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しるべのない部屋
125
 皇宮の東殿へ向かうのは、ずいぶん久しぶりだった。
 かつては、頻繁に通っていた時期もあった。青家出身である皇后のもとを訪れるために。
 学師として皇宮に上がった日が、皇后に会った最後だった。今や皇后どころか、帝の噂さえ殆ど耳にしなくなっている。皇宮の中心は確実に次代へと移っているのだ。






 渡り廊下に花吹雪が舞うのを眺めながら、北部でもこんな光景を見たと、思い返す。
 いや、ここは常春の世界だ。
 外の季節とは、全く違う。人工的に整えられ、計算し尽くされた演出の美しさがある。
 エンジュは視線を戻した。
 隣をゆくリドと、周囲を囲む神官たちの背。先ぶれがあるせいか、それなりに人がいる場所を通るのに、彼女たちに声を掛ける者はいなかった。見慣れた皇宮が、いつもとは違う場所のようだ。
 どこか非現実な感じがする。
 自分が学師であること。再び皇宮に上がっていること。
 これから巫王家のシキに面会すること。
「こちらでお待ちです」
 神官は扉の手前で一礼し、中にいる人物に敬意を示した。
 そしてひと息もつかず、扉を開く。
 そう広い部屋ではなかった。
 中庭に面した開口部が大きくとられた、風通しの良い部屋だ。中庭に繁茂する植物のおかげか、室内の空気は少しひやりとして感じられた。





 そこには見知った人物がいた。
 2人。
 男と女。シキと――皇姉。
 エンジュがリドと室内へ入ると、背後で扉が閉じた。
「邪魔の入らないところで話したいと思っていた」
 挨拶もなく、彼は短刀直入だった。かつて神居の地位にあった、シキ――ヒオウの師だ。
 エンジュに目線を向け、顎をひく。
「直言を許そう」
 拝礼もいらない、と彼は言った。
 だが、エンジュはあえて膝を曲げた。
「お久しぶりです、猊下」
 猊下が巫王(フオウ)でいらっしゃるとは、存じませんでした。
「ごく最近、代替わりしたのだ。先代は隠居されたのでな」
 顔をあげると、視線が合った。
 彼がいる場所は一段高くなっている。背もたれのある高い椅子に、シキは姿勢よく座っていた。その隣には皇姉が寄りかかるようにして立っている。久しぶりに会ってみて、あの時、この女性に脅えた理由がはっきりした。
 黒髪と黒目。
 容姿はただ人であるのに、力は他を圧倒している。精霊の光輪が輝いて見えるほどに。
「こちらは帝の姉君、アサヒナ様だよ」
 リドがゆっくりとエンジュに言う。






 ひと呼吸置いてアサヒナは笑みを深め、尋ねた。
「わたくしを覚えているかしら、エンジュ」
 考えるほど気分が重苦しく、ぞっとしてもう会いたいとは思いませんでしたと答えたいところだった。より簡潔には、覚えていたくありませんでした、だ。
「はい、ここを発つ前。庭の大樹の前で1度」
 お会いしました。
 アサヒナが首肯すると、水晶の装身具が揺れ、中庭から差し込む午後の光を反射して、こまかな光の粒を室内にまき散らした。
「そなたの選択は果たして正しかったか、…中央を選んだ結果は」
 話すが良い。
 巫王が繋ぐように言い、エンジュは再び頭を下げた。
 突然、シキがなぜこんな小さな部屋を謁見に選んだのか、分かった。
 おそらく、こういう用途には使われたことのない部屋なのだ。知られては困るような密談を行った場所に、エンジュを入れるわけにはいかない。――その異能で過去を全て暴きだしてしまうから。
 シキはすでにほぼ確信しているはずだ。エンジュに、過去を覘く力があると。
 知られていると思うことに、エンジュはまだ慣れなかった。神殿の奥にある聖池で、シキの幻に時を超えて呼びかけられた、あのときの衝撃は忘れられそうもない。だが、覚悟は決めてきたはずだ。
 おそれながら、と前おきをして、エンジュはひと息に告げた。





「ここに私たちを呼びだされた理由は?――神殿は何を企んでいるのですか」
「企んでいる?」
 まるで、面白いことを聞いたとでもいうように、くつくつとシキは笑った。
 熟した実のような赤い瞳がすがめられる。
「そなたは、何も知らぬのだな」
 なにも。
 その言葉が、重く沈黙を招く。
 リドが緊張した面持ちで、エンジュの前に出た。だが、シキが鋭い眼差しで一瞥すると凍りついたように動けなくなってしまう。シキはゆっくりと語った。
「かつて吾は、赤子の生命を救ったことがあった。皇宮の神殿の奥池で」
 そなたは『視た』だろう?
 先祖がえりの娘よ、そう呼びかけられる。
「黒家の2人は奈落をのぞむ崖に立っていた。吾は助けたかったのだ、さだめに抗えぬ哀しき者たちを。だが彼らは吾をたばかり、娘可愛さに隠し通した」
 結果そなたの両親は罪を贖うことになった、と彼は続けた。
 暴力と表現したくなるような圧力。それが、エンジュを押しひしごうとしていた。胸が詰まり、呼吸が苦しくなる。
「私は…」
「自ら視なかったのか?黎陽(レイヨウ)克黎(コクレイ)の末路を」
 そなたに流れるの神の血を。
「神の、血?」
 地面が震えた。
 言葉がぐるりと頭を回る。
 シキが立ち上がるのと入れ違いに、エンジュは膝をついた。気持ちが悪い。吐きそうだ。
「エンジュ」
 リドが心配そうにかがんだ。覗き込んでくる。
 額にはりつく前髪に、温かい手がのばされる。だが、その手をエンジュは払った。
「触らないで、」
 天地が揺らぎ、上下左右はもちろん、前後の感覚さえあやふやだった。こんなふうに感じるのは、初めてではない。おそらく、これが最後でもない。遠くへ彷徨っていきそうになる想念を、エンジュはなんとか掴み、引き留めようとした。





 そのとき。
 巫王が指先をエンジュの喉元につきつけた。指先からちりちりと精霊の火がほとばしり、場を緊張に染める。
 彼がそのまま指を横にすべらせれば、エンジュの命は奪われるだろう。
 それほど、使役する異能は強かった。
「この指が動く前に、そなたは逃げることができるか」
「…私の手に武器はありませんし、力の使い方さえ知りません」
「だが、恩寵に恵まれている。そうだろう?」
 否と答えれば嘘になる。異能について、嘘はつけない。
「…呪いです」
「呪い?」
 記憶の彼方で、ナミヤが叫ぶのが聞こえた。
 ――恩寵なんて、呪いよ!
 絶望するような声。
「呪いです。この身を縛り、不自由にする枷。日神の加護などと、ありがたがるようなものではありません」
「くだらない。力は力だ。いかに使うかが問題で、それ自体は呪いでも祝福でもない。恩寵というのは、ただ『力』の呼び方にすぎない」
「何をどう表現するかは、言葉の力です。言霊の力を信じぬ者はいないでしょう」
「そなたは、異能に脅えているのか」
 ――そうだ。
 力があるから、面倒なことになる。
 この力とこの異形によって、歪められた平穏を。
 母と、帰るべき場所を奪われた。ああ、裏切られたのだ。





 シキは目を細めた。声には出さなくても、エンジュの内心を読んだらしい。
「迷うことはない。ただ従えばよい。そなたの力を吾が存分に使ってやろう」
「私が力を委ねるのは、私が許した方だけです」
 ――僕は君を裏切らないよ。
 ヒオウの言葉が脳裏によみがえった。彼が神殿へ戻った理由を。
「既に、私は真名を交わしました。たとえ、過去の誓いであっても」
 ――絶対に。
「では、その誓いのために吾にくだれ。オウリは吾のただひとりの妹の子で、弟子。そうだな…そなたが望むのであれば、オウリにイトを守らせることもできるだろう。四宮が何を画策しているか知っているか?今なら、助けだせるやもしれぬぞ」
 友人が大切だろう?
 一瞬、心が揺れた。確かに、イトの態度は気にかかる。
「どうだ?」
「お受けできかねます」
 しかし、エンジュは唇を引き結んだ。
 うつつの夢の中、ナミヤがコクレイに訴えた言葉がよみがえった。
 神殿に繋がれ、未来を読まされる…もはや必要としない力。
 ――あの『聞こえの君』のように。






「シキ」
 名を呼んだ皇姉の声はたしなめるような調子だった。
「あまり女の子をいじめるものじゃないわ、」
 怯えてしまってよ。
 ねえ、と呟いて皇姉が段を降り、近寄ってエンジュの手を取った。手はしっとりと冷たかった。身体の震えはますます激しくなったが、彼女は手を離さない。
「あなたなのですか」
「何のこと」
 皇姉が尋ね返すとエンジュは唇の震えをとどめ、低い声で告げる。
「フシで、六華の口を借りて私に話しかけ…ヒオウが好きかどうか、お尋ねになりました」
 自分で言いながら、その名を口にしたことにエンジュはたじろいだ。取られた手を振り払いたいが、なぜかそれができない。冷たい手。心までを侵食していくような。
 皇姉は完璧な氷の美貌をエンジュに向け、微笑んだ。
「気付いたのね。聡い子は好きよ」
 彼女の声は柔らかだった。記憶にあるものよりも、さらに。
 




 ――化け物だ。
 エンジュは唇を噛んだ。
 異能はかつてより、さらに強く感じられた。彼女の全身を包む途方もない力が。
 美しい化け物の視線はエンジュをとらえていた。しっかりと、逃げ場のないように。
「そうそう、はじめに会ったときに言ったことを覚えていて?」
 エンジュ。
 そう歌うように、呼びかけられた。
 エンジュは肩をこわばらせた。
「あなたの友人に協力してもらう約束だったわ、そうね?」
「ですが、アサヒナ様…」
「イトがいいわ」
 唐突に告げられた思わぬ言葉に、エンジュは面食らった。
 それから、ぞっとして頭を振る。
「――何を、何をなさるというのです、――私は嫌です」
 イトに危害を加えないでください。
 うっすらと皺の刻まれた白い手がふわりとエンジュの頬を撫で、髪を撫でた。
「あら、彼女が嫌がることはしないわ。それに、オウリのためになることなの」
 あなたもオウリの命を長らえさせたいでしょう?
 まるで、幼子に対するようにアサヒナは言う。







「今のままじゃ、オウリは殺されてしまう。わたくしはあの子を助けたいの」
 その言葉には控えめな意図が滲んでいた。
 感情的過ぎず、決しておしつけがましい言い方ではなかったが、それがエンジュの心に鈍い痛みを残す。エンジュは組んだ両手に力を込めて、アサヒナを真正面から見た。
「ヒオウが死ぬとおっしゃるのですか」
「ヒオウ?――どうして、真名で呼ばないの。あの子はそう望んだでしょう、」
 そういうところがあなたたちの関係をややこしくしているのね。
 アサヒナは苦笑した。
「オウリはあなたを巻き込みたくないと言ったわ」
 だから、これが最大の譲歩よ。
 





 分かるかしら、とアサヒナは言った。
「あなたはもう既に渦中にいるのよ――たとえ、そう望んでいなくても」    
【恋愛遊牧民R+】


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