三島 由紀夫

ウイキペディアより

(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家。第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『近代能楽集』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。

晩年は自衛隊に体験入学したほか、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、その後の新右翼・民族派運動に大きな影響を及ぼした。1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは三島事件を参照)。

筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来する。「三島」の命名を想起した清水文雄が修善寺での同人誌の編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという[1]。

三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上[2]。

三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家、三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫は楯の会のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と共に、東京都新宿区市ヶ谷の自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)、陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室[1]を訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。玄関で沢本三佐に出迎えられた三島らは正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。応接セットにいざなわれた三島は益田兼利東部方面総監(陸将)に、森田ら4名を、一人一人名前を呼んで紹介する。

ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”になった。総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対し三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、“関兼元”と記された鑑定書を見せた。そして、刀を抜き、油を拭うためのハンカチを小賀に要求した。それはあらかじめ決めてあった「小賀、ハンカチ」という行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、一旦保留する。小賀は仕方なくハンカチでなく、日本手拭を三島に渡した。手ごろな紙が見あたらず、総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返した。この時、午前11時5分頃であった。三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。つづいて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築する。

お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本三佐が異変に気づいて報告。原一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警察に通報する。両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し三島は、「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを日本刀・“関孫六”で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚、自衛官らが次々と総監室に突入をして来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが、逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。怪我をした自衛官らの中には、右肘と左掌背部に重傷を負わされた幕僚幹部もいた。左手で刀をもぎ取ろうとしたために掌の腱が切れた。しかし、この重傷を負った総監部三部の防衛班長・中村菫正(のぶまさ)二佐は、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語り、自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した。中村二佐はその後、陸幕広報班長、第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、1981年(昭和56年)7月、陸将で定年退官した[2]。なお、このときの総監室の受けた被害額は、金額としては数百万円相当(当時)であったという。後に平岡(三島の本名)の親族が弁償した。

退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下にすべらせた要求書と同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応し、三島は昼12時までに自衛隊員を集めることを求めた。要求書には、「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊はこの間、午後1時10分までの2時間、一切の攻撃を行わないこと、当方よりも攻撃しない。条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」などと書かれてあった。午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、当日、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は警察の監視下に置かれ、三島の要求通り現場には召集されなかった。午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。

正午の合図が市ヶ谷駐屯地の空に響いた。“七生報国”(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻をし、日本刀・“関孫六”の抜身を持った三島が、正午きっかりにバルコニーに立った[3]。自衛官達から、「三島だ」、「何だあれは」などと口々に声が上がった。三島は集合した自衛官たちに向かい、拳を振り上げながら演説を始めた。憲法改正のための決起を促す演説であった。上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターが騒音を出し旋回していた。自衛官達は、「聞こえねえぞ」、「ばかやろう」などと叫んだ。彼らは“昼食の時間なのに食事ができない”という不満や、“総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ”や“幕僚らに怪我をさせたこと”、さらには、“三島の演説の内容”についての反発も強く、「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」、「何考えてんだ、バカヤロー!」といった野次が飛んだ。しかし、その一方、その場にいたK陸曹は、「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った」と後に語っている[4]。三島は「静聴せい!」と再三叫んだが、野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消されて、わずか10分ほどで演説を切り上げた[5]。なお、この日、第三十二普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などのどちらかといえば三島の想定した“武士”ではない隊員達であった[6]。

この時三島はマイクを用意しておらず[7]、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は、後に、「三島さんに、マイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。また水木しげるは、『コミック昭和史』(講談社)最終巻で、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは「戦後育ちばかりで、個人主義・享楽主義になっていたから」だとしている。現場に居合わせたテレビ関係者などは、演説はほとんど聞こえなかったと証言しており、残されている録音でも、野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡孝夫は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。また徳岡は、演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙・写真共に、銀行の貸金庫に現在保管しているという[8]。なお、この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけである。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとした[9]。

演説を終えた三島は、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った。三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と総監に話しかけた。その後、恩賜煙草を吸い[要出典](三島は園遊会で貰った恩賜煙草を、この現場に持って来てはいる[10][11][12])、上半身裸になり、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。また、割腹した血で“武”と指で色紙に書くことになっていたので、小賀が三島に色紙を差し出すと、「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。総監が、「やめなさい」、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。介錯人の森田は自身の切腹を控えていたためか、この時、介錯を三度失敗し(刀先がS字型に曲がってしまったのは、この時の衝撃ともいわれる)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断する。最後に小賀が短刀で首の皮を胴体から切り離した。続いて森田も切腹し、古賀が一太刀で介錯した。そして、小賀、小川、古賀の3名は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両名の首を並べて合掌し、総監の拘束を解いた。3名の涙を見て総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。午後0時20分過ぎ、3名は総監室正面入口から総監を連れ出て、日本刀を自衛官に渡し、警察に逮捕された。

慶応義塾大学病院法医学解剖室・斎藤教授の解剖所見によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約14センチ、深さ約4センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していたことが検死報告されている。また、舌を噛み切ろうとしていた形跡もあったという。警察の検分によると、介錯に使われた日本刀・“関孫六”は、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、“関孫六”の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩坂弘が牛込署で確認している。

現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった[13]。三島由紀夫、本名・平岡公威は享年45。森田必勝は享年25。自分の名を「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。

事件後 [編集]自決と聞いて、幕僚T三佐は、「まさか、死ぬとは。すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた。K陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語った。事件翌日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたという。しかし、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。また、事件後に、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部にではあるが、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという[4]。

その一方、釈放された益田総監が自衛官達の前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、自衛官達から、「いーぞ、いーぞ」、「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いたという。その場で取材していた東京新聞の記者は、その光景になんともがまんできなかったという。その記者はコラムに、「三島の自決に対する追悼ではもちろんない。民主主義に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた“社長”へのねぎらいであり、サラリーマンの団結心といったところだろうか。残された隊員へ、マイクで指示が出た。『みなさんは勤務に服してください。どうぞ、そうしてください』と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。(中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態」などと書いた[4]。

ノーベル文学賞候補として報道され[14]、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決のニュースは、日本国内だけでなく世界各国に配信され注目を集めた。その波紋は論議を起こし、今日まで回想を含め、様々な出版物が刊行されている。

事件翌日の1970年(昭和45年)11月26日、慶応義塾大学病院で首と胴体をきれいに縫合された遺体は棺に納められ、森田の遺体は兄・治に引き渡され、渋谷区代々木の火葬場で荼毘に付された。三島の遺体は弟・千之に引き渡され、パトカーの先導で三島の自宅へ運ばれ、密葬が行われた。父・梓は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、遺体の顔は生きているようで、楯の会の制服が着せられ刀が胸のあたりでしっかり握りしめられて添えられていた。これは警察官達が、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった[10]。原稿用紙と万年筆も棺に納められ、三島の遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で午後6時10分に荼毘に付された。森田の通夜も午後6時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日の11月27日、葬儀は11月28日に、カトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、納骨された。小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、嘱託殺人、不法監禁、傷害、暴力行為、建造物侵入、銃刀法違反の6つの容疑で送検される。

1970年(昭和45年)11月30日、三島の自宅で初七日の法要が営まれた。三島は、「自分の葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」と遺言していた。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。三島の遺言では「“文”の字は不要である」とあったが、遺族の思いから“武”の字の下に“文”の字も入れることとなった。同年12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた。これが後に「憂国忌」となる。司会は川内康範と藤島泰輔、実行委員は民族派学生で、集まった人々は3000人以上となる。会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まったという。

1970年(昭和45年)12月17日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖が、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴された。

翌年の1971年(昭和46年)1月14日、府中市多磨霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。この日は三島の誕生日でもある。同年1月24日、午後1時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた。喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成で、三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人などと、一般参列者のうち先着180名が列席した。イギリスのBBC放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを断った。一般弔問客は8200人以上で、私服・制服警察官、機動隊も警備にあたった。一般参列者は会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけ、中には、「追悼三島由紀夫」ののぼりを立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあった[4]。

1971年(昭和46年)1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた。

1971年(昭和46年)3月23日、「楯の会事件」第一回公判が東京地方裁判所で開かれた。被告の家族らと平岡梓、瑤子が傍聴する。公判は1972年(昭和47年)4月27日の第18回まで開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖に懲役4年の実刑判決が下された。

1971年(昭和46年)9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づく。翌日の9月21日、石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見。府中署に届け出る。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままだった。

1971年(昭和46年)11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建つ。揮毫は三島瑤子。生前、三島由紀夫が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載される。

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