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覚醒
123
「まだ顔色が悪いわ、エンジュ」
 寝ていなければ、駄目よ。
 タルヒは鏡越しに、エンジュを見つめた。
「ええ、姉さま」
 と答えたものの、長椅子に座ったままエンジュは動かなかった。
 薬湯の入ったグラスを持ち、姉の背を目で追う。タルヒは器用に、繻子の帯を牡丹の形に結び終えたところだった。
 夜だ。
 鎧戸はもうしっかりと閉められ、外は見えない。蝋燭に揺れる鏡の顔は、古びた絵のように美しく、謎めいていた。その花びらのような唇が動き、思わぬ言葉がこぼれ出た。
「本当に行きたくないわ」
 夜会になんて。
 思わず目を上げると、振り返ったタルヒと目が合った。
 美しく着飾った異母姉は、そんなことを言う。
「結婚した四宮様にお会いしたくないから?」
「そうね」
 とタルヒは、同意した。どこか可笑しそうに唇を引き上げて。
「あの方の奥方と顔を合わすことになるわけだし――イト、とおっしゃったかしら」
 手酷い喧嘩の顛末は雨音から聞いたことがあるわよ、と続けた。





 
 タルヒは全身を確認して、スカートのひだを整えた。髪簪を手に取って、首を傾げる。
 エンジュの眼差しに気付いたのか、首を傾げたままタルヒは言った。
「四宮様とは、本当に何でもないのよ」
「姉さま」
「わたくしたちが求めていたものと、あの方が欲しいものが同じだった」
 ひと時の協力関係。ただそれだけ。
 タルヒは鏡の前に座り、唇に紅をのせた。化粧台の上に置かれた招待状が目に入った。黄金の飾り文字で、姉の名前が記されている。
 タルヒ・エル・シジュウ。エンジュは無理やり、そこから目をそらした。
「四宮様は帝位に就いて何をしようというのです?」
 タルヒは首を傾げて、気のない素振りで応える。
「さあ、」
 長い沈黙が落ちた。
 エンジュは眩暈がした。タルヒの髪に揺れる簪の玉が、蝋燭の光に揺れて赤く染まる。ほとばしり出た血が少しずつ水に薄められたような、透き通った綺麗な赤だった。
 感情を排した声でタルヒは言った。
「でも。少なくともわたくしの願いは、叶ったわ」






 姉の様子は、どこかおかしかった。
 それだけではない。何だか、自分も変な気分がした。何かを忘れているように感じる。
 じっと目の前のグラスを眺めていると、ねえ、と声がした。
「それよりも、エンジュ。薬湯を飲まないの?せっかく学長様に頂いてきたのに」
「ええ。でも、このにおいが苦手で」
 エンジュはほのかにのぼる湯気に、鼻先を近づけて眉をしかめた。
 姉が紅梅院の学長から言付かったという薬だった。どことなく甘いにおいが、エンジュを躊躇わせる。彼女を見て、タルヒは眼を細めた。
「大丈夫。苦くないわよ」
 エンジュは頷いて、グラスをゆっくり口元へ運んだ。
 喉を嚥下していく、ねっとりとした甘さ。
 ああ、この味は。






「学長様も心配していらしたわよ」
「…何を」
「辛ければ、帰ってきても良いのよ」
 帰る?
 意外な言葉に、エンジュは瞠目した。
「その名のもとに」
「名?」
「おまえの真名は、青家のものではない」
「青家のものでない?」
 エンジュは鸚鵡返しにした。
「父が真名を与えたのは、兄弟のなかで雨音だけ」
 わたくしの名も違う。





 エンジュは続けられたタルヒの言葉に耳を傾けた。
「わたくしたちが真名を使わぬのは、呪術をおそれて。下手な相手に名乗れば、あやつり人形にされてしまう」
 それはエンジュも知っている。
「自分で名乗らなければ良いのでしょう?」
「そうとも限らないわ。真実の名は、注意深く秘されているじゃないの」
 身分が高くなればなるほど、名を使わない。
 ほとんどの場合、直系皇族の名前を呼ぶことは禁じられているし、公示もされない。皇帝や皇子たちの名は勿論、直接の雇い主である皇女・六宮の名でさえエンジュは知らなかった。
「私の名は、父君につけていただいたものだと」
 エンジュは息を吸った。




 タルヒは言った。
「ナミヤ様がご存じよ。聞いていないの、」
「ナミヤ様?」
 何かが記憶にひっかかった。
 古い邸の塀の向こう、野辺に囲まれた朽ち果てた門扉。赤子を抱いた女性の姿が浮かび、あれ、と彼女は目をしばたいた。
 ―――何、
「母のように育ててもらったのでしょう?」
 傍に温かい手で、抱きしめる女性がいたことは覚えている。いつも微笑んでいて、優しい言葉で包んでくれて。なのに、手を握られると、驚くほど力が強くて離してもらうのが大変だった。
「父の青龍は、おまえの真名を知らないわ」
 そう。
 わたくしたちの誰も、おまえの名を知らないの。
 そう言われて、エンジュはぞっとした。す、と顔から血の気がひく。
「では誰が、私の父親だというのです?」
「もう、おまえは答えを知っている」
 タルヒはそう言うと、呼び鈴を鳴らした。侍女たちが、外からタペストリーを巻き上げる。
「青家に与するのは止めなさい。わたくしたちはおまえの家族ではない」
 タルヒは冷たい手で、一度エンジュの頬に触れた。ほのかに百合の香が薫り、エンジュは瞬きを繰り返す。
「行ってくるわね」
 その後ろ姿を見送るわけでもなく、彼女はテーブルに手をついて、薄暗い室内をぼんやりと眺めていた。





 遠くから、声が聞こえた。
『わたくしのせいだわ』
『あなたのせいじゃない。――僕が悪いんだ』
『ああ…連れていかれたらどうしましょう。話したでしょう?昼間に神殿からの使いが来たことを』
 おぼろに浮かぶ人影は、若い女性のものだった。記憶にある顔だち。ふっくらとした頬は、確かにナミヤのものだ。だが、ずい分憔悴して見える。うなだれる姿はやつれ、自分を責めていた。
『大丈夫だよ。あの子には目くらましの術を何重にもかけている』
『でも。きっと――見破られてしまう』
 だって、とても濃い血を持つ子だもの。
 涙声だった。
 嗚咽に苦しく表情が歪む。ひどく哀しくて、苦しい涙だ。
『忘れなさい。大丈夫、僕たちの娘は誰にも渡すものか』
『薬づけにされて、未来を読むために神殿に一生繋がれるわ。おそらく、自分が誰かも分からず名前さえ失って…。あの、聞こえの君のように――恩寵の力なんて、わたくしたちがもはや必要としないもののために』
『口を噤むんだ、ナミヤ。それ以上、言ってはいけない』
 男が、彼女の肩に手を乗せた。叔父のコクレイだ、とエンジュは分かった。
 ナミヤはその手に自分の手を重ねて、さらに泣いた。





『あの子、ときどき何もない場所を見ているでしょう。分かるの、アサヒナ姉様がそうだったわ。わたくしには何かが視えるわけではないけれど、異能が使われているのは、分かるわ。あの子は多分――姉様より強い力を持っている』
 ナミヤは顔を上げた。コクレイを見る視線は鋭い。
『気のせいだろうって、言わないのね?あなたは』
『それで全てが解決するなら、そう思って済ませるよ。でも、』
 おそらく、あなたの言うとおりだ。
 あの子は、僕たちの始祖と同等の力を持っている――先祖がえりだ。その真名の通りに。
『あんな名前をつけたから?―――わたくしたち、どうすればいいの』
『とにかく、事実をはっきりさせよう』
 ナミヤは両手で口を覆った。
『ああ、コクレイ』
『時間がない――あの子が7つになるまでに、僕は』
『やめて!それ以上言わないで。恩寵なんて……神の恵みでも何でもないわ。特別な力は、呪いと同じよ。ああ、コクレイ。赦して。エンジュだけは守らなければ――』






 影が遠ざかり、部屋にいるのは再びエンジュひとりになった。
 いや、違う。
 ずっと、ひとりだった。
 ひとりなのに、ひとりではなかったのだ。もし、これが真実だとするならば…。
 おぼろげな夢のなかの記憶を、ぼんやりと反芻してみる。
 扉が開く音がして、彼女は我に返った。
「エンジュ。ひとりなのかい?」
 衣ずれの音。入ってきたのは母方の叔父、リドだった。
 どうやらタルヒとすれ違いだったらしい。
 顔をあげると、視線が合った。
「倒れたって聞いたよ。もしかして熱があるんじゃないかい?」
 連絡をもらって、邸からとんできたのだと言う。
 額に触れようとした白い手を、エンジュは押し返した。
 そして、尋ねた。





「ねえ、リドお兄様。私の父親は、コクレイ叔父様なの?」
【恋愛遊牧民R+】


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