まず、田中眞紀子文科相の「ちゃぶ台返し」で問題になっている新設大学がどうなのかということはなんら語る資格もなく、また田中眞紀子文科相ももっと違うやり方があったかもしれないということは置いておくことを断っておきます。考えなければならないのは筋論の問題です。しかし、今回の田中眞紀子文科相へのマスコミから巻き起こっているバッシングともいえる批判はまったくものごとを決める筋道を無視しており、目に余ります。
大臣が最終的な認可権を持っているとすれば、「ちゃぶ台返し」はとうぜん認められるべきもののはずです。むしろ問題にしなければならないのは、文科省が最終の認可を得る前に、法人を指導して、校舎まで建てさせてきた「裁量行政」のほうであり、また大学を急増させ、質の低下をもたらしてきた教育行政のあり方のほうです。もし大臣が認可権を持つことが間違っているとすれば、その手続きや権限のあり方を批判すればいいのです。すべて官僚に任せればいいと。
さらに、マスコミが巻き起こしている田中文科相バッシングも、昨今の大学は、マスコミの人たちの天下り先にもなっている現状を考えると、自分たちの利権は、なんとしても守り通すということなのかとすら疑ってしまいます。
また慣例を破ってはいけない、慣例にしたがって粛々と印鑑を押していれば良いというのなら、マスコミが主張していた政治主導とはなにだったのでしょう。大臣が最終の許認を行なうというルールと、慣例もひとつのルールだとして、つねに慣例を絶対的なルールにしなければならない、それを覆すことはルール違反だとすると、大臣は必要がありません。
その決定がいかに理不尽であったとしても、ルール違反だから駄目だというのは筋が通りません。主張するのなら、それらの新設の3大学かいかに必要であり、開校する社会的意義があるのかで反論すべきでしょう。
たとえば、民間の企業で考えてみましょう。工場などへの投資がトップの決裁事案だとします。普通はそうです。経営が傾いていた会社で、その再建をしたいと思っている人が社長に就任しました。しかし、就任してすぐに、巨額の赤字を抱えている事業部の人たちが、社内手続きにそって、新規工場建設計画を進めてきた、設備までつくったので、もう後戻りできないので承認してくれと決裁を求めてきたのです。
しかし新社長は、駄目だ、トップの承認なしに工場をつくってしまった、人まで雇ってしまったことはルール違反だ、だから承認できないと決裁印を押すことを拒んだのです。
現場は慌てました。それで、これまでは事後承諾で決裁をいただいてきた、その慣例にしたがって、社内手続きを踏んで工場を建てたにもかかわらず、決裁しないことはルール違反だ、これでは業者からの訴訟も起こってくる、新社長はひどい人で人間性も疑うとマスコミを使ってキャンペーンを張ったのです。マスコミもそれにのって、面白おかしく新社長批判をやったとしたらどうでしょう。
そんな会社はさらに赤字を膨らませ、きっと経営破綻します。しかも安易にキャンペーンに乗ったマスコミの罪も重いはずです。
この手続き論が結構重要だと思います。慣例も確かにルールです。しかし正規の手続きのルールもあります。もし慣例が絶対的に優先するルールで、意思決定を行なうべき人はそれを承認するしか無いとすればどうなりますか。それはリーダーの存在を認めない、今回のケースでは大臣の権限を認めないというのと同じです。大臣は官僚のやることを事後承認で判を押していればいいという理屈になってきます。
日航がそうだったといいます。予算さえつけば、どんな事態が起こっても、その予算を使うのが現場の権利だというのが慣例となっていたといいます。その慣例を変え、月次決算を導入し、採算を考えて、経費についても吟味するようにしたために、赤字が止まったのです。
ところが政治の世界では、それがまかり通り、マスコミが現場の事情、慣例を無視したと大臣をバッシングするのです。それでは政治改革が進まない現状を批判する資格はありません。官僚の裁量行政が絶対正しい、馬鹿な政治家は官僚のいうがままをやっていれば良いと主張しているのです。
もし批判が認められるとすれば、次のケースです。文科省が大臣を無視して勝手に計画を進めていたのではなく、これまでの文科相に、根回しを行い、そのコンセンサスのもとに進めてきた場合です。しかしそれならそれで、対処のしようはあるはずだし、また違った展開になっていたと思います。
田中眞紀子文科相を批判するのは自由だとしても、文科省の「裁量行政」を批判しない、そうして官僚と一体となって政治家を抹殺していくというのでは、なにかの利権構造に異を唱えることを許さないということです。それは、かつて百姓一揆を起こすと、その首謀者の首が切られるというのと同じことです。
事態は落ち着くところに落ち着くでしょう。田中眞紀子文科相が、少子化のなかで、新設大学が異常に増え、大学の質の低下や経営難を問題にする気持ちはわかりますが、大学も当然淘汰や新陳代謝があって質の向上もはかられるという視点も必要かと思います。しかし、それと今回の「ちゃぶ台返し」の問題は別です。
文科省は、専門学校を大学に昇格させ充実をはかろうとしているのでしょうか。ただの利権でやっているのでしょうか。あるいは、今後、経営が成り立たない大学が急増してくることは目に見えていますが、文科省は、それを市場の原理に任せ、大学の淘汰を進めようとしているのでしょうか。
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