もう約1ヶ月前になりますが、劇場版魔法少女まどか☆マギカの前後編を見てきました。(後編は2回ほど)
人間てあんなに涙が流れるんだなと。
堪えるとか目が霞むとかそんなことは一切無くて。
あまりにも無抵抗すぎる。
そうする事が、そうなる事が当たり前のようにすすーっと。
そこに理由なんてないですよ。
だって僕のその涙には感情がなかったのだから。
いや、そうじゃあない。
感情がないんじゃあなくて、感情が思い当たらない。
寂しい、辛い、悲しい、苦しい?全部違った。そうじゃあなかった。
僕は単純に祈りたかったんだ。
彼女たちが報われますように、救われますように、笑顔になりますように・・・
気がつけば祈る代わりに涙を流していた。
それにようやく気づいたのはつい最近のこと。
そういうわけで、1ヶ月かかってようやく頭の中で整理がついてきたので文章に落としこんでおこうかと。
劇場版魔法少女まどか☆マギカとは
で、いきなりですがぶっちゃけおもろかったの?おもんなかったの?という所ですが、
はっきり言っておくと、
「んなもんわかんねーよお前」
って感じですかね。
この作品の性質を考えると、私が基本的にハッピーエンドが好みなのもあって素直に”面白い”とは言いがたい。
ただ、これだけは言えます。
”素晴らしい出来であった”と。
何が素晴らしかったって、梶浦ガーだのイヌカレーガーだの大小合わせて割とキリがなかったりするんですが、元は約2年も昔の作品。
今更も今更ですよ、そんな羅列にもはや意味はない。
ただ、そんな中でもどうしてもこれだけは挙げておくべきでしょうと思ったポイントが2つありまして。
1つ目は、巴マミが死ぬ前の一連のシーン。
2つ目が絶望した暁美ほむらの元に鹿目まどかが駆けつける一連のシーン。
これらのシーンに共通して言えるのは、上げて落として、落として上げての王道とも言えるべき展開を成しているということ。
1つ目に関して。
一人孤独な戦いを強いられていた巴マミ。
彼女は今までどれだけ辛く寂しい想いをしてきたのだろうか。
そんな中、後輩である鹿目まどかによって肯定され、更に一緒に戦ってくれるという。
それを受けてのモノローグ。
体が軽い・・・こんな幸せな気持ちで戦うなんて初めて・・・もう何も恐くない━━━!
そしてこの時ですよ!
彼女のテーマソング?をバックに、マスケでのスタイリッシュなアクション。
キャラ・音楽・映像とまさに三位一体の上げシーン。
それはもう怖いぐらいに入念に積み上げて、そして次の瞬間あっけなく崩壊させるんですね。
完成されてるなあと。
2つ目に関して。
暁美ほむらは魔女ワルプルギスの夜との戦いに一人で立ち向かい、この時間軸においても破れてしまう。
この時においても、いつもしてきたようにまた過去に戻ってやり直そうかと思った間際、一つの事を思い出す。
鹿目まどかが最強の魔法少女たる素質を秘めてしまったのはもしかすると自らの能力のせいなのかもしれない、と。
鹿目まどかを守りたい、鹿目まどかを(魔女になることからも)救いたい。
希望を失っている暁美ほむらはそれだけが道標であった。
しかし、自分が救おうとすればするほど、鹿目まどかは残酷な運命に引きずり込まれていく。
その矛盾に耐えられなくなり、絶望する訳ですが、そこで鹿目まどかの登場ですよ。
なんだこの完璧な展開はと。
もうそれしか言えないですよ。
魔法少女まどか☆マギカという作品はその衝撃力から度々、びっくり箱だの、飛び道具だのそんな事を言われていたかと思います。
しかし、実際の見せ方はもはや王道そのものなんですよね。
ヒーローが遅れて駆けつけて仲間を救うなんてのは最たるものじゃないですか。
(対立?していた佐倉杏子が仲間?になるなんてのもまさにそれ)
ただまぁ僕が本当に心震えたのは暁美ほむらがが絶望するまでの過程の、美しいとまで言える説得力ですかね。
映画も後編に突入して半ば視点を暁美ほむらに切り替え、想いや覚悟の強さを表現してからのこれですから。
先程も述べたように、上げて下げて、下げて上げての流れが恐ろしいほどに綺麗で、もはや圧倒されてしまいましたねえ。
もちろんこれだけの上げ下げはどの作品においても出来るわけじゃあなく、
仮に出来たとしても舞台が整ってない限りは何の意味もない訳で、それを整え成功させたこの作品は素晴らしいのではないでしょうか
その魔法少女はこんなにも一人の少女を救えない
長くなったので一旦整理しましょう。
魔法少女まどか☆マギカという作品の主人公は暁美ほむらであり。青や黄色や赤の三人衆は準ヒロインでしかなく、もはやモブなんです。
そしてその前提を確認した上でようやくここでタイトルについて触れます。
『その魔法少女はこんなにも一人の少女を救えない』
ここでいう魔法少女とは暁美ほむらであり、鹿目まどかであるし。一人の少女とは鹿目まどかであり、暁美ほむらであると言えます。
魔法少女である暁美ほむらは、鹿目まどかを(魔法少女になるという事から)救えなかったし、
魔法少女になった鹿目まどかは、自らのために戦ってくれていた暁美ほむらを救えなかったのである。
鹿目まどかだけを見ていた、少なくとも鹿目まどかだけは救いたかった暁美ほむらに対して、
鹿目まどかは皆を見てしまったんですね。
どうしてそんなすれ違いが生まれてしまったのかって所にもやっぱり理由があって、『いい子である、優しい子である』事を表現するためにこそ鹿目まどかの母親が何度も登場したんでしょうね。
ただ、それだけじゃあすれ違う原因には足りなくて、ここに鹿目まどかの魔法少女としての力の強さが出てくるわけですよ。
なまじ力があるだけに取れる選択肢が広がりすぎてしまった。
皆を救える力を持ったばかりに、暁美ほむらを救うことができなかった、と。
で、その力を持つことになったのはおそらく暁美ほむらの能力が原因ではないか、と。
どう思考を繰り返しても出口に辿りつけないんですよねえ。悔しいほどよく残酷に出来てますよ。
最後に、残酷ついでにもう一つ。
最も残酷なのが劇場版まどか☆マギカのOP映像だと思いますね。
繰り返しになりますが、よくもまああんな残酷なものが作れたものだと。
内容は、鹿目まどかのこれまでの”人”生を連想させるものと、
おそらくですが、ついに叶うことのなかった「暁美ほむらの願望」を映像にしたものなので。
あれを真顔で作れるからこそのプロなのかなあ
余談

①まどかがヘッドバット→②驚きながらもやり返すほむらと、くすぐったそうにするまどか→③
そう、CMじゃあこの③のシーンがカットされてるんですよ!!!
このシーンこそを映画館で見て欲しいですねえと思う次第ですねえ。
(多分製作も狙ってカットしたんだろうなあと・・・ぐぬぬ)
ちなみに③のシーン自体は、二人で幸せそうに微笑むシーンです。
あと、今回の記事は公式設定等のアニメ以外の情報を一切取り込まずに書いたので、
TV版を7話までしか視聴せず、映画版だけを見たという幸運にも特殊な環境から書けたものだと思っています。
終わり。
余談の余談