イラク「復興支援」とテロ
2003年11月29日、日本人外交官がイラク北部のティクリート付近で殺害された。おそらくイラク人によるテロなのであろう。この事件をうけて小泉首相は「テロに屈服はしない。これからも断固として闘う」という態度を表明している。

「日本人である」こと「だけ」を理由に、武器をもたず攻撃の意図もない文民が殺害されるということには理不尽なものを感じる。だがいたずらに「テロに屈服はしない。これからも断固として闘う」と威勢よく吠えるのは1国の首相としていかがなものか。
それは例えは悪いが、ギャンブルで負けた後「絶対損はしない。勝つまで賭けを続ける」と宣言するに似ている。
そうではなく、テロをどうして受けるのか、その原因を考えるべきではないのか。

日本政府には国民の生命と財産を守る義務がある。だから原因を考えずに文民・自衛隊員を問わず既定方針としてさらにイラクへ人を送ることは、人命を軽く見、その義務を放棄することになる。
日本政府は過去に「人の命は地球よりも重い」としてハイジャック機に人質としてとられた乗客の安全を優先して既に収監され刑も決まっている「テロリスト」を超法規措置として釈放したことすらあるのである。それは義務の果たし方のひとつの考え方であった。

なお日本人が殺害されたということは他国の人が殺されたことと同じく「ひとりの人間の死」であるが、ここでは日本政府の考えるべきことは何かという意味であえてこの問題を考える。

そもそも「復興支援」とは何か。それはアメリカのエゴによる戦争の結果、破壊されたイラクの復興である。外務省によれば国連が安保理決議でイラク国民に対する支援を要請し、それに答えて支援するということである。具体的には2003年5月22日の決議第1483号によるものである。イラク政府からの要請によるものではない。しかもそれは米英を主体とする占領軍による復興支援の補助であり、国連主体によるものでもない。

いうまでもないがイラクは政府を破壊され、アメリカによって占領されている。原因がイラクにあれば、イラク国民も占領に納得したかもしれないが、そうではない。もちろんフセイン政権には問題があったであろう。だがそれはアメリカ軍によって政府のみならず国土が破壊され、国民が殺される理由にはならない。「復興されなければならないイラク」を作ったのはアメリカである。ちなみに前掲外務省HPではイラクの疲弊の原因はフセイン政権による四半世紀の支配によるものとしか書かれていない。

そしてそのアメリカに全面的に協力をすると世界に宣言しているのが日本である。
状況がこのようであれば、親フセイン政権のグループはもちろん、場合によってはそれに反発していたイラク人でさえ、反アメリカ及びその同盟国になるのは理の必然である。

壊したら、壊した人・組織・国が再興するのは義務であるが、それは壊された人・組織・国の望む形で行われるのがあたりまえのことであろう。しかし実際にはそうなっていない。壊した側が−イラクはこう望んでいるだろうと考えることはあるだろうが−自分の考えるように破壊された施設を直しているだけである。そのやり方への反発の表現がテロである。だからテロをうけたらどうしてテロの標的になるのかを考えなければならないのである。それなのに、テロをおこなう組織に反撃したり、その壊滅をめざしているのがアメリカである。

そもそもテロとは何か。戦争とはどう違うのか。広辞苑やCODをみるとその定義は要領をえない。テロは「武力などを用いることによって恐怖を与え、国や地域に自分の思うような行動をとらせること」、戦争は「武力を用いた主に国同士の敵対」という具合である。

不幸にも戦争は、大規模な殺害を伴うためにそのルールがつくられるようになった(守られるかどうかは別として)。それが可能なのは国という交渉主体がはっきりしているからだろう。しかしテロは主体が非合法組織であること、殺害の規模が戦争とくらべると小さいことなどから、ルールがつくられていない。また、最小の力で最大の効果をあげるために闘争の現場を日常の場に求めることになる。

人々は戦争による殺害であれば、被害者がテロの犠牲者とくらべて桁違いに多くてもなぜか感情的には「戦争だから仕方がない」と反応するのに対し、テロによる殺害であれば安全であるべき「日常社会の破壊者」とレッテルが貼り「やり場のない憤りを覚える」とか「絶対に許せない」と表現する。その反応の違いはどこにあるのか。

前者の背景にはまず第一に「戦争は戦場に限られるはず」という間違った想定がある。第二に他国の戦争や戦闘のことを考えられるのは実は余裕のある人であり、自らは戦場におらず、将来もいる「はずがない。」さらに戦争による死者は、その数が日常的にはありえないほど多い。その結果、戦争による惨劇は「想像外」のこととなる。つまり「自分とは関係がない」問題となり、「自分の問題として考えられない」のである。

他方、後者は日常の場に出現し、被害者の数も限られがゆえに想像の範囲内である。さらにテロは無差別なものが多いという(過った)想定があり、自分が被害者になるかもしれないので自分のこととして考えられるのである。だからテロは許せないという主張は容易にうけいれられる。もちろん私もテロは許されるべきではないと考える。

しかしそこで考えることをやめてはいけない。

戦争は国同士の大規模な闘い、テロは日常生活に出現する殺害という違いはあるかもしれないが、戦争は戦場に限られることがないのは常識であり(日本も経験済み)、戦争をすればその国の日常に爆弾が落ちてくる。その結果はテロとはくらべられない程の大量殺戮である。戦争は国家による大規模なテロともいえる。

したがって「テロを根絶する」というのであれば、戦争をやめなければならない。戦争によりテロをなくそうと考えるのは本末転倒である。戦争は大規模テロなのである。

日本政府が国民の生命・財産を守る義務を果たすためにできること、それはイラクへの派兵をやめ、イラクの正統性ある政府による要請がないかぎり復興支援をおこなわないことである。

現在の「復興支援」とは戦争に関連して(国民を欺くために)よくつくられる国家による言葉遊びの変種に過ぎない。「テロとの闘い」とは「戦争をおこなう」ということであり、「安全保障」条約とは「軍事」条約であるのと同じく、「復興支援」とは「アメリカによる戦争の続き」でしかない。少なくともテロを組織する集団にとってはそれ以外の何ものでもなかろう。実際、復興支援目的で派遣されているアメリカ軍は、「テロとの闘い」との名目で多くのイラク人を殺してる。

自衛隊は派兵計画によれば病院、学校を作ったり水道設備を整えたりすることになっており、それ自体は戦争とは何の関係もない。だが、攻撃をうけたら反撃するに決まっている。その段階で相互に憎悪の感情がうまれる。それは(ちゃんとした)戦争につながる。そこまでいかなくても、自衛隊による「復興支援」はアメリカによる戦争に対する協力にすぎず、すくなくとも「テロリスト」にはそう見えるのである。

日本人外交官の殺害は許されざるべきことであり、関係者にはまことにお気の毒なことである。

だがこれを「日本のために死んだ」と考えることは「お国のために死ぬ」ことが美化されたあの時代に戻ることになる。実際そうなりそうな動きがある。読売新聞によれば「政府は2日、首相の特別褒賞制度をイラクの復興支援活動従事者に適用する方針を固めた。現地に派遣される自衛隊員だけでなく、警察官、海上保安官や民間人が死亡した場合などにも、功労を表彰し、特別褒賞金として最高1000万円を支給する 」とのことである。

「報償」ならわかる。国の命令により命を失ったことにたいし、報いて償うのだから。でも「褒賞」である。
「褒賞」とは広辞苑によれば「ほめること。ほめる意を表すために与える品、褒美」を意味する。
つまりお国のために死ぬことが特別にほめられることなのである。

「テロで自国民を殺されたから派兵をやめる」というのは「テロの圧力に屈することである」「弱腰である」「なさけない」と考えるのが政府主流の考え方のようであるが、それは根本的に間違っている。
「復興」のために軍隊を送ることがそもそもおかしい。派兵をやめ、他国もそれに習えば、それこそがイラク平和への道であり、日本の平和主義が世界から評価されることになる。イラクへの手助けが必要であり、それをイラクが望むのであれば、テロの標的にならない形でおこなえばよい。

イラク戦争でアメリカを支持すれば日本人がテロの対象となることはすでにわかっていたことであるし、殺されたご本人もテロの標的になっていることを認識していた。にもかかわらず、それを防げなかった日本政府の責任は重い。この死を無駄にしないためには、「テロと断固闘う」と叫ぶのではなく、これ以上不必要な死者を出さないためにできることをすべきである。

チャプリンは映画『殺人狂時代』(1947年)で主人公につぎのように語らせている。

「もし一人の人間を殺せば、それは人殺しになる。だが数百万の人間を殺せば、英雄としてほめたたえられる。・・・この世界で成功するためには、組織的にやりさえすればいいのだ。」

これこそがテロと戦争の違いである。これこそがアメリカのやっていることである。

テロの標的になったことの意味を考えること。それが歴史から学ぶということである。

(2003年12月2日)


最近考えることへ戻る

吉田のページへ戻る
 

ご意見、ご感想はこちらまで