二川宿・宿場手控え
宿番号 33番
区間距離 1里17町00間
逓加距離 71里14町25間
総人口 1,468人
総家数 328軒
本陣 1軒
脇本陣 1軒
旅籠屋 38軒
 江戸から上ってきた東海道は、境川を渡る遠江国から三河国に入ります。この川は現在でも愛知県と静岡県と県境になっています。当時、八間の板橋であった境川橋を渡ると、東細谷一里塚のほかは立派な松並木が延々と続くだけで人家も少なくまったく淋しい所でした。国道一号となっている現在ではとても考えられませんが、中央分離帯の松並木によって、それとなく風情を感じることができます。
 新幹線や東海道本線の線路を越えると、東海道三十三番目の宿で、愛知県では最初の宿である二川宿に入ります。
 江戸から七十二里三町余りにある二川宿(豊橋市)は関ケ原の戦い(1600)の翌年に早くも宿として設立されましたが、交通量が拡大したため正保元年(1644)、二川村と隣の大岩村の集落が現在の場所に集まり宿場の規模を拡大したのです。
 この宿場には本陣が現存していますが、東海道で現存している本陣は、ここ二川宿と草津宿(滋賀県)だけだといわれるだけに貴重な財産といえます。
 現在、この二川宿本陣は、資料館として整備されており、門や、玄関、上段の間、土蔵、かまどなど江戸時代そのままの建物の内部が見られ、また新たに常設展示室も設けられるなど、当時の様子を身近に知ることができます。また、この本陣には貴重な三十三冊の宿帳も保存されています。
 二川宿は、そんなどっしりとした風格ある本陣のほか、現在まで変わらない細い道沿に建ち並ぶかつての旅籠、商家、農家などをしのぶ十数軒の建物が現存し、往時の賑わいぶりを伺うことができます。

本陣と旅籠に出あう宿


妙泉寺(二川駅から徒歩1500m)
  境内の紫陽花塚には、芭蕉の句碑があります。
「芭蕉翁 阿ちさゐや薮を小庭の別座敷」と刻まれています。
東観音寺(豊橋駅からバス〔細谷東行〕35分 小松原下車500m)
  境内には芭蕉の句碑があります。
「道のべの木槿は馬に喰れけり」と刻まれています。
本陣
  江戸時代には大名・公家・幕府役人などの身分の高い人々が宿泊したり、休息する宿泊施設を本陣と呼びました。寛永12年(1635)参勤交代制度の確立により大名の宿泊施設として利用され始めると、普通の旅篭屋とは区別され、当時の建築技術の粋を尽くした建物となりました。
脇本陣
  本陣の補助的役割を持つのが脇本陣です。本陣よりも劣るものの、旅篭屋とは異なる格式の高さを持っています。
当時の所在地は現在民家となっており、説明板が建てられています。
問屋場 (とんやば)
  宿場で人馬の継立や御用旅宿の手配をはじめとする業務を行う所を問屋場といい、宿役人の長が問屋と呼ばれていました。問屋場では飛脚業務もしており、幕府公用の品物や書状を運ぶのを継飛脚といい、最も重要な仕事でした。
二川宿には中町(東問屋)と加宿大岩町の中町(西問屋)の二ヶ所に設置されており、現在ではそれぞれの問屋場跡に新しい標柱があります。
旅籠屋 (はたごや)
  江戸時代以前、庶民は自分で米・漬物・銭などを携帯して旅行していましたが、江戸時代に入り、やがて宿屋が食事・菓子・酒肴などを用意する旅籠形式の宿泊方法が多くなりました。
平成17年より本陣隣の旅籠屋「清明屋」が一般公開され、大名の宿「本陣」と庶民の宿「旅籠屋」を同時に見ることができます。
岩屋観音 (JR二川駅から徒歩1300m)
 
天平2年(730)行基が諸国巡行の際に、岩屋山の景勝を愛し、千手観音像を刻んで岩穴に安置したのが起源とされています。
山頂に立つ銅製の聖観音立像は、明和2年(1765)下谷講中によって建立されました。現在の像は昭和25年に再建されたものです。