MARIの恋日記

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久々に震災後の避難所生活のことを書きます。



息子の通う小学校が避難所として機能していました。しかし、体育館、校舎の教室と避難民で溢れていました。
私は体育館に妹が避難していたので一緒にそこに居ることにしました。とにかく活躍したのが私達くらいの年齢の保護者でした。ある程度の経験と知恵もあり、体力もあり動けるので先頭にたって、仕切ることになりました。体育館の真ん中に本部を設置して、数少ない水やオムツ、薬などを管理して、避難民の要望を聞いたり、探しに来た人の名前を叫んだり、とにかく休む暇もありませんでした。
私が避難した小学校は、被害が酷く、下水道も壊滅していたので、火の使用が禁止されていました。しかし、赤ちゃんも居るので、有志の人でミルク用のお湯だけは沸かしていました。
東北の3月はまだまだ寒く暖をとることも出来ず本当に辛いものでした。避難してきた人の中には寝たきりの老人、痴呆の人も居ました。水も無い状態の中での介護も大変なものです。



体育館にもかなりの人数が居たので、班分けをされました。私はそこでリーダーにされ?ました。本当に座るヒマもないほど、次から次に仕事があり、私も疲労困憊でした。何もしないで言いたいことを言っている人にも腹立たしく感じました。私も同じ被災者で、同じ立場で余計な仕事を引き受けさせられたのに!!やっぱり普通の精神状態では無いときのリーダーは辛いものでした。
こんな時は、被災者ではなく外部の人間が適していて冷静な判断が出来る人が良いのですが。



ご飯もまともに食べれない日も暫く続きました。おにぎりを2人で一個なのですが、ひとりで避難している人もいるので、そういう人には一個与え、私はリーダーの立場だったので、その分うちのおにぎりは少なくなり、スナック菓子を食べていました。育ち盛りの子ども達はいつもお腹を空かせ、お茶わんで炊き立ての白いご飯を食べたがっていました。
普通は被災しても2、3日我慢すれば支援がありますが、被災地があまりにも広範囲に渡り、酷すぎる惨状だったため支援もかなりおそかったのです。
でも必ず国から支援があると、みんなで信じて励まし合いながら待っていたのです。
あとは、あまりにも亡くなった方がいて、自分たちは亡くなった人たちの分まで頑張らないと、生かされた命なんだと、それぞれが自分を奮い立たせていたのです。


また続きます。
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