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新年の日に
82
 神殿の奥の、水の張られた池の前でヒオウは跪いていた。
 目を閉じて、水鏡の向こうに思いをはせる。



 息を吐いて、意識を透明にする。
 ――来た。
 光の筋が届き、水面に淡く輝きが満ちた。水の前には、先ほど知らせを持ってきた副官のナギがいる。
 彼の先、水に輝く光を拾い、時を手繰り寄せる。水を扉に見立て、時と空間を開け放つ。
 ナギの姿が間近になり、その肩越しに男が見える。
 黒い髪にフードを被った見たこともない年配の男だ。
「断る、と?」
「そうです」
 間違いない。
 ナギが追い払った使者だと確認して、ヒオウはさらに時を巻き戻した。
 使者が歩いて行く。後ろへ。馬に乗り、邸を遠ざかっていく。後ろを向いたまま、旅籠に入った。荷物を持ち、また出ていく。
 使者の辿った時間を、ヒオウはさらに速度をあげて巻き戻し続けた。彼は、迷路のような建物へと突き進んでいく。皇宮の最奥だ。そして、辿りついた。
「後悔するわ、お前。きっとよ」
 見知った声に、ぎょっとして時が止まった。




 皇宮の神殿だ。人影は使者をのぞいて、2つ。帝の姉であるアサヒナと、見知らぬ貴族だ。
 ヒオウはさらに時を戻して、自分を留め、気配を消す。
 これで、会話が聞こえる。
「あの時に、始末すべきだったのでは」
 使者の声だ。
 彼も人が変わって見えた。背をのばし、顔をあげる様子からは、ナギに追い払われたときとは印象が全く違う。
「西の手は、さっぱり読めぬ。白虎は沈黙したまま、我らが使いを無視している」
「古き時代より、彼らが皇家へ絶対の忠誠を誓ったことがあったかしら」
 皇姉は赤い唇を引き上げる。




 貴族は、首を振りながら、鬱陶しげに自分の頭をかき抱いた。
 その目はなぜか、焦点を失っている。
「ああ、…頭が、」
 頭が割れる。
 苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、
 男は狂ったようにそう、呻いた。
「かわいそうに」
 言葉とは裏腹に、冷淡な色を浮かべて皇姉は、貴族の耳元へ囁いた。
「この男はもうもたないわね。ねえ、自分のしていることが分かっているの、お前」
 目元は虚ろなまま、貴族の口だけが動く。何かに、縛られたかのように。
 声は若い男のもので、ヒオウは背筋を凍らせた。
「ええ、もちろん。これはちょっとした試みなのです」
「陛下は、」
「うすうす察しておられるのでは」
「お前は畏れていないのね」
「畏れる?」
 貴族の眼は何も映してはいない。なのに、声は一層豊かに響く。
 ―――誰だ?
 誰かが、貴族の口を借りている。
「まさか。これに流れる血は実に具合が良く、こんなにわたしを楽しませてくれるのに、ですか?皇家に近く異能にも恵まれた血、…ろくな訓練を受けていない。神官より、よほど使い勝手がいいでしょう?これほど面白き玩具もありませんよ」
「神から与えられた恩寵の力を皇家に集中させているのも、考えものね」
 ため息をついて、皇姉は立ちあがった。使者に向き直り、睥睨する。
「青龍はどうなっているの、」
「わたしは何も存じません」
「あら、そう?彼の長男が消えたというのは?いかにも、そなたの手口だけれど…。彼の娘も、帝都へ向かっていたところを、賊に襲われて行方不明だそうね」
「生まれたばかりの嫡子がいらっしゃるでしょう、ならば青家は安泰。それに、殿下も…青家を嫌っておいでではなかったですか、」
 皇姉は眉根をひそめる。





 それには返事をしない。ただ、再び貴族に問うた。
「お前は、あの男を使う気でいるの、」
「青龍ですか?そもそも、はじめに声をかけてきたのは、あちらです。だから応えた。応え方が少し彼の思惑と違っていても、仕方がないではありませんか」
「彼は、自分より偉かったり強かったりする者が嫌いだわ。自分より弱くて卑屈な人間も。長年の付き合いで、知っていると思っていたわ」
「自分のことしか興味がない?なら、わたしと同じですね」
 皇姉はそれには声をあげて笑った。
「駄目よ、お前。それでは駄目」
「何がでしょう、」
「まず、青龍は愛を知っている。彼は自身を愛しているし、家族のこともそう。彼なりの基準ではあっても、家を大事にしている。脅しのためとはいえ、息子に手を出したのは高くつくわ」
「脅してなんて、いませんが」
「お前は愛を知らない。だから、彼を理解できないわね。守るものを持つ者の、強さを」
 皇姉の声は冷たく、容赦がなかった。
 彼女の口からこぼれる言葉が、こんなに冷酷に響いたのを聞いたことがあっただろうか。
「大きな差よ…父にも、母にも愛されたことがない、あわれな子」
「わたしが青龍に後れをとるとでも?」
 皇姉はいつもの優しげな口調に戻って答えた。
「聡いけれど賢くない、お前。でも、わたくしの可愛い甥に違いない」
 甥。
 彼女の甥は5人いる。彼は、神官よりも楽に扱えると言った。ならば神殿に関係の深い、異能に優れた皇家の息子だろう。ならば―――。
 四宮(シミヤ)か。
 ヒオウは、組み合せた両手を握りしめた。
 ひるみそうになりながら、水鏡をのぞく。
 感情の揺れは危険だ、場に留まる力を失う。だが、過去の情景は遠ざかることもなく、遅滞することもなく、ゆったりと目の前にあらわれ続けた。
「今なら戻れるわ。雨音(ウオン)をお渡しなさい、」
「何のことでしょう?伯母上。おっしゃる意味が分かりませんが」
「紅派は、お前に賛同していたじゃないの」
 それで十分なのではなくて?
 アサヒナの声が殊更やさしげに、諭した。




 だが、返された言葉は冷たさを孕んでいる。
「女は頼りになりません」
「それは、お前の母親のこと?或いは、タルヒのことかしら?ねえ、お前。わたくしの言うことを聞けば、欲しいものは手に入るのよ」
 道を誤る、その前に。
 皇姉は儚げな微笑みを浮かべ、貴族の頬に触れた。彼は、ぶるりと震えた。
 しばらく、沈黙が場を支配した。
「…最後に勝つのはわたしです」
「それではきっと、青龍は協力しない」
「青龍がわたしの名をもらせば、次に、赤子の次男が死ぬでしょう。どんなに隠しても、護衛で固めても、無駄です。愛を知っているというのは不便なことですね、伯母上」
「あわれで残酷ね」
「子が親の野望のために殺されることがですか?」
「愛を知らぬことが、よ。お前が殺すと言っている赤子は、お前の血の従弟でもあるのを忘れたの?」




 貴族から身を離した皇姉に、使者が答えた。
「なればこそ。殿下のお力添えをお願いしたいのです」
 皇姉は首を振った。
「無理よ。わたくしは、神殿に生きる身。皇籍はすでに、抹消しているの」
「ですが、『御言持ち』であらせられます。我が主の血の伯母君なれば――、」
「だからこそ、わたくしを巻き込まないで」
「お命を頂戴することも、できるのですが」
「お前も死ぬわよ」
 答えるなり、皇姉は数歩の距離を縮めて、使者の胸に手を当てた。
 わずかにたじろいだ男の顔に反対の手で触れ、彼女は囁く。柔らかな美しい声音で。
「お前が今わたくしを殺す方法は、1つか2つ。けれど、わたくしがお前を殺す方法は無限よ。どれか、試してみましょうか」
「そこからでは、わたしにまで異能は通じませんよ。せいぜい、この男を殺すくらいだ」
 皇姉の背後で、貴族がゆらりと立ちあがった。
 だが、押し殺した悲鳴が貴族の口から洩れ、部屋に響きわたる。
「――ッ。伯母上、おやめ下さい!!」
「まさか、わたくしの力を見くびっていたのではないでしょうね」
 本当に力が通じないと思っているの、可愛いお前。
 ねっとりとした声が、貴族の身を縛りつける。
「うぅ…、」
 許しを乞うような声がもれた。
 がたん、と椅子が倒れる。ふらりと、貴族が倒れた。操りの糸が切れた人形のような動きだった。



 使者は怯えたように立ち上がり、荒い息をつきながら、言った。
「殿下の名は、秘されていない」
「そうよ、何を躊躇っているの。わたくしの名を支配できるというのなら、やってご覧なさい。お前は、それを甥に命じられて来たのでしょう、」
「わたしは、…いえ。我らは、殿下のご援助を必要としているのです」
「面白いことを言うわね。青家を敵に回して?青龍も馬鹿ではないわよ。それにわたくしも。青家の子どもたちはね、わたくしのちょっとした気晴らしだったの。後悔するわよ、お前。きっとよ」
 最後の言葉が、使者に向けられたものか、それとも貴族か、或いはその口を借りていた四宮に向けられたものなのか、分からなかった。



 そのまま、皇姉は長い裳裾をひきながら部屋を出て行った。
 彼女の歩く後から、精霊たちが取り囲むように、移動するのが分かる。まるで、大きな翼のように羽を広げて、彼女を守るかのように。広がる恩寵の羽に、微かにヒオウの指先が触れた。びり、と痺れが伝わる。皇姉が、こちらを振り返った。
 花のほころぶような微笑み。どうやら、気づかれたらしい。
「…オウ……、」
 名前が呼ばれる。




 ヒオウは慌てて、手繰り寄せていた時間にかける力を、解放した。途端に、反動に襲われる。
 水面が揺れ、自分がもう少しで落ちそうになっていることに気づく。前のめりになった彼の手を握っているのは、ナギだ。
「ヒオウ様、お気を確かに。力を使いすぎています」
 一瞬、意識が飛ぶ。まだだ。まだ、いけない。
 まだ、倒れるわけにはいかない。唇を舐めて、震える声を絞り出した。
「…フシを移らねば…、すぐに…」
「分かっています」
「四宮が、…手を……、」
 薄寒い部屋の中、握られるナギの手が酷く温かい。
 手先が痺れている。しばらく目を閉じた。額を伝う冷汗が落ちるのが分かる。
「――中央神殿へ伝言を…、」
「猊下に、お報せいたします」
「聖都の、…鏡を、…使え」
 少し眠ってください、というナギの声が耳に落ちた。
 ああ、とヒオウは薄く目を開き、頷いた。




「もう少しだけ、――」
 エンジュ…、
 言葉にならないまま、ヒオウは意識を失った。
【恋愛遊牧民R+】


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