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大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~
【第15回】 2012年10月30日
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加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]

大川小児童の遺族が立ち上がってから4ヵ月
明らかになった真実、隠され続ける真相とは

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 5、6年生の男子たちが、「山さ上がろう」と先生に訴えていた。当時6年生の佐藤雄樹君と今野大輔君は「いつも、俺たち、(裏山へ)上がってっから」「地割れが起きる」「俺たち、ここにいたら死ぬべや」「先生なのに、なんでわからないんだ」と、くってかかっていたという。

 2人も一旦校庭から裏山に駆けだしたが、戻れと言われて、校庭に引き返している。

 防災無線では、「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけていた。教頭の持っていたラジオでは、6メートルの大津波警報を伝えていた。

 担任教諭たちが校庭で点呼をとり、教頭へ報告。遅くとも午後3時前には完了していたと思われる。

 数分ごとに、たびたび余震が起きていた。

 校庭では、女の子たちが泣いていた。「地震酔い」なのか、吐いている子もいた。

 子どもを迎えに来た保護者は、20家族ほど。名簿に名前を書いて帰宅していった。大津波警報が出ていることを報告していた母親もいた。

 保護者たちは、教諭から「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言われていた。

 また、地域の人たちが校庭の入り口に集まってきた。布団やブルーシートを持ってきていた人もいた。

河北総合支所職員が避難を呼びかけたルートと周辺地図
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 午後3時14分。大津波警報が10メートルに引き上げられる。直後の午後3時15分、余震発生。防災無線を担当した市河北総合支所の職員によると、この頃に初めて大津波警報が出ていることを認識して呼びかけ始めたという。だが、高台への避難の呼びかけは特にしなかった。

 一方、同支所の3台の広報車は、大津波警報と、高台への避難を呼びかけながら、県道を海岸の長面方面に向かった。午後3時20分頃、広報車の1台の職員が大川小に立ち寄り、長面の人たちを体育館に避難させられるかを確認して、「危険」との説明を受けている。同時刻に、津波の第一波が、牡鹿半島の先端の鮎川に到達。

 校庭では、たき火の準備も始まっていた。

 午後3時25分過ぎ、北上川河口の防潮林(松原)を越えてきた津波を目撃した広報車が引き返す。後続の広報車もUターンして、「高台に避難してください」「松原を津波が通過しました。避難してください」と呼びかけながら、県道を戻っていった。広報車が大川小前を行きと帰りで通過する際、スピーカーの呼びかけを聞いた児童もいる。

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加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]

気象キャスター集団ウェザーマップ所属のキャスターや番組ディレクターを経て2008年に独立。防災、気象、科学を中心に様々な形で活動中。2006年よりサイエンスコミュニケーターとして「気象サイエンスカフェ」(日本気象学会、日本気象予報士会)をオーガナイズ。写真と詩の連載『はじまる写真』(ソニーデジタルエンターテインメント)、共著に『気象予報士になる!?』(秀和システム)など。また、東日本大震災により変わり果てた被災地・石巻を巡った『ふたたび、ここから―東日本大震災・石巻の人たちの50日間』(ポプラ社)の撮影協力も行っている。


大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~

東日本大震災の大津波で全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。この世界でも例を見ない「惨事」について、震災から1年経った今、これまで伏せられてきた“真実”がついに解き明かされようとしている。この連載では、大川小学校の“真実”を明らかにするとともに、子どもの命を守るためにあるべき安心・安全な学校の管理体制を考える。

「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」

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