「ストーリー311」。
すべて、漫画家が取材した、被災地の人たちの体験を描いています。
第1作として発表された漫画の主人公は、津波から逃げる26歳の青年です。
南三陸町にある魚屋で働いているとき、地震にあいました。
その主人公、山内克也(やまうち・かつや)さんは、震災当日、車で逃げる途中で、大勢のひとに助けられたといいます。
山内克也さん
「電柱が斜めに傾いて、こうなって電線がこういう感じになった。
それをおばちゃんがばっとあげて、『早く通りなさい』って。」
山内さんが一番記憶に残っているのは、津波がくる直前、親友と出会った場面です。
「のりちゃんなにやってんだよ。」
「テレビだけでも上げとこうと思って。」
海に近い自宅から、家具を運び出そうとする友人に、一緒に逃げようと声をかけました。
しかし、その場で友人と別れた山内さん。
その後、津波は、町全体を飲み込みました。
2か月ほどたって、遺体となってみつかった親友。
山内さんは、そのことで自分を責め続けていました。
山内克也さん
「『俺は俺で逃げる』って、それを信じてしまったがためにあのとき手をひっぱって無理やりにでも私の車にのせていれば、いまも一緒に毎日を過ごしていたんじゃないかな。」
辛いけれども、忘れたくないこの日の記憶。
それが漫画として描き残されたことで、親友の分まで生きていこうと思うにようになったといいます。
山内克也さん
「忘れてしまう恐怖感というか、すごくあるんです。
でもそれが絵として現れることによってまた新たに気づかされる。
すごく感謝しています。」
この「ストーリー311」を立ち上げた漫画家のひうらさとるさんです。
発行部数400万を超える「ホタルノヒカリ」。
働く女性の恋愛を描いたこの作品は、映画にもなりました。
被災地のために何かしたいと自ら訪れたひうらさん。
ひとりひとりの体験談に耳を傾け、漫画にする決意をしました。
漫画家 ひうらさとるさん
「その時のリアルな空気が絵で伝わればいいと思う。
それができるのが、私たちは漫画が一番得意なので、普通の人の小さなストーリーがあったんだというのを感じてもらえればいい。」
ひうらさんの呼びかけに応えたのは、11人の女性漫画家たち。
毎月1回、インターネットで発信され、若い世代を中心に関心が集まっています。
こうして描かれた漫画は、被災地の人たちも勇気づけています。
そのひとり、村尾沙織(むらお・さおりさん)です。
仙台市の沿岸部で暮らしていた村尾さんは、自宅のあった地域が居住禁止となり、いまも帰れずにいます。
漫画に描かれた、自分と同じ体験をした人たちの姿。
過酷な避難生活のなかでも、「ありがとう」と、感謝して生きる人たちの姿に感動したといいます。
村尾さんは、漫画を通して、同じように被災した人たちとつながっているように思えました。
村尾沙織さん
「同じ人がいるのは、ひとりじゃないとすごく励まされる。
安心しますね、私だけじゃないって。」
震災の記憶を風化させたくないと始まったこの取り組み。
一方で、ひうらさんは、その重い体験を伝えることの難しさに直面しました。
今月、ひうらさんが描いたのは、福島県で被災した女性教師のエピソードです。
小学校の先生をしていた30代の女性は、震災後も放射能の影響が続く現場で教壇に立ち続けています。
ひうらさんは、当初はこうしたデリケートな問題をかくことに戸惑いもあったといいます。
なかでも、重く受け止めた女性のある言葉。
どう伝わるのか、悩んだ末に漫画にしました。
「私自身はもう出産を考えていない」というものでした。
漫画家 ひうらさとるさん
「普通に子どもを産んで育てているかたもいっぱいおられるのに、こういう風に言われているかたがいますよと私が表現することによって、傷つくかたも、責められていると思うかたもいるだろうなと思って、被災地のかたに元気になっていただきたくて描いているのに、傷つける結果にならないかってすごく考えて、考え込んでしまって。」
漫画を発表したあと、インターネット上で、うれしい反応が寄せられました。
「いい漫画を読ませていただきました。」
「先生の覚悟が伝わってきました。」
「主人公の先生と違って、私は産むことを決意し、先週出産しました。」
「何が正しくて、何が間違っているのかもわかりません。
これが福島で生活することだと感じています。」
漫画家 ひうらさとるさん
「私が伝えたいことは伝わっているんだなという感じはして、うれしかったし、ちょっとほっとしました。
柔らかく深く伝わる力が漫画にはあるんじゃないかと思って、やってみてよかった、もっと続けたい。」
阿部
「この短編の漫画は、すでに5本発表されていて、来年3月には、単行本として出版されます。
収益の一部は、被災地に寄付されることになっています。」
鈴木
「漫画を描いたひうらさんは、小学校の図書館においてもらうなど、震災の記憶を長くとどめて欲しいと話していました。」