この論文では、弁当の機能と用途について述べ、更に、日本文化でのその意義について考えてみたいと思います。
日本では、弁当は昔から広く使用されてきました。今では日本人の生活様式はすっかり近代化、西欧化されています。それにもかかわらずこのような食様式が、そして容器が、なぜ、どのようにして今日まで絶えることなく引き継がれてきたのか、ということに私は強い関心を抱いています。この論文で私は、弁当箱がどのようにして新しい価値水準、一つの象徴にまで達したかを、個人的意識および国家意識を中心に、社会的な相関作用やグループ意識について述べながら、検討してみたいと思います。
言うまでもなく、弁当箱は大抵の国で昔から使用されてきています。これを旅行に持っていく国もあるでしょうし、毎日の仕事に持参する国もあるでしょう。弁当は本来このように実用的な目的で生まれたもので、現在でもほとんどの国で学校の昼食かピクニックに限られており、日常の社会生活で見ることはまずありません。ところが日本では、学校に持っていく弁当箱も大きく変わってきていますし、レストランでさえ弁当箱を特別メニューの贅沢な容器として使っているのです。
箱に関しては、日本には長い伝統があります。これは食器として、また食物の保存容器として、広く用いられてきました(The Illustrated Encyclopedia of Japan, 1933, p.118)。奈良時代すでに、便利で美的見地からも価値のある箱がありました。そのいくつかは今でも正倉院の宝物として残っています。
このように長い伝統をもっている日本の弁当箱は、その歴史の中で、形状・外観においても、象徴としての面、表にでない種々の価値の面でも、それぞれの時代にあわせて変身してきました。現在のようにマクドナルドやスパゲッティの洪水の中にあっても、日本の弁当箱は社会的ステータスと名声を維持し、しっかりと生き残っているのです。それどころか、スパゲッティやハンバーガーでさえ、その中身として取り込んでしまっています。
他の日用品同様、弁当箱も用途・目的にあわせて形状、外観、サイズ、色などを変えて作られています。現在その資材として一番多く使われているのはプラスチックですけれども、伝統的な形のものや、一昔前のアルミの弁当箱などもリバイバルしています。もっとも形は現代風の新しいものに、品質もずっと良いものになっていますけれども。若い人は今でもプラスチックの明るい色の物を好みますが、成人や中高年それに若いOLたちは、いわば伝統の再発見といったところでしょうか、このような新しい感覚を盛り込んだレトロなスタイルのものに戻ってきています。
日本のレストランでみかける弁当や弁当箱は、お客を殿様か大名、貴族あるいは富裕な商人になったような気分にしてくれます。弁当が運よく手に入ったとしても、中身はご飯と梅干しだけだった時代、玄米と麦のご飯しか入っていないために弁当の中身をかくして食べなければならなかった時代は、もう昔のことになってしまいました。以前は、お弁当を持ってこられないために昼御飯の時間に「消えて」しまう人が決まって何人かいたものでした。皮肉なことに、現在では多くのOLが「体型を保つために」弁当を食べています。弁当は今では、簡単で低カロリーのものでもデラックス・メニューのものでも自由自在になっているからです。
日本史や、現在の日本人の生活、社会の変化などを学ぶ場合に、弁当文化の研究は非常に有益です。日本人にとって、弁当箱は「グループ意識を失わずに自己を表出できる方法」ではないかと私は考えます。人々にとって、これは他人とのつながりを強調しながら、しかも自分のアイデンティティを主張できるチャンスなのです。それでもやはり、人々は弁当によって自分が所属するグループの中での自分の役割と位置を意識させられます。豊かで洗練された食文化から生まれた道具である弁当箱は、社交の有用な歯車として働きます。そして最後に、弁当箱を通じて、日本社会、日本文化の中に「遊び心」がどのように育ってきたのかを知ることもできます。この「遊び心」は、長い間戦争や国際紛争、国内の動乱などに苦しんだ後で、日本人がいま満喫している平和と大きな関連があります。
私は、いたるところにレストランやキャフェテリアのある今の日本で、なぜ弁当箱がこんなに人気があるのか、その理由も分析したいと思っています。そしてまた弁当箱が、その資材、サイズ、色などの点でなぜこのように大きく変わったのか、なぜ弁当を特集した雑誌が毎年こんなに沢山出版されるのか、なぜほとんどの婦人雑誌がさまざまな形で弁当の作り方をのせているのかを分析してみたいと思っています。
まず最初に、弁当とその古い用語である面桶(めんつう)という言葉の起源について述べます。次に、箱の外観とその中身は密接な関連があると思われますので、中身についても述べたいと思います。
最初に弁当箱として使用された容器は、竹皮、熊笹の葉、木の葉などだったに相違ありません。これらは通気が良く食物の保存にとてもよく適しています。特に竹皮や熊笹の葉は殺菌力も高いと考えられています。初期のこのような包装用品は次第に箱に変わって行きました。その箱も最初は柳の枝や木で作ったもので、たいてい使い捨てでした。ラッピングの点でも、日本には非常に豊かな文化を育ててきた歴史があるのです(Joy Hendry, 1989, 1993)。
『外国人のためのお弁当』(伊藤みどり編、一九六六)という本によれば、戸外で食べる昼食については、すでにかなり古い時代の日本文学にみることができます。奈良時代の『古事記』では、倭建命が東日本を征伐した折り、足柄の坂本の野で昼食の御粮(みかれひ)を食べているとき、土地の神が白い鹿に身を変えて現れました。そこで倭建命は御粮と一緒に食べていた蒜をその鹿(土地の神)の目に投げつけて、殺しました。
御粮とは乾飯(かれいひ)を約した言葉ですが、干して固くした旅行に携帯する食物です。古代の弁当はこの種の乾燥米だったと考えることができます。この御粮という言葉は、干飯(ほしいひ)とも呼ばれていました。干飯は今でもあり、私も入手することができました。現代のものは湯をかけるだけで数秒もすれば食べることができます。しかし古代のものはもっと固かったようで、旅人はしばらくの間口に含んでほとびさせてから、食べていました。これはもう少し後の時代には乾燥させてあるかそうでないかで、干飯(ほしいひ)または糧、粮(かりて)と呼ばれるようになります。そしてまた時が経つにつれて、中身が乾飯(かれいひ)、それを入れる 容器がかれひけと呼ばれるようになりました。そして平安時代の初めには、かれひけという語は破子(わりご)と変わり、容器のみを指すようになりました。江戸時代の有名な学者小山田与清は「一五七三年から一五九二年の間に、破子は弁当とよばれるようになった」と言っています(伊藤、前掲書、一七ページ)。中身については、にぎりめしなどの語が早くも平安時代の文献にみることができます (1)。後になって、にぎりめしはおむすびとも呼ばれるようになり、芯に梅干し以外のもの、特にかつおぶしなどが入れられるようになりました。
しかし、弁当そして特に弁当箱の発展には長い歴史があります。一五九一年、『多聞院日記』に「一揃いの塗り箱の蓋の裏には箸を三組とりつけてあって、各段には数人分のご馳走が入っている」という描写がでてきます。この箱はおそらく現在重箱と呼ばれている物でしょう。当時は重箱という名称はありませんでしたけれども、上流階級や富裕な人々がよく使っていました。一方、もっと下のクラスの人々は、一人分の食物を木の葉、布切れ、網などに包んでいました。古い形の弁当箱の一つに、先にのべた破子があります。これが多分内部に仕切のついた容器の始まりではないかと思われます。これは薄い板でできており、食べた後は捨てていました。現在でも、使い捨ての箸にこれと似たような「割り箸」という言葉が使われています。この箸は、使う前に割って二本にします。
破子と割り箸は漢字は違いますが、どちらも「分ける」「割る」「破る」という意味で、したがって共通の性格を持っています。破子は少なくとも二つの同じ大きさの部分に分けることができます。破子という言葉には「使い捨てできる容器」という意味と「いくつかの部分に分けることのできる容器」という二つの意味がありますし、また、ある時期には「米」および/あるいは「食事」という意味もありました。このように破子は、違った食物(ご飯と魚、肉、野菜などの総菜)を分けて入れられるように仕切のついた最初の容器と言えます。その次に現れたのが面桶です。これは一種のお椀ですが、個人用の箱に更にアイディアを加えたもので、自分の分だけを運べるように蓋がついており、現在の弁当箱の始祖ともなりました。
面桶は丸い形の、仏教の僧侶が使うお椀に似ていました。僧が寺に入るときには、あらゆる私物を捨てて来なければなりませんでしたが、自分専用のお椀だけは持ってくることを許されたのです。これは修行中、皿として、また水やお茶を飲む茶碗として、あるいは食事時の食器として用いられました。個人的な親密さも私物を持つことも許されない社会にあって、僧侶が個人用として所持するのを許されたたった一つのものでした。食事用の食器です。弁当箱に対する日本人の態度はこのような状況と関連があるのではないかと、筆者は考えます。筆者が日本に住んでいたとき「食事やお茶に使う食器は非常に個人的なものと考えられていて、だれもが自分専用の茶碗、お椀、箸を使っている」ということに気がつきました。そして、これは日本人が個を主張するための一つの方法ではないか、と思うこともままありました。
ここで忘れてはならないのは、いつの時代にも数人分を入れた共同の容器が使用されてきた、ということです。古代では食事はおそらく団体行動であり、皆が同じ容器から食べていただろうことは容易に想像できます。一四世紀以降、この共同の容器は主に特別な集まりや祝い事の際に用いられるようになりました。現代の重箱が主に行楽や人々の寄合の際に、皆がそれぞれの器に取れるように、食物を運んだり並べたりするのに用いられているのと同じです。しかし多人数の食物を運ぶ場合には、このような大きな器と共に一人分ずつ取り分けるための皿や弁当箱も用いられました。大きな器には「ステータスと社会階級を示す」という目的もありました。日本文化の中では弁当箱、器、皿の間に何の区別もありません。いずれも食物を入れて運ぶ、という目的だけでなく、食べるためにも用いられています。弁当箱はレストランでは食器として使用されていますし、ご飯茶碗に似た容器が食物を運ぶのに使われているケースもあります。これは弁当箱の社会的な使用に大きな影響を与え、弁当箱が 現在まで生き残るのに大きな役割りを果たしています。
『弁当箱』という本(荒川浩和、一九九〇)には、桃山時代から江戸時代にかけての弁当箱についてのデータが豊富にあげてありますが、その多くは東京国立博物館、神戸市立博物館、徳川美術館、出光美術館、早稲田大学演劇博物館など、日本の有名な博物館から集めたものです。
この本に取り上げてある弁当箱は主に大名や貴族など上流階級のものですが、種々様々の贅をこらした弁当箱の写真をのせると同時に、「弁当」の古い用語もあげて解説しています。その用語に私が辞書(広辞苑、百科事典、漢字語源辞典、字源)から拾った用語もあわせて、外出先で食べる食物、「弁当」にあたる昔の言葉をあげてみます。古い時代には食物は大きな木の葉に包んで携帯していましたので、何と呼んでいたかははっきりとはわかりませんが、容器と中身の両方を指していたようです。しかし次にあげる最初の三つの用語はその中身、食物だけを指していました。
御粮(みかれひ)/干飯(ほしいひ)/かれいひ―乾燥食物/乾燥米
「弁当」という言葉は中国語からの借用語のようにみえますが、これは日本人が作った語です。広辞苑第二版には弁当は「外出先で食事するため、器物に入れて携える食品、またその器物。転じて、外出先でとる軽食」となっています。弁当という語の語源を突き止めた人は、江戸時代の国文学者、喜多村信節(一七八三│一八五六)です(伊藤、前掲書)。現在では弁当という語は、戸外で食べる食事の中身にもそれを入れる容器にも用いられていますし、またレストランのメニューの一つとしても、給食会社の宅配サービス昼食にも使われています。
中身を指す名称で一番よく使われているものにはどんなものがあるかみてみましょう。これをみれば、日本食文化の興味深い面をいろいろと知ることができます。
おむすび弁当/にぎりめし弁当 | おにぎり |
あくまき | 昔の携帯食の一つで、餅米を灰汁に浸けて竹皮に包んで蒸したもの。昔、薩摩藩が朝鮮の役に出征するときに持参したものだそうです。 現在でも、鹿児島の人は五月の節句にこれを食べます。 |
海苔弁/海苔弁当 | 炊いたご飯に海苔をのせたもの。 |
鮭弁当 | ご飯と焼いた塩鮭の弁当。 |
松茸弁当 | 松茸という高価で香り高いキノコを炊き込んだご飯。秋の風物の一つ。 |
日の丸弁当 | 白米の真ん中に梅干しをのせて、日本の国旗のようにみえる弁当。第二次大戦中は、戦場で戦っている兵士を偲ぶため、週に一回はこれを職場や学校に持って行かねばなりませんでした。梅干しには防腐剤の働きがありますので、食物を良い状態に保つのに役立つとも考えられています。 |
鰻重弁当 | 白いご飯にうなぎの蒲焼きをのせたもので、漆(またはその代用品)を塗った角形の弁当箱にいれます。 |
そば弁当 | そばをいれた弁当。 |
いか飯弁当 | イカの中にご飯をつめて炊いたもの。北日本に多い料理。 |
すし弁当 | すしをいれた弁当。 |
釜飯弁当 | 野菜などを入れて炊いたご飯で、スペインのパエリアに似ています。これは「釜」と呼ばれる小さな陶器の鍋で炊きあげた「飯」ということで、容器が非常に重要な意味を持っています。 |
愛妻弁当 | 妻が夫のために作る弁当で、できる限りおいしい食べ物をきれいに盛りつけて、愛情を示したものです。この場合、中身、食べ物と容器の取り合わせが非常に重要です。 |
鯛飯弁当 | 鯛(これは非常に高価です)をいれた弁当。 |
焼き鳥弁当 | 和風ローストチキンをいれた弁当。 |
中華弁当 | ご飯と和風中華料理をいれた弁当。 |
ハンバーグ弁当 | ご飯とハンバーグステーキをいれた弁当。 |
牛肉弁当 | ご飯と牛肉と野菜をいれた弁当。 |
サンドイッチ弁当 | サンドイッチの弁当。 |
御膳弁当 | 白いご飯とおかずをいれた弁当。「御膳」とは「ご飯」の尊称ですので、これは「米を主食とした弁当」という意味になります。御膳という語は最近の宅配サービスの弁当やレストランのメニューにも使われています。 |
どのような行事、あるいは目的で使われるかによって、いくつかのカテゴリーに分けることができます。しかしいずれの場合も中身と容器は密接に関連しています。
「行楽弁当」これはスポーツの会などに持って行く弁当です。以前はこの種の弁当は季節と密接な関係がありましたが、今ではスポーツに関連しています。もう一つは「観劇弁当」劇場で食べる弁当です。行楽弁当と観劇弁当は見分けがたいこともありますが、行楽弁当はあくまでも戸外で食べるもので、観劇弁当は劇場かスタジアムに持っていって食べるものです。容器はその行事にあったものでなければなりません。
次にあげるのは、どちらかというとめでたい行事や楽しい行楽に昔から使われてきたものの名称ですが、もっと新しいものもあげてあります。
以前は両親、友達、親戚の人などと一緒に食べていましたので、弁当箱は数人分を入れられる特別なものでした。これは新しいタイプの行楽弁当です。
花見弁当 | 春、桜の樹の下に集まって、花を愛でながら食べる弁当。 |
紅葉狩り弁当 | 秋の紅葉を見ながら皆で食べる弁当。 |
月見弁当 | 九月に満月を見るために集まって食べる弁当。 |
運動会弁当 | 学校の運動会で食べる弁当。 |
次にあげるのは観劇弁当の範疇にはいるものです。
幕の内弁当 | 劇場(主に歌舞伎)の幕間に食べる弁当。しかし、現在では、レストランの定食メニューの一つとなっています。これは箱に仕切をつけて、ご飯、野菜、魚および/または肉、果物、甘いものなどを分けて盛りつけたものです。 |
顔見せ弁当 | 歌舞伎で新しい演目が上演されるときや、役者がデビューするときに、箱に入れて供される弁当。 |
ドーム弁当 | これは、初め福岡の野球場(ドーム)で供された特製弁当です。箱は野球場の形をしていて、観光客がツアーでこの野球場を訪れたときや、野球観戦のときに買いました。これは人気を呼び、日本中どこの野球場でも売られるようになりました。そして、さらに行楽に持っていくようになると、これは行楽弁当のグループに入ると考えられるようになりました。しかし、スポーツ観戦用とする限りでは、これは観劇弁当のグループに入れるべきだと、私は思います。 |
どのような行事、あるいは場所で食べるか、どのような形で販売されるか(家庭で作ったものでも店舗や鉄道の駅などで買ったものでもない場合)、さらに大きさなどによっても違った名前がつきます。
駅弁 | 駅や長距離列車の中で販売される弁当。これは今では「遊び」の性格をおびていますので、行楽弁当の範疇にいれてもいいでしょう。近年これはとても人気が出て、注文もできますし、年に二回デパートで行われる「駅弁まつり」で買うこともできます。(これについては後で詳しく説明します。)容器の形、中身は種々様々です。これから見ていくように、駅弁では、食物はその地方独特のものですし、その容器もお客を引きつけるように入念にデザインされ、選択されています。 |
宅配弁当 | 給食会社やレストランが、会社や個人宅に配達する弁当。これは昔からある「出前」(レストランのケータリング)と同じやり方ですが、「宅配」というのは非常に新しい言葉で、ケータリング会社はこのほうを好んで使います。 |
学生弁当 | 男子学生用の沢山はいる大きな弁当。 |
どか弁 | 男子学生やスポーツマンがたべる大きな弁当。上記「学生弁当」によく似ています。 |
さて、弁当の種類と名称についてはすでにのべましたので、今度は容器の中でよく知られているものについてのべます。容器と中身は密接な関係がありますので、時には中身と容器の両方を指し、はっきりとは区別できないものもあります。中身が変わり種類が多くなるにつれて容器にもますます多くの新しい意味、用途、名称が加わりました。容器は、主に材料、形、そして時にはその用途によってもその名称前が変わります。
かれいけ | 乾燥させた食物をいれる容器。 |
面桶(めんつう) | 食物を一人分づつ盛って配る容器。 |
面桶(めんつ) | 右に同じ。発音が異なるだけ。 |
物相/盛相(もっそう) | 面桶に同じ。本来の意味は「計量して盛りつけた飯」 |
めんぱ | 面桶に同じ。 |
輪っぱ(わっぱ) | 同じく一人分をもりつける曲木で作った容器。 |
破子(わりご) | 蓋つきで中に仕切のついたはじめての容器。 |
面子(めんこ) | 軍隊で兵士が携帯した個人用弁当箱。桃山時代から用いられはじめ、明治以降も使われた。 |
はんこつりょう | 明治以前に主に兵士が用いていたものですが、日清戦争の時にも使用されました。 |
飯盒(はんごう) | 明治以降、大正、昭和にかけて兵士が携帯したアルミニウムの個人用容器。 |
櫃(ひつ) | 前にのべた重箱(箱を重ねた容器)に非常に良く似ていますがこれは円形です。 |
食籠(じきろう) | 弁当箱の別称で、「大海」(たいかい)ともよばれています。 |
瓣當(べんとう) | 一人用。旧漢字で今では使われていません。 |
便當(べんとう) | 上に同じですが、「べん」の漢字がちがいます。ここでは「便利」の「便」です。 |
弁当(べんとう) | きっちり一人分。現在使われている漢字。 |
籠弁当(ろうべんとう) | 弁当箱の別称。 |
弁当袋 | おにぎりを入れる特別な網袋。 |
網代弁当(あじろべんとう) | 籠の形をしたもの。 |
腰弁当 | 腰に下げる弁当箱。身体の線に添うように曲げてあります。 |
印籠弁当箱 | 取手のついた籠の弁当箱。これは印鑑と呼ばれる日本式シールを入れる小さな袋と形が似ているために、このように呼ばれました。徳川時代には、薬を携帯する小さな袋も「印籠袋」と呼ばれ、よく用いられました。 |
次にあげるのは「遊び」用のもので、「行楽」「観劇」の弁当と関連しています。
茶弁/茶弁当 | 他の容器やお茶道具のはいった弁当用の容器で、「懐石」(茶事で供される食事)用のもの。 |
野弁当 | 昔、花や季節の鳥を見に行く時など、野外での食事に。また野点でも用いられましたが、今では使われていません。 |
蒸籠弁当 | 特製の箱の中で蒸してそのまま供されるご飯。したがって、この容器は料理道具としても食器としても使われることになります。 |
杯弁当 | 汁物や酒を飲むためのボールの形をしたもので、昔、戸外での特別な集まりのために使われた揃いの食器の一部でした。 |
樽(たる/だる) | 円形の容器で、通常大きな宴会のために酒を運ぶのに使われます。 |
指樽(さしだる) | 二つの部分に分けられる容器で、一つには酒を、もう一つには弁当を入れますが、酒だけのこともあります。結婚式など特別な集まりに用いられました。 |
外居/行器(ほかい) | 円形の容器で、特別な行事や旅行、遠方に住む人へ食物の贈り物をするとき、さらに供物を供える宗教儀式などで、食物を入れて運ぶために用いられました。 |
提げ重 | 上と同じようなものですが、手で提げて運べるよう取手がついています。 |
重箱 | 箱を重ねた容器で、多くの人が集まって祝い事をする時などに用いられました。各段の箱にはそれぞれ数人分の料理を入れます。現在では、新年の正月料理を入れるのによく使われています。 |
重弁当 | 重箱の形をした重ねの弁当箱ですが、中身は一人分です。 |
松花堂弁 | 懐石料理用の中を四つに仕切った箱で、それぞれの仕切りには違った料理を入れます。主に劇場、歌舞伎などで用いられます。 |
船弁当 | 漁夫が漁にでたときに船で食べる弁当。 |
酒樽弁当 | 寿司をいれる容器。寿司屋で使われています。 |
柳行李 | 昔、樵が山で作業するときに持っていった弁当。この名前は、柳か竹で編んだ籠形の箱からきています。時が経つにつれて、これは戸外での行事を楽しむための器と考えられるようになりました。現在ではこの言葉は弁当箱としても使われています。最近では、これは弁当雑誌で「バスケット・ランチ」と呼ばれ、楽しいイメージのものとなっています。 |
日本では昔から、上流社会は洗練された高価な漆塗りの弁当箱を用い、一方、労働者、漁夫、工員、学生などは、編籠や木製(最近ではアルミやプラスチック)の簡素な物を使ってきました。ここで、日本では人前で食事することはあまり良いたしなみとは思われていなかった、ということに注意してください。貴族や武士たちは、家の外で食事する必要のあるときは自分の食事を持っていくのが常でした。これは多分、他人に食物を手渡すとか、他人の作った食事を食べることから生じる「浄」「不浄」の感覚と関係があったのでしょう。
実際、弁当を大量に作るというようなことは、一五世紀になるまで見られませんでした。これが徐々に完成されたのは江戸時代後期になってからです。食材の種類が増え、食物の保存法が向上して、惣菜のメニューが増えました。茶の湯は日本食文化の発達に重要な役割を果たしました(『日本の近世』、熊倉功夫、一九九三;アエリア、一九九五年九月、一九九六年五月、一九九六年九月)。
弁当箱の種類が豊富になり洗練されていくのには、戦争と平和のどちらもが大きな役割を果たしました。その影響は、これから見るように、非常に異質のものでした。
室町時代、桃山時代は、江戸時代同様、弁当の歴史に大きな役割を果たしています。戦時には兵士たちは、安全で持ちやすい方法で自分用の食料を携帯しなければなりませんでした。織田信長時代の安土城建設のときには、兵士や作業員の食料を運ぶのに大きな器が用いられました。後になると、戦場に食料を携帯するために兵士には個人用の容器が配られました。当時の人は一人分の食料はいわゆる「面子」に入れて、あるいは、他のアジア諸国でも見られることですが、乾燥させた食料を木の葉に包んだだけで携帯していました。鹿児島では武士や足軽が、灰汁に浸けた餅米を竹皮に包んで蒸した「あくまき」を戦場に持っていったことについては、前にのべました。
豊臣秀吉の時代は、芸術的なデザイン創造に恵まれた時代でした。その頂点にくるのが茶の湯の発展とそれに伴う「茶弁」です。これは、通常特製の弁当箱(お茶を入れた容器がついているもの、また時には茶事用の料理を入れるためのもの)に入れて供されました。東京国立博物館と彦根城宝物館には、桃山時代、江戸時代に富裕な人々が使っていたこれらの美しい容器が展示されています。
江戸時代は、一般市民の自由な旅は許されていませんでしたが、参勤交代制度がありましたので「旅の時代」 とも言えます。この制度では、大名と武士は家族の住んでいる首都江戸と自分の領地との間を定期的に旅しなければなりませんでした。このお陰で日本中を旅人が行き交い、弁当箱デザインの創造が盛んになり、弁当箱はより優雅で装飾的なものとなりました。
このような洗練された塗りの弁当箱の発展に貢献したもう一つの要因は、歌舞伎、狂言、文楽などの演劇の振興です。こうした演劇は非常に長い時間をかけて行われますので、人々は幕間に食べる食事を持って行きました。現在でも歌舞伎では食事が出されますし、相撲でも観客は自分の弁当を持って行くか、そこで購入して取組みの合間に食べます。何しろ、相撲は朝始まって終わるのは午後六時ですから。秦恒平という作家によれば、「幕の内」という言葉は、「人々が演劇の幕間に食事をとるようになった」のより以前に、上級武士が戦場では「陣幕の中で」食事していたことからきている、ということです(『太陽』、一九九三年、三八六号、一三九ページ)。しかし、歌舞伎や狂言でも幕間に食べる弁当は「幕の内弁当」と呼ばれました。幕が下ろされている間に食べる弁当という意味です。前に述べたように、この言葉の本来の意味は「戦場の陣幕で食べるごま塩のおにぎり」であったように思えますが、これが後に「劇場で幕間に食べる弁当」へと発展していきました。
舞台演劇についてみてみますと、「長屋の花見」という落語があります。その筋書きは次の通りです。店の主人が店員たちを花見に連れて行くことにします。弁当と飲物は当然主人が用意しなければなりません。ところが主人はあまりお金を使いたくありません。そこで、酒のかわりにお茶を、卵焼のかわりにたくあんを、かまぼこのかわりに大根を出します。この噺からも、当時弁当がすでに一般的になっていたこと、そしてどのような折りにそれを準備し持って行ったかなど、社会的慣習をみることができます。
日本が鎖国時代を経て世界にその扉を開いたとき、外国から種々の影響を受けました。明治時代には英国式の弁当箱も見られるようになりました。しかしそのすぐ後に植民地戦争と産業化の波が押し寄せ、材料、デザイン、中身に新しい流行がもたらされました。明治から昭和にかけては、軍隊の飯盒が広まります。これは一人分ずつを入れ、兵士が背嚢につけて携帯できる便利なアルミの容器で、どんな火を用いてもすぐに暖めることができます。飯盒は昭和期を通じてずっと使用されてきましたし、今でもボーイスカウトではこれに似たものを使ってい ます。
この間にも、富裕な家庭では優雅な漆塗りの箱が使われていました。一八六八年の開国から第二次大戦まで日本は外国から種々の影響を受けましたが、博物館に所蔵されているいくつかの弁当箱にもそれが見受けられます(荒川、前掲書、二一八、二四六、二四七ページ)。明治以降は、米国や欧州諸国にみられるような弁当箱も好まれました。現在でも日本では、バスケットに入れた弁当を「バスケット・ランチ」と呼んでいます。
日本が植民地戦争と侵略にあけくれていた歳月には、一般の人々が美しい贅沢な弁当箱を買い求めるようなチャンスはあまりありませんでした。それに入れる惣菜が手に入らなかったからです。白いご飯でさえ特別な日にしか食べられませんでしたし、それもだれでもできるわけではありませんでした。中身が貧弱になるにつれ、それを入れる箱も、デザイン、材料ともに貧弱になりました。
子供たちはお祭りや、遠足、運動会などの特別な日を待ちこがれました。このような日には弁当に卵焼きを入れてもらえたからです(卵は高価で普段は口にできない食物でした)。弁当のご飯には大麦をまぜてあることが多く、海苔をのせてあることもありましたが、おかずは梅干しだけ、というのが普通でした。
よく知られていることですが、第二次大戦の初めには、仕事場や学校に持っていく弁当は、少なくとも週一回は、「日の丸弁当」にしなければなりませんでした。これはご飯(大麦をまぜることもありました)の真中に梅干しをいれた弁当のことで、それがちょうど日本の国旗のようにみえたのでこう呼ばれたのです。日本で私が取材で面接したある中流上クラスの女性が私に次のようなことを語ってくれました。「祖母が私を可哀想に思って、だれにもわからないようにご飯の下にこっそりおかずを隠し入れてくれたものでした。もしこれがわかるとひど い罰をうけますし、そうなると私だけでなく家族全体の恥になりますから、私はもう怖くて怖くて。でも、大好きな祖母が私のために作ってくれたお弁当を食べるのは、とても幸せでした。」
これは別に珍しいことではなかったでしょう。できさえすれば、同じ事をした人が他にもいたと私は思います。
一九四五年の敗戦以来、日本は貧しくて新しい容器どころか食物さえなかなか手に入らないほどでしたが、朝鮮戦争以降、特に東京オリンピック後は、日本は新たな繁栄と消費の時代にはいりました。
昔から「弁当」という言葉には「面桶」という言葉にはない楽しい意味あいが含まれていました。「弁当」は劇場、楽しい外出、旅行などに持っていく食べ物を入れる器で、「面桶」は、たいてい農夫、職人などが畑や職場に持っていく弁当箱を指していたからです。
「弁当」という言葉は今でも残っていますが、「面桶」という言葉はもう使われていません。上流階級の言葉であったものが、徐々に社会の全階層に広まっていったものと思われます。しかしこの事実から、日々の生活のあらゆる面で「遊びの雰囲気」を追い求める日本人の国民性について考えさせられます。この「遊び感覚」を好む傾向は弁当箱の様式、形、色だけでなく、「弁当用品」(弁当風呂敷や袋、おしぼり入れ、調味料入れ、取り分け皿、使い捨て用品、ポータブルの調味料、小さなフォーク、お箸、魔法瓶等々)にもみられます。
伝統的な贅沢な箱の好きな人たちや、それを懐かしむ人たちには、本物の漆塗りあるいはイミテーションの塗りの箱で、蓋の上に花や植物を描いて季節感をだしたものもあります。また子供や学生の場合には、外国語、特に英語をふんだんに使ったものや、可愛い動物、植物、テレビの人気キャラクターなどを描いたものもあります。メーカーやデパートは次々に新しい面白いデザインのものをだしてこの傾向を助長していますし、また日本人が「初物」「変化」「季節感」といったことを好む性質をねらって、「春の弁当箱フェア」「幼稚園児の弁当箱特別セール」「花見用弁当箱の特別セール」といった催し物も行っています。
前に述べたように、日本では数多くの雑誌が、学童の毎日の弁当から正月の特別なものまで、種々の用途、催しのための美しくて栄養のあるおいしい惣菜料理の作り方をのせています。そのどれかの弁当特集を見れば、今の弁当の傾向と様式を知ることができます。そこでまず手始めに、手近に買える雑誌で弁当を特集しているものがどれくらいあるか調べてみました。
一九九八年、大阪阿倍野のあべの書店に行き、弁当を特集している雑誌がその時点で一体どのくらいあるか調べてみました。タイトルに「お弁当」という言葉がはいった記事を扱っているのが三八一種、その他に「弁当」という語の含まれているものが九三種ありました。これはたった一軒のデータですので、別の書店ではまた数字が違ってくると思いますが、それでもサンプルとしては役に立つと思います。
このような弁当の作り方をのせた雑誌の洪水の中から、いま私は『主婦と生活』の一九九二年一〇月号をここに持ってきています。もう今では絶版でしょうが、そのタイトルは「素敵な料理」というものです。その一六ページで、ある女性が「本当に良い弁当は四色四味でなければなりません。そして見た目にもきれいでなければなりません。」と言っています。また三四ページでは別の女性が次のように言っています。「勿論、健康によくて栄養のバランスのとれた弁当を作るのに心を砕いていますが、私にとって一番大事なのは色の取り合わせです。勝負は子供の目で決まりますから。」
日本の保育所の研究をしたLois Peakによれば、ある保育所で、園長が母親や先生たちを前に弁当について話をしたそうです。その目的は「弁当が子供たちの教育、躾けにとってどんなに大事か」を母親たちに伝えることでした。毎朝手間暇かけて良い弁当を作ることで、母親は自分の愛情を子供たちに伝えます。園長は次のように話しました。「母親が毎朝少し早く起きて子供のために何かしてやれるのは学校にあがるまでのことです。学校に入ってしまえば給食です。昨夜の残り物とか大人の弁当の余りなどでなく、子供のために特別に作る、ということも大事です。家庭では母親は、父親や大きな子供の好きなものを作ります。お弁当はその子のためだけに何か特別なことをしてやれる、そして食欲をだせるようにしてやるチャンスなのです。私たちは母親たちに三、四種の料理とご飯、果物をいれた小さな弁当を作ってもらいました。味つけは子供好みでなければなりませんが、たいていの子供たちはどんな料理でも甘い味つけを好みます。また、栄養価が高くて子供の好きな料理で、色どりがきれいで見た目も可愛くなければなりません。昼食時に子供が弁当箱の蓋をとったときに、母親の愛情が箱から飛び出してくるようなものでなければなりません。こどもたちが『これはボクのお母さんがボクのためだけに作ってくれたもの』と思うようなものでなければなりません」(Lois Peak, 1991, pp.59-60)
したがって、弁当は学校活動や子供たちの生活と密接に関連しています。しかしここで、子供だけでなく母親の社会化という点でも、弁当が大きな役割を果たしていることを指摘しておく必要があるでしょう。
子供たちが幼稚園や保育所に入ったときから、母親たちは種々の活動に参加することを求められます。例えば、子供をきちんとした身なりで時間におくれないように登校、登園させること、学校や園と家庭の円滑なつなぎ手となること、給食のない場合には(小学校はどこでも給食があります)毎日おいしくて栄養のある弁当を作って持参させること、などです。
このように学校弁当は就学前から始まりますが、これには重要な象徴的な意味があります。母親たちは急いで弁当の作り方を書いた雑誌や本を買い、他の母親と意見交換をし、小学校に入ってからも、教えて欲しいという母親があれば教えてあげます。
弁当は母親と子供の絆を、さらに家庭と学校の絆をも深めます。弁当を作りながら母親は子供のことを思い、食べやすくてきれいで、栄養があっておいしい弁当を作ります。八〇年代の終わりに私が日本に住んでいたとき、人気の高い子供向けテレビ番組の歌に次のようなのがありました。「これくらいのお弁当箱に・・・」という歌で始まり、弁当によく使われる料理とその作り方を説明します。幼稚園児はほとんどこのテレビ番組を見ていましたし、母親たちはまだ幼稚園にも行かない幼児にもこれを見せていました。若い母親たちは「弁当作りの儀式」を通じて社会に出ていき、「若い母親のグループ」のメンバーとして自分のアイデンティティを獲得します。そして子供たちもまた、クラスメートたちと弁当を一緒に食べることによって、外の世界の真のメンバーとなります。したがって弁当は、家と外の境界を示す一つの道具ともなるのです。
特に学校に入って初めの数ヶ月間、毎月の母親の集まりで、繰り返し、それも長時間話題となるのは弁当の正しい作り方で、時には一時間の集まりの三〇分以上にわたることもあります。この話合いは別に、西欧的な意味での栄養の原則についての論議でもありませんし、りんごでウサギを作るとか人参で花を作るとかいったような料理技術の話でもありません。話題の中心は主に、食物のつめ方や包み方、学校や家庭でどのような食卓マナーを教えたらいいか、卵やスパゲッティ、それに握ってないご飯は食べにくいので入れてはいけない、床に落とした食物はテーブルでなく箱の蓋に入れるべき、などなどです。(Lois Peak, 1991, p.60)
Peakは、自分が研究調査を行った幼稚園で子供たちが弁当を食べる前にピアノにあわせて先生と一緒に歌っていた歌を紹介しています。子供たちはお弁当の時間が来たことを喜びながら、楽しげに「お弁当に入っているものは全部おいしくいただきます」と歌っていました。(Lois
Peak, 1991, p.91)
前に述べたように、公立の小学校ではすべて給食(学校で用意するみんな同じ昼食)です。これには昼食だけでなくミルクも含まれます。公立の小学校が給食をはじめた根本的な理由は児童間の食物の差を避けるためでした。中には学校に弁当を持って来ることのできない子供さえいたからです。しかし家から弁当を持ってきたいという生徒もいるため、数年前から家庭の弁当か給食会社のものか、いずれかを選ばせる小学校もでてきました。そして一九九六年にはこの傾向が急速にひろまりました。ただし、その理由はちがいます。
外国人の母親たちが子供を日本人の学校にいれる場合、そうでなくてもいろいろな苦労があるのに、弁当も作ってやらねばなりません(Lois Peak,
1991, p.60)。私自身も、横浜の国際学校に問い合わせてこの間の事情 を知ることができました。日本人の母親を持つ子供たちは、別に問題もなくおいしそうなお弁当を可愛らしい箱に入れて持ってきて、それを食べます。しかし両親が外国人の場合、あるいは国際結婚で母親が日本人でない子供たちは、たいていアルミホイルに包んだだけのものや、金属の大きなランチボックスに入れたものを持ってきます。中身はサンドイッチとジュースを分けもしないで一緒に入れたもので、特別その子のためだけに料理したものではありません。一九九六〜九七年の学期に、ある外国人の子供がほとんど毎日弁当に手をつけずに残すようになりました。先生がその理由を尋ねると、その生徒は「ハムは大嫌いなのに、お母さんがほとんど毎日ハムサンドをもたせるの」と答えました。「お母さんは君がハムを嫌いなことを知っているの?」と先生が聞くと、その生徒は「もちろん。でもお母さんは、好き嫌いをせずに何でも食べられるようにならなくてはいけません、と言うの」と答えました。
これをみると、学校側と、文化背景の異なる母親側との間の要望と期待の食い違いがわかります。外国人の母親たちは子供が好き嫌いがなくなるよう、特に、嫌いなものを食べられるように、躾けに努力しています。それに反して日本人の母親たちは、子供たちが喜び、その食欲を増すような可愛い弁当を作るよう、学校から指導されているのです。
日本では多分いまこのような状況でしょう。しかし筆者が面接した日本人インフォーマント(被調査者)で年輩の人たちは、「私たちの母親は食べようが食べまいがあまり心配しませんでした。それよりも十分な食物を得られるかどうかのほうが気がかりでした。時には兄弟で争ったり、弟や妹が特別な料理を貰っているのを見ると不平を言ったりしました」と言っています。当時は母親の作った弁当は美しくもなく、ただ米、麦、豆、さつまいもなどを混ぜたもので、特別な時だけ魚や卵がつきました。日本でも地域や家庭によって大きく異なっていたでしょうが、第二次大戦前には学校から帰って家で昨夜の残り物を食べる子供もいました。遠くて食べに帰れない子供たちは弁当をもってきました。弁当箱はアルマイトで蓋がきっちりとは閉まらないので、食べ物がもれて教科書やノートを汚すこともありました。冬になると、子供たちは弁当を教室のストーブの上に載せて暖めたものでした。
公立学校の中ではおつゆを出すところもありました。その理由は多分、どの子も弁当を持ってこられるとは限らなかったからでしょう。おつゆの給食は、戦後にもみられました。五〇年代にはおつゆの代わりに戦後アメリカから日本に送られてきた粉ミルクになりましたが、これは大変嫌われました。東京出身のある小学校の先生が筆者に語ってくれたところによれば、終戦直後から五〇年代半ばまで、弁当を持ってこられない生徒のために、ほとんど毎日三〜四個の弁当を用意しなければならなかったそうです。生徒数三〇人のクラスで昼食時に食べる物のない生徒が七〜八人ほどいて、先生たちはそのような生徒たちに食物を与えていたそうです。
前に述べたように、第二次大戦が始まった頃はまだ食料は不足していませんでしたが、戦場の兵士を偲ぶため、出先で食べる弁当は週に一度は日の丸弁当にしなければなりませんでした。経済情勢が悪化し米が手に入らなくなると、人々はアルマイトの弁当箱に入れる食物の入手に頭を悩ますようになりました。食べることは容易ではありませんでした。この間の事情は野坂昭如の有名な小説『火垂るの墓』(これは後に宮崎駿がアニメ映画にしました)を読めばよくわかります。
戦争の終わり頃から直後にかけては、多分中に入れる食料が手に入らなかったからでしょうか、新しい弁当箱は出てきませんでした。戦後は東京や大阪のような大都市では、一匹の鰯のために喧嘩や殺し合いさえ起こりかねない状態だったのです。
日本の教育制度では、給食があって学校が用意した昼食を揃って食べるのは公立学校だけです。ということは、幼稚園や私立学校に通っている子供たちはみな弁当を持っていく、ということになります。小中学校生徒の六〇%と公立高校の学生は毎日弁当を食べています。このように公立の小学校では給食があるので、公立学校に通っている小学生が弁当箱を使うのはピクニックや運動会など、特別な学校行事のときだけです。私立の小学校では事情が異なり、弁当が広く使われています。
外観の美しさも重要な地位を占めていますが、ダイエットも大事で、多くの弁当雑誌は選択が正しく行えるよう、カロリー数を示しています。(同じことは給食会社や弁当販売店についても言えます。たいていの所が各メニューにカロリーを表示しています。)ダイエットと弁当箱については、あとでもっと詳しく述べます。
今日の弁当ブームで弁当箱の創造性も盛んになってきています。デパートは、可愛い、お洒落な、変わった、そしてオリジナルな、種々の弁当箱に大きな売場をとって展示しています。その多くは少女むけです。女の子の鞄にうまくおさまる二段になった長く細い箱が今大流行です。たいていは電子レンジで加熱できるもので、色も飾りもソフトで上品です。一番新しいのは真空タイプのもので蓋が二つついています。下の蓋にはボタンがついていて、それを押すと自動的に真空パックに変わり、冷凍しなくとも食物の長期保存(二四時間)が可能になり、風味も味も保てます。この手の弁当箱については、後で特にOLとの関連で考えてみます。
一九九四年三月東京で行ったアンケート調査によれば、都心のビルで働くOLの七五%が自分で弁当を作り、それを自分のデスクで食べているそうです(『朝日新聞』、一九九七年七月二四日)。調査対象となった女性たちの年齢層は二五〜三七歳です。たいていの人が「弁当ならバランスのとれた健康な食事ができる」と言っています。また、時間やお金も節約できます。昼食時には安いレストランは長い行列になることもありますから。多くの人がお金の点を強調しています。自分で弁当を作れば月に二万円(二〇〇米ドル)ほどの節約になりますが、これは月あたりの収入が一五万円(一五〇〇米ドル)のOLにとってはちょっとした金額で、衣類、レジャー、旅行、化粧品、美容院などにあてることのできる大事なお金です。ダイエットも弁当持参の重要な理由の一つです。現在販売されている弁当箱の中で主に若い女性が買い求めるのは、中に仕切がついていて一定の量のご飯しかはいらない、したがって体型を保つのによい弁当箱です。三角のおむすびが二つしかはいらない三角形の容器も流行っています。(「倹約もダイエットも楽しんで」『朝日新聞』、一九九八年三月二〇日)
前にのべた真空の弁当箱は一九九三年、カタログによる直接販売(単価二千円)で売りだされましたが、大変な人気で、似たようなものがデパートで一五〇〇〜二〇〇〇円で売られるようになりました。もう一つ普通のタイプのものでOLがよく使っている弁当箱は、昔ながらの模様がついた塗りのもの(本物の漆ではない)で、昔の「曲げ物」や「綰物(わげもの)」を真似たものさえ使われています。古い形の弁当箱(主に江戸時代のものの模倣)を買い求めるのも流行していますが、このような古い形のものはいつの時代でも大事にされてきました。私のインフォーマントの一人で五〇歳代の女性が次のような話をしてくれました。「高校時代には授業中は弁当箱をロッカーにしまっていました。ところがある日、私のロッカーが壊されていて弁当箱が消えていました。その日昼食抜きになることは大して気になりませんでしたが、大好きな弁当箱がなくなったことはショックでした。それは塗りの古風なもので、だれもがアルミの弁当箱を使わざるを得なかった時代には非常に珍しいものでした。」筆者もデパートの特別売場で似たような弁当箱を見つけました。そしてそこで、主に若い女性がそれを買うということを教えてもらったのです。
一九九三年、一九九四年、一九九六年に筆者自身が訪れて質問した近鉄デパートの弁当箱売場によれば、自分用のあるいは人に頼まれて弁当箱を買いにくる人の95%が女性で、多くの主婦が友人(男女)や親戚の子供たちへの贈り物に買っている、ということでした。このように、この市場は完全に女性指向です。男性が弁当箱を使わないわけではありませんが、それを買ってくるのはたいてい女性の家族や友人なのです。これは多分、日本の社会ではほとんどの女性が母性的に振る舞いますし、食事は特に母親らしいことの一つだからでしょう。女性は、毎日の生活の中でこのような面ですべての世話をみるよう期待されています(Dorinne K. 近藤、一九九〇)。大きなデパートの弁当箱売場に行くと、沢山の弁当箱を見ることができます。弁当箱売場は普通、子供用、大人 用、それに有名なアニメや漫画のキャラクターを描いた「キャラクターもの」の三つのセクションに分けられています。プラスチック製や木製(柳、杉、檜製のものさえあります)のもの、塗りのもの、柳の小枝などを編んだ籠、アルミ製のもの(一時はこれが流行っていました)、最近では電子レンジで使えるもの、真空のもの、カレーやビーフシチューなど暖かい食物を入れるもの、等々です。
新しい弁当箱を買う時期、新しいデザインのものが展示されるのは春、三〜四月です。この時期には学校の新学期が始まりますし、会社には新入社員が入ります。そして新入生や新入社員は、新しい学生生活、社会人としてのスタートに必要なものを買い求めます。
学校を卒業して新入社員として会社に入るのは春ですが、いわゆる「青田刈り」で、採用はほとんどが前年末までに決まってしまいます。このように実際に卒業・入社する時よりも数ヶ月も前に就職が決まってしまいますので、新生活に必要なものは三月前に買い求める事ができます。弁当箱もその一つです。前にも述べたように、日本社会では何事であれ「事始め」は非常に重要だと考えられています。
親にとっては、小学校にはいるピッカピカの一年生には最上のものがふさわしいのです。そこでデパートは、子供たちの新しい身分の象徴である新しい弁当箱を選ぶために、続々とやってくる母親たちを歓迎します。それまで幼稚園で使っていた古い小さな弁当箱は台所か食器棚の隅に忘れ去られてしまいます。中学や高校に通っている生徒たちも、このチャンスとばかりに新しい流行の弁当箱に買い替えます。多分、成長して食べる量が増えて今使っているのでは小さすぎるようになったということでしょうか、あるいは、新しいもっと素敵なのが流行しているというだけのことでしょうか。このような新入生でない子供たちの多くは、新学期のお祝いとして、学校や職場でママの味を楽しめる弁当箱をもらいます。
入学は子供の通過儀礼の一つです。子供たちは、親密で甘えられる家族とは異なる新しいグループの一員となり、その中で全く新しい役割を果たすことを求められます。これまでより責任が重くなり、このような状況は将来のために非常に有意義なのだと教えられます。これは、子供たちがもっと高いステータスに到達したこと、大人の段階に一歩近づいたことの印なのです(Merry White, 1933, pp.77-78)。
日本の学校は子供たちの私生活にも強く干渉します。学校の校則の中に、衣類、校外での社会生活、食習慣に関するものがどれくらいあるかを調べなければなりません。学校の職員は低学年の生徒の弁当箱の中を覗いて、母親の世話が届いているかどうかを知りたがります。そして定期的に行われるPTAの集会で、もっと変化に富んだ食品を、もっとよい惣菜を、子供が肥らないよう量を減らして、などと強調します。あるPTAの会合で、そこの校長が「この頃のお弁当はお袋の味になりましたね」と言って、母親の配慮を求める話をしました。ここで校長は「ふくろ」の二つの意味、「袋」と「母親」をかけています。すなわち、子供の昼食に冷凍して袋につめた既製品を使っていることを皮肉って「今頃のお弁当は袋詰めの味がふえている」と言っているのです。「お袋の味」というのは普通、母親の手料理の味のことを指します。しかしこの場合、校長が全く別の意味で使っているのは明らかで、子供たちにちゃんとした栄養をとらせるという母親の配慮が欠けていることを注意しているのです。母親たちは笑いながらもこの注意をよく心にとめました。
弁当の正しい作り方と、それをきちんと子供が食べるようにする躾けは、幼稚園以来の母親たちの頭痛のたねです。母親が作った弁当を食べることは子供たちの甘えの絆を強めます。ここでも母親たちは手の込んだ魅力的で色彩豊かな可愛らしい弁当を作るよう求められているのです(Lois
Peak, 1991, pp.60-61)。
このことから多くのことが引き出せます。子供たちが食物のことで不満を抱き、母親たちが「どうしてもっと沢山の食物を、あるいは子供たちの望む食物を与えられないのか」を説明しなければならなかったのは、さほど遠い昔のことではなかったのに、今では事情はまるきり反対です。筆者のインフォーマントは次のように話してくれました。「昔は母親が作ったお弁当を食べさせてほしいと願ったんだが、今は、私たちが作ったお弁当を子供が食べてくれるように一所懸命に考えるんだよね。」
入試競争が激しさを増し夜の塾に通う生徒が多くなるにつれて、弁当箱は子供の夕食を運ぶのにも用いられるようになりました。私が日本に住んでいた頃よく見かけた事ですが、母親たちは毎日二種類の弁当を作っていました。一つは昼食用、もう一つは夕食用です。塾に通う子供たちは、学校から帰ると服を着替え、おやつを食べ、学校の教科書を家に残して夕食用の弁当、塾用のノートを持って出かけます。塾の生徒はほとんど皆弁当を持ってきて一緒に食べていました。
筆者は東京と大阪のいくつかのデパートで「子供たちが塾に持っていく弁当で一番よく売れているのはどれですか?」と尋ねたところ、ほとんどの店員が「食物を暖かいまま食べられるポット・タイプですね」と答えました。日本では、昼食は冷たい食事でも気にしないようですが、夕食はそうではないようです。
弁当にする理由としては、健康、ダイエットおよび/あるいは実利的な目的の他に、何かしら神秘的な理由もあります。給食会社やレストランでは、値段の安いものから高いものまであらゆる種類の料理を提供しています。カップルがドライブに行くときは、普通女性がおいしい弁当を二人分作ります。筆者が日本滞在中に在籍した日本の大学で調べたところでは、男性と女性が一緒にグループ旅行に参加するときでも、女性がみんなの食事を作るものと考えられていました。男性の担当は通常、車と運転ですが、時には女性が皆のために作ってくる弁当のお返しに、母親の作ったご馳走、お菓子、スナック、果物、飲み物などを持ってくることもありました。
大分県のある年輩のインフォーマントは「二、三〇年前までは、職場近くに住んでいるサラリーマンが夜遅くまで残業しなければならないときには、妻に弁当を作って持ってこさせることもありました」と語ってくれました。近くの店に出前を頼めるのに、あるいはひとまずスナックを食べて家に帰るまで待つこともできるのに・・・それでも妻に「手作りの弁当」を持ってくるように頼むことは、妻に自分の仕事の大変さをみせ、自分たちの大黒柱としての役割を家族に再認識させる一つの方法でした。
つい先頃までは、たいていの病院では、患者の弁当は家族が運んでくることになっていました。日本の病院は小さすぎて、特に長期入院者の場合など、給食のサービスにまでは手がまわらなかったからです。現在でも事情が完全に変わったわけではありません。豊かになって、たいていの病院では別の事情が生じました。筆者が東京広尾の日赤病院で娘を出産したとき、ここは一流の病院でバランスの取れた食事が出されていましたが、ここでも、友情や愛情の証として患者に弁当をもってくるケースを数多く見かけました。もちろん持ってくるのはいつも女性で、親戚や友人の説明を聞くと必ず「どうぞ召し上がって下さい。ほんの気持ちだけですから。病院の食事ってだれでも同じものなんでしょう?」というようなことを言っていました。この人たちは「勿論その必要はないでしょうけれども、あなただけ「特別」と感じてもらうためにこのご馳走を作ったのです」と言いたいのです。
これは、弁当が社交的な用途にも用いられるということだけでなく、他の国同様日本でも、毎日の生活で食事に関することは、その必要がないときでさえも、女性が行うべきだと考えられていることを示しています。
したがって、弁当は単に食物を入れてあるものというだけでなく、多くのシンボルやメッセージをも含んでおり、社会的な関係を作りだしそれを強める道具ともなります。中身だけでなく容器についても同様です。家族、学生、職場仲間のグループが遠足や運動会、あるいは花見や紅葉狩りのような伝統的な集まりに行くときは、弁当の中身を交換するのが習慣になっています。花見や紅葉狩りのときは容器は数人分のものを使い、弁当を食べることが行楽の主な楽しみとなります(『京都新聞』二〇〇一年三月二四日、一一ページ「お弁当箱を開けてみれば・・・」参照)。これは、同じ容器から同じ食物を食べることによってグループの絆を強めるという独特の雰囲気に基づくもので、他の国とさして違いません。
今日、弁当は昔ながらのご飯、塩鮭、漬け物、梅干し/梅干しを入れたおむすび/白いご飯のおむすびに醤油につけた海苔をのせたもの/明治時代以来庶民の日常の食事であった鮭ご飯、などとは大きく違ってきています。弁当箱は多様性に富んだ洒落たものとなり、東洋・西洋のあらゆるご馳走を入れるようになりました。また季節ごとに、外観の面からも中に入れる惣菜の面からも、その季節特有の弁当があります。色、容器への盛りつけ、種々の料理の組合わせと容器の関係、これらは正月に重箱で供されるお節料理と同じくらい非常に重要です。まるでそれぞれの料理に「収まる場所」があるかのように、中身の料理は箱の中のそれぞれの場所に配置されます。箱の内部の仕切は取り外しや移動が可能で、各種の食物が形と色もバランスよく非常に美しく組み合わされています(これらは弁当に関する本や雑誌記事をみれば必ず出ています。雑誌のリストおよび土山ツネオ・山本勝共著の本、一九九〇を参照)。昔は食料が乏しく、食事に変化をつけることはむずかしかったでしょう。しかしすでに平安時代には、上流階級の人は前にのべた重箱を、行楽やお客を招いたときの食事や調理した料理の保存などに使っていました。昔も今も重箱は漆塗りで、ふつう内側と外側は違う色に塗り分けられています。これは現在では、主に家庭でお正月や特別に行事で多くの人が料理を分け合う時に使用されています。また、高級料亭でも、料理を入れる特別に高価な容器として使われています。
京都のある一流の料亭にはいろいろ高価な「弁当メニュー」がありますが、中身の料理にも容器にもすべて季節感を出すよう工夫されています(納屋、前掲書、一九九三、全ページ)。お正月の場合、中身の料理は、健康、幸運、繁栄などを願う縁起の良い名前のものを使います。昔はその料理をつくることが家庭の主婦の腕の見せ場、家庭で重要な役割を果たしていることを証明する晴れ舞台の一つでした。今日同様、美しさ、料理、女性というのはすべてないまぜになって、ひっくるめて「女性的なもの」と考えられていました。
経済事情さえ許せば、美しさとバランスのとれた組み合わせは今も昔も必須条件です。ある年輩のインフォーマントは「よい弁当には海の物、山の物、畑のものが入っていなければなりません」と話していました。日本人の食感覚ではこの三種に分けるのが一般的ですが、これは神道の価値観、自然観、人工的な景観を反映しています(Asquith
& Kalland ed., p.2参照)。
弁当箱の中身の盛りつけは、通常の日本料理の盛りつけ方とほとんど同じです。しかしここでは日本的な「間」の感覚は忘れ去られます。これは機能上の理由によるもので、箱の場合は縁までいっぱい詰めます。美的見地からは、箱と空間、空間と料理のバランスがとれていなければなりません。空間の量は日本でも地方によって異なり、北部では沢山詰めます。コントラストへの意識は強く、食物によって切り方も違います。幅の狭い長方形の人参は半円形のかまぼこの隣におきます。食物で切ったものや塊状のものの数は、三、五、七といった奇数が好まれます。これは古代中国からきたものと思われます。中国では昔、偶数はyin(凶)、奇数はyang(吉)で、食物は奇数のほうが縁起がよいと考えられていました(土山・山本、一九八五)。
この論文で用いている「箱」という言葉は、広く「容器」を指します。日本では、箱には様々な形、様式、材料のものがあります。筆者自身の調査でも、中身で箱の構造が決まり、箱の形、色、大きさはそれを使う人の性、年齢、仕事によって変わることが判明しました。筆者の体験によれば、ピンクや赤は女性だけ、青とマリンブルーは主に男性が用いていました。黄色と緑は、男性の方が多いとはいえ、今では男女の別なく用いられていますし、テレビアニメの有名なキャラクターの場合もそうです。小さな女の子の場合、女の子用のアニメだけでなく男の子のアニメのキャラクターのついた弁当箱もよく使われていますが、その反対のケース、小さな男の子が女の子用のアニメのキャラクターのついた弁当箱を使う例はあまり多くはありません。
筆者が日本に滞在していたとき、そしてまた、その後何度か訪れたとき、弁当を持って行くような社交的な集まりや行事に何度か参加したことがあります。特に忘れられないのは娘の学校の運動会と大学の友人や隣人たちとの花見です。数日前からみんな弁当に持っていく料理のことで夢中でした。子供たちはひっきりなしに母親に尋ねたり、時には何々にしたら、などと提案したりしていました。皆と分け合って食べる弁当には二つの重要な点があります。可愛らしいこと、および/あるいは美しく詰め合わせること、それに誰もが好む料理を詰めること、です。そして花見の場所とか景色のいい場所に来ると、花や景色を見るよりも、弁当を広げて食べることに気を奪われているように見えました。他の人が手作りの弁当を広げると、それを食べる前に「おいしそう」「きれい」といったような言葉がかけられます。このような会食では、社交的な絆を強める一つの方法として、お酒もよく出されます(Jane
Cobbi, 1992,1993参照)。このような機会は酒を酌み交わすことが有意義な時でもあり、このような会食を指す「酒盛り」という言葉さえあります。そして男も女も一緒に集まり、酒を飲み料理を食べることでグループや共同体の一員としての絆を強めます。今日では「花見」や「運動会」がそれにあたります。
弁当の中身はその行事と密接に関連していますが、容器の重要性も無視できません。そのような集まりや行事が自然と関連するもの、季節的なものである場合、弁当は色、景色、季節感を反映していなければなりません。季節感がよく出るよう、容器は中身とよくマッチしたものでなくてはなりません。春や秋の自然を楽しむ会、お盆、お正月のお節料理などがそうです。日本料理では、料理を入れる弁当箱で、美しさ、質、盛りつけなどの効果が強められます。家庭では、どのような場合の食事か、どのような料理を入れるのか、によって違った食器を用いますが、弁当箱の場合も全く同じです。
前にも述べたように、日本では奇数が好まれますが、それがなぜか、なぜ料理でも奇数を使った盛りつけをするのかはよく知られていないようです。たいていの人は自分たちの母親がする通りにするのです。
女性の多くは弁当雑誌の説明に頼り切っています。しかし、食物を四切れに切るのは縁起が悪いということは誰でも知っています。日本では数字の四の発音は「死」と同じだからです。しかしこれは弁当箱の中の仕切では関係ないようです。「松花堂弁当」と呼ばれる三〇センチ平方の塗りの箱がありますが、この箱は内部が同じ大きさの四つの部分に仕切られていて、そこに懐石料理(以前は茶席で出される料理でしたが、今では和食のなかで一番上品で高級なものの一つとなっています。)を入れて供します(土山・山本、前掲書、七〇ページ)。この事実を見てもわかるように、食物を切り分けるときに縁起が悪いと考えられている数字でも、弁当箱の仕切りの場合には関係がないようです。筆者の友人で三〇歳台の人の話によると、その人のお母さんはいつも、弁当に入れる食物を何切れに切るかで悩むそうです。三切れも四切れも困るからです。この友人は新潟出身ですが、この地方には筆者が先ほど紹介したのと同じことわざ「弁当のおかずを三切れつめるのはよくない」があるそうです。「み」と発音する語は「三」と言う意味であると同時に「身体」という意味にもなりますので、その弁当を食べる人に悪運をもたらすおそれがあると考えられるのです。その友人は言いました「二切れでは足りないし、五、六切れでは多すぎるし・・・これがお母さんが毎日弁当作りで悩む原因なの。」筆者はことわざ辞典を引いてこのことわざを見つけました。千葉県には同じような意味の他のことわざ「弁当のおかずにたくわんを三切れ食べると身を切るという。」というのもありました。
このような例をみても、弁当がいかに多くのメッセージや暗号を伝えるものであるかということがわかります。現在よくつかわれている暗号は昔のものとは異なります。女性の中には、弁当で夫や子供に秘密や暗号を伝える人がいます。狭くて壁の薄いアパートに大勢で住んでいると、真のプライバシー、他の人に聞かれないですむなどということは望むべくもありません。そこで、蓋を閉じる弁当箱は主婦にとって絶好のコミュニケーションの手段なのです。日本人は言葉よりもシンボルやサインのほうを好みます。例えば新婚の妻は、弁当雑誌で海苔をハート型に切る方法とか、海苔や胡麻で「好き」と書く方法とかを教わります。ところが残念なことに、夫の同僚はその「愛妻弁当」をのぞき込みたがります。そして結局「秘密のメッセージ」は秘密でなくなり、夫は同僚に冷やかされて当惑してしまうのです。しかしこの「当惑」は幸せなもので、だれもが、このような愛妻弁当を作ってくれる妻を持った男は運がいいと羨むのです。そしてその幸運な男は束の間の幸せを満喫します。このような状態は長くは続かないことを知っているからです。特に子供が生まれると妻の注意はすべて子供に向けられてしまうからです。夫が仕事で昇進すると、妻はその日の弁当に「おめでとう」と書きます。
大阪出身で三九歳のある女性の話では、昔、「今夜愛し合いたい」と思うとき、特に一五歳になる息子が高校入試の準備のために通っている塾から夜遅く帰ってくるときに、夫に暗号メッセージを送ったものだそうです。彼女の夫は苺が嫌いでしたので、普段夫の弁当には決して苺をいれませんでしたが、夫にそれを知らせたいときには、わざと苺を一個いれて早く帰宅してもらったそうです。
良い話ばかりではありません。ある七七歳の女性は、高校教師の夫に女が居ることを知っていながら、「夜遅くまで残業しなければならない。」と嘘を言う夫のために、夕食の弁当を作らされたそうです。そこで「わざと美しくもおいしくもない弁当を作って復讐したの?」と聞きましたところ、彼女は誇り高く「とんでもない。精魂傾けて最高に美しく作りました。だって、彼女の目にふれるんですよ。」と答えました。彼女の夫とその女との関係は一〇年以上も続きました。そしてその間、夫が「今夜は試験の採点、あるいは教材の準備で遅くなる。」と言うときは(本当はその女の所に通っていたのですが)、可能な限り最上の弁当を作り、それを子供に届けさせたそうです。彼女は、夫の弁当を作るときにはいつもそのライバルのことを頭において、中身も入れ物も念入りに選びました。その女に「見て。この男にはこんな素晴らしい妻があるのよ。私に頭を下げさせようたってだめよ。」と告げたかったからです。
このケースを見ればわかるように、日本では弁当箱は比喩的なメッセージを伝えるのにも使われ、女性たちはその方法をよく知っているのです。
一九九六年、日本の公立小学校でO157と呼ばれるバクテリアが検出され、子供が数人死亡するという事件がありました。その原因は学校で食べた給食による食中毒と判明しました。当初は少し混乱していて、当局は原因の調査に積極的ではありませんでした。しかし時が経つにつれて更に多くの人が中毒症状をおこし、中には死亡するものまで現れて、ついに学校給食は一時中止されることになりました。
朝日新聞と産経新聞の記事をいくつか切り抜いてありますが、これをみると七月はいろいろと問題の多い月だったようで、これらの件についても沢山の記事があります。ところがさらに八月末から九月末にかけて、また別の食中毒事件が発生しました。子供たちに犠牲者が出て学校給食は中止され、母親たちが子供の弁当を作ることになりました。
PTAは当局に原因の究明と事情の説明を迫りましたし、母親たちは弁当をもたせることを拒否し、安全な給食を要求しました。
このような食中毒事件の大半がおこった大阪近郊の堺市では、子供たちは弁当を持参するように指導されました。九月には、全体で九二校のうち二四校の七〇人の生徒が弁当を持参することができませんでした。弁当を持って来ることのできた生徒は合計で約四二、二〇〇人でした。家に帰って自宅で昼食をとることにした生徒も一人いましたが、その生徒以外の弁当を持参できない子供たちのためには、学校がミルクとパンを配りました。
七三校の二〇〇人ほどの生徒は、昼休みの始まる直前に母親に弁当を持ってきて貰いました(『朝日新聞』一九九六年九月二五日)。
文学や新聞記事には弁当を神秘化するような文章をみかけますが、それと同時に神秘のベールを剥ぐような文章にも出くわします。同じ新聞に「隣の山田さん」という連載漫画が掲載されていますが、その中で、主婦である山田さんが台所で姑と話をしています。「九月から給食があるって学校は言ってるから、弁当作りで早起きしなくてもいいわね」というと、姑は「あ、そう」と答えます。一方公園では、山田さんの娘が友達と話をしています。娘:「すてき!明日から給食よ」娘の友人:「あなたO157がこわくないの?」娘:「そうねェ。でも、いつかお母さんが作ったお弁当には卵の殻とマヨネーズ容器の蓋がはいっていたのよ!」
O157事件が発生してから間もないころです。新しいマーケッティング戦略を探していた弁当箱のメーカーは、人々が食中毒事件に過敏になっているのをみて、しかも犠牲者は主に学童でしたので「抗菌処理済み」とうたった弁当箱を発売しました。これは別に目新しいものではありませんでした。抗菌処理したプラスチックの箱はとうの昔から製造されていたのです。しかし、不安を抱いていた母親たちは古い弁当箱を捨て、その捨てた弁当箱と大差ない、新しい「菌の不安のない」ものに飛びついたのです。
一九九六年の夏以来、学校給食も大きく変わりました。グリーン・サラダの代わりにコンソメ・スープが、生野菜の代わりにジュースや缶詰の野菜が出されるようになりました。生野菜を調理する前に数秒間熱湯に浸けている学校もあるそうです(『朝日新聞』一九九六年九月一七日)。
O157は一九九七年の夏には姿を消し、すべてが元通りになったようにみえます。しかしそれでも、一九九六年以来、販売されている弁当箱の多くは「抗菌加工」と記されています。
またこの時までに、新しい弁当箱、温食用のポット・タイプのものが販売されるようになりました。これは一つには、母親たちの多くが子供の弁当に生ものを使うのを避けようとするため、また一つには、生徒の多くが(主として男子生徒)が、スープ以外は冷たい和風の料理よりも暖かい肉を好むためで、塾で食べる弁当の場合は特にそうです。
このように、一九九六年の春から夏にかけてのO157事件以後、弁当箱の多くは「抗菌加工」をしたものが売られています。弁当箱には種々の年代のもの、好みのものがありますが、私たちはその外観を見ただけでどのような社会グループの人が使うかわかります。人々は様々なタイプや値段のものから、自分の好みと用途にあったものを選ぶことができます。
日本では、結婚式や葬式などの通過儀礼の際には、参席者全員に特製弁当を用意するか、あるいは料理屋から仕出し料理を取り寄せなければなりません。特に葬式の場合には一人分のもので、中身も不祝儀にあったものでなければなりません。このような場合に用いる箱はフォーマルなもので遊びは許されません。昔ながらの重弁当が一般的です。中身は伝統的なもので、西洋料理はほとんどみられません。葬式のような厳粛な会合では、食事も和風でなければなりません。私も日本滞在時いくつかのフォーマルな式に参加して、見たことがあります。
前の章で、働く女性の多くが弁当を使うようになったと述べましたが、それにはコストが安い、健康によい、静かな場所で友人や同僚たちと一緒に食事できるなど、いくつかの理由があげられます。日本の全国紙の一つである産経新聞は、女性会社員の間で弁当が流行していると書いています。この新聞によれば、外で食事するOLは一九八四年には五〇%でしたが、一九九七年には四〇%になっています。働く女性たち(その年齢層は主として二二〜二三歳ですが)は、弁当ならリラックスした雰囲気の中で食べることができるし、食べるために長い行列に並ぶ必要もないし、好きなものを食べられるし、しかも健康にも良い、と言っています(『産経新聞』一九九七年一月二三日)。
働いている男性はどうでしょう?男性会社員はまだ同僚と近くの飲食店に食べに行くケースが多いようですが、新しい傾向もみられるようです。産経新聞によると、三五歳以下の若い会社員の多くは、社員食堂のある会社で働いている人でも、ほとんど毎日弁当を買っているそうです。コンビニ弁当を食べる理由としては、「一人住まいだから」「社員食堂はあまりおいしくない」「コンビニ弁当のほうが安い」などがあります。またこれとは別に、会社からの帰りにも弁当を買う人が沢山います。自分で夕食を作らねばならない場合、コンビニ弁当のほうが安いし変化に富んでいるからです。セブン・イレブンなど日本のコンビニ・チェーン店の一九九七年の弁当売上高は平均で二八億円でした。
弁当の流行に関してもう一つあげねばならないのは、駅弁です。これは地方の駅で販売するために作られた郷土料理の弁当です。
一八六八年の開国後、日本では全国に鉄道が敷設され始めました。新しい時代は、旅行や娯楽の黄金時代をもたらしました。日本人は本来大の旅行好きです。しかし江戸時代には地方に旅行するには当局の許可が必要でした。それが一九八六年以降、どこにでも自由に旅行できるようになった上に、列車のおかげで移動も楽になったのです。こうして「ディスカバー・ジャパン」の時代が始まりました(白幡洋三郎、一九九五、二〇八ページ)。
日本で最初の列車が新橋から横浜まで走ったのは一八七二年です。駅弁が始まったのはおそらくその後まもなくのことでしょう。その三年後には、京都〜大阪〜神戸の鉄道も完成し、各地で弁当が販売されるようになりましたので、どこがはじめてだったのかはっきりとはわかりません。しかし、一八八五年七月一六日、宇都宮駅が最初だったと言われています。メニューはにぎりめし(中に梅干しをいれてごま塩で握ったもの)とたくあんでした(入江、一九九五)。その時以来、駅弁は非常に人気が高くなりました。このほかにはすぐに簡単に食物を手に入れる手段がなかったからです。駅弁は、列車が駅に停まっている間に、あるいは乗車する前に買い求めます。それぞれの駅では、そのn方の料理を使った独自のメニューを作ろうと努力しました。しかし、概して質、量ともに創造性に富むものとは言いがたいものでした。
人々が駅弁を、その中身のおいしさと盛りつけの美しさ、両方の面から楽しむようになったのは六〇年代に入ってからのことです。一九五八年には「こだま」が走るようになりましたが、これが駅弁と大きな関係があります。多くの人が、地方のおいしい郷土料理を食べたいということでその地方に出かけるようになったのです。駅弁は、その地に旅行しない限り食べられないものでしたので、人々はその有名な弁当を食べるために、喜々としてその地に出かけました。地方の郷土料理を食べに行く旅行の流行は、伝統的な民間宗教にみられる「はれ」と大きな関係があります(波平恵美子、一九八六)。「はれ」とは、明るさ、日常とは切り離された特別な祝い事、祭りなどを指します。昔の日本では「しばらくの間日常すなわち『け(褻)』を忘れて祝い事を楽しむ」というのは、ほんのわずかな場合にしか許されていませんでした。旅行に出かけるというのはたいていの場合、どこか遠い知らない駅で買った特製の弁当を楽しむ、言い換えれば「はれ」の気分にひたるための口実にすぎませんでした。日本の人々がそのことに気付いていないとしても、この事実は、昔ながらのイメージが現在も残っていることを示しています。
新幹線の開通でこのようなローカル駅の弁当は終焉を迎えたようにみえました。しかも大会社が車内食堂を運営するようになりました。しかし現在では、駅弁愛好家が集まって、自分たちの弁当を販促し、良い販路を探そうと「駅弁友の会」というものを作っています。
近代的な生活、巧みなマーケッティング、生鮮食品保存法の向上、迅速な宅配サービスなどのおかげで、弁当は救われました。「村おこし」運動によって、ふる里料理への需要が高まりました。「ふる里」という言葉が現代日本社会でいかに重要な役割を果たしているかについては、多くの本で論じられています(Ivy,1995; Kelly, 1986; Reader, 1987:Kalland&Asquith, 1997)。今では駅弁は商品化され、美しい景色、名所、季節の脇役として販売されています。
駅弁友の会ではその後も製造を続け、いろいろなルートを通じて注文販売もしていますので、今ではどこの駅弁でも、日本のどこからでも注文することができます。また、前にも述べたように、大手デパートによる販売網もあります。友の会では、正月、二〜三月、七月に全国のデパートで駅弁大会を開きます。人々は、自分の住んでいる街や村に居ながらにして、北海道のおいしい鮭を、富山県の鱒を、讃岐のうどんを、熊本の鮎を、それもコレクターが珍重する特製の箱にきれいにつめたものを味わうことができるのです。一九九八年、熊本市で三四回目の駅弁大会が開催されました。その時のパンフレットによれば、中身の面でも器の点でも独創的な、様々なものが展示されました。この時の熊本大丸デパートでのハイライトは、北海道の「いくら弁当」、小樽の「かに弁当」、富山の「ます弁当」、函館の「あわび弁当」、下関の「ふぐ弁当」だったようです。容器で変わったものは、「だるま弁当」(箱がだるまの形)、「ふぐ弁当」(蓋がふぐの形)、「うさぎちゃんの夢」(箱がウサギの形)、「すきやき弁当」などがあげられます。特にこの「すきやき弁当」の箱には卵がはいっていて、ひもを引っ張ればすきやきが暖められるようになっています。ちなみに、同じ熊本市でそれより前に開かれた駅弁大会で一番面白かった容器は、桃の形をしていて、蓋におとぎ話の有名な英雄、桃太郎が描かれている「桃太郎弁当」でした。
弁当の調製元は、競争に遅れないよう、消費者の好みに関するデータを沢山集めています。最近では中身も容器もとてもしゃれた、変わった駅弁が発売されています。例えば、岐阜県の飛騨高山駅で販売されている「まきちゃんの作ったお弁当」(海苔巻きがはいっていて、蓋にまきちゃんという有名な漫画の主人公が描かれている)とか、「とってもヘルシーだちょーん弁当」などです。この弁当の名前はかたかな、ローマ字、ひらがな、漢字をまぜて書かれていますが、一種の言葉遊びで「駝鳥の肉がはいっている」という意味と「びっくりするような昼食」(ちょーん)というイメージを与えます。これは兵庫県の和田山駅で販売されています。
旅行もしないで駅弁を食べている人は幸せを感じているのです。というのも、本来その駅弁が販売された場所を昔訪れた、その時の感じをもう一度味わい、束の間今の日常生活を抜けだすことができるからです。駅弁の調製元は、企業から注文を貰うために、その会社の特別な行事の際や、他県から来ている従業員が多い場合に、特別サービスをすることがあります。
ここに「日本人の心を捕らえる駅弁」という日本経済新聞の切り抜きがあります。この記事によれば、「駅弁は以前にもまして人気がでており、一九九七年には売上が二、八〇〇億円に達した」ということです。毎日の生活で駅弁の最大のお得意はサラリーマンで、朝、電車に飛び乗る前に駅のキオスクで買っています。駅弁はどこの通勤駅でも、またどの長距離列車でも販売されているからです。これを考えれば、デパートで催される駅弁大会での売上げは、非常に重要です。駅弁大会を催したデパートのデータによれば、一九九六年から一九九七年にかけて一番人気のあった弁当は、ご飯と烏賊の入った北海道の「いかめし弁当」だったそうです。(また、別のデータによれば、一九九七年に駅弁が販売されていた場所は催し物の場合を除いて日本全国の三六〇カ所で、毎日一一万食が売れ、年間の売上げ利益は五六〇〇億円だったそうです。)駅弁を調製・販売している会社は大きなものもありますが、家族で経営している中小規模のものも沢山あります。このような家族経営の場合は従業員は六人以下、時には夫婦だけで、近くの駅から出る始発列車に間に合うよう朝四時から働いている、というのもあります。
販売されている弁当でも、梅の花で早春のイメージを出したり、紅葉の形に切った一切れのかまぼこで秋の感じをだすなど、季節感が盛り込まれます。
駅弁は行楽弁当の範疇にはいるだけでなく、旬を味わうという点でも大切です。「旬」とは「ある食材が一番おいしい季節」と言う意味です。駅弁は、いつも「その季節の食材」を組み合わせて作ってあります。たいていの日本人は、季節の食物をその産地で食べることに特別な感情を抱いています。特に、駅弁をよく食べる四〇歳以上の年代の人がそうです。また、一昔前なら現地に行かなければ絶対に食べられなかった食物を楽しめるという喜びもあります。駅弁なら今ではそれ以上のこともやってくれます。デパートの駅弁大会で駅弁を買った人の中には、次のように言う人もいました「私たちにとって、ここで買う弁当は、駅や列車で買ったものよりずっとおいしくて、もっと楽しいのです。」デパートの駅弁大会で弁当がこんなによく売れるのは、多分こういう理由によるものでしょう。
弁当の流行を理解するもう一つの手がかりは、歌舞伎や能を見に行ったときにこれを食べるという慣習にもみることができます。この慣わしが消えることはないでしょう。一九九六年には国立劇場が創立三〇周年を記念して「顔見せ弁当」を販売しました。ちなみに「顔見せ」という言葉は、歌舞伎開幕前にその興行で演ずる俳優が揃って挨拶することを指し、江戸時代にはとても有名でした。国立劇場のこの弁当は一九九六年の創立三〇周年記念の時だけ販売されたものですが、江戸時代のものによく似ていました。販売された弁当は二種類あって、「顔見せ弁当」が三、四〇〇円、「鯛飯」が一、五〇〇円でした。「顔見せ弁当」のほうは焼き魚と刺身が入っていて、刺身用の醤油はただの醤油ではなく、酒に鰹節と梅干しを混ぜて煮たものでした。また江戸時代に好まれた「きくらげトーニ」(卵豆腐の一種)や「揚げ出し大根」(油で揚げた大蕪)と油で揚げたこんにゃくもついていました。「鯛飯」のほうには、江戸時代に有名なご飯、鯛飯がはいっていました。
千葉大学の松下幸子名誉教授は、「このメニューは江戸時代の料理が種々記録されている文書から選んだものです。当時の人々は、劇場に行くときにはこのようなものを食べていましたが、現代では量も多く質ももっと良くなっていますので、現代人の好みに合わせることもできます」と話しています
「昔の料理を、もっと質を高めて今の時代に楽しむ」これは非常に重要なことだと思います。現在歌舞伎を見に行って昔のように顔見せ弁当を食べている人は、現代生活の種々の恩恵に浴しながら古い時代に旅し、その時代の一番良いところを楽しむことができるからです。この弁当が受けたもう一つの理由は、これがこの時だけ、劇場の創立三〇周年記念の時しか食べられない、ということでした。時間が限られていると希少価値が増します。実際、国立劇場ではこの記念事業が終わると同時に「顔見せメニュー」の販売も止めました。
弁当はこのように広く普及していますが、サリン・ガス事件を引き起こしたオウム真理教も弁当にいくらか関係があります。いまここで犯罪について論じるつもりはありませんが、一九九六年八月一九日付けの朝日新聞で奇妙な記事を見かけました。それによれば、オウム真理教の信者たちは、蓋の中に麻原教祖の写真が印刷されている弁当を買うことができたそうです。この写真は、蓋を開けた瞬間に見えるように、すなわち、蓋を開けないと見えないようになっています。これをちゃんと立てれば、どのような場所でも周りの人に気付かれないで祈ることができます。それとは全く関係のないことですが、これはキリスト教が禁止されていた江戸時代のかくれ切支丹が用いていたイエス・キリストとマリアの絵を思い起こさせます。同時にまた、オウム真理教創立者、麻原彰晃の写真を隠せる用具は沢山ありますのに、その中で弁当箱が選ばれたということは、多分、これが非常に日常的なものであり、日本人の毎日の生活で広く使われているからでしょう。
本来の用途の面でも比喩的な意味でも、弁当が絶えることなく使われているもう一つの例は、一九九六年一〇月三一日付けの朝日新聞にみられます。環境整備活動の一環として山の清掃をするボランティア・グループが結成されました。これはお金のためにするのではない、どのような団体からもお金は貰わないことを説明するために、この新聞記事は「作家六人呼びかけ。主婦、学生手弁当で」という見出しをつけています。「手弁当」という言葉は、翻訳するのはさほど簡単ではありませんが、普通「弁当は自分で持参する」あるいは「弁当代は自分で払う」という意味で使われます。しかしここでは「自分の弁当を持っていく」だけでなく、さらに「その他いかなる金品も受けないボランティア活動である」という意味がふくまれているのです。
この章では「デパートの弁当売場とコンビニ弁当」について述べます。日本では、毎日二四時間開いているコンビニエンス・ストア(以下「コンビニ」と略します。)は七〇年代からあり、非常に流行っています。一人住まいのサラリーマンやOLが主な客で、いろんな種類の弁当が売られています。コンビニは種類が多く、総カロリーも明記されています。
コンビニで弁当を買う人の平均的人物像は三〇歳前後の会社勤めの男性ですが、OLや学生も沢山います。コンビニが実施している第一のマーケッティング戦略は、顧客の好みを良く把握することと、低コストで提供することです。コンビニの中には小さな会社、時には毎日弁当を作っている女性と手を組んで、その店で弁当を販売させているものさえあります。普通のコンビニは大小の弁当製造会社から仕入れていますが、仕入先は通常一社にしています。(弁当調製会社間の競争は熾烈ですので、私の知る限りでは、日系南米人や、アジア諸国からきた女性を使っているところもあります。)弁当のマーケッティング戦略に関しては、デパートの役割を無視することはできません。デパートの弁当大会一日だけで駅での売上げ一週間分以上の売上げがある、ということを忘れることはできません。デパートは、特に春に弁当箱キャンペーンを支援し、伝統的なイメージや古い習慣をアピールします。Millie R.Creightonは、「デパートは、輸入品の販売という点で西欧の受け入れに欠かせない存在ですが、同時にまた、日本の商品の販売においても伝統の再発見という点で重要な役割を果たしています」と言っています(Re-made in Japan,Joseph Tobin ed., 1992, p.55)。
『お弁当』というプロの弁当調製者向けの本(柴田書店編、一九九二)の序文には次のように書かれています。「私たちが売っているのは弁当だけではありません。便利さ、最上のサービスも提供しているのです。単に食物を提供しているだけなのではなくて、家庭や職場にありながら、レストランのようなサービスと利便性をうけられる食事を提供しているのです。二一世紀には家庭への食事の宅配が大きなビジネス・チャンスとなるでしょう。」このことは、「弁当のロマンティシズム」にもかかわらず、食事の宅配サービスとファーストフードは伝統という衣を着せて、今よりももっともっと利用されるようになる、ということを意味しています。八〇年代には「ホッカホカ弁当」店が流行るようになりました。これは、作ったばかりの暖かい弁当を買って帰ることのできる店です。最近ではこれを真似た「あたたか弁当」という店もできましたし、コンビニやキオスク、デパートの食品売場でも、いろいろな種類、大きさの弁当を売っています。「ほかほか」という言葉は「暖かくてまだ湯気の立っている状態」を表す言葉で、家に帰っても暖かい食事が待っていることを望めない一人住まいの男性や女性にとって、食欲をそそられるような親しげな響きを持っているのです。「暖か」という言葉には「ほかほか」 ほどの親しみは感じられませんが、これも愛のこもった暖かさをもつものに対して使われます。この二つの言葉が既製の食品を販売するのに使われたのはこのためです。この種の食物は非人間的で、暖かい感情抜きで作られる、と考えられていました。しかし「ほっかほっか」や「あたたか(い)」という言葉を使うことによって、お客は家族的な親しみのこもった人間的なつながりのある食事(お母さんの作ってくれた料理のような)と感じることができるのです。
一九七〇年代、筆者がカナリー諸島に住んでいたとき、あちこちのレストランがドイツ人客を呼び込むために「どれもお袋の味」という大きな看板を出していたのを思い出します。ドイツ人客は、あたかも「ふる里」にいて、むかし愛するお袋が作ってくれた料理を楽しんでいるかのような暖かさ親しみを感じることができる、というわけで、同じようなマーケッティング戦略の一つです。
新幹線では、車中で買える有名ホテルやレストランの弁当も非常に人気があります。オフィス・ビルや大きな会社への配達を専門とする給食宅配サービスも日に日に成長しています。このような会社は、好きなものが選べるよういろいろな種類の弁当のカラー見本をだしていますが、そのなかには、低カロリーのダイエット弁当もあります。このことは、ダイエット意識がますます浸透してきていること、弁当もその例外でないことを示しています。
コンビニが社会に及ぼす影響は大きく、まずここから始まって人が真似するようになったものもいくつかあります。一つは、おにぎりと海苔を分けて包む小さなパラフィン紙です。お客は食べる直前にこの紙をはずせば、パリパリした海苔がたべられる、というわけです。家庭でおむすびを作るときには、最初からおにぎりに巻いてありますので、湿気て柔らかくなっています。そこでデパート弁当箱売場の最新のトレンドは、おむすび用のこの特製パラフィン紙なのです。
コンビニがつくり出したダイエットの影響とみられるもう一つのトレンドは、新しいタイプの箱です。これは、少量のご飯と各種の総菜を分けて入れられるようになったもので、今では他でも販売されています。これを使う人(特に若い女性)は、食べる量がわかります。デパートやコンビニは人々の好みに敏感です。そして人々はデパートやコンビニから影響を受け、今ではOLのほとんど、それにダイエットを意識している人々は、非常に個人的な「弁当闘争」で、店に対抗しています(「朝日新聞」、一九九八年三月二〇日)。
前に述べた『お弁当』という本(前出、p.56)には、紙、カートン紙、アルミ、漆器、プラスチック、軽い木の箱など、弁当箱として使える材料のリストがのっています。いずれも、これはよくてもあれは駄目といったように、中に入れる総菜の向き不むきがありますし、電子レンジに使えるものとそうでないものもあります。箱のタイプで中身が洋風か和風かもわかります。昔と同様、現在でも容器と中身は密接に関連しています。すなわち、中身で容器がきまるのです。
弁当箱は日本社会の発展・変化と密接な関連があります。日本では、弁当箱は数人の人が分け合って食べる共用の容器だった時代から個人用の工芸品にまで発展し、かつてのように同じ容器から食べるという機能はもう消えてしまいました。しかし同時に、分けあって食べる容器としての機能は、特別な会合、外出、通過儀礼や祝い事の儀式専用となりました。
弁当箱の設計・製造は、室町時代末期から江戸時代にかけて、完成の域に達したといえるでしょう。貴金属の使用、デザインの独創性、総菜の多様化が顕著だからです。弁当はまるで日本社会を映す鏡のように、社会の新しい動向に従って形も用途も新しく変わりました。戦争も弁当箱の発展に寄与しています。頑丈なアルミ製で腰に下げて運ぶ飯盒や、腰弁当箱(これはすでに存在していました)が開発され、広く使用されるようになったのはこの時期です。
現在の平和な時代には、弁当の製造は中身の点でもデザインや資材の独創性の点でもブームとなりました。少し前までは、生きるための食事が問題でした。しかし今では、弁当は日本の食文化の中で確固とした地位を占めるようになったかに見えます。現在の日本では、食べることは人生の喜びの一つだからです。幸いなことに、日本人の多くは、単に「生きるため」ではなく「楽しみのため」に食べているようです。しかも弁当箱は、日本社会の「遊び」の感覚を示す工芸品となっています(熊倉功夫『京都新聞』、一九九四年九月一三日)。お客をひきつけようと「おかしな」仕掛け(英語の使用、可愛らしい形、古い伝統的なものの模倣など)が広く使われているのを見ると、マーケッティング戦略もこの点を看破しているようです。
弁当、弁当箱、仕出し弁当が最近ブームになり、OL、学生、サラリーマン、主婦たちみんなが弁当を大量に消費しているのは偶然ではありません。中身が変わったことも重要ですが、私の調べたところでは、弁当箱の形、大きさ、色の変化も大きな意味を持っています。ホーム・メイドの弁当でも既製品の弁当でも、歴史上の事件や危機、女性の地位、教育システム、バブル経済などを反映しています。しかし私たちは、今の日本が全く新しい役割を果たしている国際的な舞台も無視することはできません。弁当箱を使うことによって、現代の日本は伝統を保っていけるだけでなく、それを取り戻すことさえできるのです。しかも時には洋風の総菜を詰めて、ちょっと洗練されたエキゾチックな感じを味わったりしながら。日本人は自分たちがほとんど忘れてしまった伝統を創り直しながら、同時に、世界共同体の一員としての自己、自分たちが日本と世界の両方に属していることを再確認しているのです。外国の食文化を弁当に合うように作り直して自国のものとし、慣れた食べやすいものとしてしまいます。外国からの影響がますます増える社会で、「日本らしさ」の感覚も強められ、自国風に作り直されます。
日本を良く知っている人ならきっと、「日本では外国の影響が日常にあまりに広く浸透しているので、自分たちが外国商品および/あるいは外国文化に浸っていることを、時には日本人自身が忘れてしまう」ということに気付いたことがあるでしょう。ある一五歳の日本人の少年が米国に留学し、アメリカのホームステイ先で、「おやまァ、アメリカにもマクドナルドがあるんですね」と言ったという有名な笑い話があります。しかしこれは日本人だけのことではありません。私たちはみんな、どの国の人でも、自国の伝統文化、自国の伝統的な物品、自国の伝統的な料理についてはちっとも知らない、ということがあり得るのです。
伝統的なスタイルに作り直された弁当箱で新らしく考案された総菜の弁当を食べることによって、多くの日本人は外国を、そして同時に、一番大事な日本文化も同時に味わうことができるのです。日本人のアイデンティティの構造と、西欧のものの自国への取り込みが、単に「ポスト・モダン・消費者・情報型の社会」の出現のせいだけではなく、これまでの歴史の中にみられるはずであるとすれば、自国の工芸品の使用のリバイバルについても似たようなことが言えるはずです(Dorinne Kondo, 1993,p.199)。緊密にからみあった世界の中で、たえず変化し種類も豊富な弁当箱は、二重の橋のような働きをしています。すなわち、多くの日本人は新しく作り直された自国の伝統工芸品に接し、あるいは良く知り、そして、あるいは楽しむことができるのです。
弁当箱を使用することによって、日本の人は伝統のよさと同時に現代の豊かさの利点(外国文化の影響は、自分たちのアイデンティティ、毎日の生活、好み、スタイルなどすべて自分たちにあうものに作り変えて)をも享受することができるのです。弁当箱など日本社会の分析とは何の関係もない、と考える人もいるでしょうが、弁当箱はこれからもきっと日本社会の変化を反映し、日本人と日本人の日常の行動に影響を与え続けていくでしょう。これはまた、いつの日か他国の習慣や生活様式にも影響をおよぼすようなことになるかもしれません。
【感謝】
この研究は、貴重な援助や情報を提供して下さった多くの人々のお陰でできました。特に、大阪、佐々木歯科医院の佐々木順子先生の長年にわたる援助とデータ収集協力、明海大学教授の高山隆三教授ご夫妻、国連大学の永井道雄教授ご夫妻の支援と貴重な情報に感謝いたします。
また、次の方々にも心からの感謝を捧げます。国際日本文化研究センター研究協力専門官臼井祥子氏、彦根博物館の斎藤望氏とそのチーム。慶応大学の野沢素子教授、東京の天麩羅屋「お江戸」の桑野トシヒコ氏、京都の岡松慶久氏、国際日本文化研究センターの白幡洋三郎教授、米谷光暁課長、この発表をお手伝い頂いた野中郁枝氏。
また、初めて日本と日本文化への興味を抱かせてくださった、熊本洋先生に。