白人は米国のリーダーで居続けられるのか
数日前の記事だが、ニューヨークタイムズが
ニューヨーク市におけるアジア系の高校生の割合は16%に過ぎない
にもかかわらず、公立トップ数校におけるアジア系比率が6〜7割
にも達していると報じた(元記事)。
ちなみに記事のタイトルは、
"For Asians, School Tests Are Vital Steppingstones"
(アジア人にとっては、学校のテストが人生の大事な一歩なんだよ)
である。
米国の初等・中等教育が危機的な状況にあり、
学校以外でも一生懸命勉強するアジア系の独壇場になりつつあるのに
未だに危機感を抱けないアメリカ人の姿が浮き彫りになっていて興味深い。
こうした現象は、ニューヨークに限らない。
私の住むデトロイト圏北部においては、アジア人人口が6%程度である
(ただし子供に限るともう少し比率が高いと思われる)にもかかわらず、
公立トップ校への進学者数の7〜8割がアジア系である。
記事では貧しい家庭に育つ中華系の高校生の写真が大きく取り上げられているが、
実際には、経済的にも既に白人はアジア系に負けている。
6年前のセンサス局調べによると、
25歳以上のフルタイム労働者の平均賃金は、
アジア系4万2千ドル、白人4万ドル、黒人3万2千ドル、
ヒスパニック2万7千ドルだ。
米国の賃金は学歴による格差が大きいため、
現在の米国の若者の人種間学力格差を考えるとこの差は広がる一方だろう。
ニューヨークタイムズが貧しいアジア人学生を取り上げたのも、
人種間闘争を煽らないための配慮とさえ思えるほどだ。
どうしてここまで大きな教育格差ができてしまうのだろうか。
これは、日本などにおけるステレオタイプに反して、
米国ができる子供の能力を伸ばす教育をしていないことに原因があるだろう。
その結果、子供の能力よりも教育に対する文化的な違いが、
成果に如実に現れてしまっている。
ニューヨークタイムズの記事に対する関心はかなり高かったようで
白人、アジア人双方の知人が、facebookでコメントを残していたが、
そこに書かれていたことのほとんどは、
「努力は才能よりずっと大事だ」、
「弱音を吐いてないで一生懸命頑張れ」
という内容であった。
米国の初等教育では、"gifted" とか "talented" という言葉が好んで使われる。
これは、一見子供の才能を伸ばす良い教育のように思われるが、
実際のところは、「教えなくても能力が高い子」だけが
生き残れるという教育になっているのだ。
私が米国大学院の博士課程に入ってまず驚いた事は、
第一に、生粋のアメリカ人が非常に少ないということであり、
第二に、そうしたアメリカ人の学生はなかなか頭が切れるということである。
出来の悪い米国人学生も中にはいるが、
そういう学生は最初の1〜2年のうちにドロップアウトして、
本当に頭の良いアメリカ人だけが残る。
一方のアジア系はと言うと、
頭の善し悪しにかかわらずなんとか頑張って試験をクリアし
大半が卒業していく。
こういう現状を見ていると、頭の良い生粋の米国人はたくさんいるのに、
勤勉でないせいで多くの人が良いキャリアのスタートラインに立てていない
ということが、よく理解できる。
それでも、アジア系が米国を牛耳ってる感じがしないのはなぜだろうか。
これは単なる時差の問題である。
米国は米国人が足りない分野だけに優先して移民を受け入れてきた。
具体的には STEM (Science, Technology, Engineering, Mathematics)
と呼ばれるテクニカルな分野であり、
人気のあるビジネスや法律、また医療系の専門職などでは
引き続き、生粋の米国人が優先的に仕事を確保してきた。
実際、多くの頭の良い生粋の米国人は、こうした分野に進み、
苦労が多い割に実入りの少ないと考えられてきた STEM 分野を
避けているのが現状である。
しかし今後は、こうした「生粋の米国人に人気の分野」においても
アジア系が幅を利かせてくる事になるだろう。
なぜなら、今後はアジア系移民の第二世代が活躍することになるからである。
現在、米国には1千4百万人ほどのアジア系がいるが、
このうち1千万人が外国で出生した人であり、
しかもそのうち3百万人は過去10年間に米国に移民した。
近年、米国への移民が難しくなり要求される学歴水準が高くなっている事を考えれば、
これらの移民の第二世代が労働市場に
大きなインパクトを持ってくることは想像に難くない。
30〜50年後、米国の企業経営者、弁護士、医師、研究者
などの社会の指導層の多くがアジア系で占められることになる。
その割合は半数に迫るかも知れない。
しかしそれは米国にとって、
悲観すべきことというよりもむしろ望ましいことだろう。
なぜなら、世界人口の6割を占めるアジアの優秀な頭脳が
米国に引き寄せられた結果に過ぎないからだ。
ニューヨーク市におけるアジア系の高校生の割合は16%に過ぎない
にもかかわらず、公立トップ数校におけるアジア系比率が6〜7割
にも達していると報じた(元記事)。
ちなみに記事のタイトルは、
"For Asians, School Tests Are Vital Steppingstones"
(アジア人にとっては、学校のテストが人生の大事な一歩なんだよ)
である。
米国の初等・中等教育が危機的な状況にあり、
学校以外でも一生懸命勉強するアジア系の独壇場になりつつあるのに
未だに危機感を抱けないアメリカ人の姿が浮き彫りになっていて興味深い。
こうした現象は、ニューヨークに限らない。
私の住むデトロイト圏北部においては、アジア人人口が6%程度である
(ただし子供に限るともう少し比率が高いと思われる)にもかかわらず、
公立トップ校への進学者数の7〜8割がアジア系である。
記事では貧しい家庭に育つ中華系の高校生の写真が大きく取り上げられているが、
実際には、経済的にも既に白人はアジア系に負けている。
6年前のセンサス局調べによると、
25歳以上のフルタイム労働者の平均賃金は、
アジア系4万2千ドル、白人4万ドル、黒人3万2千ドル、
ヒスパニック2万7千ドルだ。
米国の賃金は学歴による格差が大きいため、
現在の米国の若者の人種間学力格差を考えるとこの差は広がる一方だろう。
ニューヨークタイムズが貧しいアジア人学生を取り上げたのも、
人種間闘争を煽らないための配慮とさえ思えるほどだ。
どうしてここまで大きな教育格差ができてしまうのだろうか。
これは、日本などにおけるステレオタイプに反して、
米国ができる子供の能力を伸ばす教育をしていないことに原因があるだろう。
その結果、子供の能力よりも教育に対する文化的な違いが、
成果に如実に現れてしまっている。
ニューヨークタイムズの記事に対する関心はかなり高かったようで
白人、アジア人双方の知人が、facebookでコメントを残していたが、
そこに書かれていたことのほとんどは、
「努力は才能よりずっと大事だ」、
「弱音を吐いてないで一生懸命頑張れ」
という内容であった。
米国の初等教育では、"gifted" とか "talented" という言葉が好んで使われる。
これは、一見子供の才能を伸ばす良い教育のように思われるが、
実際のところは、「教えなくても能力が高い子」だけが
生き残れるという教育になっているのだ。
私が米国大学院の博士課程に入ってまず驚いた事は、
第一に、生粋のアメリカ人が非常に少ないということであり、
第二に、そうしたアメリカ人の学生はなかなか頭が切れるということである。
出来の悪い米国人学生も中にはいるが、
そういう学生は最初の1〜2年のうちにドロップアウトして、
本当に頭の良いアメリカ人だけが残る。
一方のアジア系はと言うと、
頭の善し悪しにかかわらずなんとか頑張って試験をクリアし
大半が卒業していく。
こういう現状を見ていると、頭の良い生粋の米国人はたくさんいるのに、
勤勉でないせいで多くの人が良いキャリアのスタートラインに立てていない
ということが、よく理解できる。
それでも、アジア系が米国を牛耳ってる感じがしないのはなぜだろうか。
これは単なる時差の問題である。
米国は米国人が足りない分野だけに優先して移民を受け入れてきた。
具体的には STEM (Science, Technology, Engineering, Mathematics)
と呼ばれるテクニカルな分野であり、
人気のあるビジネスや法律、また医療系の専門職などでは
引き続き、生粋の米国人が優先的に仕事を確保してきた。
実際、多くの頭の良い生粋の米国人は、こうした分野に進み、
苦労が多い割に実入りの少ないと考えられてきた STEM 分野を
避けているのが現状である。
しかし今後は、こうした「生粋の米国人に人気の分野」においても
アジア系が幅を利かせてくる事になるだろう。
なぜなら、今後はアジア系移民の第二世代が活躍することになるからである。
現在、米国には1千4百万人ほどのアジア系がいるが、
このうち1千万人が外国で出生した人であり、
しかもそのうち3百万人は過去10年間に米国に移民した。
近年、米国への移民が難しくなり要求される学歴水準が高くなっている事を考えれば、
これらの移民の第二世代が労働市場に
大きなインパクトを持ってくることは想像に難くない。
30〜50年後、米国の企業経営者、弁護士、医師、研究者
などの社会の指導層の多くがアジア系で占められることになる。
その割合は半数に迫るかも知れない。
しかしそれは米国にとって、
悲観すべきことというよりもむしろ望ましいことだろう。
なぜなら、世界人口の6割を占めるアジアの優秀な頭脳が
米国に引き寄せられた結果に過ぎないからだ。