由三郎は、明治二十九年(1896)三月九日に父・石原由松、母・まさの次男坊として愛知県碧海郡桜井村古井(現在の安城市古井)で生れた。

 小学校の代用教員をしていた由三郎は、大正二年十二月二十五日に岡崎師範学校入学希望者の募集があったことを機に代用教員をしていた小学校の校長稲垣茂喬の指導を受けて猛勉強を重ね、大正三年四月に本科第一部(明治四十年四月十七日文部省令により師範学校規程が制定され、師範学校は本科と予備科を置き本科を第一部と第二部で編成した第一部の修業年限は男女とも四ヵ年、第二部の修業年限は男一ヵ年、女一ヵ年又は二ヵ年)へ入学し大正七年三月に卒業して愛知郡日進村の小学校への辞令を受けたが赴任することなく、同じ愛知郡の千種小学校へ一年間勤務した後、名古屋市東区の筒井小学校へ転勤した。

 大正十年三月、教員生活に終止符を打った由三郎は、新愛知新聞社(現中日新聞社)に入社し、大正十三年六月十六日には親の強い希望によって本多家の婿養子となったが勤めを辞めて本多家の家業を継ぐことはせず、勤務地名古屋での新婚生活は二週間続いただけで妻は実家に帰ってしまった。

 この頃、岡崎市亀井町のお寺(現六供本町・一乗寺)の本堂を借りて託児所のようなことを行っていた若い僧侶と知り合い、せめて園舎だけでも幼稚園のようにしたいという相談を受けた由三郎は資金集めに奔走し、岡崎市向田町三十一番地に九十九坪の土地を借りて三十六坪の保育室と四畳半の事務室を新築するとともに幼稚園としての認可を受けるまでの全面的援助を行い、昭和三年四月に認可を受けて嫩幼稚園を開園するに至り、主任教員となった由三郎は念願のお話道場を開くことができるようになった。

 翌年、青年僧侶は浄土真宗本山の命により布教師として渡米することになり幼稚園を手放さなければならなくなった。これを知った小学校の校長を退職したばかりの山本五市がそれならばと名乗りを上げこれを五百円で譲り受けて園長となり、由三郎は新園長から相談相手として副園長に指名された(青年僧侶とは、安間公観のことで、著書・訳書に幼児身体保育の実際(ロクランツ,スベン著/安間公観訳)・同文館・1934(昭9)及び松尾多勢子の生涯「幕末の愛国女性」・安間公観著・育生社・1938(昭13)がある)。

 幼稚園の設備の充実を図ることを焦った山本園長は周囲の反対を押し切って鉱山事業に手を出しこれに失敗して不慮の死を遂げたことから、山本園長の借金の返済を肩代わりするとともに遺族の強い希望によって赤字経営続きの幼稚園経営も請け負うこととなり、昭和七年九月一日に嫩幼稚園長となったのが由三郎の本格的な幼稚園経営の始りである。

 昭和十八年、大東亜戦争の戦況が悪化して行き物資の欠乏が著しくなって酷寒から子どもたちを守る燃料も手に入らなくなって困っていた。この頃、園児の保護者の中に山田京子(戦時中に苦難の時期を助けられた恩に報いるため由三郎に協力することを決意した人)という女性がおりそのご主人が山林の伐採や木炭生産などの事業に関わっていることを聞き相談したところ、「このご時世ですから物資の移動は厳しく禁じられていますので私の方からお渡しすることはできませんが、先生がご自分で炭を焼いてお持ち帰りになる分には構いません」というご好意を天の声のように聞いた。

 ある日、出来上がった炭を自転車に載せて運んでいるとき一人の警官に呼び止められて「それは何だ」と聞かれた。一瞬ドキッとしたが隠せるものではないので正直に「はい、炭です」と答えると、厳しい口調で名前や職業などを職務質問し由三郎の説明を聞いていた警官は急に右手を上げて「アッ、カラスが東の空へ飛んで行く。あれを見よ」と芝居の台詞のようなことを言いながら左手は反対の方向を指差して振り、「早く行け」というような合図をしてくれた。この時、件の警官は自転車の泥除けに大きな文字で住所と嫩幼稚園の文字が書いてあったのをしっかりと見届けていたのである。後日本署の刑事課長から出頭を命じられ平身低頭して誤ると、「法は曲げられないが大勢の子どものためなら仕方がない。始末書だけ書いていけ」といわれ、その態度に深く胸を打たれた由三郎は感謝の気持ちでいっぱいであったという。

 師範学校時代に幼児教育家で童話の大家でもある久留島武彦の講演を聞いた由三郎はその話術に魅せられてその世界の虜になってしまった。久留島武彦は欧米視察旅行から帰朝後の明治四十年四月、明治神宮外苑に早蕨幼稚園を開設し童話による幼児教育運動を展開した。この幼稚園は戦災によって焼失したが幼児教育運動の全国巡講を続ける久留島武彦はその途次に兼ねてから親交のあった由三郎を訪ね暫く嫩幼稚園に逗留された。このとき久留島武彦は早蕨幼稚園の意義と早蕨幼稚園の再興を強く語り明かした。このことから由三郎は自らも外遊して欧米の幼稚園教育を視察した後、日本に誇る幼稚園の設立を目途として昭和三十七年(1962)三月一日にその名も早蕨幼稚園として創設した。

 幼稚園教諭の確保に苦労した由三郎はその養成を自ら行う決心をすることとなり、齢七十歳の昭和四十年(1965)四月、岡崎女子短期大学を設立開学し、昭和四十八年(1973)には第二早蕨幼稚園を設立して早蕨幼稚園を第一早蕨幼稚園と改称した。

 昭和四十年(1965)七月 藍綬褒章を受ける。
 昭和四十五年(1970)四月 勲五等雙光旭日章を受ける。
 昭和五十三年(1978)七月二十一日永眠、享年八十三歳。従五位勲四等瑞宝章を受ける。
*名誉理事 山田京子 履歴
・大正八年二月二十七日生まれ(旧姓神谷)
・昭和五年四月 愛知県立国府高等女学校入学
・昭和十五年四月 嫩幼稚園教諭就任
・昭和二十九年四月 嫩幼稚園評議員就任
・昭和二十九年七月 学校法人清光学園理事就任
・昭和四十九年四月 岡崎女子短期大学付属幼稚園三園園長補佐就任
・昭和五十四年四月 岡崎女子短期大学付属第二早蕨幼稚園長就任
・昭和五十八年三月 学校法人清光学園理事退任
・平成元年三月 岡崎女子短期大学付属第二早蕨幼稚園長退任
・平成十一年三月 学校法人清光学園名誉理事称号授与
・平成十六年十一月二十七日逝去