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これはある法華講員さんの体験というか、発見です。
兎角我々凡夫は、御本尊様に向かい勤行・唱題というと、「・・・を叶えて下さい。・・・になるようにお願いします。」等々、「功徳を頂くこと」をお願いする姿勢があるわけですが、この方はそのような勤行の姿勢からもう一歩踏み込み勤行・唱題とは「欲しい」から「捧げること」ではないか?と問い掛けられました。これは素晴しい発見だと思いますので、ご紹介いたします。
■■■■■■■■■■某法華講員さんの書き込み■■■■■■■■■■
最近、読経唱題(勤行)を申し上げていく姿勢を、「祈ること」中心から「捧げること」中心に変えました。 なぜかと言うと…今の私の抱える眼前の悩み苦しみは、確かに個人の人生の文脈の上から認識するならば、大きな悩みなのでしょうが、仏様の側から言うと果たしてどうなのかな?と。 仏様は、私が無始以来、六道輪廻を何回となく繰り返してきたことを誰よりもよくご存知であるはず…。 ならば、せめて読経唱題を申し上げている最中は、悩み苦しむ姿を捨てて、我が身を仏様に委ねる気持ち、捧げる気持ちに徹してみようと。 まだ文献にこの姿勢の正当性を得ることはしていませんが、だんだん読経唱題の際に雑念が湧かなくなってきているのは確かです。
■■■■■■■■■■私の回答■■■■■■■■■■
「文献にこの姿勢の正当性を得ることはしていませんが」とございますが、二座の御観念文をご覧ください。「本尊供養」とあります。供養とは仏様に捧げることです。
宗務院、御観念文の解説【二座】より転載。
【通釈】本尊供養
法華経本門の寿量品の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、
久遠元初、自受用報身如来の御当体、十界本有常、事の一念三千、
人法一箇、独一本門戒壇の大御本尊に南無し奉り、今その御威光が
倍増せられ、広大なる御利益に浴することに御報恩謝徳申し上げま
す。
毎朝、私たちは御本尊様に対し、題目の御供養をさせて頂いています。〇〇様の「捧げること」ということです。そして、今、御本尊様のその御威光が倍増され更に広大なる御利益に浴することを祈っているわけです。
素晴しい発見ですので、法華講員の皆さんとシェアーさせて頂きたく存じます。
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