ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち
この本は任天堂創業から93年始めまでの間の任天堂を取り巻くさまざまな出来事を追っていき、新しい人物名がでるとその人物を掘り下げていくという形式になっています。もちろん中心はファミコンの成功となるわけですがそこには様々なドラマがあるのでした。
目次はこのようになっています。
1、新しいリーダー・・・任天堂の紹介
2、天の御手に身をゆだねて・・・ファミコン登場までの任天堂の歴史
3、おいらはマリオ・・・最強のゲームソフト、スーパーマリオのできるまで
4、マザーブレインの中で・・・その後のファミコンの動き
5、アメリカ進出・・・NOAができるまで
6、掌に一杯のコイン・・・アーケードゲームの話
7、運命の逆転・・・アタリの話
8、竜の登場・・・ファミコンの普及する過程が書かれている
9、クリスマスを盗んだ怪物・・・ファミコンを始めとした任天堂製品がクリスマスのプレゼントを独占してしまった。
10、ゲームマスター・・・ナムコ、コナミ、カプコン等のファミコンの中心となる企業の話
11、大いなる眠り・・・アタリ訴訟について
12、ゲーム・オーバー・・・コピーカートリッジの話
13、ロシアから愛をこめて・・・テトリスの誕生
14、<テトリス>の歌・・・任天堂がテトリスを発売するまで
15、ソニック・ブーム・・・メガドライブ(ジェネシス)について
16、国境・・・ゲームにおける国境の話
と、全部で16章構成になっています。
とりあえず任天堂がどういう会社かを解ってもらわないと話が始められないので任天堂について説明をします。
任天堂とは工芸家であった山内房治郎が明治22年(1889)に創設した花札製造販売会社の名前で、当時は任天堂骨牌という名前でした。その名前の由来は”一生懸命働くが、結局最後にはその成否を天の御手にゆだねなければならない”と言うそうだ。花札の材料となる紙はミツマタの樹皮を叩いてほぐし粘土を少しまぜて重くしたものを漉いて乾燥させ、それを何枚か重ね合わせて書物の表紙ぐらいの厚みをもつ固い板紙に房治郎が自ら作った木製の印刷器を押し当ててカードの輪郭を打ち出してそこにステンシルを当てて花びらや果実で作ったインクで図柄を埋めていたので色の境目が少し混ざりあって滲みいかにも手作りという感じがしていたようだ。
任天堂の花札は京都と大阪の支店で販売されていたがそれらの地域で最も人気の高いカードになったので地域別に違ったシンボル(絵柄)を描いたカードを作って売ることになったが花札はあくまでも家庭向きの遊びだったのでビジネスが大きくなることもなく、収益も伸びなかった。しかし、花札がギャンブルに利用されるようになってプロのギャンブラーが一度使ったものを2度使わないことから任天堂の収益はどんどん伸びていった。
1907年になって任天堂は国内で最初の西洋式のカード(トランプ)の販売をはじめた。しかしそれによって流通経路の拡大を余儀なくされ、日本専売公社(今のJT?)と交渉して全国のタバコ屋で売ってもらうことにした結果、房治郎が隠居するころには任天堂は日本最大のカード会社になっていた。そして、跡継ぎのいなかった房治郎は金田積良という男を婿養子にし、任天堂の二代目社長にした。
1933年、山内積良は山内任天堂という新会社を設立し、1947年にはピナクル(よく知らない)とポーカー用のトランプを販売するため「丸福」という卸専門の子会社を創った。この会社は特別に編成された営業部隊が手分けして日本全国に散在する大小の商店を軒なみ歩いてまわった。そしてトランプの生産性を上げるために作業員をグループにわけて生産ラインを構築した。その結果任天堂の経営はきわめて効率的になったが厳格な社内体制が出来上がったために部下の扱いはひどいものだった。
しかし生まれてくるのは娘ばかりだったので長女の君が工芸家の家に生まれた稲葉鹿之丞を婿に迎え、積良が引退後は山内鹿之丞が三代目の社長になることになった。そして1927年、鹿之丞と君の間に子供が生まれた。それが後に任天堂を変えることになる山内博(字が無い)だった。博が5歳の時に父は家を出て行き、君は離婚の手続きをして博を両親に預けた。しかし祖父母が任天堂の経営方針と同じ厳しさで教育をしたために博は反発して祖父母を無視する生活を続けた。そして母親は叔母さんのような存在になっていた。
博が21歳の時に祖父が死の床につき、任天堂の社長となることになった。その時に博は3つの条件をつけた。その目的は山内家の者で任天堂で働くのは自分ひとりでいいということだった。それによって自分は唯一の後継者であることを疑いの無いものにしたかったのである。父は気弱になっていたのでその条件を呑んで山内博を三代目の社長にした。しかし山内社長は若かったので任天堂の従業員に疎まれていた。そして彼は祖父の代から働いている任天堂の過去を知る者を容赦なく切り捨てていった。
1951年、社名を任天堂カルタに変更し、1953年に日本で初めてのプラスチックでコーティングしたカードの製造を始め、1959年にはウォルト・ディズニーとライセンス契約をしてカードの裏にディズニーのキャラクターを使った「ディズニー・トランプ」を作ったことで若い人や家庭を取り込むことに成功し、テレビコマーシャルも作られた。そして新しい流通システムを構築して大きなデパートや玩具店にトランプを売り込んだことでその年だけで6000万パックを売り上げることができた。しかし、どんなに努力をしたところでアメリカからの輸入品に勝てるわけもないことからこれ以上の成長の余地はなかったのである。そこで山内はさらなる飛躍のために新しいビジネスの進出を目論んで社名から”カルタ”を削り取った。これが今現在まで続いている「任天堂」の始まりだった。
任天堂とはこうして出来た会社だったのです。
生まれかわった任天堂が最初に手がけた製品はお湯を注げばすぐに出来る即席ご飯「インスタントライス」というものでしたがどういうものだったかは解りませんが見事に失敗してしまいました。次に部屋を時間貸しする「ラブホテル」というのを作った。そしてもう一つ「ダイヤ」というタクシー会社を作り、その会社は好調だったが運転手組合との交渉に嫌気がさした山内はこの2つをやめてしまった。
そして次なる事業は任天堂が持つカルタの流通システムを有効に利用できるものにしたいと決めていた山内は任天堂のルーツはエンターテインメントにこそあるものなのでその他のタクシーやラブホテルには一切手を出さない事にした。こうして任天堂は現在のような方向性になったのである。
ゲーム部を創設した山内はゲーム部にいた横井軍平(後にゲーム&ウォッチ、ファミコン、ゲームボーイ、ワンダースワンを作った業界では神のような人物)にクリスマス向けの新商品を開発するように命じた。そして先端にハサミがついた木製のマジックハンドを発明した。それは見事に商品化され、「ウルトラハンド」として売り出された。一個800円したこの商品は120万個も売り上げた。その後も横井は発明を続け、ピッチングマシーンの玩具版として「ウルトラマシーン」が1973年に発売されそれはその後3年間年に70万台ずつ売り上げた。自動焦点の潜望鏡である「ウルトラスコープ」という商品も発売された。これらはウルトラシリーズと呼ばれた。
次に任天堂が作ったのは光線に反応するターゲットを備えた光線銃でこれは全くの偶然から生まれたものだった。太陽電池を売り込みに来たシャープの上村雅之が横井軍平と話していたときのことであった。その頃横井は山内にラブテスターを超える電子玩具を開発せよと言われていたのだった。ラブテスターとは男の子と女の子がそれぞれテスターのハンドルを片手でつかんで空いたほうの手を握りあうと両者の間に流れる電流がメーター表示されてその2人がどれぐらい愛し合っているかがわかるものだった。もちろんこれに科学的な根拠は無く、手を握りあうということがなかった日本文化にそれを積極的に持ち出してやることで公然と手を握りあえるようにしたというものである。2人の話し合いの結果、太陽電池を応用すれば面白い商品が作れるという結論に達し、横井は上村を引き抜いた。そして、太陽電池を小型化して光を探知するセンサーとして利用する射撃ゲームを思いついたのである。弾丸は細い光でその光が太陽電池に命中すると回路に応じて太陽電池は電気を発生させるか切ってしまう。これをいろいろなパターンで作っていったのである。その結果1970年に発売された光線銃は数年間で100万セット以上を売り上げた。こうして任天堂は急速に成長して会社の場所も現在のところになった。
光線銃の技術が他にも転用できると思った横井はボーリングブームが去って閉鎖してしまったボーリング場を使ってレーザー・クレー射撃場を作った。1973年のことで多くの都市で娯楽としてもてはやされた。翌年には「ワイルドガンマン」が登場しとどこの射撃場も大いに繁盛していたが第一次オイルショックによって人が寄り付かなくなり、任天堂は倒産の危機に陥った。
山内はこの状況を打開しようとしてあたらしい製品のアイデアを探し始めた。そしてビデオゲーム機に興味を持った山内は三菱電機と組んで1977年に「カラーTVゲーム6」をその後に「カラーTVゲーム15」を発売し、どちらも100万台売れた。しかしこれらは現在で言う「ゲーム」とは程遠く、そのため山内は技術陣に新しい方向性を探らせた。その結果、古いアイデアを全て捨てて当時ブームだった電卓を取り入れた「ゲーム&ウォッチ」が誕生した。しかし当時ビデオゲーム・ビジネスを支えていたのは「スペースインベーダー」のような人気ゲームであったので山内は任天堂をゲームセンターの王様にしようとした。そして生み出されたのが「ヘリファイア」(自機の潜水艦を使って敵の船やヘリコプター部隊を倒すゲーム)、「シェリフ」(保安官が自分の周りを囲んでいるならず者を倒していく西部劇のようなゲームで独特の操作方法が難しい)、「スカイスキッパー」(飛行機に乗って王様たちを助けに行くシューティングゲーム)、「レーダースコープ」(ギャラクシアンタイプのシューティングゲームでこれがアメリカで大量に売れ残ったためにドンキーコングは作られた)といった新しいゲームだった。
そしてその次に取り組んだものこそ、任天堂の最大のヒット製品「ファミコン」だった。
1983年当時、日本の市場には様々なメーカーのゲーム機が出回っていた。
アタリの2600、コモドアのマックス・マシーン、エポック社のカセットビジョン、バンダイのインテリビジョン、タカラのゲーム・パーソナル・コンピュータM5、トミーのぴゅー太、そしてカシオとシャープのMSXがあった。結果的にファミコンはこれらのゲーム機全てに勝利することになった。しかし、それまでには多大な苦労があったのだった。
山内が上村に下した命令は少なくとも他者が一年は追随できないものでしかも目標となる値段は9800円というものを開発することだった。それはそのマシーンを多くの家庭に普及させるためであった。そして研究開発を行った結果、製品化には外部の企業の協力が不可欠だと考え、多くの企業と提携していった。山内はコスト削減のために余計な装置を一切省いていったがCPUに無修正のシグナルを送ったり、それから受け取ったりできる回路とコネクターだけは必ず実装するように指示した。コネクターを付けたのは将来の拡張のためであった。そして、コントローラーの細部に対する山内のこだわりにはすごいものがあった。ボタンは1つか2つかそれ以上か?角は丸くするか角ばらせるか?色は何にするべきか?外見をコンピューターらしいものにするか玩具らしくするか?その結果できたものが右手のコントローラーにはABのボタン2つと方向指示の十字キー、左手のコントローラーにはそれに加えてプレーヤーがシステムに話しかける時に使う単純なマイクロフォンが付いた誰もが知っているあのコントローラーである。ゲーム機自体のデザインは赤と白のプラスチックという玩具らしい作りにした。結局価格は当初の目標よりも高い14800円となった。
こうして発売されたファミコンは大量に宣伝がされたおかげで発売後二ヶ月にして50万台もの売り上げを記録したが六ヵ月後に事件は起こった。ゲーム中にファミコンが動かなくなるという電話が増えたのだ。その原因はICの一つに欠陥があったことから起こったものだった。そしてその解決策として小売店や倉庫にあったファミコンは全て回収されて欠陥のあったチップは交換され、客から苦情がきたらファミコンを取り替えた。ファミコンの売り上げは100万台を突破しても一向に衰えることはなく、ゲームソフトは作るそばから飛ぶように売れていった。小売店はどこも品不足に見舞われ、子供たちは新発売のゲームを手に入れようと徹夜するものまで出始めた。それでも任天堂の限りある生産能力ではファンの期待に迅速に応えることはできなかった。
ファミコンは前代見聞の成功を収め、競合するビデオゲーム機メーカーは市場から撤退していった。業務用ゲーム機メーカーだったセガも同時期に「SG−1000」という製品を発売したがファミコンの敵ではなかった。こうして任天堂の成功への道は始まったのだった。
ここまでが任天堂がファミコンを出すまでの話となります。知っている人も多いかもしれませんが任天堂は最初からゲームを作っていた会社ではなかったのです。それも、インスタントライスなんて摩訶不思議なものを作ったかと思えばラブホテルなんてものまで経営していたのです。しかも任天堂がはじめに売っていた花札を始めとするカード類は現在まで生産を続けています。そして、ここまでには興味深い話も数多くありました。中でも光線銃については非常に興味を持って、一度本物を見てみたいとさえ思いました。そしてファミコンはここまでいろいろと考えられた上で登場したものだということを知ることが出来ました。
なんかここまで書いてきてみましたが情報量があまりに多すぎるので次に何を書いたらいいのか判らなくなったのでここからは適当に書いていきます。
まず、あのハッカーインターナショナルの広告がファミマガに載ったことなんてあったんですね。
僕はその時のファミマガ持ってないのでよくは知りませんが。
ハッカーインターナショナルという会社をご存知でない方のために説明しますとファミコンでソフトを販売するためのライセンス企業になるためには任天堂に多額のお金を払うなどの数々の過酷な条件を通過しなければなりませんでした。そのために任天堂からの許可が下りずファミコンでソフトが開発できなかった企業も数多くありました。ハッカーインターナショナルもその中の一つでした。まあ、この会社の場合、規模が小さすぎて資金が無かったからですけど。そのぶん技術はあったのでファミコンを分解して独自にファミコンで動かすことのできるゲームを作りました。任天堂はファミコンは絶対に任天堂製のカートリッジでないと動かせないと言っていましたがこの会社だけはこれを超える術を持っていたのです。そして製作したソフトを流通に乗せて販売することは無理なので”通信販売”という形で売り始めました。そのため任天堂にロイヤリティーを払う必要がないため、少ない販売量でも利益を出すことができました。しかし、通信販売という形を取ったにも関わらずそれらのゲームは3〜5万本もの売り上げを上げていました。ここでこの会社が売っていたのはどんな内容のゲームなのかと言いますといわゆる”18禁”と呼ばれるゲームでした。しかし今のPS2で出ているゲームの方がはるかに表現能力が上なので今考えると当時はこんなものだったのかと思います。そんな”任天堂非公認の裏ソフト”と呼ばれるハッカー社のゲームの広告が当時最も売れていたゲーム雑誌に載ったのです。これで任天堂が怒らないはずがありません。そしてその次の号に任天堂へのお詫びが載ったのでした。この事件は日本のビデオゲーム産業を任天堂が支配していることを改めて関係各社に認識させることになりました。
次にドラゴンクエストがヒットしたおかげでエニックスの社員は給料1年分に相当するボーナスが出たんですね。
ドラゴンクエストなんてゲームはもはや誰もが知っているので説明不要だと思います知らない人(いるのか?)のために出来るまでの過程を少し説明します。
ドラゴンクエストとは当時、パソコンであったウィザードリィやウルティマといった”RPG”と呼ばれるゲームにのめりこんでいた堀井雄二と中村光一がRPGの楽しさを日本人に知ってもらいたいというところから作られたソフトでした。イラストは当時のジャンプ関係で鳥山明ということでしたが製作当初は音楽を作っていたのはすぎやまこういちではありませんでした。しかしこのゲームには多大な制作費がかけられていたため社運がかかっていました。そのため会社側で作曲家にすぎやまこういちという人を呼んでいたのでした。そして作った曲(フィールド曲)を聴かせてもらってスタッフは皆納得し音楽を作らせることにしたのでした。そうして完成したゲームでしたがRPGが認識されていなかったからかCMに出ていた画面が未完成だったからかは知りませんが全然売れませんでした。しかし絶対にヒットすると信じていたエニックスは76万本もの数を出荷したのでした。この数は当時のゲームソフトの出荷本数としては普通の数字でした。ファミコンソフトの出荷本数なんて平均で20万本前後なので。(さらにいうと最低出荷ラインは1万本)そこでエニックスは当時発行部数450万部だった”週刊少年ジャンプ”に広告を打ち始めました。記事も掲載されました。その甲斐あってジャンプが火付け役となってドラゴンクエストは売れ始めました。見事初回分を売り切ったエニックスは前回の倍の数の140万本もの数のソフトを追加発注し、ジャンプの売り上げも爆発的にあがりました。これがドラクエ伝説の始まりでした。
ディスクシステムの真実
1986年 2月21日、任天堂は”ディスクシステム”という新製品を発売しました。任天堂はこれはファミコンの新しいメディアだと発表した。これを接続することで従来の大きなカートリッジを使わずに磁気ディスクでソフトが動かせるようになりました。しかしディスクシステムの値段は1万5000円もするため任天堂はそれを高価と思わせないためにこれによってゲームの質がよくなると言った。そして、ディスクは何度でも書き換えて使用できることからわずか500円で中身のゲームを入れ替えることができるというディスクファックスという機械1万台を全国のおもちゃ屋に設置しました。さらに任天堂はディスクシステム専用のゲームを出すことを発表した。そのため、ディスクシステムの売り上げは1年目にして200万台にもなっていた。しかし知っている人も多いと思いますがディスクシステムの最終的な出荷台数は約2倍の440万台なわけでいかにディスクシステムが売れなかったかを物語っています。と、鳴り物入りで始まったディスクシステムでしたがこのシステムを企業の方が嫌がったのでしたその理由はまず第一に作ったソフトをカートリッジで出すかディスクで出すか両方で出すのかを決めなければならなかった。第二にディスクでゲームを出すには多額のお金が必要だったのにも関わらず返ってくるお金はわずかだった。第三にディスクシステムでゲームを作るためにはカートリッジよりもさらに厳しい契約を改めて結ばなければならなくてその上にどのゲームをディスク化するかの決定権は任天堂にあった。
これだけあればいろんな会社が嫌がるのも無理ないと思いますが本当の問題はこれからでした。
半導体技術の進歩によってカートリッジの容量がすぐにディスクの容量を上回ってしまったのでした。さらにディスクライターを置いた店舗からは場所を取って困るという苦情が相次ぎ、任天堂は今後ディスクのソフトしか出さないと言った約束(ディスクでゲームを作れって威嚇とも言う)を取り下げざるを得なくなりディスクで出すはずだったスーパマリオブラザーズ3をカートリッジで発売した。そして人気ゲームは全てカートリッジで遊べたのでディスクシステムは押入れの奥に放り込まれることになった。
それでも任天堂はディスクシステムに期待をかけていた。これこそがディスクシステムに更なる追い討ちを与えてしまった”ファミリーコンピュータネットワークシステム”だった。これの詳細は前に書いたので今回は省くことにします。結果だけを話すと通信用アダプターを購入したのは13万戸、ファミコントレードの利用客はわずか2万人、スーパーマリオクラブに加入したのは3000社と大失敗に終わりました。しかしそれでもあきらめませんでした「いずれものになる。時間の問題だ」と。「みんながその気になったときには、われわれのネットワークが受け皿になる」とも。失礼ですけどなんかもう笑うしかないです。しかしもしこれが成功に終わっていたら知る人ぞ知っていたはずだったテーラーメイドがレアソフトになることもなかったんだろうなあ。
ええっ!マリオとカービーってかつて任天堂を救った英雄の名前だったんですか!
マリオとカービーと言えば今や任天堂の超有名キャラクターですがこの名前、実はドンキーコングを語る際には絶対にはずしてはならない2人の人物の名前が元になっているのです。まずはドンキーコングの説明から行きたいと思います。
ドンキーコングと言えばファミコンの本体と同時に発売されたソフトでシリーズ自体は未だに続いている任天堂の人気シリーズの一つだったりすることは大抵の人なら知っていると思います。そして作ったのはもちろん日本一有名な宮本茂さんです。