大川小児童の遺族が立ち上がってから4ヵ月
明らかになった真実、隠され続ける真相とは
東日本大震災の津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になった石巻市立大川小学校を取り上げた当連載も、15回を数えるまでになった。
初回で取り上げたのは、震災から1年3ヵ月あまりが過ぎた2012年6月16日に、遺族の有志が行った会見の様子だった。事故の真相が一向に明らかにされない現状を訴えるために、意を決した8家族11人が報道陣のカメラの前に立ち、一人ひとりがマイクを握って胸の内を語った。
あれから4ヵ月半――。
これまで、どのようなことが明らかにされ、何が課題として残されているのか。私たちが石巻市や県教委、文科省に繰り返し行ってきた情報開示資料や、これまでの石巻市教育委員会の調査に、生存者や地域の人たちなどへの取材から得た情報も加えて、ここで改めて整理をしてみたい。
空白の51分間は、どこまで明らかになったか
あの日、地震が発生した午後2時46分から、学校の時計が午後3時37分で止まるまでの51分間、学校で何があったのか。
子どもたちが、高台への避難もせずに校庭に居続けた“空白の51分間”の出来事は、「真実を知りたい」と訴え続ける遺族たちがもっとも知りたがっている部分だ。
◇ ◇
2011年3月11日。この日は、朝から穏やかに晴れていた。午後になると雲が出てきて、次第にどんよりとした空に変わった。午後2時を過ぎた頃から、急速に冷え込んできた。
午後2時46分、大川小では帰りの会が終わり、「さようなら」を言っている途中に、地震は起きた。子どもたちは、机の下に潜り、揺れがおさまるのを待った。教頭がハンドマイクで「机の下に避難」と繰り返していた。揺れはそのまま2分ほど続いた。
学校前の県道には、海岸方面の長面地区に向かって、スクールバスが待機していた。大川小の学区は北上川に沿ってかなり広い範囲にわたるため、多くの子どもたちがスクールバスで通っていた。
この日、大川小の柏葉照幸校長(当時)は、年休を取り、学校には不在だった。
教務主任のA教諭(教職員として唯一の生存者)は、廊下から「校庭へ避難しろ」と叫んでいた。
子どもたちは早足で、校庭へ出た。上履きを靴に履き替えたり、自分の判断でジャンパーを着用したりした子どももいた。外では、小雪が舞い始めていた。
A教諭は、校庭に出ると「山だ! 山だ! 山に逃げろ」と叫んだ。それを聞いて、山にダーッと登っていった子がいたが、教諭の誰かから「戻れ!」と怒られ、連れ戻された。
5、6年生の男子たちが、「山さ上がろう」と先生に訴えていた。当時6年生の佐藤雄樹君と今野大輔君は「いつも、俺たち、(裏山へ)上がってっから」「地割れが起きる」「俺たち、ここにいたら死ぬべや」「先生なのに、なんでわからないんだ」と、くってかかっていたという。
2人も一旦校庭から裏山に駆けだしたが、戻れと言われて、校庭に引き返している。
防災無線では、「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけていた。教頭の持っていたラジオでは、6メートルの大津波警報を伝えていた。
担任教諭たちが校庭で点呼をとり、教頭へ報告。遅くとも午後3時前には完了していたと思われる。
数分ごとに、たびたび余震が起きていた。
校庭では、女の子たちが泣いていた。「地震酔い」なのか、吐いている子もいた。
子どもを迎えに来た保護者は、20家族ほど。名簿に名前を書いて帰宅していった。大津波警報が出ていることを報告していた母親もいた。
保護者たちは、教諭から「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言われていた。
また、地域の人たちが校庭の入り口に集まってきた。布団やブルーシートを持ってきていた人もいた。
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午後3時14分。大津波警報が10メートルに引き上げられる。直後の午後3時15分、余震発生。防災無線を担当した市河北総合支所の職員によると、この頃に初めて大津波警報が出ていることを認識して呼びかけ始めたという。だが、高台への避難の呼びかけは特にしなかった。
一方、同支所の3台の広報車は、大津波警報と、高台への避難を呼びかけながら、県道を海岸の長面方面に向かった。午後3時20分頃、広報車の1台の職員が大川小に立ち寄り、長面の人たちを体育館に避難させられるかを確認して、「危険」との説明を受けている。同時刻に、津波の第一波が、牡鹿半島の先端の鮎川に到達。
校庭では、たき火の準備も始まっていた。
午後3時25分過ぎ、北上川河口の防潮林(松原)を越えてきた津波を目撃した広報車が引き返す。後続の広報車もUターンして、「高台に避難してください」「松原を津波が通過しました。避難してください」と呼びかけながら、県道を戻っていった。広報車が大川小前を行きと帰りで通過する際、スピーカーの呼びかけを聞いた児童もいる。
教諭たちの間では、裏山に逃げるべきか、校庭にとどまるべきかで議論をしていた。市教委の報告書には、<教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったが、釜谷(地区の)区長さんは「ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう」と言って、けんかみたいにもめていた>と記されている。
教頭と教務主任という、学校現場の両責任者が、山に逃げようと主張していたにもかかわらず、なぜ行動に移せなかったのか。この点が、いまだに明らかにされずにいる。
学校の裏山は、ソリ滑りが出来るほど傾斜の緩やかな場所があり、校庭から40秒から50秒でたどり着く。子どもたちにとって、シイタケ栽培の学習でなじみのある場所でもあった。
子どもたちの列は崩れて丸くなり、「大丈夫だぞ」「こんなところで死んでたまるか」などと励まし合っていた。
この間、A教諭は、校舎の2階に避難が可能かどうか確認しに行っている。
午後3時29分、迎えに来た母親の1人(死亡)が、「子どもと学校にいます。」というメールを夫に宛てて送った。
町の側溝からは水が噴き出し、堤防からは水があふれ始めた。児童の1人が、学校の前の住民の「津波が来たぞ!」と言った声を聞いた。
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午後3時35分過ぎ、教頭先生が「三角地帯(釜谷地区の入り口にある北上川の堤防)へ逃げるから、走らず、列を作っていきましょう」と呼びかけ、子どもたちの移動が始まった。
なぜ、それまで裏山か校庭かの議論にはなかった三角地帯を目指すことになったのか。これも、まだ明らかにされていない。
津波に襲われる1分ほど前(午後3時35~36分頃か)、子どもたちは校庭のフェンスのすき間から出て、学校脇の道路を左に折れた。三角地帯に向かうには、右に折れて県道に出るのがもっとも単純で短いルートなのに、なぜか、逆の方向に向かった。
校舎から戻ってきたA教諭は、逃げ始めていた子どもたちの後ろについたことを証言している。その頃、学校前を通った釜谷の住民の高橋和夫さんは、大人か子どもかははっきりしないものの、十数人が校庭に残っていたことを覚えている。
学校脇に建つ釜谷交流会館の前で、学校前の様子を見に行っていた教頭先生が、「もう津波が来ているから、急いで!」と大声をあげて戻ってきた。子どもたちはあわてて、釜谷交流会館浦の駐車場から民家の裏の路地を走った。そこから小さな畑や排水溝のある比較的幅のある通路を右に曲がり、民家の間を抜けて県道を目指した。
県道に出ようとしたところで、しぶきが上がって、黒い津波が堤防を越えてきたのが見えた。前方を走っていた児童たちがあわてて引き返してきて、後方の児童たちは立ち往生していた。
生存児童の1人、只野哲也君(当時5年生)は、一緒に逃げていた柔道仲間の今野大輔君が倒れるのを見て、ジャンパーの襟を引っ張っていこうとした。しかし、大輔君は動けなかった。
哲也君は、夢中で山をよじ登ったが、後ろから津波の強い衝撃を受けて気を失った。同じように津波にのまれて、流れてきた冷蔵庫に入って助かった同級生が、体が半分ほど土に埋もれていた哲也君を助け出した。
雪が本格的に降ってきた。
結局、山に走って逃げたA教諭と3年生の男児、津波にのまれながら山に打ち上げられて地域住民に救助された1年生の女児の計5人が、津波からの生存者となった。
◇ ◇
空白の51分間を詳細に再現するには、証言や情報が限られているために部分的であるが、本当に追求しなければならない部分が、そのまま残されているのが分かる。
大川小の教職員は、危険情報も得ていて、逃げる場所もすぐそこにあり、高台へ避難する時間も十分ありながら、なぜ校庭にとどまり続けたのか。その直接的な部分は追求できないないというより、各証言からはそっくり抜け落ち、未だに語る材料がそろえられていない。
危機管理マニュアルの不備から見えた
学校運営のずさんさ
子どもたちを預けている学校は、果たして本当に安全な場所といえるのか。遺族の母親の1人が「そこに子どもを預けていたと思うだけで、ゾッとする」と表現した通り、当時の大川小は、危機管理マニュアルの不備やずさんな安全管理体制が明らかになった。
大川小の平成22年度の<地震(津波)発生時の危機管理マニュアル>というものがある。
まず、「初動体制の確立」という項目の中には、「津波の発生の有無を確認し第二次避難場所へ移動する」という、津波を想定した避難誘導の記述がある。大川小の場合の二次避難場所とは、一次避難場所の校庭から、安全性を確保するためにさらに避難する場所のことを指す。
続く「地震発生時の基本対応」という項目には、揺れがおさまってから、
「避難誘導」
「一次避難【校庭等へ】」
「安全確認・避難誘導(火災・津波・土砂くずれ・ガス爆発等で校庭等が危険なとき)」
「二次避難【近隣の空き地・公園等】」
「安全確認」
という対応手順が記されている。ここにも、津波の想定はあった。
しかし、この二次避難先にある【近隣の空き地・公園等】という場所が、学校周辺には存在しない場所だったことから、この記述はマニュアルのひな形データのままであったと思われる。実際の地域環境に合わせてカスタマイズされていない、机上の空論のようなマニュアルだったのである。
宮城県沖地震の確率が高いということが一般に周知されて、平成19年度には宮城県内で、学校防災の体制を強化するよう管理職や安全担当教諭の研修が盛んに行われていた。にもかかわらず、大川小では津波に関しての避難訓練も行ったことはなかったし、緊急時の引き渡しの訓練の計画もいつの間にかなくなっていた。
保護者に対してのメールでの連絡方法の共有や、引き渡しの情報を共有する「引き渡しカード」も手渡されていなかった。さまざまな防災の計画が、平成21年度に柏葉照幸校長が同校に就任してからは立ち消えになってしまっていた。
その結果、前述の通り、教職員たちは大津波警報が出ている中、どこに避難するかで揉めることになった。津波の危険が実際に迫っていることを知ってから突発的に目指すことにしたのは、あろうことか河川の堤防だった。
当日、校庭に50分間、待機し続けたのは、誰かからの具体的な指示や命令によるものだったのか、現場での誤った決断のためなのか、はたまた、決められない人間関係のせいだったのかについては、市教委側からは、見解が全く示されていない。
一方、遺族側は、2012年10月28日に7回目の保護者説明会で、独自の調査による避難に関する検証を示し、“極端な事なかれ主義”が蔓延し、影響したと考察した。
<何事もない日々であればさほど問題ではありませんが、今回のような事態では大問題です。あの日、「責任とれるのか」といういつもの判断基準が、(教諭たちの間で)どうしても頭から離れなかったのです。あの日の判断の遅れには、2年間で蔓延した極端な「事なかれ主義」が大きく影響しています>
<誰が主導権を握るか、というパワーバランスも無関係ではなかったと思われます。子どもの「山へ逃げよう」という声を取り上げなかったことでも分かります。取り乱すことなく、落ち着いていた方が優位に立つことになり、誰も異論を挟めなかったのです。子どもの命を守るべき組織としては、あまりにも未熟だったと言わざるを得ません>
危機管理マニュアルの不備、想定訓練や計画の欠落といったことの一つひとつは、小さな事柄だが、遺族は、結果的にそれらを積み重ねてきてしまった学校運営の結果、「命を守る組織ではなかった」と考察しているのである。
不誠実な事後対応は、なぜ検証されないのか
東日本大震災が起きてから1年7ヵ月以上が経つ。遺族たちはこの間、市教委の事後対応にも苦しんできた。「二次被害だ」「市教委を検証してほしい」という声が、遺族のなかから上がっている。
典型的な問題点は、生存者や帰宅して助かった児童たちへの聞き取り調査のメモを「破棄した」と、調査を担当した当時の指導主事が言い続けていることだ。
子どもたちと教職員84人の命が失われたという、未曾有の規模の事故なのに、音声録音をしないままの調査に加え、挙げ句の果てにメモを捨てるという行為は、公務員としてはあり得ない。
事実関係を明らかにするという作業が、誠実に、緻密に行われたとは、決して言えないのだ。
実際に、聞き取り記録や事故報告は、遺族側から、調査の矛盾点の指摘を受けて、変遷を繰り返している。
市教委は、震災から1年以上にわたって、校庭から子どもたちが「避難をした」と説明していた。
2011年6月4日の説明会では、“避難”開始時刻は、「午後3時25分頃」。それが、2012年1月22日説明会では「午後3時30分頃~」に変わり、1年後の2012年3月18日には「午後3時35分過ぎ」となった。
遺族の追及によって、実際には避難と言えるような実態ではなく、津波に襲われる1分ほど前に「逃げ始めた」といったほうが正しかったことが分かったのだ。
校庭から避難をしなかった理由については、裏山に倒木があったためとしていたが、それも「倒木があったと思われる」と、市教委は途中で説明を変えた。
また、児童が教諭に向かって「山に逃げよう」と言っていたという児童たちの証言が、調書にはひとつもないのに、説明会での指導主事からの説明の中には出てくるという不審な点もある。
さらに、重要な資料を、長期間公表しなかったという問題もあった。
唯一生存したA教諭が保護者宛にメッセージを綴ったファックスを、市教委が公開したのは受け取ってから7ヵ月以上も経ってからだった。また、震災から5日後という直後の時期に、当時の柏葉校長から聞き取った被災状況の調書が存在することが、私たちの情報公開請求で分かったのは、震災から1年2ヵ月が過ぎた2012年5月18日だった。
このように、震災直後に市教委が混乱していた、という理由だけでは説明がつかない重要事項が、疑問の残る形で公文書に残されてきたり、あるいは、ないとおかしいことが、なぜかなかったことにされてきたりした側面がある。
とはいえ、震災当時の市教委は、教育長が2010年12月から長期不在だった。教育長が選出するはずの指導主事も、不祥事を起こして転任していった1人分が空席だった。欠員があったままの状況下で、指導主事たちは、災害対応に当たっていた。
長期にわたって教育長の不在を放置し、事後対応に支障をきたした亀山紘石巻市長の責任も問われるべきだろう。
ずさんな調査を行ない、メモを廃棄したとされる当時の指導主事は、処分されることも、間違った公文書の修正文書を改めて作成することもなく、2012年4月、市内の小学校へ校長として“昇格”していった。
また、当時の学校経営の最高責任者である大川小の柏葉照幸元校長も、何の処分も受けないままに平成23年度末で早期退職したという事実も残された。
発災当時、年休を取っていて学校に不在だった柏葉校長については、安全管理を怠ってきた点など、事前の問題点も多いが、事後対応も不可解だ。
震度6弱以上の地震が起きれば、たとえ勤務時間外であっても、市内の教職員は全員所定の位置に着かなければならない「第三配備体制」となる。にもかかわらず、柏葉校長が、学校の様子を見に行ったのは、発災から1週間も経ってからだった。
捜索に至っては、避難所から「いってらっしゃい」と遺族を送り出すだけで、一度も加わらなかったという。
柏葉校長はまた、校務で外出していて難を免れた校務員に、発災から2日後の3月13日のうちに、なぜか「自宅待機」を言い渡したことに、公文書上はなっている。しかし、2012年10月28日の記者会見で、筆者が柏葉前校長に確認したところ、13日は間違いで、「17日だったと思う」と答えた。
ここにきてまた、新たに公文書の不審点が見つかった形だ。
校長が、日頃の安全管理も含め、防災体制の内容をどこまで把握していたのか、疑問が膨らむ。この第三配備体制については、柏葉校長や市教委は、納得のいく説明を行っていない。
このような校長を任命した宮城県教委に対しては、これからもまだ取材を続けたい。
唯一生還したA教諭からも真実が聞けないまま
津波から生還したA教諭は、2011年4月9日に行われた第1回保護者説明会で、被災の様子を説明した。その証言や、事前に行われた聞き取り調査(2011年3月25日実施)に矛盾点がいくつか見つかっていることから、遺族たちはA教諭に尋ねたいことがたくさんあるという。
だがA教諭は、その第1回説明会以来、一度も保護者の前に現れていないし、そのことについて、市教委は説明にならない説明を繰り返している。
休職中のA教諭は、市教委の説明によると、入院はしていないそうだが、指導主事ですら、面会を主治医に止められているという。遺族からの質問書も、主治医が手渡さなかったという。
ところが、柏葉前校長は、A教諭の自宅近くの路上で、2011年11月に面会していたことを、2012年10月28日の説明会で突然明らかにした。面会していた事実について、市教委も「全く知らなかった」と驚きを隠せない様子だった。
これまで市教委は、ドクターストップで、誰も会えないと説明してきた。それなのに主治医が遺族の前に出てきて説明をしたこともなく、市教委はなぜこの主治医に抗議をしないのかも不思議だ。
市教委は今後、こうした一つひとつの疑問に、どこまで根拠のある説明を遺族にしていけるのだろうか。
2012年10月24日現在、市教委だけでは検証が行えないとして、文科省や県教委が主導した第三者検証委員会の実現に向けた動きが出てきている。有識者の選定や、検証の方向性など、今後、関係者間での話し合いが進められていく予定だ(詳しくは第14回)。
文科省の試案では、<事故当日とそれ以前の状況・対応について>は検証の範囲とするが、事後対応については、検証に含めないとしている。しかし、ここで挙げてきたように、解決を阻むような事後対応の繰り返しが、遺族を傷つけている現実がある。
遺族の負担を増やすような事後対応はきちんと検証をして、事故そのものと同じように、再発防止を図る必要があるはずだ。
納得のいく検証は本当に実現するのか。裁判での決着ではなく、遺族が望む対話で果たして解決できるのか。大川小の関係者だけでなく、日本中が注目している。
(加藤順子)
<お知らせ>
本連載が基になった書籍『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)が2012年10月24日に刊行されることになりました。同著では、十数回に及ぶ情報開示資料を基に、連載で紹介していない生存者やご遺族、関係者 への取材も追加して大幅に加筆。学校管理下で、大惨事につながった「空白の51分間」は、なぜ起きたのか。その背景にある“見えない魔物”の本質に迫った 渾身の作です。
大川小学校関係者や地域の方、一般の皆さまからのお話をお聞きしたいと思っています。情報をお持ちの方は、下記までお寄せください。
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