集権主義」という規定を転倒と批判し、スターリン主義組織の官僚主義を「中途半端な集中制」であると規定。

 この組織論は、(a)スターリン派の官僚的・閉鎖的組織論への批判を、組織的・戦闘的な強力さを無視した構造改革派、社会民主主義などに向けることなく、追求する特徴を持ったが(これは、第二次ブントが革共同などに対して追求した方向でもあるが、第二次ブントの総括も含めてさらに追及を行った………『国際主義』26,27号)、しかし、その内容を煮詰めきれず、85年から、青共同内に二つの傾向を生み、混迷をしてゆく。

 B、IEG発足以後、特に95年頃から。

 〈展望〉の内容に基づいて、「政治」(=「政治的上部構造」)「社会」(=「法律的上部構造」)の上部構造の二つの領域での活動・闘いのそれぞれの独自性や相互関係を把握することによって、党組織が、この両面を包摂・反映する必要があること、そこから、党組織が、組織としての戦闘性と、組織内外を問わない広い結合、公開制などとを必要とする根拠を、つかみ取ってゆく。Aの時代に、レーニンが『なにをなすべきか』で強調する「広い政治意識」の正体が、この「政治」「社会」をめぐる意識であること、レーニンは、このことを実際活動上で鋭く把握していたが(『なにをなすべきか』第三章など)、それを社会観―革命観から基礎づけるまでにいかなかったため(『なにをなすべきか』での体制変革の説明など)、「広い政治意識」を理論的に根拠づけられず、その結果、この思想でボルシェヴィキを武装できず、また『左翼「小児病」』ではレーニン自身が狭い政治の意識に基づく党論に後退している。

 この思想は、「政治(革命)」「社会(革命)」との関係で、革命組織の要件について「政治革命における結束した推進者としても、様々に分節化された社会革命の媒介者としても、プロレタリア民衆が自らの影響力を政党として持たねばならない」(津村洋「革命プログラム討議項目への意見」『未来』No15、00・10・1)という表現に定式化されている。

 現在、私たちIEGは、少数の思想サークル的な段階を脱却できていず、その具体化や点検の条件は充分とはいえませんが、IEGやコム・ネットなどを、民主主義的で透明な組織活動として成長させる活動を組織内外の友人諸氏とともに進めながら、組織論・組織活動を練り上げたいと考えています。

 (E) 他潮流からの意見

 90年代前半頃は、私たちが強く望みながら、他潮流からの具体的な意見・批判などはほとんど出されていません。
 (80年代後半に、第四インター(ボルシェヴィキ派)《旧、革共同中核派(試練派)》から、具体的な評価と論戦の申し入れがあり歓迎したが、その後、回答がとだえています)

 「展望」については、共産主義者同盟(火花)の流広志氏から、『国際主義』に対して、具体的な評価・批判の投稿がされています。これに対して、私たちは、『国際主義』の停刊の時期で、回答を行なえていません(「画期的な『火花』流論文へのコメント」『国際主義』38号 2001年冬 新年号参照)。

 最近では、コム・未来時代の「プログラム討議」で、IEGの提起に対して、阿部治正氏が「めざすべき社会、それへの過渡期、社会変革の主体について」(『未来』17号、00・12・1)というIEG見解への掘り下げた分析、意見・批判を提出しています。 また、「政治革命先行説の検討」については、それを報告した00年の京都「土曜会合宿」の場でも、また、その後の『共産主義運動年誌』2号でも、多くの具体的な論点が出されています。

 流氏、阿部氏の見解、『共産主義運動年誌』の諸見解は、いずれも、革命理論の根本に関わる問題で、回答の容易なものとはいえませんが、これまでの回答の遅れを反省し、答えてゆく計画でいます(『共産主義運動年誌』での論議は、同氏号に投稿予定)。

                         (以上)


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