マルセルさんの新着コメント
ども、淫乱雄ネコ萌え奴隷系オタクのマルセルといいます。無闇にながい文章を書いたり、時には一言コメントしか書かなかったりといい加減な活動ですが、皆さんの方もいい加減に読んでくださると僕が助かります
数ヶ月前まではここのHP覧にメールアドレスを書いていたんですが、最近のシス更新でURL以外は書けなくなっているっぽいので、ただ会社に出勤してエロゲをやるだけの人間に給料を払うのも癪だという理由で、「倉野くんちのふたご事情」の「シナリオ及びテキスト監修」という実に尤もらしい仕事を与えられたものの「エロテキストはあとこの10倍は必要だね」だの「うーん、ここのおしっこシーンはダメだめだねぇ。だいたいロリキャラのおしっこだったらもっと甘い香りが匂い立つような……」といったアドバイスを新人ライターに与えて現実再起不能にしてしまっているトノイケダイスケを見た!といった衝撃ニュースやどーでもいい雑談といったものは、satugiriあっとmail.goo.ne.jp
――業務連絡。ギアドラ伸びすぎ来年までお預けかよこん畜生!改め「幻想世界マインディア」のレビューに、ネイティファスの新作RPGのアレコレや、エロRPGの今後の展開とか、ネイティファスの音声作品についていろいろ追記補足しました。その他にも、ベタフィクションチ○コとメタリアルマン○がスペルマによって受肉する三位一体の瞬間こそエロゲオタが真に二次元世界に入り込める奇跡的な瞬間であり、カノン神学は以降この新たな福音により第三の時代に入るであろうというエロゲ神学論を展開しているので、選ばれなかったヒロインは可哀想だとかヌカしているヤツは本当はシスロリサキュバスに変身した実妹の誘惑によって幼馴染みから逆NTRれダークネスたいのですねフリリ(CV;金松由花)
秋深し、隣もとらぶるダークスネス(僕んちの隣に最近かなり重度なアニオタが住み着いたんですよ……負けた……)ということで、今回はとらぶるダークスネスのエロゲ化について真剣に考えてみようと思います。ってこういう文章を何のネタも冗談も無しに書くと、たぶん何人かは「え?やっぱエロゲ化すんのあれ?」とマジに受け取ってしまう可能性があり、まぁ虚構新聞ごときをそのまんまマジに信じてしまう昨今の風潮(こんな世界ではこの作品はフィクションであり……なんて言い訳はもはや無効ですな)を考えれば、一応はちゃんと「僕の妄想の中では事実に属することであって」という限定はつけておいたほうが良いでしょう。しかし「あれはもうエロゲだろw。乳首とか出まくっているしw」みたいな頭の悪い中学生的反応は兎も角として、「とらぶるダークスネスのエロゲ化」って「ありそうでありえない」くらいのリアリティはあると思うんですよね。例えば「アイマス」や「IS」だったら、基本的には「絶対にありえない」といった感じでしょうし、これらのファンも基本的にはエロゲ化を望んではいないでしょう。いくらエロゲ的なハーレムシチュエーションだの、これまた頭の悪い高校生的な発言をしたところで、そもそもこれらの作品のハーレムは強いて言えば「最終的には誰も選ばずエッチせず良い関係のまま」ずっと居続けるところに作品のねらいと消費者の需要はある。そこらへんが消費者もわかっているからこそ、まぁ頭の悪い小学生のようにときどきは「とっととエロゲ化しろよゴルぁ」みたいなことをいったり、また以上のような作品はそういうエロゲ的な妄想を引き出すのも事実なわけで、そういうエロ同人がそれなりに出回ったりもします。しかしあくまで「一次創作」の作品の目的とその消費は以上のようなものなので、そういった作品はそもそもエロゲ化には向いていないモノなのであります
それでは「とらぶるダークスネス」はどうなのかと言えば、もちろん最初に常識的なことを言ってしまえば、主に出版社その他アニメ関係者やらの意向で「エロゲ化したところでうまみは少ない」と判断されるために、現時点でのエロゲ化は「殆ど無理」 というのが詰まらないけれども妥当な結論ではありましょう。しかし、今回僕がいいたいのは、そういうことではありません。問題なのは、僕ら消費者が「とらぶるダークネス」の「エロゲ化」ということに関して、どのような是々非々を考えるであろうか?というところから話を進めたいのですね。僕が思うに「とらぶるダークネス」の「エロゲ化」というのは、強いて言えば「エロゲ業界」いやまぁ業界論はあんまし好きじゃないので「エロゲ全般」に大きなインパクトを与える問題だと思います。それはどういうことでしょうか。まず最初は身も蓋もない需要関係と言ったところから始めるとわかりやすいかと思います。例えば、この「とらぶるダークネスのエロゲ化」というifに対して、尤も典型的に考えられる「やっと○○のエロしーんを見られるぜウヒョー」といった、頭の悪い中学生的言説が、エロ同人からエロ同人ソフトからプロのエロゲーに至るまでの「二次元性産業」において、いったいどの程度の需要を持つか?考えてみましょうか。むろん、僕は「頭の悪い中学生言説」を基本的にバカにしているわけでもないし、そのような言説は常にある程度の真理を含むことを認めるのに吝かではないのですけれども、しかし「今どきオリジナル作品がそのままエロ化したところでスゲー喜ぶヤツっているかねぇ」といった醒めた現実を見過ごしてしまうのであれば、それは多少の訂正が必要でしょう。だいたい、そんなの自分がある程度二次元オタク的な性行動を日常的に取っていれば明らかなことではありませんか。ある程度流行っているアニメやラノベといった一次創作には、必ずと言って良いほどエロ二次創作がでまわっているわけで、一次創作作品で喚起された性欲は容易くその二次エロ創作で消費できてしまう。二次創作は一次創作よりもクオリティが低く……といった一般論は、ある種の真実を含んでいる(これは後述します)としても、少なくともエロ消費の段階の経験的事実からすればこれほど嘘くさいものは無い。一昔前なら兎も角、今の二次エロ創作は一次創作のエロが「肥大化される」作品であって、その肥大化されたエロのクオリティは一次創作のエロ部分を遥かに凌駕してしまっています。たとえば、とらぶるの二次創作同人ゲーでさいきん話題になった「とらぶるだいあり~・ごーるど」
http://www.dlsite.com/maniax/work/=/product_id/RJ102437.html
では、まぁ動画部分のクオリティは本編のアニメを凌駕してしまっています(しかし音声の録音状況がなかなかに酷い。お前は一昔前のハメ取りAVか?って感じのノイズ音が萌えます)。もちろん、僕はいま物事を敢えて単純化するために「本編よりも凌駕している」と言いましたけれども、正確に言えばこれは「本編よりも上とか下とかは問われない一定のクオリティが維持された」のち、そのエロが肥大化した二次作品を「本編とはあくまで別ものの二次作品として楽しんでいる」ということでありましょう。つまり、未だに一次作品とさまざまな意味で同じレベルの二次作品が生まれて、その中でまるで本編の作品のなかに無理のない自然な形でエロしーんが入るような二次エロ作品が出回っているわけではない。だけれども、本編の中で喚起されるエロ性欲を他のエロ作品と同じ程度、いや時にはそれ以上に快楽できる二次作品が潤沢に出回っていて、それは一次作品との間に暗黙でありながら密接で強力な共犯関係を作っているとも言えましょう。ですから、先の「とらぶるだいあり~・ごーるど」クラスのクオリティを持った同人作品は今後も出続けると思うし、いままでのエロ同人誌オンリーの状況から、CGとボイス素材の調達コストが徐々に低下していることも考えれば、アニメだけではなく紙芝居エロゲの形式を持った二次作品も今後は質・量ともに上昇傾向にはあるとは思うのですけれども、それは先ほどの一次作品と二次作品の共犯関係を打ち破る類のものでは無く、基本的には強化する方向にしか向かわない。こうした状況を考えれば「主に需要関係だけで見ても、とらぶるダークネスのエロゲ化はあまり求められていない」ということの意味がよくわかるでしょう。つまり、とらぶるぐらいの作品になれば、エロ同人関係は多く出回っているので、いやもちろん僕としては未だにベストな「美柑関係のエロ同人を見たことがねぇよ!」という魂の叫びはあるにしても、基本的には「とらぶるのエロ消費に関して消費者はあまり飢えていない」と言うのが現状だといえましょうか。こういう現状を押さえれば、主に販売サイドでも「とらぶるのエロゲ」を出すのと「今のままとらぶるのちょいエロ路線を売り続ける」のでは、後者の方が確実性が高いのは言うまでもありませんよね。「身も蓋もない需要関係」というのは、基本的にはこの程度のことだいえます。もちろん、この身も蓋もない需要関係だけをもってして、全てを語るのは阿呆の所業でありますけれども、しかしこのような身も蓋もない需要関係をスルーしてしまうのも方手落ちだと言えましょうか。それは単なるソロバン上の計算だけではなく、なぜそのような作品が需要されていると言えるのか?という需要の言説とその他との諸関係を綿密に探ることによって、その需要の裏に隠されている「別の需要」についての最良のヒントを見つけ出す手助けにもなるのですから。つまり、一言で言うなら、確かに先ずは現実を直視する必要があります。しかし然る後にその現実をさらに徹底的に分析すればその現実がいまのような現実になる必要は必ずしも無かったということも明らかになるわけで、その現実の背後に潜む幽霊の如き潜在的な別の可能性を天に返してやることによって新たな現実を構築することが可能になるというわけです。
では「とらぶるダークネス」のエロゲ化は「商業的に不可能」だとまずは暫定的に決めておくとしても、そう言う作品が、どのような理由で欲しいかまたは欲しくないかというユーザーの欲望を考えてみましょうか。たぶん「とらぶるダークネスのエロゲ化」と聞いて「即座に反対するような」人はまぁ基本的に少ないと思うんですよね。それはちゃんと原作の声優が出るのか原画は誰がやるんだとかシナリオライターは誰なんだ?みたいな話によって変わってくるとは思いますが、そういう話が出ると言うことは、基本的にエロゲ化「自体」には賛成する人が多いと言うことでありましょう。しかし賛成する人は多いとしても、熱烈に賛成する人が多いかというと、それはまた別の問題で「エロゲ化するのはいいけど、なんかあんまし面白く無さそうだよなー」といった、わりと現実的な醒めたコメントをする人も多いのではないでしょうか。というのはまず、うえで言ったように僕らはある程度とらぶるのエロ二次作品には満足してしまっているんですよね。だから、一次作品の本編にエロがつくと言うことに「何らかの興味」は示しながらも、しかし猛烈にそのエロに劣情をそそられるわけでもない。まずこの点をしっかり認識しないとイケナイのは、これは別に二次元オタクが性的に潔癖だとか欺瞞的だとかそう言う話ではなくて、まぁ一昔前だったらそういうこともあったのかもしれませんが、いまの状況では単純に「エロだけならば二次作品で満足できるから、一次作品はそれ以外をやってくれ」ということでしかないのです。つまり、もしもとらぶるをエロゲ化するのであれば、そこに求められるのは「エロだけ」ではなくて「あくまで本編とさまざまな意味で同じ物語を保ちながら、あくまでその文脈の中でエロシーンを描いて欲しい」と言うような欲望でありましょう。つまりは「本編のなかでしか語られないような、そこに至る過程も全て含まれる特権的なエロしーんとその物語」が必要不可欠になるわけです。おそらく、これはいくらエロが肥大化された二次創作が出回っても、決して消え去ることのない需要のひとつであり、多くの一次作品について多かれ少なかれまわる「エロゲ化して欲しい」という希望の根拠でありましょう。しかし同時に、それは商業ベースで不可能だと言うことがわかっており、また実際にそれが一次作品として成立するかどうかも、未だに成功例も、否、そういう作品自体が一回も作られたことがないために、それは基本的に「頭の悪い中学生の妄想」として片付けられ、そしてその頭の悪い中学生のエロ妄想が肥大化された二次エロ作品にて消費され続けているというのが現状でありましょう。
さて、それが実際に一次作品として成立するかどうかを考える前に、何故そのような一次作品が「エロゲ」として望まれるのか?という、いっけん当たり前と思われているが、実はなんら具体的根拠がない願望自体を考えてみましょう。というのは、別に 「とらぶるダークネス」が「エロアニメ」(あるいはそういうエロシーンがあるアニメ)だったり、或いはこっちの方が実現可能性は高いと思いますが、普通に原作漫画のなかで普通にエロしーんを書いてしまってもそれはそれでよくて、どうして「エロゲ」にする必要があるのでしょうか、という問題が残るからです。たぶん、この問いに対する一般的な答えは「エロゲこそは真のハーレム作品だから」といったものでしょう。つまりエロゲは「自分で好きなヒロインを選んでエッチできるから」というもので、たんに受動的に物語を読んでエロシーンを見るよりもエロゲのほうが主体性があって良い、みたいな答えが返ってくると思います。しかし、これはある一定の真理を含んでいるものの、答えとしては不充分でしょう。まず第一に、そもそも好きなヒロインを選ぶと言うことは、例えば好きなキャラのエロ同人誌を選ぶことと何の違いがあるのか。第二に、本当に好きなキャラを選んで、エロゲ的に言えば「個別ルート」に突入するだけで、それは本当に自分が望んでいるとらぶるのエロゲになるのかどうか?。第一点目から言うと、僕らがエロゲに望んでいるモノは、予想以上に大きくて、そして自分の予想を常に上まわっていると言うことです。「好きなキャラを選んでエッチする」といった、このような一見欲望丸出しで自分の性欲に忠実のような発言は、単に「思い切りがよい」というだけで何となく正しそうに見えるだけで、広報活動の言説としてなら兎も角議論の言葉としてはたんなるハッタリ以上の効果も持ちません。これを正確に言い直せば「作品の土台となる共通ルートの中から自分の好きなキャラの個別ルートを選んでそこでエッチがしたい」ということでしょう。単に「好きなキャラのエロしーんを自分で選びたい」というだけなら他の二次エロ作品を選べばいいだけで、エロゲに込められた欲望のなかには、とある物語的状況(共通ルート)の中から自分の選択でヒロインを選ぶという、通常の一次作品でも二次エロ作品でも得ることができない快楽がある。だけれども、第二点の問題はそれ以上に厄介です。確かにそのような「個別ルート」の欲求はエロゲ化の強力な牽引力だと思われますが、しかしそれ「だけ」で本当にとらぶるのエロゲが成立するかと言えば、これまた非常に難しいと言わざるをえないでしょう。例えば「ララルート」なるものがあったとして、そこで語られるのが普通のララとの純愛物語だった場合には、それはひとつのifルートしてアリかもしれませんが、卑しくも一次作品としてのエロゲを名乗るであれば、ララはそんな地球の純愛物語に拘束されるようなちゃちなヒロインじゃねーぞゴルぁと突っ込みたくなるのは僕だけではありますまい。
ここで問題を明確に整理する為に、エロゲまたは萌えアニメやら萌え漫画やらによく使われる「ハーレム」といった言葉について、明確な分類をしておきましょう。これは僕がよく使う分類であり、僕の駄文に淫している読者の方には先刻承知の「萌えハーレム」といった分類なので、ご存知な方はテキトーに飛ばして頂きたいのですが、先ず結論から言うと二次元業界における「ハーレム」は「萌えハーレム」と「メタハーレム」と「エロハーレム」の三つの要素に分解できます。「萌えハーレム」とは 「主人公が作内のヒロイン全部またはその過半数に好かれている状態だが、そのうちの誰とも性的関係を持たずに恋人関係にもなっていないウハウハな状態」というもの。これはエロゲにおける共通ルートの状態、または萌えアニメやら萌え漫画やらにおけるデフォルトの状態がたいていそうであります。次に「メタハーレム」とは、基本的にエロゲでしかあり得ない状態で「その作内における主人公の恋人または物語上のヒロインを、ユーザーが選択肢などを用いて選ぶこと」。まぁ大半のエロゲは先の萌えハーレムの状態(共通ルート)から、このメタハーレム(個別ルート)に移行するので「たくさんのヒロインに好かれているというベタ物語的状況から、メタ的にユーザーが恋人を選ぶ」という意味でメタハーレムと言っているのですが、これは逆(とは僕は思いませんけど)にこれを「メタ純愛」と呼んでも良い。つまりそのユーザーの行動が「複数の女の子の中から辛い思いをしてひとりの女の子を選んだ」といった感じの純愛物語としてに盛り上がってしまうのであれば、それはあくまで「複数の中からひとりを選ぶ」というユーザーの感情または感傷に依存しているので、それを「メタ」純愛ということができるわけですね。そう言う意味ではエロゲの殆どは「メタハーレム」か「メタ純愛」に分類できるということができます。これの応用例として、最終的にひとりのヒロインを選んで終わるような萌え漫画や萌えアニメの作品を「萌え純愛」ということもできるでしょう。それは「複数のヒロインから主人公がひとりを選ぶ」というシチュエーションそのものによって「純愛」が語られると言う意味で、別にそこでひとりのヒロインとのコミュニケーションによって純愛が発生するわけではないのですから。さて、最後に残ったのが「エロハーレム」であり、これはまんま字義通りの意味でして、複数のヒロインと同時にまたは並列的に性的関係を持っていたり、複数のヒロインと一夫多妻的な恋愛関係を既に合意しているような状況です。これは通常の萌え漫画やら萌えアニメでは基本的に全くあり得ない関係であるどころか、基本的にエロゲでもごく少数のシチュエーションに位置するモノだと言えましょう。これらのエロハーレムは、基本的には何らかの「おまけルート」や、あるいはこのエロハーレム的状況に辿り着くまで3Pやらを繰り返しその境地に辿り着いたところで「ハーレムエンド」で終わる、短めの「ハーレムルート」が語られるだけで、エロハーレム的な関係を土台に置いた作品となると、ある種のエロシーンだけを繰り返すことが目的のような抜きゲを除けば、全体の1%にも満たない希少種だと言えましょうか。
さて、以上のような分類が正しいとして、次は何故このように分類が可能なのに、オタ言説に置いては何故一応に「ハーレム作品」といった言葉しか使われないのか?といった疑問を考えてみましょう。これは、僕が思うに諸処の全体のバランスの保守を 考えたばあいには、まぁ普通の人がそんなことを深く考えているかは謎でありますが、とはいえ意識的であれ無意識的であれ、実に合理的とさえいってもいい態度だと思われます。一つには、前述のように三つのハーレム要素に分類できたとしても、ひとつひとつの作品を例に取ってみると、それは明確に「これは萌えハーレムですね」だとか「メタハーレムだのメタ純愛ですね」と言ってしまったら、作品のちからが失ってしまうからでありましょう。これには二つのレベルでそう言えます。一つは「そんな身も蓋もなく言ってしまったら萎えるじゃないか」というもので、確かに「複数の美少女から言い寄られてウハウハ作品」に対して「そんなことを言っても最後にはどうせひとりを選ぶんでしょw」だの「選ばれなかった○○は可哀想だ!」の涙を搾り取るメタ純愛作品に対して「それってユーザーしかヒロインが救えないと思わせて担がせているだけじゃねーかw」だのオタの皆さんが素朴につっこんでスルーするようになったらこれらの作品は成立しません。だからこそ「ハーレム」という曖昧な言葉でその真の機能を御茶に濁して、それぞれのユーザーまたは作者が自分の都合で融通無碍に意味を調達できる余地を残しているという、実に社交的でコミュニケーション力あふれる大人の振るまいが「ハーレム」というオタ言説から感じられます。エロゲオタクの皆さんは基本的に明晰で社交性にも優れそして何よりも寂しがり屋さんなので、わざわざ僕みたいに身も蓋もないことを言って盛り上がるネタを潰して場をしらけたムードで一杯にしたく無いのであります。このようなエロゲオタクの健全な振る舞いを無視して「所詮オタクは一夫多妻的な邪悪な性欲に溺れているだけなのだ!」とかやらかす頭の悪いオタ批判言説そのものですら(もしかしたらこの人たちも相手をして欲しくて、わざと絡んでいるのかもしれませんが)、このハーレム言説の中には含まれており、ハーレム批判言説を通じて「そうだ。おれは複数のヒロインの中からちゃんとひとりのヒロインを選ばなければ逝けないんだ!」という感傷が活性化し「メタ純愛」やら「萌え純愛」やらが正当化されるのですから、これほど強力な言説の支配体制は存在しないとさえいえるでしょう(真面目な話、批判的対抗言説を巧妙に自らの作品に取り入れることに関しては、オタ作品ほど巧妙なジャンルはないと思います)。しかし、あらゆる支配体制には必ず死角というか弱点があり、そしてその弱点こそが他ならぬその支配体制の根源の力であることを考えれば、第二点目の論点としてこの「ハーレム作品」という言葉には、前述の「萌えハーレム」「メタハーレム」「エロハーレム」といったそれぞれの機能を潜在的に乗り越える力が備わっていることも事実であります。具体的に言えば、個々の作品で言えば「そんなことを言っても最後にはどうせひとりを選ぶんでしょw」の萌えハーレム作品だろうと「選ばれなかった○○は可哀想だ」のメタ純愛作品であろうと、たとえそれらの作品が如何に出来の悪い作品であれ、その作品の完成度とは一切関係なく「もしかしたら○○は××かもしれない……」といった残余の可能性がなければ、それらの作品は「萌えハーレム」としても「メタ純愛」としても機能しないといのも確かであります。例えそれらの作品が「萌えハーレム」だの「メタ純愛」とカテゴライズするのが妥当な作品であっても、たとえば「萌えハーレム作品」において「どう考えてもこの主人公は誰ともエッチしないよなぁ」とハナからわかってしまったり、エロゲの警告文みたいに「この作品には絶対に複数の異性との性的描写は発生しないので見逃せ東京都!」と書いてあったとしたら普通萎えるじゃないですか。萌えハーレム作品はしょせん萌えハーレムに終始するとしても、その中に「もしかしたらひとりのヒロインを選ぶかもしれないし、または全員とのハーレムエンドかもしれない」という残余の可能性が常に残されていない限り、その作品は萌えハーレムとしても機能しないというパラドックスがあるわけです。萌え漫画やら萌えラノベのレビューでウンザリするほど目に付くのは「ただのハーレム萌え○○には終わらせないようにしている」だの「ハーレム展開に対する批評性がある」といったコメントですけれども、以上の例を考えるにこれはある意味で正しくある意味で間違っている。間違っているのは、そんな批評性やら意外性やらは、ほぼ全てのハーレム作品に共通しているのでわざわざ個別の作品の一特徴として指摘する必要は特にないのではないか?ということであり、正しいのは、それらの作品が意識的であれ無意識であれ「その萌えハーレムであれメタ純愛であれ、その作品が依拠しているスタイル以上の何か」をいわば残余の可能性として抱えないと当のスタイルが機能しないという事実でありましょう。
何やら実に面倒くさそうな議論やら理論やらを展開してみましたけれども、これを具体的に知るためには「とらぶるダークネス」がどのような意味でハーレム作品なのかを考えれば、上のような面倒くさい理論や議論が、ある程度必要になることがわかってくると思います。「とらぶるダークネス」を「ハーレム作品」と呼ぶことに、多分大多数の人は何ら異論は無いかと思いますが、それでは普通の「ハーレム作品」と同じなのかと問えば、まぁ事情通の知ったか批評連中は「典型的なハーレム作品」とか言って、作品を端的に見ていないか、そういう頭の悪い批評色眼鏡でしか作品を見られない近視病を抱えている病人であることがバレてしまうでしょう。この「とらぶるダークネス」が普通のハーレム作品と違うのは、既に冒頭に置いて明らかにされていることではありますが、冒頭から既に殆ど「個別ヒロインエンド」が禁止されてしまっているんですよね。これは別にモモのハーレム化計画のことだけを入っているわけではありません。そのハーレム化計画をリト君が受け入れいるか拒むかにせよ、リト君には「ララを選ぶ」とか「春菜ちゃんを選ぶ」といった選択肢は残されていないのです。この点、あくまで理窟で考えれば、リト君の態度(別に責められることではありませんが)はハッキリしているところハッキリしてないところが別れているのが妙におかしい、まずララに対して「お前のことはわりと好きだ!」と言ったのは、その「わりと好きだ」という中途半端な告白は兎も角としても、その告白自体はハッキリしている。さらに春菜ちゃんに対して「いつかは好きだと告白しようとしている」こともまぁハッキリしていると言っても良い。だけど、この態度がどのような意味を持つか?という点に対しては不思議にハッキリしないんですよね。これって、まぁ普通の理窟で言えばふたりに対して「お前達のことが異性として好きだ!」と言おうとしているってことじゃないですか。この点で言えばララがリトに「早く春菜に告白してハーレム生活送ろうよー」と言っているのには論理的に見て非常にクリアです。そしてそれに対するリト君の答えはハッキリしていない。表面的には「地球の法律だとダメなんだよぉ」(って別に一夫多妻が認めているところもありますが)と言っていますが、これは別に「複数の異性に対して好きだと言うのはおかしい」を直接意味していませんよね。また、春菜ちゃんに対する告白の困難がこの「複数異性に対する恋愛の困難」に起因するモノなのか、それとも単に本編同様恥ずかしがっているだけなのか?もこれまたハッキリしていない。ただ、一つだけハッキリしているのは、まぁこの点だけ押さえてしまえば後は自ずと答えは決まるポイントだと思いますが、リト君の戸惑いの中には「ララと春菜ちゃん、どちらを選ぶか?」みたいな問いかけは、殆ど面白いぐらいスルーされていると言うことです。「誰かひとりの女の子を選ぶのが純愛である!」というハーレム作品のお約束を、この時点で殆ど放棄していると言っても良い。確かにリト君は春菜ちゃんが好きなんでしょうけど、リト君のなかではその思いは、別ヒロインに対する好感度となんら矛盾していないんですよね。そして、これは他ならぬララの態度と「基本的には」あんまし変わっていないんじゃないでしょうか。ララには嫉妬という感情がない、とは言いませんけど、リトに対する思いと他ヒロインがリトとくっつくことに対する思いは、これまたなんら矛盾しない。さらに言ってしまえば、これはちょっと凄いことだと思うんですが、所謂ララの「ファン」にとっても、たぶんララの人気の何割かはイヤ真面目な話「リト君の一夫多妻制を無邪気に応援するララってほんとに無邪気で可愛いなぁ」って感じで、それすらも快楽の消費の対象になってしまっていると思うんです。もうこの時点で、リト君とララはそこらへんのエロゲの個別ルート以上に結ばれてしまっていますよねなんか。もちろんそれは、このとらぶるダークネスは実は「ララルートの物語なのだぁ」という意味ではなくて、一夫多妻的に言えばとらぶるダークネスは本編のとらぶるにおいて「リト君とララが結ばれたあと」に、まぁララ寄りの見方をするのであれば、その絆をより強固なものにするために、リト君が他ヒロインとの恋愛物語に巻き込まれていく作品だと言っても良いでしょう。。
このような物語を、僕が上で定義した「萌えハーレム」「メタハーレム」「エロハーレム」の三分類を使うのであれば、これは「萌えハーレム」と「エロハーレム」を融合した作品だと言えましょう。これは別にとらぶるダークネスが乳首丸出しでエロい という意味ではなくて、上で言ったようにリト君とララが結ばれた状態で物語が始まり(エロハーレム)、そしてその上で尚かつ他ヒロインとの恋愛物語(萌えハーレム)が前述のエロハーレムと矛盾しないかたちで行われているという意味であります。リトとララはセックスしてんのかよゴルぁ!という問いかけに対しては、たぶん両者が気絶している時に無意識的にやっているZE!とは答えておきますが、むろん、ここで重要なのはセックスの有無ではなく、リト君とララがお互いに思いを伝え合っていて、半ば恋人同士であることをこれまたお互いに認め合っている、という状態が安定的に持続していると言うことです。もちろん、とらぶるダークネスの「主要プロットの展開はそういうものではない!」という議論もそれなりに正しい。この作品の主要プロットはまぁ「いまのところ」でありますが、ヤミとモモと美柑を中心とする物語展開であり、正直ララは基本的に脇役といったら言い過ぎですけど、メインヒロインとしては振る舞っていないですよね。だから単に主要ヒロインを動かすために、ララに関してはテキトーに恋人未満ってことで御茶を濁しているだけじゃないか?という指摘もあり得るでしょう。まぁその点で言えば、僕としては春菜ちゃんのスルーされっぷりのほうが気になるとは言えば気になるのですけれども、これらの議論は「主要プロットはヤミとモモと美柑を中心としている」という点では正しいと思いますけど、「それ以外のヒロインは主要プロットにはあまり関係ないんだから、作品内容に深く関わるものではない」といったような、おそらくこのロジックの裏に隠されている「なんだかんだ言ってもハーレム作品はひとりのヒロインとひとりの主人公の恋物語を語るものだ」といった前提でこのとらぶるダークネスをみるのは間違っていると思います。ヤミとモモと美柑が主要プロットに関わっているとしても、ララはその中で「もうリトと半ば結ばれてしまっているヒロイン」として作内の主要プロットに「リト君ハーレム化計画」として強い影響を与えてしまっており、それは普通のハーレム作品のようにそれぞれのヒロインに対して「この女の子を選ぶべきかどうか?」といった萌え純愛の形式を不可能にしてしまっている。この点でモモとヤミと美柑という三人のヒロインのチョイスは実に絶妙だと思います。モモはハナっからハーレムに賛成だし殊更萌え純愛には拘っていない。ヤミは物語上リトとの純愛によって物語と結びついているというよりも、ヤミ×美柑×リト或いはヤミと育ての親とリトの関係と言った擬似家族的共同体の中でリトと結びついているのでこれまたハーレムには適している。それじゃあ最後の美柑はというと、この三人の中ではいちばん純愛に拘りそうなヒロインではありますが、まず美柑はリトとララの仲は認めているんですよね。でも、リトとモモが仲良くすることにかけてはイラつく癖に、ヤミとリトが近づくことにかけては妙に容認しているところがあり、端的にリトのことが好きで他ヒロインには渡したくないと言うことよりも、どちらかと言えばヤミに近く、自分が望んでいるある種の共同体のなかで、できるならばリトとずっと仲良くしたいという欲望が見受けられるわけで、これまたハーレムには適していると言える。ハーレムさえOKになるなら、実妹の障害なんて軽く乗り越えられちゃうわけですし。
これらは実際にとらぶるダークネスの「一話分の物語構成」を見ればわかることで、まぁ昨今のハーレム系作品は大抵そう言う傾向が強いのですが、主人公のリト君の存在というのは、彼女たちヒロインの共同体または友達関係を繋ぐ「何らかの媒介項」に過ぎないと言えばその通りなんですよね。つまり、端的に言ってしまえば、とらぶるダークネスは主人公リト君の「成長物語」ではないし、またはリト君と個々のヒロインの「恋愛物語」というわけでもなく、リト君が「中心になっている」ことは事実ではありますけれども、その円周上に配置された複数のヒロイン達のあいだでさまざまな感情がやりとりされる、まぁ二昔前の言葉で言えば女性ヒロインの心理描写を中心とする「少女漫画的な」物語と言っても良いし、一昔前の言葉で言えば主人公のリト君を含んではいるものの、基本的には女性ヒロインオンリーで構成される「日常モノ」に近いですね。だからこそ、仮に全ヒロインをガチにリト君ハーレム化計画に巻き込んだとしても、その物語の進行と言うべきか、その物語の繰り返しにはさして影響を与えないものだと思います。主人公の成長物語ならば、その成長のためにヒロインとの純愛が踏み台として提供されるのですから、そんな無制限に自分の欲望を求める主人公は真の男じゃねぇ!といった理由(別に僕は真の男にならずともヒロインとイチャイチャしたいだけなんですが)でハーレム物語は展開できないし、主人公と個々のヒロインとの恋愛物語ならば、三角関係といったメロドラマ的展開を語ることができるかもしれませんが、その運動は「ハーレム」が現に実現してしまったら停止してしまうので、複数の女性との異性関係を描写することはできてもエロハーレムと萌えハーレムの融合は期待出来ない。だけれども、主人公リト君を中心としつつ、しかし物語は各ヒロイン同士またはそこにリト君を含んだ日常描写を延々と続けるのであれば、リト君とのハーレム設定は物語の維持に邪魔になるばかりか寧ろプラスになる可能性だって高いでしょう。もちろん、実際のとらぶるダークネスのプロット進行は、横軸(つまり物語の進行要素)にヤミの過去を中心とした物語的プロット進行を少しずつ進めながら、縦軸(つまり個々の場面のキャラ配置)にこっちはモモのリト君ハーレム化計画を配置して各ヒロインとのちょいエロ仕込みの日常イベントを用意するとった体であり、純粋な日常作品とは趣が多少は異なりますけど、その総体として生まれる感覚は、エロゲの共通ルートにおける日常描写に近いですよね。こちらは既にララとリト君が結ばれているような状況から始まっているのですけど、たとえばみんなでリビングに集まってお菓子を食べながら、ララはリト君の隣にもうお前奥さんかよっ!って具合に当たり前のように座っていて、モモはモモでリト君にちょっかいを出して、美柑はそんなモモに一瞥加えながらもわりとボーッとした感じでのんびりテレビを眺めて、ナナとセリーヌはどっかで子供の喧嘩みたいに暴れているそんな幸福なお昼時。「とらぶるはもはやエロゲだろっw」という頭の悪い中学生的テンプレ発言の元になっているのは、例の乳首モロだし画像であったり、まぁこれは確かに感嘆するほかはない超絶技巧的なラッキースケベイベントの数々だと思いますが、それ以上に複数のヒロインと主人公のいろいろな関係が日常描写の中で凄く自然に語られているんですな。これは凄く当たり前に語られていることなので、誰も特筆しない類のモノだと思うんですが、例えば美柑の妹オタからの絶大的な人気を鑑みればそれは一目瞭然でしょう。僕は別に近親相姦の葛藤が語られていない妹シナリオはクズだとか、或いは妹ブームに乗っかったような「どーせ妹を出せば売れるからこんな感じで良いんだろ?」的作品の妹キャラはクズだ!と議論には与しないのですけど(僕はそういう安っぽい作品も大好きでしてねぇええ。ただ「この中に妹がいる」と「おにいちゃんなんだけど」はややイマイチですな)作中の日常描写の中でこれほど自然に「妹」が描かれている作品は、エロゲを含めたとしても実に珍しいんですよね。リトのことを特に異性としても深く意識していないし、同じ家の中でララやモモとリトがイチャイチャしていても、基本はガンスルーなんですけど(この時の美柑の呆れ声の演技が僕は太好きでねぇ)、それでもほんの少しは嫉妬するし、たまにはリトといっしょに静かな時間を過ごしたいよぅといった小○生らしい感情を日常生活のなかでふと漏らす瞬間もたまらない。こういう作品だからこそ「とらぶるのエロゲ化」という願望は他一次作品とは違う強烈なリアリティがあるのです。一つには作品自体が持っている日常描写の雰囲気がエロゲと近く、二つにはしかし基本的に「どのヒロインを選ぶ類の物語」ではないため、あくまで原作と同じ雰囲気を維持するエロゲのなかで、しかしあるヒロインの個別ルートを満喫したい!という欲望があるわけです。しかし最後の三つ目の問題は以前として残ります。そのような個別ルートを用意するのはいいとしても、それ「だけ」では真にとらぶる原作を踏襲したエロゲになれるのだろうか?という問題が。
さて、ここまで来て、ようやっと「とらぶるダークネスのエロゲ化」という基本的には妄想に過ぎない問題が、実は現状のエロゲに対して深い関わりを持つことを議論できるようになりました。いままでの議論を振り返れば、とらぶるダークネスは「萌え ハーレム」と「エロハーレム」を組み合わせたハーレム作品であり、それはある特定のヒロインとの恋愛的または性的結びつきを確保した上で、他のヒロインとの恋愛物語も同時に可能とする枠組みを提供する。そして、とらぶるダークネスのその枠組みを使って、エロゲの共通ルートにおけるような日常描写をも語っており、それが故に「ユーザーがヒロインを選んで攻略する」といったメタハーレム(またはメタ純愛)を持つエロゲ化に対する欲望をそそるが、しかしそのような「メタハーレム」を単純に導入しただけでは、「萌えハーレム」+「エロハーレム」の枠組みを持つとらぶる本編とはどこか噛み合わないところが出てくるであろう……ということでした。はて、このような問題と、基本的に「萌えハーレム+メタハーレム(或いは萌えハーレム-メタ純愛」の枠組みをもつエロゲと、いったいどのような関係性を持つのでしょうか。それは、とらぶるダークネスの妄想エロゲ計画であれ、昨今のエロゲに一部見られるようなエロゲの動きであれ「萌えハーレム+メタハーレム+エロハーレム」といった作品を構築する困難が共通している、と言うことであります。その昨今のエロゲに一部見られるような動きとは、まぁ最近の例で言えばこちらはあんまし上手くいかなかった作品ではありますけど「恋妹」はその典型的な例であるし、まだ僕は体験版しかやっていなく、知り合いのオタ友人や信用のできるエロゲレビュアーのレビューを見て「何となくそんな感じなのかなぁ」と思ったに過ぎないのですけれども、「辻堂さんの純愛ロード」も以上の「徴候」を確認できる作品なのでしょう。僕が見た限りでは、この作品は基本三つの大きなメインヒロインルートに分岐して、その三つのルートから細かい選択肢によってメインルートとサブ(BAD?)ルートが分かれるといった、まぁ基本的には三人のメインヒロインルートの物語に見え「ながらも」、その三つのメインヒロインルートにおいて、そのメインヒロインと同じ程度に物語的重要度を持っているのがメインヒロインである「辻堂さん」らしいんですよね。それがどういう物語的重要度を持っているのかは、実際にプレイしなくちゃわからないと思うんですけど(まぁどうせ主人公を最後まで未練たらしくグズグズやらせるんだろうから、精神と時の部屋の余裕があるときじゃないとやる気にはならないのですが。どうせFDも出るんだろしそんときでいいかと)、形式的に言えばこのような構成を持っていることはある程度予想できる。普通のエロゲでA~Cのヒロインがいる場合、その個別ルートの物語内容はAルートBルートCルートとなりますが、辻堂さんの場合にはそれが、Aを辻堂さんだとするならAルートBAルートCAルートといった感じになっているのでしょう。おそらくのところ、まぁみなみソフト系列の作品ですからサブヒロインとの浮気めいたBADルートはあっても、例えば恋奈ちゃまルートのなかで辻堂さんとせくーすするようなシナリオはないとは思いますが、それでも一応はそのメインヒロインルートに別のメインヒロインが(単なる当て馬以上に)強く介入してくるというのは、エロゲのなかでは結構珍しいとは思うんですよね。でも、このような事態が「ハーレム」と一体何の関係があるのか。それではまた別の作品を持ち出してみましょう。
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もちろん、この作品に対するツッコミとしては「大家さんと実妹キャラを早くトレードしておぅ。つーか、妹が大家さんになれば問題ナッシングだよね?」というもので、まぁ妹ルートが初回特典として公開されるとしても、どーせエロ一回な30分ルートしかないんだろ?けっ!という愚痴はここまでにしておきますが、問題はこの相関図から如何なる物語とルート編成を導き出すか?ということだとおもうんですよ。
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つまり、ぶっちゃけ主人公と綾乃は各種ルート分岐前にやるのかやらないのか。或いはやらないとしても、どこまで関係が進むのか進まないのか。全くなにもやらずに、関係もあまり進まなかったとしても、おそらく綾乃と主人公とそしてユーザーが選択するヒロインの何らかの三角関係が物語の中心となることは「彼女と俺と恋人と。」というタイトルから明らかであり、まぁ一応イチャラブゲーみたいに歌ってますから、あんまし修羅場展開にはならないと思うんですけど、でもそんなことを言うなら「辻堂さん」だって、確か不良娘といちゃつくADVでしたっけ?とか名乗っていながら、三角関係を基軸とした修羅場っぽい物語を語っているらしいので、やっぱ「イチャラブ詐欺」の伝統は終わりそうにないぜイヤッホウ!と変な期待を抱いてしまう作品ではありましょう。まぁ嫌味とも煽りとも付かないコメントはこれぐらいにして、以上の作品例に見られる現象を一言で言えば「特定ヒロインAが作中のAルート以外のヒロインルートにおいても強い影響力を及ばしている」ということでしょうか。その影響力がどういうものであるのかは、個々の作品の物語やその中のルートによってありようは異なるにしても、普通のエロゲのように個々のヒロインルートがその個々のヒロインの物語によってのみ限定されるという「メタハーレム」または「メタ純愛」の規定からは少し離れるものであるのは確かでしょう。AからCのヒロインが居るとして、Aがそうした中心になる場合、そのAがいくら物語のなかで中心となることが説得力を持って語られていたとしても、しかしAはユーザーの選択によって選ばれたヒロインではないわけで、さらにBルート(正確にはこの場合BAルートでしょうか)やCルート(CAルート)をBやCのヒロインともっと仲良くなりたいと思って選んだユーザーに取ってみれば、端的にAヒロインはお邪魔虫でしかないと言えるかもしれません。まぁその問題については後で議論するとしても、このようなルート構成が「メタ純愛」をある程度破壊する作用を持つことは先にも言ったように言うまでも無いとおもいます。ユーザーのメタ純愛的選択は「でも、物語にはユーザーが選んでいないヒロインによって以前として強く影響される」といった作用によって常に相対化されていく。おそらくのところ、それでもこれらの作品はユーザーが選択したヒロインと主人公の恋愛関係が中心に語られているとは思いますけれども、それは既に「メタ純愛」の選択ではなくてどちらかと言えば「ベタ物語」の選択に移行してしまっている。上のような作品では、自分が選んだBルートやCルートに辻堂さんや綾乃といったAヒロインが干渉するのは作品の物語構成上(まぁユーザーがそれをどう評価するのか問題はさておくとしても)仕方の無いことだと言うような認識を植え付けようとするのではないでしょうか。
ここまで書けば勘の良い読者の皆さまなら、今後の論述の展開はわりと読めそうな気がしますが、以上のような、強いて名付ければ「特定Aヒロイン全ルート3P構造」というのは、いやまぁ既にネタバレしちゃっていますが、ヒロインとの3Pを描く上で実に応用が利く構造だと思うんですよ。たぶん、辻堂さんにも「ととと」にも(メインとメインを含んだ)3Pエロはないと思うんですが、これを正当化するのは案外簡単なのではないでしょうか。例えば、完璧にメタ純愛やメタハーレムが機能している普通のエロゲならば、ユーザーが例えばAヒロインを選んだとしたら、そのAルートに例えばBヒロインとエッチするようなシナリオを描いてしまったら、おそらく大半のユーザーが不満に感じる。あくまでユーザーはAヒロインとの純愛を「自分がAを選択したから」望んでいるのであって、そこにおけるBヒロインとのエッチは余程シナリオを上手く回さない限り基本的にはノイズでしかないわけです。だからこそ「双子シナリオ3P」は多少の不満は出ても、大半のユーザーは納得するわけですね。そこでメタ純愛として選択されているのは「双子ABルート」を選んだと言うことなのですから、そのメタ純愛の範疇に置いては別に3Pや双子エンド自体が純愛と矛盾するわけでもない。それでは特定「Aヒロイン全ルート3P構造」に置いては どうなるかと言えば、ユーザーが例えばBAルートにおいてAヒロインの介入を好意的に受け取ろうがウゼぇ氏ねよと思うが、そのどちらにしても「まぁ俺の選択した結果によって起こっていることではないし」と言ったような感情を覚えるのではないでしょうか。つまり、その作品の特徴してAヒロインがどのルートにも介入するとなれば、そのAの介入に関する態度は「自分が選んだ結果とは全く関係無しに登場する、単なるベタな物語のひとつ」と好意的または否定的にとらえられるわけで、そこで例えばBAルートでBとAと主人公の3Pが発生してしまったとしても、無論それに対しても好意的または否定的の評価はあるでしょうが、好意的に感じた場合には「俺はBとの純愛を選んだはずだけど、まぁBも喜んでいるみたいだし別に良いか」的なノリで受け入れることが可能になると思うんですよね。そのユーザーの物語分岐の選択が「ヒロインを選択するメタ純愛」から「ある種のヒロインの物語を選択する」モノに転換すれば、複数ヒロインとの物語的絡みを通じて3P描写が増える可能性はあるでしょう。
もちろん、このような段階は基本的に「序の口」というべきものでしょう。以上の「特定Aヒロイン全ルート3P構造」はある種の実験としては流行る可能性もあるし、このような構造を上手く利用した作品だって出てくる可能性もあるとは思うのですけれども、基本的にはやはり「一部のエロゲ」の域を出るものでは無いと思います。エロゲにおける「メタハーレム」または「メタ純愛」の快楽は、事実上エロゲだけが独占していると言っても良い快楽のシステムであり、これを廃棄または一部毀損するようなジャンルのエロゲが主流に上がるというのは、ある種の反動は必ずあるとしても(いままでのエロゲの常識を越えた!みたいなヤツ)そのようなジャンルがながいあいだ主流を独占できるとは思えないし、またそのようなことが仮にあったとしても、 そのようなジャンルは僕または全てのエロゲオタにとって予想を超えるものでしょうから、そんな予想を超えたモノについて云々したところでノストラダムスの大駄文にしかならずちっとも面白くないでしょう。それでは、この「特定Aヒロイン全ルート3P構造」にいったい何の意味があるのか。それは辻堂さんの反響を見る限りだと、ちょっとは高望みしすぎかなぁとは思うのでしょうけど「ととと。」もそれなりに好評だった場合には、まず第一に当たり障りのないことから言っておくと「萌えハーレム」と「メタハーレム(メタ純愛)」以外にも、エロゲの物語のルート編成にはいろいろなやり方があると言うことが広く知れ渡ると言うのがひとつ。まぁ僕はこういう「実験することにこそ価値がある!」みたいな言い方は基本的にあんまし好きじゃなく、そんなの頭でちょいとシミュレートすれば「萌えハーレム」と「メタハーレム」の組み合わせ以外の方法があること自体はわかるだろうし、それに「実験することにこそ価値がある!」と言いたがる連中に限って、その実験が「如何なる効果や結果をもたらしたか?」というところにはちっとも語らないところにもムカつきます。とはいえ、それは僕の個人的感情でしかないわけで、確かにその種の実験作に「窓を開けて新鮮な空気を呼びこむ」ぐらいの最小限の効果があるのは確かですし、それについての各種言説が出回るようになれば、開発者の皆さまにとっても「別の作品を作ってみようかな」というような勇気が沸いてくることもまぁあり得ることでしょう。「辻堂さん」を巡るレビューのやりとりで面白かったのは、いやこういうのは本当はちゃんんと本編をやった後に楽しむべきものなんですけど「主人公がいつまでもウジウジしてるのがなぁ。どうせだったら辻堂さんと恋奈で3Pすりゃよかったのに」といった、普通のエロゲのメタ純愛の価値観を堂々と破ってしまうような意見が、わりとフツーに書かれてしまっているところだったんですよね。さらに言えば、まぁあんまし信者とかアンチみたいな言い方はしたくはないのですけど、どう考えてもこのひと信者ですぅぅ!みたいな人までもが「エロゲなんだからサブヒロインと堂々とエッチしても問題ないだろ!」みたいな、たぶんこの人普通のエロゲだったらそんなことは絶対言わないだろみたいなことまでも作品の擁護のために口走っており、いやまぁ別に信者とかアンチとかを議論したいわけではないんですけど、こういった意見を仮にメーカーが真に受けてしまったら、みなみソフトの新作は変態なルート構成になるだろうなぁウヒヒヒとついニヤニヤしてしまいました(タカヒロ氏はその点基本的に堅実狙いなんできちっと安牌路線を行きそうですが)。まぁ何が言いたいかというと、例えば「特定Aヒロイン全ルート3P構造」ならばそれを巡って、ユーザーの間にさまざまな評価や突飛な意見が持ち上がり、そしてそのような言説が広く出回れば、そこから更に当メーカーや別のメーカーが違うルート構成の着想と需要を思い浮かべることができるかもしれない、ということですね。
因みに余談ですけど、そう言う意味で、確かに「実験作のその効果や結果やどのような影響をもたらすかを語るのは難しい」という、実験作に対する手抜き批評の言い訳は基本的に正しいわけです。もしもその実験作がそのジャンル全体に影響を与えるものであるのならば、その影響範囲はひとりのユーザーの予測を超えて、実に奇妙な入り組んだ議論や理窟や誤解やハッタリや半値半解を経て、さまざまな対象に影響を与えますから、ひとつの波紋がまず最初にどのような対象にどんな影響を与えるかはそこそこ予測できるとしても、その最初の波紋に影響を受けたなんらかの対象が次にどんな行動や言動を取って何に影響を与えるかについてまで予測を広げるのは難しい。とはいえ、この事実とは別のレベルで、上の手抜き批評は間違っていると言うこともできますね。ひとつには、大抵この手の手抜き批評は「どんな影響をおよぼすかはわからない」とはいいながらも、その下の根が乾かぬうちに「ジャンルの未来に多大な影響をおよぼす」とか言ってしまっていること。なんかこれは「俺の予言を解読するのは俺にも無理だが俺の予言は必ず当たるぞ」みたいな詐欺的言説に近いですわな。予言のその現実における具体的進展または展開については曖昧な言葉を使って御茶を濁し、しかし俺の予言は必ず当たると前もって言っておけば、その曖昧な言葉を事後的に「この言葉は実はこの事件をさしていたのだ」と解釈すればどんな予言も100%当たるというキケロの予言批判であります。もう一つは、これは先ほどの予言批判と正反対のロジックだと思われましょうが、その手抜き批評自体に、その作品の実験性をアピールするところが皆無で、偉そうな事を言っておきながらその実験作の影響を広範囲におよぼすことができていないこと。「そりゃ無理だよ。だってこの実験作の影響は広範囲に及んでそれを予想するのは無理なんだから」とか甘ったれたことを言っているヒマがあったら、せいぜい皆さまの前で大恥を掻くような、その作品に関する大笑いの大予言を一発ぶちかましてその作品の布教にでも努めたらどーなんでしょうか。実験作の手抜き批評で間違っているのはその点ですね。詰まるところ、その作品が実験作としてそのジャンルに大きな影響を与えると言うのは、歴史的に見ても「その作品本来の力」によるものではなくて、まぁ100歩譲っても「その作品の本来の力に感化された批評家または作家達の言説」によるものであって、その言説の沸騰状態から新たな作品が生まれたりするわけです。つまり、この種の実験作批評というのは、静的に現実から隔絶した世界のなかで絶対不変の未来を予測することではなくて、動的にその予言つまり先取りされた未来という虚構をもってして開かれた未来に対して強烈な一撃を与えるハンマークラヴィーアを叩き続ける呪術的行為に他ならないのです。ですから、単にその実験作自体にまぁ「その作品本来の力」が備わっていると仮定したとしても、それだけではジャンルの未来を切り開くような言説の沸騰状態は生まれない。もちろん、僕は別にその「ジャンルの未来を切り開く」ことを何ら特別視しないので、別に「この作品は自分だけがわかっているんだもんねふふーん♪」とやること自体には何ら問題は無いし、僕としてはそのような人物は非常に好ましいフェチ野郎だとは思えます。しかし、そのような態度を維持しながらも「しかしこの作品はジャンルの未来を切り開く特別な作品なのだ」と主張することは、端的に矛盾であるばかりはなく酷い自己欺瞞だといえましょう。自分だけがわかるなら自分だけはわかるで、まぁ理論的には黙っていれば良いし、それが寂しくて我慢できないのであれば内輪だけできゃあきゃあ騒いでいれば良いものを、どうしてそこから「この作品はジャンルの未来を切り開く」といった公的な価値を主張する必要があるのでしょうか。「実験作のその効果や結果やどのような影響をもたらすかを語るのは難しい」という、まぁそれ自体としてはそれなりに正しい理窟は「実験作の批評は原理的に無理なので、ただ実験的という言葉を持って、ジャンルの未来に寄与するものとして特権的に評価するしかない」という誤った理窟を産み出してしまうところがある。その作品を自慰的に愛玩するのは全く問題は無いのですが、もしもジャンルの未来といった価値観に置いて評価を下したいのであれば、いわばあなたは自分の誤った滑稽なインチキ予言者の身振りでもって、その作品の前衛性を褒め称えるしかないのですから。前衛的もしくは実験作の批評に置いて必要なのは、自分が前衛であるというエリート意識では全くなく(それは全く有害なモノです)、その作品に対する狂人の如き強靱な理解と作品に対する無償の愛の他はもうなにもいりません。
さて、そろそろ纏めに入ります。上の「特定Aヒロイン全ルート3P構造」のもたらす効果は、まずはエロゲで言うところの「メタ純愛」を基本的に破壊し、自分が選んだヒロインのルートに自分が特に選んでいないヒロインを介入させる効果があり、それはエロゲの選択肢(ユーザーのメタ介入)に置いて「そのヒロインを選ぶ」よりも「そのヒロインに関係する物語を選択する」と思わせる機能もある。とはいえ、エロゲにおける「メタ純愛」または「メタハーレム」の快楽は絶対的と言っても良いほどであって、この「特定Aヒロイン全ルート3P構造」は「萌えハーレム+メタハーレム」以外のエロゲのルート構造に目を向けさせる要因にはなっても、それ自体が新たなエロゲのルート構成を形づくることが出来るかというと、それはかなり難しいというお話でした。それでは、この「特定Aヒロイン全ルート3P構造」を仮に「とらぶるダークネス」に当て嵌めてみましょうか。その特定Aヒロインとは誰か? そのままベタに考えればララでしょうか。つまりこの構成でエロゲを作るとなると、ゲームの序盤からララと基本的にエッチとかしちゃって、その後ヤミルートとか美柑ルートとかに分岐するものの、しかしそこでは必ずララが3P要因として加わり……ってここまで書いた時点で「なんかララがすげぇウゼぇような気がするんですけど……」 と思ったのはぼくだけではありますまい。さらに言うと、これはとらぶる本編の物語的雰囲気とも微妙にズレていますわな。確かにララは空気が読めないヒロインではありますが、作者はわりと空気を読めるのであの性格のわりには「ララうぜぇ」といった批判の声は少ないでしょう。ララは確かに物語エピソード冒頭の序盤の「とらぶるの種」にはなりますけど、読者が一番大切にしている他ヒロインとの関係ではあんましというか、基本的には他ヒロインや主人公を助けるような役割しかしていませんから「ララうぜぇ」の批判はないわけです。と、なると、ユーザーが選んだ例えばヤミルートで、ユーザーが選んでいないララがいきなりセックスというのは、悪い意味でのエロゲ的ご都合主義(エロの為なら物語なんてぶっ飛ばせ的な)に他ならない。 とはいえ、とらぶるダークネスのララとリトが開始早々半ば結ばれていることを描写するために、特定Aヒロイン的な位置づけをララに与えて、しかし例えばユーザーがメタ選択したヤミルートに関してララは、ユーザーがどれだけそこに関与させるのか 決定させるようなやり方ならば、例えば3Pを望む人はそのような選択を取れば良いし、要らない人はそれをスルーすれば良いということにすれば良いでしょう。とはいえ、そのように「細かな選択肢によるミニ分岐」をたくさん作ったところで、基本的にはあとで「既読スキップしつつCGまたはシーン回収」といった、基本的には退屈なプレイをやらせるしかないのですから、そこはそれで各自に大きなルートを作る必要があるでしょう。
これを形式的に言えば、AからCのヒロインが居るとして、まずは先の「特定Aヒロイン全ルート3P構造」をそのまま用い、AルートBAルートCAルートを作る必要がある。そして次に「BAルート」と「CAルート」の最初のあたりに、「Bルート」と「Cルート」を作れば良いと思うんですよ。つまり、このとらぶるダークネスエロゲ版はまずはララルートに、ヤミルート、美柑ルートという普通のエロゲの「メタ純愛」選択を用意して、その他にも「ララ&ヤミルート」とか「ララ&美柑ルート」とか「ララ&ヤミ&美柑ルート」だのを各種ハーレムをユーザーが選択できるようになっている。そんな複数のルートなんて多すぎてかけねぇYO!とは言えませんよね。だって、上のルートは6本しかないのですから、そのひとつひとつのルートが が普通のエロゲと同じ容量だとしても、フルプライスエロゲよりもちょい多い容量しか求められていないじゃないですか。しかも今日日まぁある種の「大量ヒロイン物量作戦エロゲ」は例外としても、6人ヒロインのエロゲよりも、3人ヒロインのエロゲで、それが普通のエロゲよりもより多くの時間と物語を過ごせるエロゲのほうが求められているわけじゃないですか。実際のところ、いまはお気に入りのヒロインだけやったら後は放置!なんて人も結構多い。そう言う人はたくさんヒロインがいるよりも、 よりたくさんの時間をヒロインを過ごせるエロゲのほうが好ましいに決まっています。そういう意味でも「ごく少数のヒロインに複数選択の攻略ルートを作る」というこの手法はまさに時代の先を行くモダーンな形式だと言えましょう!。
それなら、別に「特定Aヒロイン全ルート3P構造」を使う必要は無く、普通のエロゲのようにAルートBルートC分岐させて、其所から更にABルートだのBCルートだの作れば良いんじゃないの?と疑問を思い浮かべる人もいるかもしれませんけど、 たぶんこれはこれで結構むずかしい。というのは、その作品における基本物語設定なしに、それぞれのヒロインルートが個別に存在して、お互いのルートの物語内容が全く影響を与えない類の、まぁ所謂「シナリオが薄いと言われる萌えゲー」だと、それらのメタ純愛による個別ヒロインの個別ルートを描くことは可能なんですけど、そこから更に「おまけ」以外のやり方で一本の太い3Pルートやハーレムルートを書くのは、少なくとも今の段階では基本的に難しいのではないかと思うのですよ。そのような構成だとたぶん、例えばAルートに入ったらそこでまたそのままAルートに行くかまたはABルートに分岐するかの選択肢群が現れるわけですよね。同様にBルートには入ったらそこでまたBルートに行くかBCルートに行くかの選択肢群が現れ、それはCルートでも以下同文な感じでありましょう。つまり、そのような選択肢分岐の物語を無理なく用意するためには、それ以前の共通ルートに全ヒロインとのメタ純愛が可能な物語を用意しつつ、それでいて全ヒロインとの萌えハーレム+エロハーレム が可能な物語的根拠(言い訳とも言います)が必要なわけでして、そいつを構築するのはかなり難しい。いや、たぶんまぁ設定自体を思いつくのはそんなに難しくはないんでしょうけど、そういう「何にでも分岐可能で何でも応用可能な」物語というのは、 基本的にはその物語自体の説得力が無かったりするんですよ。これは所謂「シナリオが薄い萌えゲ」が、それでもなんで萌えゲオタには楽しめるか?を考えれば良いでしょう。ここで「萌えゲオタがバカだから」と答える人間は正直かなりバカな人間であ るはいうまでもありませんが、それはその「シナリオの薄さ」がその物語におけるユーザーのメタ純愛またはメタハーレム効果にとって好都合だからであります。だけど、そのような萌えゲにいきなり3Pやハーレムルートをぶち込んだら? その作品の萌えを支えていたユーザーのメタ純愛的感情移入はそこで破壊されて、残るは悪い意味でのエロゲ的ご都合主義が残るだけであります。そのエロゲ的ご都合主義は他ならぬユーザーの「メタ純愛」また「メタハーレム」によって支えられていたのに、そこをスナック感覚で破壊してしまったら、その作品にいったい何が残るというのでしょうか。もちろん、僕がうえで上げたようなエロゲがわりと出回るようになれば、ユーザーのある種の慣れというのもあるし、その種の作品の評価軸がある程度安定すれば、それを土台にして新しいタイプのハーレムエロゲが出てくるようになるでしょうから、最初に挙げたようなエロゲも出てくる可能性はあるでしょう。ただ、いまの段階で、いまの萌えゲを基準としたようなルート構成に、いきなり3Pやらハーレムルートを入れるのは基本的に難しいと思われます。。
「特定Aヒロイン全ルート3P構造」がその点は良いのは、まずは、まぁ辻堂さんや「ととと」がどこまで事前に情報を公開する(していた)のかはよく知りませんけど、基本的に始めから「Aヒロインを中心とする作品なんだ文句あっか!」とユーザーにその作品の物語の特異性を始めから認識させる効果があるというところでしょう。ちょい余談に入りますが、このような「人を選ばせる」ような作品公開は、何故かエロゲ業界では表だって行われることはなく、サプライズやらエロゲの実験やら既存のエロゲにアンチを突きつけるといった美名を元に、ユーザーをだまし討ちする行為が白昼堂々と認められていますが、むろん、僕はそのような行為を認めているわけではありません。上のようなサプライズ何たらといった言説は、単に頭の悪い高校生のツッパリ行為に見せかけた、実のところメーカーの「普通のエロゲだと思わせないと売れないよなぁ」という商業上の販促問題を恰も芸術上の問題と見せかける欺瞞的反則行為に他ならず、もしも本当にユーザーに向けて突っ張るつもりがあるならば、始めからこれは「人を選ぶ作品です!」と堂々と主張すれば良いだけのことでしょう。いや、本当にこの「人を選ぶ作品であることを商業上の理由で隠し、それをサプライズ何とかという芸術的目的で隠蔽する」という行為は、正直言って全ての面に置いて何らメリットがないものだと思います。もしもその作品が優れたモノであるなばら、それが人を選ぶ作品であったとしても発売直後から話題になってそれなりの売り上げとメーカーの評判に結びつくでしょう。でも、それが「何とか詐欺」によって売られた場合、もしその作品が優れたモノであったとしても、昨今のエロゲ業界においては「サプライズ」といった掛け声は殆ど肯定的な意味を持たずに「何とか詐欺」によってかき消されてしまう可能性がある。しかも、こういうサプライズ言説を支持する人たちが矛盾しているのは、片一方では「今は普通のエロゲが飽きられている」だの「普通のエロゲじゃもう売れないよ」と言いつつ(僕はその意見にまぁ2割ぐらいは賛成しますが)、片一方では「普通じゃないエロゲ」を「普通のエロゲ」の如く見せかけて売るサプライズゲーを肯定していることです。おかしいじゃないですか。今は普通のエロゲは売れないだの飽きられているだの言うのだったら、その「普通じゃないエロゲ」をサプライズ何とかやらずに、そもそも「普通じゃないエロゲ」として売れば良いだけの話であります。もちろん、ぼくだって一応は大人と言うことになっていますから「そんなことを言ったっていろいろ事情があるんだよ」と、単にそのことだけを言い訳とするのであれば、それはそれでいろんなレベルで「仕方が無い」とは思います。とはいえ「仕方が無い」ことはあくまで「仕方が無い」ことであって、何ら肯定的に評価するもので無いことも確かであり、それが「サプライズ」なんたらという誤魔化しによって「仕方が無いこと」を「良いこと」のように振る舞うのは破廉恥極まりない包茎ちんぽこにアイスクリームをたっぷり塗りたくっただけでセックスしたような気分になるビガーおパンツでありましょう。まぁ要するに、少なくともこの御時世だったら、もしもそれが普通じゃないエロゲだったら普通じゃないエロゲですとちゃんと販促打って売った方が、あらゆる意味で正解だと思うんですけどね。そもそも、この「サプライズ」といった言説が支持されていた背景には、それ以前のサプライズ系エロゲが概ね傑作だの名作だのと言われていた歴史があり、つまりユーザーは単純な損得計算として「騙されたことはムカつくけど、でもそれによって名作だの傑作だのが生まれるのだから、我慢してやるか」というものがあったからこそ、サプライズを受け入れていたところがある。でも、サプライズの濫用によって出てきたモノが、単にユーザーに「祭りネタ」を提供する煽り作品であったり、パケに載っているヒロインが攻略出来なかったり、そもそも未完の庭だったりするような「酷いサプライズ」が続いた日にゃ、そんな「サプライズ」と言う言葉は酷い作品を騙し売りしたメーカーの尤もらしい言い訳に過ぎなくなります。全ての言葉はその言葉が置かれている歴史的状況によってその意味が変わってくるわけで、何らかの形而上学的な深遠な理由によって「メーカーのサプライズによって傑作が生まれる可能性がある」という一昔の理論が保証されていたわけで全くないのです。
んで、「Aヒロインを中心とする作品なんだ文句あっか!」の特異性が、なんで他のハーレムフィクションの特異性を受け入れさせられる便利な踏み台になるかと言えば、勿論それはその設定を個々の物語の生かしたかによって変わるというのが原理的なところでありますが、まぁ一応共通要素めいたところを言えば、Aヒロインを中心とするというエロゲにしては些か強引なフィクションのリアリティレベル設定を利用して、まずはAヒロインとBヒロインとの3Pといったエロゲ的にもやや強引と思われる展開をある程度は正当化出来るような物語を作りやすい、と言うところがあるでしょう。例えばとらぶるダークネスで言えば、ララの設定のような「主人公が他の女の子と仲良くしてもちっとも怒らないヒロインを中心」にすれば、そういうヒロインなら主人公と他ヒロインと3Pをしても「ララ」というヒロインのリアリティレベルとは矛盾しないでしょう。あるいは逆に、まぁ非常にわかりやすい例を出せばの話でありますが、その中心となるヒロインが最近まったく不評なヤンデレヒロインだった場合にも、そのような物語をユーザーが好むかどうかは兎も角として、最初から主人公を独占しようとしているヒロインが他ルートまでノコノコやってきて3Pを仕掛けるのも、まぁそのフィクションのリアリティレベルにおいては一致していると言えるでしょう。そう、ここまで説明すればわかった人も多いかもしれませんけど、「特定Aヒロインを中心とする」というような初期ルート分岐構成は、比較的に物語を作りやすいのです。これは逆にそのAヒロインが選ばれなかった場合の「メタ純愛ルート」を考えればわかりやすい。つまり、A~Cのヒロインがいる場合における、純粋なBルートやCルートですけど、この場合には「選ばれなかったAたんは可哀想だシクシク」もしくは「Aを振ってまでBやCを選んだ俺こそはBやCの真のご主人様」といったような、通常のエロゲにおけるメタ純愛的物語や感情もソソルこともできる。どうにも、僕のこの説明だとこのようなルート構成には何となく「修羅場ゲー」と親和性が高いように思われますが、まぁ最近は修羅場ゲーがあんまし出ていませんし、僕は「君が望む永遠」を「君が望む永遠の修羅場ハーレムゲー」だと評価していますので、修羅場ゲーにこのような構成が使われても全くかまわないとは思うのですけど、別に修羅場ゲー以外の物語を考えることも可能ですよね。だって、そもそもとらぶるダークネスをこの構成でエロゲ化するのであれば、まぁララが選ばれないヤミルートや美柑ルートにちょい修羅場めいたところはあるかもしれませんけど、他のヤミ×ララとかララ×美柑ルートなんで修羅場のにんべんすら思い浮かばないような、基本まったり展開が予想できるじゃないですか。基本的にこの構成のコツは「Aヒロインを中心とするその物語展開のありよう」と「ルート分岐までにAヒロインと主人公の関係をどこまで発展させるか」によって、それが修羅場ゲー的展開になるか、あくまでハーレムゲーに留まるかは決まるのであって、このスペルマ塗れの展開から血まみれの展開まで幅広く汎用性が効く「萌えメタエロハーレム」こそが2010年代のエロゲの重要な一形式にならんとされることはこれ以上の論を待たないでしょう!
……しかし、本当は上の文章を書いて終わりにしたかったのでありますが、まぁ「とらぶるダークネス」ネタだけに、つい、こう「つい魔が差してしまった」といいますか。一応今回の雑談ネタの表題は「とらぶるダークネスをエロゲ化したらどうなるのか?」という言い訳を通じてエロゲにおける「萌えハーレム・メタハーレム・エロハーレム」について語ってみようという雑談ネタだったんですけど、いやぁ、上のバカを綴っているうちに頭の悪い中学生の妄想がもくもくと膨らんできまして、本当に僕が考えた「とらぶるエロゲ化シナリオ」がきっちり完成してしまったじゃないですか責任とってよ古手川さん!。最初はとらぶるダークネスってまだ未完だから、上の馬鹿ネタを展開するために、なんかテキトーな架空シナリオでもでっち上げて、そこから説明したほうが良いかなーと軽い気持ちで考えていたのですが、上のバカネタを発展させているうちにその架空シナリオのほうも凄い勢いで妄想が広がってしまって、いまやその架空作品の「AルートBルートCルートABルートACルートABCルート」の六本のシナリオのプロットがスラスラと鼻歌のようにあたまから漏れ出す始末です。ええーい、毒を食らわば皿まで! こうなったら、このオレサマが考えたとらぶるダークネスエロゲ化記念第一弾(とーぜん第三弾ぐらいまで予定しております! シナリオライターにはトノイケダイスケをご用意しています!)「とらぶる☆シスタープリンセス」というオリジナルティーぶっかけまくりのエロゲ風プロローグ紹介を食らいやがれってくださいおながいします!
とらぶるダークネスの物語から一年の時が過ぎた。リトはララとの婚約に「好きになった女の子は絶対に守らなきゃね!リト」という言葉とともに一夫多妻的関係にも半ば合意したものの、
依然として春菜ちゃんにも告白する様子も、他ヒロイン達のとの仲が特別に深まることもなく、ヒロイン達もそんなリトの様子に内心ほっとしながら、彼らは一年前と殆ど変わらない平凡な日々を送っていた。
事件はその平凡な日常の一コマ、リトとララ姉妹達と美柑がいつものようにリビングでTVを見ているときの、何気ない一言から始まった。
「ねー。リトはいったい誰を妹にするの? やっぱり美柑かな? 美柑もいいけどわたしのモモも可愛くてお奨めだよー」
……意味がわからない。リトがそのララの発言の意味を真に理解するまで半日の時間を要したほどだ。やはり異星人との異文化コミュニケーションは難しい。
ララの言葉を地球人の理窟で言い直せば、デビルーク一族の娘と結婚する男性は、その結婚した時点で今までの全ての血縁関係を(デビルークの機械によって)全てクリアされてしまうらしい。
なんでも王位継承のとらぶるを未然に防ぐのがその目的らしいが、つまりララと結婚してしまえば、リトと美柑はこれまでの兄妹から単なる他人へと変わってしまうらしいのだ。
これを防ぐには、いや正確に言えばふたりが再び兄妹の関係に戻るためには、血縁関係がリセットされたあと、リトと美柑がデビルークのとある施設で「妹姻の戯」を行い――具体的に言えばそこで性行為を行い――
ふたりのDNAを交わらせ、再び兄妹としての血縁関係を取り戻す必要があるという。この「妹姻の戯」は実妹以外の異性にも可能で、赤の他人の血縁関係であったとしても、ふたりが同意するならそこで兄妹になることもできるらしい
デビルークの法律では、愛人よりも妹のほうが王との立場は近いと言うことになっており、なんでも歴代の王のなかには12人もの超能力を持つ女性と妹姻の戯を行い、全宇宙を支配した偉大なるシスコン王もいるとかいないかとか……
「ちょ、ちょっとぉ! 冗談じゃないよ。なんでわたしがリトとエッチなんかっ!」
「あれぇ。美柑さんったらやっぱりリトさんと離れるつもりはないんだぁ。だいたーん-。わたしもリトさんの……いいえ、リトおにいさまの妹に立候補しちゃいます」
「家族……わたしにも血の繋がった、宇宙でただひとつの繋がりができる……」
と三者三様の反応を示す美柑とモモとヤミの三人のヒロインたち。冬の終わりから確実に春の始まりへと向かいつつある雪が融けつつある季節に、妹たちの家族の恋の物語は少しずつ動きはじめる。
んで、とーぜんのことながらこの物語における中心となるヒロインは美柑ですわな。ええ、それはもう仕方の無いことなんです。ララの出番はどうしたって?ララはもう婚約者ってことで良いじゃないですか。なんで物語上の本妻がスポットライトを浴びないんだよ!と怒る人は本妻よりも実妹の地位のほうが高いと言うエロゲ世界の真理を全く理解できない戯け者なので、妹ゲを100本連続でやって出直してきてくださいませ。ですから、物語が進んで、リトがモモやヤミを妹として選んでしまっても(なんて酷いユーザーなんだ!)美柑は健気にもリトのそばを離れようとせず、そこでヤミ×美柑ルートやモモ×美柑ルートといった俺得過ぎる3Pルートをチョイスすることができて、晴れてそのルートでは彼女たちが姉妹になってしまうわけです。ヤミ×美柑ルートはけっこう想像が付きそうな感じがしますが(ヤミのほうから美柑を誘うといった感じで)、モモ×美柑ルートはもう想像しただけで小学生的な鼻血がぶっ飛ぶエロさに満ちあふれており、なんで世の同人エロ漫画の諸君らはこのような甘美な妄想に筆を委ねないのかまったくけしからんけしからん!。そんなけしからんお兄ちゃん達のためにでこの「とらぶる☆シスタープリンセス」におけるモモの役割は紛れもないエロ担当です。ええ、しかもモモには完全に適役かつ敵役な美柑からリト君を偽妹誘惑でNTRしてしまう萌えお色気誘惑キャラ。なにしろ共通ルートで「お兄様」とか囁きまくって、まるで通常のエロゲのような萌え妹キャラ路線でリト君を美柑から引き離そうとしちゃいますからねぇ。いくら美柑信者を名乗るにんげんでもこの誘惑から逃げ切ることは……否、美柑信者であるからこそこのモモの偽妹の誘惑によって堕とされた時の快感と言ったらたまらないものがありましょう。「とらぶる☆シスタープリンセス」はエロゲにおける最先端のエロシチュから最高のエロしーんの快楽まで幅広く用意する準備ができているのです!。んで、最後のヤミについては、基本的にこの物語のテーマ纏め役ですな、と言ってしまったら素っ気なさ過ぎだと思いますけど、美柑を中心に物語の展開を運ばせ、モモはお色気エロ路線で使うとしたら、このいっけんお馬鹿な物語設定に何らかの中心的なテーマを据えるためにはヤミしかいないと思うんですよね。決して「ヤミにお兄ちゃんって言わせたらなんかすげぇ犯罪臭がしてよくね?」という表面的な理由でヤミをこの物語にぶち込んだのではなく、そもそもヤミはとらぶる本編でも恋愛と家族愛の分別が基本的に付かないキャラじゃないですか。ですから、この作品でも共通ルートやヤミ×美柑ルートでは、依然として家族の一員としてリト君とセックスするというような、ヤミにとってはそれがいちばん自然な恋愛関係が語られ、ヤミが真に異性としてリト君を意識するのは、リト君が美柑との3Pを断ってまでヤミを妹に選んだヤミ単体ルートまで進まなくてはいけない。ここまで進めば、この作品の共通設定である「妹姻の戯」設定やララとの婚姻までもぶっ飛ばして、ヤミ単体での真の純愛物語を語ることも可能になるでしょう。同様に美柑単体ルートでも、ララとの婚約なんかぶっ飛ばしデビルークの機械によって今までの血縁関係をリセットされずに、リトと美柑はララ達がやってくる前のふたりきりの平和な日常生活に戻って、今まで通りにちゃんと仲の良い兄妹としてセックスするイチャラブの毎日を送るのであったという健全なラブストーリーが語られます。ああ勿論ちゃんとモモの単独ルートも存在するので安心してください。モモの個別ルートはモモらしく長い個別純愛ルートを経たあとになんと「ヤミ×モモ×美柑」のハーレムルートに突入する前代未聞の展開であって、そりゃあんた泣く子も勃起するとらぶるのモモにフツーな純愛ルートがあると思っているほうがおかしいのでありますよ!
さて、それでは一応は真面目なフリをするとして、これらの諸ルートの配置の目的とは何でしょうかを考えて頂きたい。もちろん、その唯一絶対足る目的は「ひとりのキャラとの純愛ルートから他ヒロインとのハーレムルートまで思う存分楽しみたいなハアハア」という世界が誇る偉大なエロゲ文化の最先端の萌えとエロのハーレムシナリオ願望でありますが、これをもっと別の言い方に翻訳すると「ひとつの作品のなかで、ひとりひとりのヒロインを微妙に異なった複数のルートのなかに配置することによって、通常のフィクションにおけるひとつの物語のひとつの真実という物語モラルに別視点を与える試み」だと、なんかすげぇ哲学っぽい言い方をすることもができます。具体的に上の「とらぶる☆シスタープリンセス」の物語でいえば、どういうことになるでしょうか。たとえば、上の物語群においてひとりひとりのヒロインに対して、結局のところあるヒロインはどのルートがいちばん幸せなのか?という問いを考えて頂きたい。たぶん、これは答えがかなりバラけるハズです。ララ達とわかれてリトと一緒に地球でエロイ兄妹の生活を過ごすのが幸せか、それとも例えばヤミと一緒に姉妹としてリトと暮らすのが幸せなのか、このふたつのどちらがより幸せなのかは容易には答えられないでしょう(まぁ僕は後者だと思うんですけどね)。これが普通のエロゲだったら話は早い。問答無用でメタ純愛によって選ばれた妹またはヒロインが幸せになるに決まっているわけです。だからといって「選ばれなかったほうが不幸である」というのはある種の典型的な妄想であるとしても、端的に言ってそのヒロインの幸福は(その作品のなかでは)主人公と結ばれたルートでしか語られないわけですから、どれが一番ヒロインによって幸福なのか?を判断するのであれば、それは主人公と結ばれた当該ルートしかない!というのが普通の答えだと言えます。もちろん、僕はそのような構成がやれ現実逃避だとか、結ばれなかったヒロインも幸せになる物語も書く必要がある!といった議論には、まぁそう言う作品が「本当に」欲しい人はそれを願えばいいでしょうが(どーせつまんない俗流フェミ信仰に対する免罪符的呟きでしょうけど)、僕は基本的には与しません。エロゲが幾ら複数ルートを擁するフィクションであっても、それがフィクションである以上、それはその作品が狙っている効果や目的の為に限定された空間と時間を作り出すものでしか無いのですから、その目的外の要素は基本的に排除されるのが普通です(因みに、これはあらゆるフィクションに共通する運命でありますから、原理的に全てのフィクションに対しては「これが書いてないじゃないか!」という文句を付けることは可能であります。全てのフィクションに対して「なんでウンコシーンが描かれていないのか?」と突っ込んで見ればよくわかります)。つまり、普通のエロゲというのは、いくら複数ルートを擁していようが、その「メタハーレムと萌えハーレム」の構成に置いて、メタハーレムまたはメタ純愛によって選ばれたヒロインは幸せであるというような、それ自体は基本的に通常のフィクションにおけるひとつの物語のひとつの真実という一般的モラルを語っているわけですね。エロゲが文学であるというのは、この尤も単純素朴な物語のモラルを満足させるという意味では、基本的に正しいと言うほかはない。もちろん、今さら「文学」という言葉を使う必要があるのか?だの、単純に言ってメディア媒体が違うのだから文学じゃねーだろwというツッコミは基本的に正しいのですけれども、しかし「文学」が基本的に含意していた「ひとつの物語のひとつの真実」という物語的モラルを、メタ純愛やメタハーレムを通じて強烈に感じさせるエロゲを、現在における文学であると規定するのはそれほどおかしなことではありません。これは「文学」という言葉をより高尚に捉えるからよくないんであって、例えば昔の文学青年がウェルテルを呼んで滅茶苦茶影響されて自殺したといったような青少年的衝動を発動させるモノを文学だと考えれば「クラナドは文学!」というアレな言動も、基本的には文学的営為でしかないと言えましょう。もちろん、僕は両者をバカにしているつもりは毛頭なく、クラナドは文学!という発言がいくら幼稚だとしても、彼にとっては自分の感情を伝える切実なメッセージである可能性は高く(もちろん、僕らがそれを切実に受け取る必要も毛頭ないし、そんなのはそいつとリアルで友達にでもなっていない限り不可能でしょう)それはウェルテルを読んで自殺した青少年にも基本的には同じことが言えるわけです。。まぁ青少年を自殺に追い込むような迫力を持ったエロゲは存在しないから文学じゃねぇ!と真っ正面から否定する人がいるなら、それはそれで実に強力な議論だとは思いますが(しかしエロゲをやって自殺した!というニュースが流れたら、世間はどんな反応を示すかは、不謹慎ながら非常に興味はありますね。やっぱ不道徳だからもっと規制しろとでもいうのでしょうか?)
なんだかエロ話から話がすげぇ方向に飛んでいるぞ?と戸惑っている方には恐縮でありますが、この話はもっとデカイ話までに発展するのでもっとハラハラドキドキして頂きたい。さて、如かしながら、この「萌えハーレム+メタハーレム(メタ純愛)」における、ひとりのヒロインの物語を選ぶことの「ひとつの物語のひとつの真実という物語モラル」にはひとつの弱点がある。まぁ弱点と言うよりも、これはひとつの特徴といったほうがわかりやすいのですけど、その作品全体の物語と個々のヒロインルートの物語が、基本的に分断してしまうんですよね。尤もわかりやすい作品を挙げればhook系列の諸作品がそうで、最新作のラブクエなんぞもう作品全体の共通物語なんぞ殆ど投げ飛ばして、個別のヒロインルートでいかにヒロインに萌えさせるかだけにエネルギーを追求していた作品であり、まぁ僕はそういう作品もかなり好きなので問題は無いのですけれども、しかし作品全体の共通物語があまりにも薄すぎると「ヒロインを選んだ」というメタ純愛の感覚までも薄くなるのは事実でしょうし、それぞれのヒロインの個別ルートがあまりにも独立しすぎて、他ルートや作品全体の共通物語に関連性が薄くなってしまうと、作品全体が単なるヒロインの個別ルートの集まりに過ぎなくなり作品全体の一体性といったものが感じられなくなってしまいます。 とはいえ、これを克服するために個別ルートと作品全体の共通物語を「一致」させすぎるのも問題はある。例えば、まぁhook系列よりもは多少はシナリオ重視のういんどみるやランプやクロシエットやゆずあたりの作品になると、これは「2005年前後」の典型的な構成でありますが、まずは作品全体の共通物語に幾つかの謎を仕込んでおいて、そして各種個別ルートでその共通世界の謎を解きつつもヒロインとの物語を進めるといった構成をとります。コレならば、作品の共通物語を母体として、その物語の解読を各種個別ルートに配置することで、個別ルートのヒロインシナリオと作品全体の共通物語を「ひとつの物語作品」として繋げることはできるのですが、如何せんこれに問題がある。これはまぁそれ以前にも似たようなことは言われていたけれども、イチャラブゲーの浸透によってより明確になっている問題で、その個別ルートのヒロインシナリオにおけるヒロインとの恋愛物語と、その作品全体の共通物語をその個別ルートで解いていく物語的展開が、どうにもこうにもなかなか上手くマッチしないわけです。昨今におけるその尤もわかりやすい典型例が「ドラクリ」であって、ライター達が一生懸命に共通物語を個別ヒロインルートで解こうとすればするほどいろんなところでボロが出てしまうという、個人的にはなんか失敗作だと罵る以前に、 こんな無理難題を押しつけられているライターさん達が可哀想になってくるような作品でした。さらに言うと、これらの作品の失敗の要因は別にライターさんたちが無能だということではなく、まぁその上の企画者レベルが無能である可能性は高いと思いますけれども、それ以前に「作品全体の共通物語を、基本的にはどんな順番で読んでも構わない個別ルートの物語で解いていく」という、これはあまり言及されないのですけど、普通のフィクションの感覚で言えばかなり無茶なことをやっていることに 困難の大半は存在するのでしょう。バカな例を最初に考えればわかりやすいと思うのですが、とある殺人事件が起きたとしてその犯人捜しを、基本的にはどんな順番で読んでも構わない個別ルートの物語で解いていくような物語を想像して頂きたい。そりゃ無茶でしょう。だって、その共通物語に置いてその「犯人」は決まっているわけですから、個別の物語において犯人捜しをやらせてそこでその「真犯人」を見つけてしまったとしたら、残りの個別ルートはユーザーにとって「既に真犯人がわかっているような犯人捜しの物語」を読んでいるのと同じような状況になります。もちろん、こんなバカな状況に追い込まれるような物語は(たまにこういう愉快な作品もありますがw)基本的に使わないわけで、こういった状況を回避するために涙ぐましい努力をライターさんたちは編み出しているのですけど(実は共通物語の犯人と違った個別物語の別の犯人が見つかるとかね)、残念ながらその圧倒的な不利なハンデを覆すのは難しい。
さらに、この以上の問題は、ここ2~3年ぐらいの「イチャラブ問題」とも濃密に絡んできます。この「イチャラブ言説」が確固たる地位を固めるまでは、hook的な萌えゲであれクロシエット的な萌えゲであれ「だって萌えゲにもなんらかのストーリーは必要でしょ」という「それはそうかもしれないけど、他に方法がないからこれで我慢しろよ」的な野田首相的惰性主義によって、例えそのストーリーが今で言えば「糞シリアス」的な完成度しかなかったとしても、一応はその糞シリアスを乱用して乱暴に個別ルートと共通物語を結びつけ作品の一体感を語ることが何とかカタチ上はできていた。だけど「イチャラブ言説」またはその手の作品が一定の評価を受けるようになると、それはもう「糞シリアス」は「糞シリアス」でしか無くなります。誤解を与えないように言っておけば、そもそも「イチャラブゲー」であっても「ある種のストーリー」は必要であって、その種の作品はまぁここで細かく論じている時間は無いので、曖昧な説明になってしまいますけど、基本的には作品のミクロな描写の積み重ねによってその作品独自の雰囲気を作り上げていて、それが個別ルートと共通物語を結びつけて作品の一体感を構成しているわけです。ですから「イチャラブゲー」だからといって、それ以前の萌えゲと共通点がないわけではないのですけど、しかし現実上ではこの両者が未だに衝突を起こしているケースもかなりおおい。この問題は複雑であって、いろいろな論点が多すぎるのですけど、基本的には今の萌えゲ界隈では、識者が言うように「テンプレした展開が飽きられている」というのは全く嘘で、問題は「皆もしくは大多数が納得するようなシナリオ展開」がなかなか見つからないと言うことでしょう。昔だったら、それが幾ら出来の悪い作品の糞シリアスだって「それはそうかもしれないけど、他に方法がないからこれで我慢しろよ」と言う理由で、そのストーリー性そのもの自体は特に批判にされられることはなかった。でも今は「イチャラブ」という方向性だってあるわけで、なんでその作品がそのような物語性を取っているのか、その作品の完成度や内容とともにユーザーの否定や肯定が生まれる時代です。もちろん「イチャラブ」化が一番妥当なアンパイかと言われると、それは別にそうでもないわけで、始めから伏線張り待った萌えゲーで最後はイチャラブで終わらせようとしても学王程度にしか評価されないのです。まぁもちろん、昔から変わらない事実と言えば、それはどんなジャンルでもどんな物語でもどんなエロゲでも、良いゲームとそうでもないゲームがあるという事実であって、別にイチャラブ萌えゲが流行ろうが、萌えシナリオゲが幾分衰退しようが、その中で面白い作品とつまらない作品は依然として出続けるのですから、そういう個々の作品の完成度のレベルでは大した変化は無いとは言えるのですが。ただまぁ、作り手もしくは供給サイドで「消費者の安定的な需要がよくわからない」というのは、確かにある種の変化を呼び起こすものであって、この「イチャラブゲ」の進出は、その全く正反対のジャンルにも強い影響を与えているともいえます。つまり、ええーい、こうなっったら萌えシナリオゲの物語は維持したままでも「本的にはどんな順番で読んでも構わない個別ルート」といった状況を変えてしまえ。ヒロインルートの選択に、共通物語の発展の誘導に都合が良いようにルート制限をいっぱい設けて、最後はユーザーが「感動のエンディング」を迎えられるようにバカでも物語のテーマがはっきりくっきりスッキリわかるような「トゥルーエンド」をぶち込んでしまえばエロゲオタクも大満足じゃガハハハハ!と言ってその戦略が見事に成功したのが八月その他「シナリオ重視系萌えゲ」のメーカーでありましょう。さて、もちろん、この手の作品が好きな方はそれはそれで良いと思うし、以上の文章を流れを読んで「そうだよなー。やっぱルート制限とトゥルーエンドこそがエロゲの完成体だよな。シナリオエロゲ万歳!」と素直に喜んでしまうのであれば、僕は自分のしかめっツラあなたの満足そうな笑顔よりもイケメンであるとほくそ笑んでおきましょうか。Und wer's nie gekonnt, der stehle Weinend sich aus diesem Bund!
まぁ別にシナリオ制限やらトゥルーエンドを1回や2回ぐらい使ってみたかった!と言うだけなら、僕は別に文句は言いませんけどね。だけど、そういう構成をもうデフォルトして使っていながら、やれツイッターやらVFBでは「トゥルーエンドが本当のエンディングじゃないんです。我々は物語を押しつけてませーん。全ては読者の皆さまの解釈によって決まるんですよ!」とか言っている連中は今からクチを大きく開けて三時間ぐらいずっとそのままのクチを開け続けてください(かなーり辛いよ?)。たぶんこういう嫌味を言っても何ら感じないにんげんには、何を言っても無駄だとは思いますけどねえ。僕は別にトゥルーエンドタイプのエロゲもありだとは思いますけど、形式上または物語上において製作者たちが「物語をある一定の方向に読むように誘導しておきながら」さ。その自分たちの恣意性は一切無視して、おためごかしに「物語の解釈はユーザーの皆さまによって決まるんですよ」とかいったところで、相手に拳銃を突きつけておいて「キミが何を考えるはあくまで自由だ」と言っているのと大して変わらないってことに気づいてないんですかね。まぁこの「トゥルーエンド構成」を使ったところで、だめな作品はだめな訳でして、それは「他シナリオはクズだけどトゥルーエンドだけは感動できるから90点」と言ったような失敗したトゥルーエンド作品のレビューコメントを見ればよくわかります。たぶんそのコメントを書いている人間は全く嫌味のつもりはないんだろうけど(この手の純粋なコメントのほうが生半可な嫌味よりもクリティカルだったりするんですがw)傍から見ればこれは「トゥルーエンド構成」に対する最大の批判ですわな。だって、それってトゥルーエンドに辿り着くまでのシナリオヒロインは「単にトゥルーエンドヒロインの為の足踏み台」ってことでしかないわけで、自分が好きなヒロインがそのトゥルーヒロインなら兎も角、自分が好きなヒロインがその「足踏み台シナリオ」に選ばれていたら堪ったものじゃないですか。いや、自分の好きなヒロインがトゥルーエンドシナリオでもこれは結構キツイでしょう。なにせそこまで辿り着くためには、すでに「足踏み台」ヒロイン認定された他ヒロインをぐしりぐしりと踏みつけながら、そのトゥルーヒロインに辿り着かなきゃいけないわけで、いつからエロゲは興味も無い足踏み台ヒロインでしかないヒロインを足蹴にしつつ最後まで基本未読スキップするような不毛なプレイがデフォルトになったのかと、そのようなシナリオ重視トゥルーエンドエロゲを作っている製作者の皆さまにはじっくりねっちりと話を聞きたいマルセルたんでありますけれども、まぁ世の中にはそういう鬼畜ゲーも必要だという議論もわからないわけではサッパリわかりません。ただ、随分前の話に戻りますが、どっかのネット記事でタカヒロ氏と王氏とあと誰だっけの対談が載っていて、そういうトゥルーエンド構成は作り手としても「トゥルーエンドがその作品の正史だと思われるのはマズイ」みたいな話をしていて、まぁこれはうろ覚えの記事ですからこれ以上の細かい話はできませんけど、多少心ある製作者ならこのトゥルーエンド構成がある種の裏技ギリギリのものであることはわかっているはずでしょう。この原理を煮詰めた場合「完全ルート制限トゥルーエンドまっしぐら物語構成」にしてしまったら、ユーザーのシナリオに関する介入はほぼ無くなり、正直言ってそんな物語(表示形式の違いは当然あるとしても)エロゲじゃなくてラノベやアニメでやればいいじゃん!と突っ込まれてしまうからです。辻堂さんにタカヒロ氏がどれくらい関わっているかはよくワカランチンなのですが、たぶん辻堂さんまたは「ととと」の「特定Aヒロイン全ルート3P構造」も以上のようなトゥルーエンド問題を何とか別の角度で解決しようというような試行錯誤のひとつではないでしょうか。つまり、上記の問題を簡単に纏めると、ユーザーのメタ純愛やらメタハーレムやらを最大限に尊重すると、そのメタ選択の結果によって語られる個別ルートの物語と、作品全体の物語やそれぞれの個別ルートごとの関係性がなかなか結びつかない。かといって、ユーザーのメタ選択を抑圧し普通のフィクションと同じように物語の連続性を作者が支配管理するとなると、それはそもそもエロゲである必然性がなくなる(まぁ、そういう作品はフツーにデジタルノベルとして売れば良いと思うんですけど、たぶんそこまで徹底できないのがエロゲ業界のダメなところか?いやその柔軟なところか素晴らしいのか?)。だから「特定Aヒロイン全ルート3P構造」は、基本的にはユーザーのメタ選択を解放させるけれども、しかしメタ選択によって選ばれていない特定Aヒロインが全てのルートに影響を与えるという作者の物語支配管理を通じて、ユーザーの選ぶメタ純愛の個別ルート物語とその作品の共通物語を何とか結びつけようとしているのでしょう。
このようなエロゲにおける「共通の全体物語と(メタ純愛による自由選択による)個別物語の不一致」を巡る、さまざまなエロゲのジャンルにおける試行錯誤を振り返ってみれば、以上で妄想したこの「とらぶる☆シスタープリンセス」のルート構成、 復習しておくと、美柑、ヤミ、モモといったそれぞれの個別ルートと、美柑×ヤミ、美柑×モモ、そして美柑×ヤミ×モモといった各種3Pハーレムルートがひとつの作品のなかに同居しているルート構成の各種物語の配置が、何を狙っているかと言うことが朧気ながら見えてくるハズです。まずこれらは第一に「共通の全体物語」の物語的意味を、それぞれの個別ルートから3Pルートにかけて複数の物語を示すことによって、その物語的意味を「ひとつの物語のひとつの真実」ではなくて「ひとつの物語的状況からうまれる複数の真実」へと生みだしているわけです。どういうことなのかと具体的に言えば、「セックスすることによって血縁関係を作り出し兄妹になる」というこれ以上はないほど素晴らしい共通物語は、まぁいろいろなメッセージを投げかけてはいますよね。ひとつはそんなバカなことをやってまで兄妹になりたいのかwというツッコミでありますが、これは「兄妹の血縁関係が失われてしまう」美柑にとってはバカバカしくも重要な問いかけではあるし、ヤミにとってもたったひとりの血が繋がった家族が生まれるのかもしれないと言う意味では重要な問題でしょう。そしてこれは第二の問題も生み出します。美柑にとってはリトにララとの婚約を破棄してもらって今のままの血縁関係を維持するという選択もあるけれども、そこまでリトにお願いするほど血縁関係は価値のあるものなのか。別に血縁関係を失っても兄妹としての記憶は残るんだからそれで良いとも言えるのに、なんで最後まで血縁関係に拘るのかという問題。ヤミにとってみれば、逆にヤミには血縁関係以上に人と繋がる関係は見つけられないのかという問題でもありましょう。これが普通のエロゲだったら、そのメタ純愛のルートによって「ひとつの答え」が見つかるわけです。やっぱ美柑はリトとふたりきりで暮らしたくて、ヤミは血縁関係なんかに拘らないでも、リトと結婚して新しい家族を作れば良いじゃないかというような真実が見つかる。でも、それはあくまで「ひとつのベターな答えで」あって、例えば美柑とヤミが姉妹になってリトと一緒に兄妹として暮らすのも一つの幸せな選択だろうし、美柑とモモが姉妹になって徐々に美柑のすけべぇエッチが開拓されていく日々を過ごすのも幸せな選択の一つかもしれません。そして、これらの「ルート」がユーザーの自由選択の形で平等に配置されているということは、まずはユーザーはその物語選択群におけるそれぞれのヒロインの幸福と不幸を普通のエロゲよりもより深く実感でき、その自分が選んだ物語とヒロインにより深く感情移入できるでしょう。例えば「ハーレムルート」をチョイスした場合には、基本的には「振られる」ヒロインは居ないわけで「最小不幸状態」ではありますけど、それぞれのヒロインが他ルートにおけるヒロインよりも幸せであるかどうかはユーザーの解釈に委ねられるでしょう。この逆の例を言えば、例えば蜜柑を選ばずにモモを選んだ場合(まぁモモに誘惑された場合ですが)、この場合ふつうのエロゲなら「いや俺はモモも美柑も好きだけど両方取るっていうルートがないから)という理由が成立するものの、この場合には「モモ×蜜柑」のルートだってあるわけで「他に方法がなかったんだ」は成立せず、あくまで「いや俺が確実に美柑を振ったんだ」が成立してしまうので、その種の「メタ純愛」がお好きな方はより悶々とできることが請け合いであります。もちろん、その種の鬱勃が嫌いな人はフツーに「モモ×蜜柑」ルートを選べば良いわけで、ハーレムルートから3Pルートから純愛ルートまで幅広く用意できて普通のエロゲ以上の破壊力を得ることができるというまさに一石拡散波動法120%ざーめん!なフラグ形式でありましょう。
しかしそれだと、個別ルートの内容と作品全体の物語の一体感が失ってしまうのではないか?というような疑問を思い浮かべる人もいるかもしれません。確かにこれだと「ひとつの物語的状況からうまれる複数の状況」を語ることはできるかもしれないが、 それがどのように、ひとつの物語的状況からうまれる複数の「真実」になるのだろうか?と。まず最初に断っておけば、いくらこのような複数ルートを配置したところで、これは一つの作品のなかに含まれる複数の限定されたルートと言うことに他ならず 、それはあくまで前述したように作品が追求する目的のために配置された限定された可能性のルートであって、別に「一つの物語的状況から複数の状況」を産み出すこと自体が目的ではなく、そしてその目的こそがこの「ひとつの物語的状況からうまれる複数の真実」ということなのであります。、例えば、美柑がララ達と離れてリトと暮らす美柑単独ルートと、ヤミと一緒に姉妹としてリトと一緒に暮らすハーレムルートでは、確かに物語的状況は異なっていても「美柑が欲していた幸せの真実」に関して言えば、二つのルートは異なった物語でひとつの真実を照らし出しているとも言えるのではないでしょうか。「どのように」という点を除けば、結局のところ美柑は「リトと一緒に暮らしたい」のであって、この二つのルートは異なった「どのように」を描写しているとしても「リト一緒に暮らしたい」またはもっと根源的に言えば「リトと家族でありたい」ということ自体は共通しているわけです。ます。ここから「ひとつの物語的状況からうまれる複数の真実」というこの「萌えハーレム+メタハーレム+エロハーレム」の最強のハーレムエロゲだけが語ることができるフィクションの倫理が生まれてくるでしょう。物語の答えは一つでもないし複数あり得るが、その複数の答えのなかにはある共通しているなんらかの真実が隠されており、その複数の真実の共通性こそがその物語空間を成り立たせているとても大切なモノだという認識であります。え?何を言っているのかわからないって。そんなのわかりきっていることじゃないですか。それは美柑の個別ルートを選んでも、美柑とモモやヤミの3Pルートを選んでも、たとえ美柑が実妹として選ばれかったとしても、美柑はどのルートでもリトの小生意気でとっても可愛い妹であり続けるという真実は共通しているわけですよ。これらの全ての美柑ルートは、ただその真実を語るためだけに複数ルートが用意されたと言っても過言ではありません! 複数のヒロインからひとりを選ぶことが出来て、尚かつ複数のヒロインのハーレムルートも選ぶことができて、しかもその複数の攻略ルートには作品全体の共通物語の真実が、ハーレムエロゲでしか語りえない特別な方法によって強烈に体験できるまさに神曲にも匹敵する天国のようなエロゲ空間がついにここにあらわれました。そう、この最強ハーレムエロゲの門を通るエロゲオタたちよ、全ての絶望を忘れよ!
http://www.youtube.com/watch?v=l0M4GQY2-ms&feature=youtu.be
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(GiveUp) クラシックオタは絶対にやってはならないけど現代音楽オタならちょっぴり楽しめる作品かもしれぬ。クラシックで言うところの所謂「通俗名曲」の類がTVからお店からエロゲのBGMで使い回されるのは、クラオタならば「慣れっこ」なわけで、ショパン流すならエッシェンバッハの音源を使えよw程度のツッコミを即座に入れるのがクラオタの日常である。しかし、この作品がキツいのは、その通俗名曲を作品の構造上何度も繰り返してしまうところ。語り手を頻繁に変えてみたり時間を悪戯に前後させてみたりと、前衛めいた構成の所為で同じ戦闘シーンが執拗に繰り返され、ここでテクノ張りにリピートされるのがドボたんの「新世界」第四楽章ジャーじゃん♪なのだから死にたくなる。第八のニンジャハットリ君みたいな第四楽章だったら良かったのにwとツッコミをする気も徐々に失せ、クラシックとはなんとおバカな音楽であろうかとハシゲーしたい人には超おにゅるる。
萌木原氏の妖しくも暖かいCGが織り成す和風けものロリっ娘ファンタジー世界観を充分に味わえる作品に仕上がっていたとおもう。まず、序盤で神さまが近所の温泉に手ぶらでやってくるようなまったりファンタジー世界観を構築しながら、ヒロインルートでもその緩やかなテンポを余裕を持って維持し急展開に持ち込まない。あくまで一日に何度もお風呂に入るような日常のなかでヒロインの「人外」性を描きだしているので、その手のテーマにしては観念的な話にならず、主人公の真っ直ぐな行動と言動がそのままヒロインの気持ちを揺れ動かすという昔話のようなプロットが、じつに深い親和性の時間のなかでヒロインとの恋愛を語ることができるのだ。まさにロリこそ日本の神ということか。ただ、玉美&明日香ルートはその辺がやや空回りしており、さらにエロCG破壊力に比してエロテキストの貧弱振りに怒張することもたまたま。良くも悪くもヌル湯温泉ゲーなのである。
hookというのは難しいメーカーで、一方ではまったりゲーメーカーとして不動の位置を占めながら、つねに謎の「新システム」によってその不動の位置を崩していたわけだが、今作に限って言えば「hookの純愛は完成した」と言っても決して大袈裟ではない。hook過去作品のアイデア「恋愛授業」「メール機能」「ヒロイン視点の定期的な挿入」が「これってマジhook作品?」と思わず呟いてしまうほど手際よく取り入れられている。最初から最後までヒロインと少しずつ仲良くなるだけの小鳥のようなキスを繰り返す日々が語られ、ヒロイン視点によってヒロインの甘く緩い心の声によって脳髄を破壊されながら、ときどきヒロインのメールに「愛しているよ」といった選択肢を自ら返しているだけでもエロゲは成立してしまうのだよ。ミニマルな快楽の反復だけで萌え転がれるなんて、これは「純愛の探求」ではなく「純愛洗脳の追求」の傑作だと言わざるをえない。 → 長文感想(37338)
「一夏の恋」という言葉には昔から微妙な嫌悪感を持っていて、そういう映画や本や漫画を見てみても、大抵語り手がもはや「その過去を充分に美化できる安全な立場」から、その「一夏」に起こった痛々しい恋愛話を巧みな一人称を持って語っているだけという印象があり、しかし、現在進行形でその「一夏の恋」を体験している人間からしてみれば、その時には「一夏の恋」といった余裕と諦念なんて無かったハズなのだ。そして、この作品、特に「早苗」ルートは、余裕と諦念だけではなくそこに「恋」と言えるようなモノすらなかったというか、「一夏の恋の悲劇」という綺麗な物語に収まる前にぷつんと終わってしまう物語である。「悲しみとサヨナラが二人を待っていても」と主題歌がさらりと歌うように、物語の終わり方は二人とも知っていても、それがいつ終わるかは最後までわからないのだから、ふたりは、いつもと同じように憎まれ口をたたき合うしかなかったのに。
「今のところこのゲームでしか味わえないエロがあるっ!」で評価するならば軽く90点は逝ける作品であるが、それ以外の諸バランスを考えると65点ぐらいにはなってしまう、まぁ、見方によっては「これぞ同人ゲー!」と言える斬新な魅力とユーザーに斬身を要求する作品だ。まずこのゲームの売りである「誘惑」部分については、わりと不満に感じられる部分は多いものの、それを補ってあまりある破壊力に満ちあふれている。ペニスを直接もんむすっ娘の尻尾で扱いてくるようなエロしーんを求めている人には合わないだろうが、ロリサキュバスが尻尾をフリフリしておにいちゃぁんぼくといけないあそびをしよおぉと媚びた声で誘ってくるようなエロしーんが好きな人なら堕落する準備はOK? 街のお色気イベントから発生する誘惑シチュも素晴らしく、ファミコン時代を彷彿とさせる超不親切仕様でさえも幼少の頃のエロ目覚めを思い出させるぜ!と言う人は迷わずやれ。 → 長文感想(76346)(ネタバレ注意)
パラノイアとはマルセル氏の長文のことであり、その対極のスキゾフレニアとは前述のような極端な自己相対化だ。これらの特徴が際だった言動や行動に対し、人は「狂っている」と感じるのであるが、このゲームの物語も登場人物もいずれのカテゴリーからは少しズレている。物語紹介を見ればわかるように主人公は端的なクズ人間であって、べつだんヒロインや復讐といったものに執着しているわけでもなく、あるヒロインは主人公にキモチ悪いほど媚び始め、あるヒロインは最後まで反抗する余り精神崩壊するが、これらも全て環境の変化による理性的な順応でしかない。愛も欲も希望も喜劇も悲劇も勘違いもSMですらないDQNの暴力と苛めが退屈に反復する永遠の真昼がジリジリ続くだけだ。それでは「狂気の闇」はいったい何処にあるのか? G・K・チェスタトン曰く「理性を失った人を狂人というのではない。理性以外全てを失った人間のことを狂人というのである」。
ループ物語において登場人物達がループから脱出する理由は、そのループ世界を成り立たせている犠牲者を救うためである。要は「こんな嘘の世界によって苦しんでいる人がいるんだから」という実に人倫に適った行動であり、つまんない言い方だと「日本の原発は絶対に安全です」のような日本社会的フィクションの批判を暗に含んでいるわけだ。ただ、ここでひとつ問題がある。もしも「日本の原発は絶対に安全です」がそれ自体は真実であり、誰にも何ら犠牲者を産みだしていないが、その世界が巨大なフィクションだったばあい、登場人物たちはそこから脱出する理路を、どこから導き出せば良いのだろうか? この作品はこの問いの答えに見事に失敗することで、ループ物語の別側面を逆説的に語る。かび臭いクーラーのぬるい風に抱きしめられて、締め切ったくらい部屋のなか今日もあしたもアイスと少女が永遠に溶け続ける夏の甘い腐った時間が忘れられない人は、是非。
(GiveUp) 呪いじゃ。未完の庭をここまで放置したツケがついに回ってきおった……トノイケダイスケのチンカスをカフス本社に埋めてしまったチン罰がついに下されたのじゃぁぁ!……いやだってねぇ、僕は祭りは嫌いだし、わざわざ戯画ゲー買って戯画マインと言いだす被虐趣味もノーサンキューなんですが、しかしパケの中心に堂々と載っているヒロインが普通に攻略不可ってそりゃアンタけんちゃんラーメンが実は新発売じゃなかったみたいな詐欺商法じゃないですかと。あやかクリアしてよぉし一発抜いてからミータに逝くぞ!って回想モードみたらミータの項がなくまさかまさかっ!といろいろ調べて今ここで発狂しているオレぷーちんっすよ。まぁメーカーの今後の対応を含め(何のコメもなく突如FDと言いだしたら脱糞しちゃうぞ☆)評価は様子見保留ってことにするし、ミータイラネって人にはソラ抜きのヨスガよりはいいと思うんで、好きに買えばいいんじゃないのド畜生ぉ!
いや妹ルートしかやってないんですけどいいっすコレが。お兄ちゃんも朱乃も、お互いのことが好きなのはわかっているし、互いに初オナニーの相手が兄妹だってこともわかっていて、朱乃はわりと大胆にお兄ちゃんに迫るんですな。そしてそれをお兄ちゃんは表面的には兄としてやんわり窘めながらも、根本的なところではいつも拒絶できないし、だから朱乃もそういう優しいお兄ちゃんが大好きで、根本的なところまではどうにも攻められない。この痛し痒しのGスポットをお互いにハムハムする微かに腐りかけなあまーい空気が実にたまらんのですよ。義姉が常識的に主人公を諭そうとしても、時には東京電力もビックリな珍妙ロジを持ち出しお兄ちゃんを擁護してくれる朱乃はマシ俺の主任弁護妹。桃井穂美嬢の演技もイイっす。わたしはぜったぁぁいに!諦めないんだからぁ!と泣きじゃくりながら近親相姦の成就を誓うシーンは燃えゲ以上に人間の尊厳を伝えているのだぁぁ!
ゲームデザインを評価するなら「調教SLG」を名乗ってはいけないレベル。フラグ管理がバグだらけなのは許したとしても、どのコマンドを選んでもほぼ全パラメーターが平均的に上がるから、自分が選んだコマンドによってキャラのエロ育成が進んでイクみたいな調教SLGにいちばん重要な育成姦覚が殆どない。一本道の紙芝居ADVを読まされていると言っても大袈裟ではないのだが、しかしその一本道の紙芝居ADVがトンでもなく出来がよろしいのだから困ったモノだ。ヒロインがバカな理由で調教に参加する調教シナリオのお約束設定を地味にだけど大変に上手く展開させている。真面目に考えればやっていることはなんかバカっぽいSMプレイの滑稽さで小さな笑いをとりながら、回数を重ねるうちにSMに嵌まって抜けられなくなっていくような雰囲気がじつに丁寧に語られているのだ。「調教ゲー入門」という売り文句はシナリオCG面に限って言えば大正解だろう。 → 長文感想(27891)
実に困った作品だ。強いて言えば、はぐれメタルの剣と盾と兜まで装備しているのに鎧が真性包茎一丁というような、ちょっと常人には理解しにくいセンスを持った作品と言えるだろうか。CGは相変わらず絶品揃いであり、ロリゲンガーとしてはそして伝説へと化した画☆と並び、もはや天空の花嫁の域に達した完全無乳の清冽に研ぎ澄まされたロリボディを自由自在に創造するちこたむ嬢はまさに女神。ボイスも中の人の通常の作品以上に素晴らしく、特に葵のSカワ系小悪魔的お兄ちゃんあまぇ弄りのむちょエロ感とか、恵那の恍惚えへぇぇトリップフェラボイスはファンなら絶対に射精すべき逸品であり、そこらへんの極上CGと極上エロボイスを堪能させるくらいにはテキストのほうもそんなに悪くはない。ただシナリオがねぇ。症例としてはなかなかに興味深いのであるが、ビアンカと結婚しておいてフローラにフェラさせながら、最後はフツーにビアンカエンドってどうよ? → 長文感想(28058)(ネタバレ注意)(1)
初恋を冠するエロゲの中で一番「酷い」作品であることは間違いない。何がそんなに酷いのかと言えば、純愛モノの癖にNTRシナリオといった「わかりやすい酷さ」は無いし、油断してぼーっとみるとそれなりに「感動っぽい」シナリオに見える可能性もあるが、よぉくみるとなんだかすげぇ滅茶苦茶なシナリオに見えてしまうところが酷いのだ。その筆頭はメインヒロインシナリオであり、序盤は一応「こころ」風の三角関係から始まるんであるが、誰がどう見てもクソ親友キャラにちっとも同情できずに、もはや伝説となっている屋上の迷シーンに辿り着く流れはアイ・キャン・フライの極みであって、その後も急に泣きゲ展開なりてトラックが突っ込んだ10分後に主人公が別のおんなとくっつていてようじょ等々、B級エロゲスキー垂涎ものの噴飯シナリオのオンパレードじゃあ。「お兄ちゃん、罠だよ♪」という妹の名言はこんなヘンテコゲーだからこそ輝くのであろう。
平井次郎氏のエロゲから漂ってくるのは圧倒的な貧しさである。べつだん経済的な貧しさが作品のテーマとなっているわけでも、OHPが殺伐としているからそう感じるわけでもなくて、切りつめられ凝縮されているというよりも「ただそれしか語ることがないから」寡黙たらざるをえないテキストと、ノイズ系音楽が好きと言うよりも「自分の持っているCDがそれしかないから」という理由で鳴っているようなまさに「ノイズ」でしかないBGMの宙ぶらりんな二重奏が、全てが四畳半のブリーフのフルボッキに支えられているような「取りあえずエロいことぐらいしかやることがない」世界観をしゃりしゃりと噛みしめさせる。そうした「貧しさ」が一番伝わってくるのがこの作品だろうか。序盤の「ただ他に相手がいないから兄姉相姦」と言った感じのダメ共依存関係は、アホな中学生が見るようなSF淫夢世界に呑み込まれながら、生に病んでエロは荒野を駆け巡るのであった。
処女作である「結い橋」あたりの原点回帰を目指した作品だとメーカーは言っているけど、確かに物語の外側は結い橋っぽく纏めようとはしているのだが、物語の内側はどちらかというと「魔法とHな関係」あたりを彷彿とさせる内容だ。基本的に随分と思い切った構成をしている。作品の外側を整える神様関係のネタは共通ルートと個別ルートの中盤あたりにだけにとどめて、個別ルートの残りはひたすらヒロインだけのイチャラブに当ててしまい、残った伏線は全部最後のトゥルーに任せているんだから。そのぶん、個別ルートはどのシナリオも引っかかりの少ない恋愛シナリオを堪能できるし、特に聖と杏子は傑作級だ。ただ、トゥルーの伏線解消シナリオを読んでしまうと、その隠し設定や世界観をもっと個別ルートに生かせたら、結い橋以上の傑作ができたかもしれないと言うような勿体なさも否めない。まぁここらへんのB級っぽさもどみるの原点回帰なのかもしれないが。 → 長文感想(23958)
[ネタバレ?(Y1:N0)]取りあえず最凶難易度までクリアしたので感想をババぁ。良い言い方をすれば毎回確実に進化を遂げるVB、悪い言い方をすれば毎回確実に改良点が見つかってしまうVBシリーズではあるけれども、良い方から言えば今作VBFのFはFinaleと言って良いくらいの完成度を誇っているのは間違いない。純粋に戦略/育成システム(のみ)で言えば、ここ数年のエロゲーのなかでいちばん他の楽しめた作品だった。エンカウントバトルで50ユニット以上の運用を求められることもさることながら、男キャラなんて主人公以外ツカワネ可愛いユニットは正義!を餌でいく萌え豚硬派プレイをしても、所謂「捨てキャラ」のようなユニットが見当たらず、運用次第でフツーに使えるゲームバランスは素晴らしいと言わざるをえない。しかしどうしようもなくFrontierなのはシナリオと各種バグで、中ボス不在そっこー最終戦争燃え展開やロリエチが少ないのに俺は泣いたのだ。 → 長文感想(11575)(ネタバレ注意)
一般的には平井次郎氏の処女作品ということにはなるんだろうが、べつだんこの作品を「最新作ですっ!」と売っても誰も文句を言わない程度には、平井次郎氏は赤ん坊の頃から平井次郎氏だったというわけだ。まぁkiss×2000に比べるとキスだろうがセックスだろうがアナルだろうが兎にも角にも何がなんでもブチこんだれ!といった感じのやりまくりストーリーが展開されているので、キスしーんのインパクトも弱く、物語自体が異様なために平井次郎氏の異様なテキストもそれほど印象には残らない。ただ、音楽のブチ切れ度はこの処女作が一番ヤヴァイのではないだろうか。むろん、一つの楽曲自体がどーこーと言う話ではなく、発情したネコの鳴き声ががかーん♪くわぁーん♪ぽへぇーん♪な歪んだ踏切音で切断され近所の主婦が増税を叫び散らす夕暮れの叙情のような音の塊がテキトーに乱舞しちゃっており、狂った物語の見事なヘテロフォニーになっているのだよ。
ノブレス・オブリージュを日本語に適切に訳すと、のーぱん・オブ・ルルーシュということになり、要はオレサマは高貴なる生まれで高貴なる宿命を持っているんだから、テメぇら卑民どもはオレサマに文句を言うのは辞めとっとと原発やら増税やらデフレやらを受けいれやがれ!ということであり、ここエロ助でも高貴なる皆様がたが「この作品の適正点数はこうに決まっているんだから工作は辞めれ」と高貴なる職務に日々邁進なさっているのであるが、しかしこの作品の塗りティームは高貴なる「かみやまねき氏」のゲンガーを上手く生かしきれていない。なんかエロCGに入ると妙にデブっちゃって、ああ普段は化粧とか凄く頑張っていたのかーと年長ヒロインの苦労をしみじみと感じてしまいエロどころの騒ぎではないのである。シナリオのほうも一応真面目にプロットは作っているんだけど、展開がいつも急すぎて茶番にしか見えないあたりが高貴なるものの悲劇であろうか。
例えばあなたの大好きなエロゲシナリオのヒロインが、とつぜんカトリック教会が仕掛けたブルックナーウィルスによって全て「12歳以下しか見えない」立ち絵やCGに変わったとしよう。変更点はそれだけで他は全部変わらない。その時にあなたは今までと同じようにそのシナリオを愛せるかだろうか? エロゲにおけるロリゲーシナリオの抱える問題点というのは、上の例の問題と似たようなところがある。つまり、もしも立ち絵やCGが「ロリキャラじゃなかったら」それはまぁ普通の純愛シナリオと読めるのだが、それが「ロリキャラ」になった途端「そうじゃねぇだろ」と思ってしまうわけだ。このゲームも基本的に前半部分はNHK教育でやってもおかしくない「ええ先生モノ」なのだが、後半になると「ええ先生モノ」の論理のまま「悲しんでいる幼女を愛さないのはヘンだ」という流れで幼女天国に至るのであり、コレの何処がヘンなのかを指摘するのは大変に難しい。
その人の卒業後の進路によって微妙な違いはあるんだろうが、卒業式間近の学校生活というのは基本的にうら寂しいモノだ。別れが辛いというよりも、学校に登校する日が減り実際に授業もサボる三年生生もどんどん増え教室はがらんとなって、卒業式の練習のためだけに学校に行って午前中に帰ったりすると「自分は一体何のために学校なんか行っていたんだろう?」といった素朴な疑問が沸き起こったりするものだが、そういう人間に限って卒業式が始まると感極まったりするのだから不思議なものだ。この作品もシリーズ最終作で卒業式が描かれる。だが、どのルートでも卒業式までに語られることは、今までの仲間が学校を中退する話とか恋人関係の自然解消といった、まるでグリグリから登場人物がひとりひとり消え去っていくような寂しさだけなのに、それなのに、僕らは卒業式に感動するしかないのだろう。「学校のみんな」を感じられるのはこれが最初で最後なのだから。
昨今の萌えゲの難しさと易しさを同時に感じられるタイムリーな作品かもしれない。難しさ、というのはそれは物語というか「盛り上がり」部分と他の部分のバランスの難しさで、この作品の場合は一応序盤からバカSF設定の伏線をばらまいて、次に学園に次々と送られる刺客敵キャラをみんなで力を合わせてやっつけよう!みたいな話を、適度なギャグと適度な緊張感を織り交ぜて進行させていて、まぁ共通ルートの時点ではそこそこ面白いわけだ。んでも、個別ルートに入ると、最近の流行というか既に「お約束シーン」になりつつあるイチャイチャシーンとか、わりとエロいエロしーんを何個か入れなくちゃいけないでしょ。そうすると、そのあとは「半ばギャグのシリアス展開」でも、別にそんなの今さらやんなくてイーじゃんみたいな感じになって竜頭蛇尾感がつよくなっちゃうのよね。そういう中盤付近のイチャイチャがよきゃそこそこ評価されるのは易しいところだけど。
こういう修正パッチともDLCともリメイクとも取れる不思議な形態の商品は、たぶんエロゲでは初めてのやり方なんで、「こういう作品」だとまず始めに決めつけ、で、その基準からこの作品の完成度は如何ほどなものかーとゆーような、点数評価の基本的なやり方がなかなかやりにくいんじゃないかと思うのだが、僕としてはまぁ「修正パッチ」としては90点ぐらい、「DLC」としても85点ぐらいと高評価、んでもリメイクとしては70点ぐらいとキツイ点数をつけちゃいそうだ。まぁ大雑把な言い方をするとゲームシステム並びにバランス関係は非常に素晴らしい改善を示している。経験値稼ぎとレアアイテムゲットと特殊スキルの育成がテンポよく進んでいくので、ヤリ込みゲオタ以外の人でも周回プレイが楽しく感じられるだろう。ただシナリオに関しては「続編への伏線ばらまき」がより濃くなっているだけであり、FDとでも割り切らなきゃキツイのは変わってない。 → 長文感想(14363)(ネタバレ注意)
エロゲ神学議論の一つに「意味なし非処女」というのがある。これを理解するには「意味あり処女」という正反対の言葉を考えれば良く、要はエロゲの大半の恋愛物語においてヒロインの処女性が「意味のあるもの」にされているのであり、「小さい頃からずっと主人公を想っていた」幼馴染みが非処女だったら確かにギャグにしかならないわけだ。こういう次第で、エロゲの非処女にも所謂「物語必然性」が要求され前述のような言葉が生まれるのであって、この作品の主人公アツノリ君も「真冬がラブレスセックススキーなのは何故だろう?」と真冬のトラウマを追求するばかりか、作品までもが「真冬以外のヒロインを選んだら真冬惨殺」というカノン神学構造フラグを採用し真冬の救済と真実を追求しちゃう。むろん、雪が降ることに何も意味がないように、真冬がセックスすることに食事以上の意味は無く、救済と真実は真冬の小便の暖かさによって浄められるしかないだろう。
ハーレムゲー並びにハーレムシナリオというのは、たぶん、一つの成功作を産みだしていないジャンルだ。エロゲのハーレムを三要素にわけると、まず一番少ないのが「エロハーレム」であり、複数ヒロインと性行為を持ったり持った状態でお話を進めるような状況をさす。次に多いのが「萌えハーレム」で、全ヒロイン初期好感度100%みたいな状況でウハウハするって状態。そして、エロゲのほぼ100%をしめるのが「メタハーレム」であり、つまり「主人公=ユーザーが全てのヒロインを攻略出来る可能性がある」という構造があるからこそ、やれ選ばれなかったヒロインがカノンだとか、オレは○○を選んだみたいなメタ純愛とか、メタNTRで背徳感がどーとか自作自演的感情移入ができるわけだよね。そんで、この作品は「エロハーレム」を共通でやったは良いが、個別に入ればメタ純愛シナリオに落ち着くだけで、3Pエロを描くだけのハーレムしか語れてないのだ。
エロゲにおける血縁関係の背徳感というのを冷静に分析してみると、基本的にはまぁバカバカしいといえるわけだ。たとえばあるヒロインシナリオのテキストを一字一句変えずに、そのキャラ設定を「義妹」を「実妹」と一文字変えるだけで、レッツ背徳だと萌えてしまう人は結構多いわけで、ここで起きていることは、その作品のベタ物語内容による背徳感の想起ではなく、ユーザーの心理において「オレは本来はイケナイ実妹キャラを攻略しているんだ」とメタ自作自演的に背徳感を生成しているのである。そして、この作品の夜々シナリオは以上のような二つの視点のレベルを犯罪的なまでに利用しまくる。夜々が普通の後輩キャラだったとしても、このキャラ造形と凄まじいデレ日常描写で相当に評価されていただろうが、そこにメタ的な近親相姦設定を匂わせつつ、しかし確定させないことにより、普通の恋愛物語は背徳感を帯びながらも運命的な純愛物語へと変身するだろう。 → 長文感想(51678)(ネタバレ注意)
僕は通常このような言葉をあまり好まないが、この作品に限って言えば、この言葉を使うのが最も適切だと思われる。即ち「この作品は人類が踏み出した偉大なる妄想の第一歩」であると。イチャラブがどーだとかの、そういった俗説に惑わされてはいけない。なるほど、前作に比べるとデレ時の糖分はマイルドだろう。けれども、この作品はイチャラブゲーではなくイチャ嫁ゲーなのだ。前作の恋人なりたての興奮と好奇心はその純度をいっそう高め、今作では何事にも揺るがない不動の熱愛と信頼感へと昇華しており、もうことさらにイチャイチャ描写を強調しないでも、ふたりのご飯の会話をみているだけで、最初から最後まで結婚への散歩道を楽しそうに歩んでいるふたりをみているだけで幸福感に包まれる。結婚をここまで描いたエロゲは空前絶後。むろん、その全ては花穗よっていったん否定され、そして、花嫁を越えた永遠の妹への愛によって力強く肯定されるのであった。 → 長文感想(25707)(ネタバレ注意)
なんだかよくわからない理由によって昨今の秋葉にはリアルメイドさんが徘徊しているのだが、なんだかよくわからない理由によって10数年前の鬼畜&調教ゲーではメイドさんが調教されており、そのような状況を一発で変革したのがなんだかよくわからないこのバカゲーだ。「メイドはご主人様によって調教されるべきだ」を語るのが以前の調教ゲーだとしたら、この作品はメイド自身が「ご主人様はわたしを調教するべきだ」と訴える。これにより調教ゲーの基本原理である「単純反復調教による心理又は性感の性奴隷化」といった巨人の星は無効化されてしまう。だってハナっからメイドがやる気マンマンで、基本的にどんな行為も受け入れちまうんだから、数々の調教行為は何らかの目標を失って、ひたすらバカカップルの終わりなきバイブをくるくる回し続けるしかない。天国とは意味なしで幸せになれる場所であり、メイド・イン・ヘブンの扉は今ここに開かれたのだった。
もう少し面白くなりそうなところが微妙につまらない歯がゆい萌えゲーではある。まず、本編はそれなりに面白い。共通ルートの主人公争奪戦のあとあっさり個別ルートに入る構成であるが、個別ルートは良い意味で真面目な話になっており、例えば「会長選選挙」だの「ヒロインの家柄がどーこー」だの、普通の萌えゲだったら「不正選挙」だの「糞許嫁がどーこー」だのといった糞シリアスで話をまとめるところを、最初から最後まで正攻法でお話を描き切る爽やかな青春恋愛シナリオを味わえる。ただ、ウリであった萌えやエロやハーレムの描写が少々微妙だ。特にd.d.sという「ヒロインが全員デレモードから始まる」隠しシステムは見切り発車であり、どのルートも10分程度で終わる話で、貴重なエロCGを無駄に使っているだけだ。エロも喘ぎ声が多めな単調なテキストや、特典パッチが適応されないシーンのほうが多く、力の入れ所がなんかズレているのは否めない。
「なにがなんでも自分の所為にして泣きまくるヒロイン」というのは、一見、萌えオタ的な保護欲を擽る設定に見える。このヒロインの境遇を丸戸氏のようにスマートなメロドラマで熱く語ることが出来れば、エロ助でも人間的なんとかといったような評判でもって傑作間違い無しだろう。しかし平井次郎氏はそんな凡庸な物語を魔改造しやがる。ヒロインである哀沢涙は、ただ理由もなく、まるで自分は泣きたいから泣くのだと言わんばかりに、自虐的に、いや不条理的にといったほうが正しい奇妙な確信をもって、自分を追い詰め泣き続け主人公の慰めにも殆ど耳を傾けない。はっきり言ってしまえば「近くにいたらぜったい迷惑するだろうな」としか感じられないキャラであり、物語は始めから終わりまでこの泣き女の平行移動を延々と語り続けるのみだ。お涙頂戴のエロゲは無数に存在するが、お涙という行為の嫌さらしさと不気味さをトコトン追求した作品はこれぐらいだろう。
「恥ずかしがる乙女に萌える学園ADV]というのは実に巧妙なフェイクである。正確には「恥ずかしがりながらも勇気を持って主人公に近づく乙女のおっぱいに、え、なぁに?きこえーないwとフラグ回し蹴りを叩き込むヒロインシカトADV」と言うべき迷作エロゲなのだ。鈍感主人公をテーマとした作品は「きっすみ」を始めとして意外と多いが、鈍感を強調するコメディ調作品が大半を占めるなか、これは主人公の鈍感っぷりを強調せず、ヒロインのアプローチをごくあっさりと「まるでそんな台詞がなかったように」スルーしちゃう新機軸をみせる。その結果エロゲユーザーの大多数からシカトされたというのは、まさしく製作者の狙い通りだと言えようか。だがJ・さいろー氏のシナリオは別で、後輩のオシリふりふり蜜蜂ダンスに一発で興奮しエロ勝手ルートに入るのであり、鈍感主人公には1000の言葉より一つのアナルの方が有効であるという教訓を教えてくれよう。
HOOK史上最大にエロい作品ではあるが、これがHOOK作品であるかどうかは大いに疑問の余地がある作品だ。オマケシナリオを含めれば各ヒロインのエロは八回もあり、絵のエロさとテキストの質については体験版の通りに上々。しかし「PIT」がかなりの問題であり、これ自体はエロゲにおけるモブキャラ勢の嫉妬台詞を2ch形式で表現しているだけなのだが、この「オチスレ」的なテキストが本編の日常描写を完璧に吸収してしまっている。hook伝統のどーでもいい日常描写は、全てPITのモブによって表現され、hook伝統のキャラ同士の密接な繋がりもPITによって炎上のネタになるだけである。残るは50クリックほどのエロコメ風味のブツ切りイチャラブシーンの残骸が量産されているだけで、エロゲーのイチャラブでハァハァするより、匿名モブイチャ馴れ合い空間でワラワラ朝まで炎上フィーバーをしたい人には自信を持ってお奨めする逸品である。 → 長文感想(43732)
ある意味でトニィ伝説を確定したようなソフトであって、そりゃ発売前にはトニィ絵でやっとマトモそーでしかもエロっぽい純愛ゲーが!などと盛り上がった挙げ句、フタを開けてみれば、真夏の四人のバカカップルが締め切ってムンムンなプールの更衣室にて明るく仲良く楽しそうに乱交プレイを繰り返す物語を出されては、独占厨やらシナリオ厨やらNTR厨といった種族の壁を越え「いったいこの作品はなんのために生まれてきたのだろう……」と、この異常にハイテンションな奇形児をそのまま地雷ゲーの墓に埋めたものだ。そして、あれから数年が経過しても尚この作品は「時代の偏見を乗り越え」といった凡庸な復活を果たすこともなく、全てを知った今になってやり直してみても、相も変わらず掴み所が無くて、真夏の太陽の無意味な暑苦しさと明るさが無駄にカンカン照りしているだけで、そらのいろとみずいのいろの移りかわりがただぼんやりと頭に残るばかりである。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というのはナザレのイエスの言葉ではあるが、イエスなエロゲの法則によれば「金持ちヒロインのおまん○よりも、貧乏幼馴染みヒロインのアレのほうがきつくてサイコー」となる。実際その手のヒロインシナリオは、その大半が素朴に「金持ちなんかなりたくねーなw」と思わせるような内容で、成金描写に成金音楽に成金婚約者が現れて云々みたいなものを読まされてもアホらしく、そこでライター氏が書いているノーブルなんたれみたいな説教も、トーデンの社長が泣きながら「我々は社会的使命を持って原発をry」みたいな戯れ言オンリーであって、着エロ高価ドレスのエロしーんを用意する機能しか持たない。そういう方向性でこの作品はある意味徹底しており、大半のユーザーを「この金持ち学園を爆破せよ!」と憤慨させ、お嬢様ヒロインを濃厚エロCGで陵辱する革命的アジテーションなのだっ!
まず「量」に関しては合格点だと言っても良いだろう。FDといえば、一時間前後のサブキャラアナザーシナリオとこれまた一時間前後のメインアフターシナリオの7本ぐらいの組み合わせにエロ二回でフルプライスは信者じゃないとキツイよね、といった感じの評価に終わるのが普通であるが、今作は基本的に普通のエロゲ本編と同じくらいのボリュームがある。つまり、普通に共通ルートがあってそこから本編と同じくらいのサブヒロインシナリオに分岐し、更にはメインアフターシナリオもあるというもので、CGは割と少ないがエロ回想も本編と同程度の数が揃っているのは最早FDの規範であると言っても良い。しかし「質」に関してはやや心許ない。まぁ本編と同じノリだと言えば別に良くも悪くも無いだろうが、本編ではある程度許される茶番シリアスをアフターまで繰り返すのはゲンナリで、FDならではの物語と言うよりは本編の延長戦に終始しているのはどうなのか。 → 長文感想(13441)(ネタバレ注意)
hookの自称新システムは基本的にネタとして楽しむものであったが、今回というか最近あたりからようやく作品の内容に良くも悪くも関係しているものが多くなってきた。勿論それは「ゲ-ム性」云々ではなくて、基本的には何たらシステムとか言いだし「主人公視点の語り手」の他に別の視点を導入したり、何らかのシチェーションを物語内に導入する言い訳みたいなものに過ぎないのだが、今作のうち成功したシナリオはその応用に成功し、失敗したシナリオはシステムに完全に振り回されているのだ。「愛」シナリオの失敗はプロット自体がhookの幼馴染信仰にクソをつける内容というのも大きいが、中盤あたりまでのまったりテキストから後半までのシリアス展開への移行を「なんとか無理矢理じゃない感じ」に誤魔化そうと、システムをフル利用して失敗しているところが実に興味深く、杏奈シナリオの見事な成功とのコントラストが今後のhookを暗示していよう。 → 長文感想(35496)(ネタバレ注意)
ダンジョン構築や産めよ増やせよ孕ませよ!といった新しいシステムを、ふんだんに取り入れたVBシリーズの新作ではあるが、結局のところプレイ感は良くも悪くも今までのVBと変わらず、その「安定」を期待するか目指した「変化」を期待するかのによって評価が分かれる作品だろう。悪い評価から行けばダンジョン構築は一種のザルゲーであり、敵の移動とその目的地を殆どコントロール出来ないため、各種生産部屋と牢屋を埋め尽くしてオシマイということになるし、遭遇バトルも力押しが尤も効率的なため複数ユニットの運用も単調になりがち。まぁでも良い面を言えば、サブ部隊でHP削って士気溜めてメイン部隊で抹殺みたいなVB伝統の無双ゲーは相変わらずなかなか楽しく、膨大なサブ部隊のレベルを上げたり装備を整えるたりするのもヤリ込みゲースキーには良いのだろう。孕ませエロは悪落ちのようなキャラ変化に弱く、ひたすら触手産卵シチュに特化している。 → 長文感想(25547)
高気圧氏ねよ太陽砕けろ消え去れ湿気と夏に対し呪詛の言葉を投げつける我々からしてみると、ここらで一杯クールなエロゲが欲しいところであるが、クーラーが多大なエネルギーを使うように、クールとされている作品の主人公も「熱く感情的にならざるを得ない状況に置かれながら、自制心を必死に働かし冷静さを取り戻す」ような「心のうちに秘められた情熱」を持っているだけで、いつもはそんなカッチョええ態度にキュンキュンしておればええものの、この狂ったような猛暑では虚淵作品ですらタダの暑苦しい塩豚カルビに過ぎぬ。そこで、我らが屁タレ主人公界の貴公子こと玖藤奏介さんのご登場となる。探偵物語の常道を行くように奏介さんは推理したり悪漢を懲らしめたりといった野暮な真似はせず、悪役にフルボッコされようがヒロインがぬっころされようと「ハッ、くだらねぇ」とクールに呟きながらこの狂った世界を彷徨い続けるのであった。後、ピアノが上手い。
女の子にうまい棒をムキムキ生やしてやきそば味かたぁぃぃぃっとみさくらするエロゲは枚挙に暇がないが、これは要するに女性の無限性欲という科学的根拠ゼロの男性妄想をふたなりというかたちで語っているわけで、逆に「無限性欲を持つ淫乱(?)な男性」というキャラを創造したらどうなるという疑問がこの作品のキモとなる。だいたい5分に1回ぐらいの感覚でオレは射精したと何でもないように記述するこの作品の異常主人公は、しかしテキストをよく読めば極めて理知的な人間であり、物語にしても変態嗜好の主人公が策略を弄してヒロインたちを性的に堕とすという伝統的調教エロゲである。では、この作品の可笑しさどこから来ているかと言えば、それは、無限性欲を持つ男も所詮「賢者モード」からは逃れないというちんちんブラブラな倦怠さであり、ヒロインが主人公と同じレベルのお猿さんになっても両性の性欲のミゾは消えないという幽かな寂しさからだろう。
エロゲ神学議論の一つに「鈍感主人公と臆病主人公のどちらがマシ?」というものがあり、要は自分に対するヒロインの好意に気づかないのと、気付きながらも様々な理由によりスルーしているのでは、どちらが許されるのか?という問題で、これは「日本の原発は絶対安全です!」をマジで信じていたのか否かと全く同じだと聖徳太子様が夢枕で言っていたが、しかし、我々はこの作品の主人公と同じようになんかヤヴァそうな話だからなるべく考えないようにし、近づかれたら色々と御茶を濁し「……」とでもやれば相手も察してくれるだろうと期待するが、いざ相手がそういう態度を取ると結構ムカつくものであって、この作品も姫様は最後まではっきりしない主人公にはっきりしないまま甘え続け、そんな兄と姫にプリプリする義妹もドレスをフリフリ振りまくって構って構って、真ヒロインのジャンはそんな登場人物の屁タレさにハァハァするのだからエロゲってヤツは面白い。
うぅむ。確かに「メインヒロインのみゆとずっとイチャイチャする話」であるし「サブヒロインとのエッチも一応は出来る」内容ではあるが、「国民的アニメのあのキャラクターが超豪華声優で喘ぎまくり!」といったパケに釣られて同人ゲーを買ったら、丹下桜ボイスのマスオさんが大山のぶ代ボイスのドザえもんと死姦しているよーな摩訶不思議空間に投げ出されたきぶん。メインに「告白しなかったら」サブルートに行くのではなくて、メインに「告白すると」主人公がサブにレイプ気味にエッチされちゃうのは、NTRゲーを越えMTRゲーという新ジャンルを作り上げたといえよう。まぁ、機能的に見ると荒い部分が多く、帰納的に見ても他にやりようがあったんじゃねって感じだが、しかし、作品の昨日性とみゆたんのキスCGがキュウべぇ並に可愛いことを考慮すれば、もう、わけがわからないけど、もー、これでいいんじゃね?と投げやりな満足感に浸れる作品ではある。 → 長文感想(15987)(ネタバレ注意)
うーむ、わりと良いソフトハウスキャラ作品と同じくらいの評価かなぁ。途中まではすっごい面白そうな感じがするんだよね。行動回数をうまく節約しながら、複数のキャラを育てていくのは楽しいし、禁欲モルルンでお気に入りキャラに何回も中田氏成長して自分だけのオールスターキャラ軍団を作り上げる妄想に胸を踊らせ、中盤までは殆ど物語は進まずに伏線を張り巡らせていくので後半の物語展開に期待が持てそうだ……な-んて、ワクワクしてたらいつの間にかアッサリとクリアしちゃっているオレガイル死亡確認。なんかね、2クールアニメで言えば17話ぐらいの「さぁ!いよいよ後半の展開へ!」ってあたりで終わってしまった感じかな。折角の複数キャラ育成やモルルンシステムも、それを充分に生かす前に本編が終わってしまうし、その後のやりこみダンジョンやイベントも殆どないしなぁ。まぁ、ランス様の暴れん棒っぷりを楽しむFDと思えば悪くはないのかも。
偉大なる毛沢東主席は、西欧の核兵器に中国は対抗できるのかと聞かれ「我が国には広大な国土と10億人の人民がいるっ!」とムスカ様も痺れる台詞を吐いてくださったが、まぁ確かに「圧倒的な量」がある種の「質の変化」になるのは事実である。正直な話、僕はいま自分のやっている作品が本当にエロゲーなのかと何度か自問自答してしまった。個別ルート分岐後30分ぐらいでエチシーンに入るのは珍しくないが、その後も大きな起伏なく主人公である「お兄ちゃん」と妹たちは甘い日常を繰り返しながらチュッチュするばかりなので、日常シーンとエロしーんの区別すらつかないまま永遠の現在が描かれるばかりなのだから。しかし、この作品の本当の恐ろしさは、苺花ルートや柚奈のように、いっけんイチャだけに見えるテキストのなかで、お兄ちゃんと妹とのジグザクな成長物語がきちんと描かれているところだ。エロゲの「シナリオ」の意味を考えさせれる逸品でもある。 → 長文感想(24738)
行きつけのカフェに行ったら今日は店長が休みですと言われたんだけど、まぁ良いだろと思いいつもの注文を頼んだら、運ばれてきたのはコーヒーではなく黒豆茶だったよーな「なんか違うよなぁ」を感じる作品である。コーヒーには幼女のおしっこシロップが必要だろう?というツッコミだとか、トノと比べたらテキストがなんたらかんたらみたいな話も措くとしたら、「連れ子は結婚できない」みたいなテメぇ戒律を勝手に作り出し、Hしたヒロインをやり捨てするような展開が大好きな人なら良い作品なんじゃないっすかね。SOURIREはフランス語で「笑顔」という意味なのだが、この物語は「笑顔になる喫茶店」ではなく「笑顔にさせられる喫茶店」を描くわけだ。自分達を犠牲にしてまで家族の笑顔を守らなきゃいかんと、笑顔の真綿で首を絞められてゆくポポポポーン雰囲気を味わいたい人は是非。まぁ、美百合の家族逃避エロイチャ展開はええのでプラマイゼロかな。 → 長文感想(20914)(ネタバレ注意)
トノイケダイスケの作品にはイベントらしいイベントがないとか、物語らしい展開が少ないと言われがちではある。これは相対的な評価、つまり「他のエロゲと比べた場合の特徴」という意味では正しいんだけど、その作品そのものを見た場合にそのように評価できるか?と言われたら結構むずかしい話ではある。もしも、正確に定義してみるなら、トノイケダイスケにおける物語とは「発展しない」「展開しない」物語、或いは「循環する物語」や「変奏する物語」というべきものだろう。登場人物たちが巻き込まれる状況であるところの物語空間は存在するのだが、それがある一定の方向をもって「進み」はせずに、前に進んだりうしろに戻ったり、方向がわからなくなってその場で昼寝をしたりする。この作品の「お散歩」のように、お散歩に目的地は必要かもしれないが、お散歩は目的地にたどりつくためにするものではない。それはただあるいて誰かとなにかを話す物語である。 → 長文感想(38720)(ネタバレ注意)(7)
「姫風呂」「恋盾」に続くAXL第三の傑作ナリよ。AXL作品と言えば、共通部分はみんなでガヤガヤ予備校でグダっているようなノリがええのに、個別ルートに入ると急に旅館の世界に入ってちんぴらヤクザと対決したりするようなノリが、評価されたり裏目に出たりしているのだが、今回も「恋盾」風のアイギスとかそこらへんを使ったミリタリー系のお話かと思わせておきながら、バトル展開の方は「俺たちの闘いはこれからだ」みたいな感じにアッサリおわったりしちゃうAXLクオリティなのである。でも今回はそれがちゃんとはまっているんだなこれがっ。なんせこの作品のタイトルは「厨二な彼女との闘い方」ではなく、あくまで「愛しい対象の護り方」であり、護衛の対象は同じ軍事学校に通う自衛能力を持ったヒロインたち。結衣とは彼女の護りの理想を護り、成美とは彼女の「と」の護り方を学び、美冬たんとのイチャラブ生活を護るために主人公はガムばるのだ。 → 長文感想(17022)(ネタバレ注意)
エロ助でも「最後までシリアス展開の伏線がばらまかれていて安心立命できぬ」といった感じの、まぁその作品に対する批判としては妥当な感想が書かれることはあるが、この作品はズバリ最初から最後までプチ鬱悪寒が延々と続く作品だ。むろん、この作品に対しては前述のような批判はやや的外れで、特殊能力も自分と同じ種族も持たないたったひとりの吸血鬼主人公が過ごす、ひょんな瞬間に崩れ落ちそうな原発のうえの退屈な日常生活を痛切に語るために必要な方法だし、なによりも、そんな主人公の故なくもない「ネガティブ妄想」が物語の中心にある、吸血鬼であれ人間であれ等しく存在するエゴイズムの原罪とその救済のモチーフを引き立てるわけだ。ただ、そこら辺を強調するルートはやや説教臭いのに対し、「吸血鬼オチ○ポが美味しくて堪らないのぉぉ!」ってな感じのエロイチャ攻撃でネガ思考を黙らせちゃう小春シナリオの方が説得力があり過ぎて下半身が痛い。
一概には言い難いいものの、銀弾のソフトは主に個別/共通ルートの物語配分で失敗とまでは言わないまでも「勿体ないなあ」と思わせる作品が結構おおい。この作品も一周目は「少年期」から「青年期」そして「成年期」を通して、友情と恋愛感情と精通を経てこと細やかに成長していくふたりが田舎の涼しげな恋を一緒にゆったりと歩んでいく。少年期から本編の成年期へと展開するねこねこ作品はあるし、通常のエロゲは「現在」の立場から「過去の幼年期」を回想するわけだが、この作品はそうした「あいだ」を省略や省察に済ませるのではなく、むしろその「あいだ」の時間的感情の広がりを描こうというわけだ。これは基本的には成功しているのだが、しかし二周目なると、個別ルートの分岐が「青年期」の終わりから始まり、そのあとすぐ「成年期」の「幼年期の終わり」展開に入ってしまうので、ヒロインに一周目の時のような幼き頃からの愛情を深く感じるのは難しい。
前作の「まじから」と比べたら一進一退ってところか。基本的な構成としては、それぞれの個別ルートに独自の物語展開があるんじゃ無くって、個別ルートという枠組みの中で、各ルートに共通するような物語展開や設定が全体を通して語られるようになっている。そこから各ヒロインたちの付き合いとか、梅雨のうっすらとした寒さといった作中の雰囲気はよく伝わってくるんだけど、反面、個別ヒロインに対する感情移入が弱い。コアとなる物語展開が個別ルートヒロインの蚊帳の外で行われることが多く、澄光香なんぞは殆ど明日香さんにキャラ食われて姉妹丼ルートになってしまってるもの。実際萌えゲーとしてイチャイチャ出来ると言えるのは命ルートぐらいか。ただ、エロしーんの質量とエロCGは前作を凌駕しており、ちこたむ画伯の命ちんのつるぺたボディや、澄光香と明日香さんの貧乳巨乳の姉妹丼は完璧に近く、あやか嬢とほのか嬢の緩急絶妙な艶技も反則技に近い。
「姫狩り」は基本システムは良くできていたのに、二周目以降の難易度が低く、シナリオ分岐が最終章のみに限られていたりとツメの甘さが目立つ作品だったが、今回は中盤から三つのメインヒロインルートに分岐し、二周目全引き継ぎ難易度難しい、三周目全引き継ぎ敵レベル解除、といった感じでやれば全ルートを楽しみつつ、最後まで緊張感を失わずにプレイできるようになったのは確実な進歩だろう。そして、本作のメインディッシュ――アイテム収集&合成は前作以上に楽しい。今作の場合「要らん素材」が後々役に立ったり、金稼ぎ用のアイテムにすぐ転化できるので、全ての作業プレイが貯蓄プレイのように感じられ、小銭をかぞえ集めているだけで毎日毎晩睡眠時間を虐殺される廃人たちが夢のあと。ただ、こうしたゲーム性と最後まで謎を小出しで引っ張るメインシナリオの食い合わせが悪く、絡みの多いサブ勢のほうが魅力的に見えてしまうのは気になる点ではある。
「クローバー・ポイント」が真にマーガレットの花に覆われたような幻想的な世界を形づくっているとしたら、この「マーガレット・スフィア」は地方の伝説を元に町興しでマーガレットの花を植えまくったは良いけれど、途中で資金不足に陥り保守点検も不可能になったせいで、何の美的統一性もなくマーガレットがジャングルの如く繁殖し、一種の公害にすらなっているうらぶれた地方都市を思わせる作品だ。なるほど、確かに基本プロットはクロポ同様に、マーガレット伝説が引き起こす「奇跡」を中心とした物語が描かれる。しかし、その「奇跡」がクロポと比べてインフレ過ぎて、マーガレットの奇跡に覆われた風景は杉花粉に覆われた東京のように鼻水と眠気を刺激するばかり。まぁこうした野放図でええ加減な世界観がある種の野趣となっているのも事実で、表面上的な成長物語に反し幼児退行的な濃厚エロしーんを繰り返す茉莉シナリオは近親相姦の一つの解答と言える。
「夏だ!プールだ!!恋の季節だ!!!」ってな感じの三本ノック青春謳歌物語を見ていると、今すぐ暗い部屋に閉じ籠もりクーラーを24度の非国民設定にし瞼が落ちるまでネトゲに引き籠もりたくなるようなダメ人間向け作品である。むろん、エロゲに「たるい」とすぐ言ってしまうような人は、このゲームをやってはいけない。なんせ、この作品は共通の会話システムから「たるさ」が満載であるし、個別も幾つか鬱イベントが突発的に起こる以外は、メインヒロインと主人公が同じ部屋のなかで真っ昼間からセックスしたりゲームするぐらいといったような、不健康な生活がダラダラとクールに描かれるだけなんだから。イチャラブ好きだけどあんましバカカップルっぽいのイヤ。テンション高めじゃなくてフツーのトーンでフツーの日常でフツーに恋愛してときどきヒロインのブルマをくんくかしたりヤンデレに監禁されたいというダメ変態ユーザーには問答無用でお奨めかも。 → 長文感想(17551)(ネタバレ注意)