ヒバクシャ広島/長崎:’12秋/5止 張本勲さん 生きてきてよかった
毎日新聞 2012年11月01日 西部朝刊
<核兵器の廃絶を documentary report/144>
いつになく、上気した声だった。「いいものを読ませてもらったよ。うれしいんだ。大げさじゃなく、生きてきてよかった」。東京都内の邸宅に私を迎え入れると、張本勲さん(72)は自ら切り出した。その前日、私は取材資料をファクスで送っていた。広島東洋カープの主砲、栗原健太選手(30)が今年8月6日に更新した公式ブログのコピーだ。
栗原選手は07年にブログを始め、昨年の8月6日も書いている。「被爆3世の嫁、被爆4世の娘たちが僕の家族です。やっと、その『伝えていくこと』の何が重要か分かってきました」。今年は「東北に伝わること。」と題し、東日本大震災に遭った古里に向けて発信した。「どうか東北に(被爆後に復興を遂げた)広島の強さが伝わるよう、願います」
「彼はカープの選手だけど、山形県の生まれでしょう? 被爆した自分でさえ、現役のころは原爆について話さなかったのに、こうして書いてくれた。それがうれしいんだよ」
張本さんは5歳のとき、爆心地の東約2キロにあった広島市段原新町(現南区)の自宅で被爆した。勤労動員されていた長姉を、原爆で亡くしている。忌むべき記憶の封印を解いたのは還暦を過ぎてからで、それまでは「誰も聞かれなかったし、私から話す必要もなかった」と口を閉ざしていた。
今回、張本さんは沈黙したもう一つの理由を教えてくれた。小学生のとき、毛髪の抜けた同級生がいた。ある日、近所の女性が自分の子どもに諭すのを聞いた。「あの子と遊ぶのはやめんさい。ピカがうつるけん」。以来、差別を恐れた。日本プロ野球記録の3085安打を重ねた81年までの現役時代も、孤独のなかで被爆の事実と向き合っていた。
私は初めて取材した06年秋のことが忘れられない。張本さんはなお続く恐怖から原爆資料館に入れないと明かしてくれた。「8月6日は大嫌い。法律でなくしてほしいぐらいだ」。この言葉を報じたところ、大分県日田市の少女から「8月6日を忘れないで」との手紙が届く。背中を押された張本さんはその翌春に資料館を見学し、被爆体験を伝える「最後のメッセンジャー」を自認するようになった。