NHKスペシャル 「御前会議」
太平洋戦争開戦はこうして決められた
テレビ画面撮影 テープ編集 本町ジャーナル 感想

 戦災で焼けたかつての明治宮殿。
 御前会議はその東一の間で開かれた。

 昭和16年の7月から12月にかけて、この部屋で4回の御前会議が開かれた。
 日本はその4回の御前会議で太平洋戦争の開戦を決断したのである。

 しかし当時国民は御前会議の存在さえ知ることはなかった。
 開戦をめぐる御前会議は終戦後の東京裁判で初めて国民の知ることとなった。
 天皇の側近だった内大臣木戸幸一は、法廷で御前会議の複雑な実態を初めて証言した。


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【木戸】(東京裁判において)
つまりそのときの状態は、御前会議という一つのいわば、例えで言えばガンがあるのであります。
それでこれは、その御前、9月6日の御前会議を申しておるんでありますが、9月6日の御前会議は、その行われたことすら世間に出ておらないのであります。
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 防衛庁防衛研究所。
 ここに昭和16年の御前会議をめぐる重要な資料が残されている。
 御前会議議事録
である。
 この資料は東京裁判中は関係者の手で隠され、連合国側の目に触れることはなかった。

 御前会議とは果たしてどのような会議だったのか。
 その実像を知る手がかりは今なお限られている。
 昭和16年12月1日の太平洋戦争開戦を決めた御前会議の議事録
 4回の御前会議はどのような経緯で開かれ、太平洋戦争の開戦はどのように決められていったのであろうか。
独が決められた。


 御前会議に諮られる国の最高政策の原案を書いた元陸軍軍人が今も健在である。山口県宇部市に住む石井秋穂氏である。

 当時、陸軍大臣東条英機の側近であった石井氏は国策、つまり戦争にかかわる国の政策の立案を任務としていた。石井氏はみずからかかわった国策の立案と、その国策が御前会議で決定されていったいきさつについて初めて語った。

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【石井秋穂氏談】
わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。
そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。
それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。
そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。
罪は深いですよ。
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 昭和16年、日中戦争は既に4年近く続き、日本はその打開に苦しんでいた。
 中国を支援するイギリス・アメリカとの対立は深まる一方であった。そうした中で、重慶に追い込んだ蒋介石の国民政府への攻撃が続けられていた。

 一方ヨーロッパでも、昭和16年6月、ヨーロッパ各地を席巻していたドイツが突如ソビエトに侵攻、独ソ戦争が始まった。
 ドイツ・イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、極めて重大な岐路に立たされたのであった。

 御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。
 陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。

 陸軍の参謀本部が日々の行動を記録した機密戦争日誌
 今回初めて撮影が許されたこの資料は、御前会議に至る陸軍を中心とした国策立案の経緯と、当時の陸軍の情勢判断を伝えている。


 独ソ戦争の開始直後陸軍は、本次大戦は「ドイツは有終の美をおさむべし」と、ドイツの勝利への期待を記している。
 一方海軍も、この機に後の日本を左右する重大な国策の策定に乗り出したのであった。
 国策の原案を書いたのは、後に連合艦隊司令長官山本五十六の参謀となった藤井茂中佐であった。

 元海軍大佐の大井篤氏の手元に藤井茂の資料が残されていた。

 藤井茂がつづっていた日誌。
 この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。

 この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。
 従来からの海軍の主張を、独ソ戦争を契機に実行しようというもくろみであった。

 原案には、「歴史に残る大文章なり」と記され、藤井の興奮を伝えている。

 当時海軍が進出をもくろんだ南方とは、今の南部ベトナム、当時のフランス領インドシナであった。
 そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。

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【石井秋穂氏談】
あれは(藤井茂中佐)優秀ですよ。一番優秀。
藤井がいわく、「ええか、これがな(南部仏印進駐)、南進の限界だぞ、これ以上はもう人が何ちゅっても抑えようぜ」。

わしは同意や、同意。
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 二人は陸軍と海軍で戦争にかかわる国策の立案に携わり、連絡をとりながら国策をまとめていった。
 当時国策は次のように決められた。


 既に日中戦争によって戦時態勢にあった日本の国策とは、戦争をめぐる国の最高政策である。
 そのため、原案は陸海軍の中堅官僚によって起案され、調整を経て陸海軍の部局長会議に上げられた。
 その後、大本営と政府との連絡会議に諮られ、ここで合意に至ると国策として事実上決定された。

 しかし、太平洋戦争開戦のような国策については御前会議が開かれ、天皇を前にした会議で天皇が納得したという形がとられたのであった。


 起案から二日後、直ちに首相官邸で政府と軍部との会議が開かれた。
 会議は三日間に及び、当時の松岡外務大臣は南方進出に反対し、ソビエトとの開戦を主張した
 この松岡外務大臣の開戦の主張は会議では採択されず、軍隊を国境地帯に動員し、ソビエトとの戦争を準備するという結論に落ちついた。



 こうして独ソ戦争後の新しい国策が決められた。
 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」である。

 この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外務大臣と陸軍が主張した対ソ戦準備という、二正面での作戦展開であった。


 南方進出について軍部は事前に天皇に報告している。いわゆる上奏である。
 上奏陸軍参謀総長杉山元海軍軍令部総長永野修身が行なった。

 この上奏に天皇がどう答えたか。
 防衛庁に残る「御下問つづり」に天皇の言葉が記録されている。
 天皇は、「国際信義上どうかと思うが、まあよろしい」という言葉を残している。

 昭和16年7月2日、宮中、東一の間において独ソ戦争後の国策を議題とした御前会議が開かれた。
 主な出席者は陸軍参謀総長杉山元、海軍軍令部総長永野修身、総理大臣近衛文麿、陸軍大臣東条英機、海軍大臣及川古志郎、外務大臣松岡洋右、企画院総裁鈴木貞一、そうして枢密院議長原嘉道であった。
 原は発言しない慣習になっている天皇にかわり疑問点を質問し、意見を述べる役割を担っていた。
 議題は事前に合意されており、会議の議論は形式的なものであった。しかし、ここで決められた国策は国家の不動の意思となった


海軍軍令部総長 永野修身

総理大臣 近衛文麿

陸軍大臣 東条英機

海軍大臣 及川古志郎

外務大臣 松岡洋右

企画院総裁 鈴木貞一

枢密院議長 原嘉道

陸軍参謀総長 杉山元

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【原】

はっきり伺いたいのは、日本が仏印に手を出せばアメリカは参戦するや否やの見通しの問題である。
【松岡】 絶対にないとは言えぬ。
【杉山】


ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う。もちろん平和的にやりたい。
【原】






わかった。自分の考えと全く同じである。
すなわち英米との衝突はできるだけ避ける。この点については政府と統帥部とは意見一致していると思う。
ソ連に対してはできるだけ早く討とうということに軍部・政府に希望をいたします。
ソ連はこれを壊滅せしむべきものである。
以上の趣旨により本日の提案に賛成である。
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 最後の原枢密院議長の要請はソビエトとの戦争の準備を計画していた陸軍に弾みをつけることになった。
 こうして独ソ戦争後の国策は起案からわずか十日間で御前会議で決断されたのであった。
kase

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加瀬俊一氏談】
御前会議っていうものは、大本営政府連絡会議が決定したものを、それでは御前会議で正式の国策にいたしましょうということになると、何月何日御前会議を開きたいという。そして陛下のお許しを得て開く。

その連絡会議の決定というものは、その直前ぐらいに宮中に回るんですね。連絡会議の決定だけでは、それだけの権威は持っていないわけですね。
政府と軍部の関係大臣が集まって、一つの決定をしたという。
やっぱり陛下が親臨された場でね、可決されれば、これはもう不動の国策になったという形ですね。
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 当時の明治憲法では主権者である天皇の大権のもと、国務をつかさどる政府と、統帥、つまり軍隊の動員・作戦は制度上明確に分けられていた。
 政府は統帥については全く立ち入ることができなかった

 日中戦争以後、統帥の最高機関として大本営が設置され、国策は政府の要求で設けられた大本営政府連絡会議で事実上決められた。
 しかし、開戦など戦争をめぐる重要な国策は、さらに天皇が出席した御前会議に諮られる慣習になっていた。

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【石井秋穂氏談】
それは御前会議というのは、これはもうなかなか簡単にそれを変えることはできない。実行せにゃいけん。
そういうことは昔から基本的にそうした習慣になっとって、非常に強いものです。事実上大きな権威を持っております。
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 7月2日の御前会議決定を受け、軍部は直ちに国策を実行に移した。

 北方のソビエトに対しては演習を名目に国境を接する満州に70万人を超える兵力を大動員した
 独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。
 しかし、ほどなく独ソ戦争が膠着状態となり、この計画は中止された。

 一方、南方については南部仏印への進駐が実行された。
 南部仏印一帯はアメリカにとっても重要な戦略拠点であった。
 日本の進出を東南アジア一帯を支配する計画的な一歩ととらえたアメリカは日本に対し強い懸念を抱いていたのであった。

 アメリカは日本への警告として、まず日本の在米資産の凍結を実施。
 アメリカでの日本の経済活動をすべてアメリカ政府の管理下に置いた。そして日本の進駐を確認した上で、石油の対日輸出禁止という強硬策を打ち出した。

 当時日本はアメリカに石油の75%を依存していた。アメリカ政府は日本の南部仏印進駐がアメリカの安全保障にとって死活的な問題であると言明し、初めて軍事上の脅威であるという認識を示した。

 アメリカの強硬策は南方進出を強く主張した海軍に大きな衝撃を与えた。
 海軍省軍務局の高田利種課長は戦後こう証言している。


..
【高田利種氏談(録音テープ)
南仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったです。
そして私も南部仏印まではいいと思っていたんです。よかろうと思っていたんです。根拠のない確信でした。
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私はだれからも、外務省の意見も聞いたわけではない。
何となくみんなそう思っていたんじゃないですか。南部仏印ぐらいまではよかろうと。これは申しわけないです。申しわけなかったですよ・・・
..

 

 近衛首相は思わぬ事態の進展に驚いた。そして直ちにルーズベルト大統領との首脳会談を提唱し、危機的な日米関係の打開を図ろうとした。

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【牛場友彦氏談】

・・・アメリカとの交渉の結果、シナの撤兵をやめなきゃもう会談は実現しないと思ってましたからね。
近衛さんはシナの撤兵を東条をつかまえて何遍議論しましたかね・・・
東条は絶対に言うこときかない。
及川海相も応援してくれたんですけど絶対だめでした。
これは(シナは)日本軍の心臓だって言うんです。
絶対撤兵は許さないという・・・
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 当時アメリカは日本の大陸政策を厳しく批判していた。
 昭和16年の4月以来続けられていた日米交渉においても国務長官ハルは絶えず日本に厳しい要求を突きつけていた。日本の野村吉三郎大使は苦しい交渉を強いられた。



 一連の交渉に際し、アメリカ側が繰り返し主張していた原則がある。いわゆる四原則である。
 それは第1に他国の領土保全と主権の尊重。
 第2に他国の内政への不干渉。
 第3に通商上の機会均等。この3つは中国大陸での日本の行動を牽制するものであった。
 そして第4に太平洋の現状維持。
 これは東南アジアでの日本の行動への懸念を表明したものであった。

 それまでソビエトを戦争の相手と考えてきた参謀本部はアメリカの強硬な対応に激しく動揺した。参謀本部の「機密戦争日誌」は、「対英米戦を決意すべきや、この苦悩連綿として尽きず」と記している。
 この苦悩は巨大な国力を誇るアメリカを前にしたおびえでもある。

 アメリカの国力を軍部はどう認識していたのか。
 参謀本部からアメリカの国力調査に派遣された一人の軍人の資料が最近研究者の手で明らかにされた。

 参謀総長杉山元が出した辞令には「対米諜報ヲ命ズ」と記されている。任務を命ぜられたのは陸軍主計大佐新庄健吉であった。

 新庄健吉が任務についたのはニューヨークである。
 新庄は活動の舞台を三井物産ニューヨーク支店に選んだ。当時エンパイアステートビルの7階にあった三井物産。新庄は物産の社員を装って諜報活動に専念していった。
 当時三井物産はアメリカに最大のネットワークを誇る日本の企業で、新庄はその情報量をフルに活用した。新庄はこうした企業や軍の情報をもとに当時のアメリカの国力を徹底的に調査していったのである。
 当時既に世界一の工業生産力を誇っていたアメリカは民主主義陣営の兵器工場を自認していた。そして全米の工場をフル操業させて生産を続け、ドイツや日本と戦うイギリスや中国に対し武器を送り続けていた。新庄健吉がアメリカで調査した内容を伝える文書が残されていた。そこにはアメリカの工業生産の実態が細かく記され、日本の国力はアメリカの20分の1という結論であった。

...
【古崎 博氏談】 元三井物産社員
戦争したら20対1の戦力は厳然として太平洋の上に残る。
太平洋での戦争は機械の戦争ですから5%のこっちの損失に対して、アメリカの損失を100%にしなければ、そのバランスはずっととれていけないわけですね。
これは実際問題として、それは新庄さんもよく言ってらっしゃいましたけども、まあ戦争すりゃ大体五分五分だよと。
だから5%こっちが損害があれば向こうさんにも5%損害があると。
それが続いていったら日本はゼロになるし、向こうはいつまでたっても100だと。
それはもう明らかに、数学の計算上そうなるじゃないかと。
戦争は絶望的に勝つ見込みがないなというのが新庄さんの結論でした。
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 東京の陸軍省でも秘密裏に日米の国力調査が行われていた。調査を担当したのは陸軍省戦争経済研究班。ここには多くの民間の学者も加わっていた。責任者は秋丸次朗中佐であった。

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【秋丸次朗氏談】
大体、1対20という、1対20というような見当ですかね。
我々の調査も、新庄さんの調査も合わせて考えて、そして、その戦争指導班にいろいろと意見を述べたんですけどね。
いる人はみんな居眠りしとったです。聞いていない。
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 資産凍結石油禁輸という事態を受けて日本では感情的な主戦論が台頭し、急速に戦争の機運が高まっていった。
 陸軍の石井中佐も新たな国策の立案を急いでいた。

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【石井秋穂氏談】
資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。どうしようかと・・・
夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。
そして、もう一滴の油も来なくなりました。
それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した
もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。
..

 しかし新たな国策の原案は海軍から先に提出された。

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【石井秋穂氏談】
わしが、もうつくらにゃいかんから書きましょうかと(国策を)軍務局長に言ったらね、武藤さん(武藤軍務局長は、「いや、南のことはね、どうしても海軍に口を切らせにゃいかんから待っとれ」。

それからじっと待っていたらとったら、こっちからだれも要求しないけど、やっぱり海軍が自分で出した。
そりゃ南のほうの戦は海軍が主ですからね、責任をやっぱり感じちょったのかと、と思うった。
それを書いたのは藤井ですよ。
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 海軍で国策の立案に当たった藤井茂。
 藤井日誌には石油禁輸を受けた二日後の8月3日に原案を書き、局長の同意を得たと記されている
 しかし陸軍は対米戦争の決意が明記されていないと、海軍案に反発した。

 戦争準備を急いでいた陸軍は国の最高方針として戦争決意を固めることを求めた。

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【石井秋穂氏談】
問題ちゅうのはね、それでいけなかったときにはね、えーと、9月末にね、最後的、最後的措置を講ずと。
どうするの、わからん。だってそう書いてある。
最後的措置を講ずると、戦争に訴えるというような意味に、正直に書いた。
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 陸軍によって戦争決意が明記された国策案は直ちに部局長会議に上げられた。しかし海軍は戦争決意の表明に難色を示した。
 陸軍案は当初、「戦争を決意し・・・」と明記。
 しかし海軍首脳がそれに反対したため結局、「戦争を辞せざる決意のもとに」という海軍案で落ちついた。
 戦争決意という重大な問題が文章上の表現をめぐる議論に終始したのである。

 この国策に軍部は重要な項目を追加した。
 南方地域の天候、石油の事情など、作戦上の理由からアメリカなどとの外交交渉に10月上旬という期限をつけることを要望したのである

 こうして資産凍結という新たな事態に即した国策、「帝国国策遂行要領」がまとまった。
 第1項には、「帝国は自存自衛を全うするため対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとにおおむね10月下旬を目途とし戦争準備を完成す」と記され、戦争の決意が示された。
 第2項に、「帝国は右に並行して米英に対し、外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む」と第1項の戦争決意の後に外交交渉の努力が記された。さらに軍部の主張どおり外交の交渉期限は10月上旬と明記されたのであった。

 この新たな国策は9月3日、たった1回の大本営政府連絡会議で合意された。
 大本営政府連絡会議から2日後の9月5日、天皇の要望により参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身が国策の内容を上奏した。

 このとき天皇は第1項に戦争決意第2項に外交努力を記した国策に対し、なるべく平和的に外交でやれと強調した

 杉山は天皇の質問に対し、南方上陸作戦を説明した。
 すると天皇は怒りをあらわにして、絶対に勝てるかという言葉を杉山に投げかけた。
 杉山はそれに対し、絶対とは言えぬが見込みはあると述べている。

 天皇は9月6日、御前会議の直前に内大臣木戸幸一を呼び、きょうの御前会議で質問したいと述べた。
 それに対し木戸は、会議の最後に外交が成功するように協力すべしと軍部に警告するように進言している。

 昭和16年9月6日、この年2回目の御前会議が開かれた。
 「対米戦争の決意」という重大な問題をめぐる国策を議題とした御前会議であった




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【原】



今日はどこまでも外交打開に努め、それで行かぬときは戦争をやらなければならぬとの意と思う。
戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力して万やむを得ないときに戦争をするものと解釈する
【及川】
  海軍大臣



書いた気持ちは原議長と同じであります。
帝国政府としては事実において日米国交は今日まで努めているところである。現在の事態に直面し、やむなきときは辞せざる決意をもってやるということを取り上げて書いたのである。
第1項の戦争準備と、第2項の外交とは軽重はない。
【原】







本案は政府と統帥部の連絡会議で定まりしことゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと同じと信じて自分は安心いたしました。
戦争決意につきましては、慎重審議せられるということですが、殊勝の努力がついに行われなかったときには、いよいよ戦争という最悪の場合となる。
そうなると統帥部の言うように戦争決意をせざるを得ない。
この戦争決意は慎重に審議するというから、これ以上質問をしない。
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 御前会議議事録によると質疑は短く終わった。
 しかしこの後、極めて異例のことが起きた。
 天皇が初めて御前会議で発言したのである。
 御下問つづりによると、杉山・永野両統帥部長に質問するという形で天皇は発言した。 天皇は、明治天皇の歌を詠み、感想を求めたのであった。

 天皇が詠んだ「四方の海みなはらからと思う世になど荒波の立ち騒ぐらむ」という歌は明治天皇が日露戦争の際に詠んだもので、軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だとされている。
 その意味で、昭和天皇も戦争に対し疑問を呈したと言われている。

 後に近衛首相は手記の中で、9月6日の御前会議は未曾有の緊張のうちに終わったと述べている。

 会議に出席していた企画院総裁鈴木貞一はこの日の御前会議をめぐり近衛首相と次のような会話を交わしたと証言している。

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【鈴木貞一氏談】(録音テープ)
私がその問題で近衛さんと話したときに近衛さんはだ、「いや、そりゃまだその政府としては決定しないと。最後の戦争をするかしないかというものは、御聖断によって決めなくちゃいかんとか。だから軍はだ、大いに戦争を主張するというのも、それは何もその、今は別にそうするんじゃないと。
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自分の意思ははっきり言うと、こういうことなんですかね。
だから政府としてはね、何も決めていないんです。
けれどもその、統帥部はこれでもう戦争に行く下地ができたと、こう考えたわけですね。(発言のママ
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 政府が干渉できない統帥権のもと、参謀本部は直ちに軍隊の動員を命じ、ひそかに南方に作戦部隊を集結していった。

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【牛場友彦氏談】
僕はね、近衛さんがもっと、もうだれが反対しようと天皇に会って、ほんとうに気持ちを、ぶちあけたらどうだと・・
統帥権というものを何とか一時中止にさせてもらう
何で(戦争を)やめさすことはできないか、そういうことを言うべきだったと思うですね。
近衛さんに言う勇気がなかったとすりゃ、その点だけですよ、私の不満は。
どうしても、天皇陛下にお会いして、統帥権というものを何とかしなきゃね。とにかく日本に内閣が二つ、政治するところが二つあるんですからね(政務統帥)。

いかに内閣総理大臣がこうしようと言っても統帥権でそれはだめだ。
軍がこうすると言えば、絶対に通るんですからね・・・。

陛下も戦争をやらない気があるのなら、歌を詠まれるかわりに戦争はやめようと一言言われれりゃ、それきりなんですがね・・・。
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 アメリカ・ワイオミング州キャスパー。
ここに天皇が御前会議について率直に述べた貴重な資料が残されている。マリコ・テラサキ・ミラーさんが保管している、いわゆる昭和天皇独白録)である。

 天皇の言葉を書き記したのは戦後天皇の御用掛を務めた寺崎英成である。
 この資料は昭和21年3月から4月にかけて5回にわたって天皇が側近に語った言葉を記したものである。

 天皇は「御前会議というものはおかしなもので、全く形式的なものであり、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」と述べている。
 さらに大本営政府連絡会議という仕組みに欠陥があったとしている。

 「四方の海……」という明治天皇の歌を詠んだ9月6日の御前会議を「実に厄介な会議だった」と述べている。

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【石井秋穂氏談】
天皇陛下が第1項に戦争が書いてある。
第2項に外交が書いてあると言っている。
で、あれがご機嫌が悪いわけね。ところが第1項に戦争を書いたのはわしですよ
それだからわしは、大東亜戦争といえばすぐさま、あの四方の海を思い出します。今でもそうです。

大東亜戦争って、負けた、負け戦だったけど、それよりも先にあの、四方の海を思い出します。
それやから、わしはあの政策には十分責任がありますよ。
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 御前会議の終わった9月6日の夜、近衛首相は駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談した。

 外交交渉に期限をつけられた近衛首相は時間が切迫していることを強調し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。
 事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打った。
 国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。

 当時国務省の対日政策に大きな影響力を持っていたのは、顧問のスタンレー・ホーンベックであった。ホーンベックは国務省の中国通であったが、日本に関する知識は乏しかった。

 スタンフォード大学にホーンベックの膨大な資料が残されている。
 これらの資料から当時の彼の対日認識を知ることができる。
 ホーンベックは頻繁にハル国務長官に意見を具申しており、長官にあてて提出した覚書が多数残されている。

 ホーンベックは近衛首相のもとで日中戦争が始まり、三国同盟が結ばれ、南部仏印進駐が行われたとして近衛に対し不信感をあらわにし、その責任を追及している


 ハル長官もこうしたホーンベックの意見に同調し、首脳会談には消極的であった
 しかし、東京のグルー大使は繰り返し首脳会談の実現を訴えた。

 グルーは、日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいていると述べ、首脳会談が危機打開の最後のチャンスだと訴えた。

 しかし、ホーンベックはグルーの意見に反論。
 断固たる態度こそ日本を抑えることができるとし、妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと主張した。
 
 こうして10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した
 日本の陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断した。


 当時参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。機密戦争日誌には、「外交の目途なし、速やかに開戦決意の御前会議を奏請するを要す」と記されている。

 急速に対米戦争の機運が高まる中で、長期戦となる公算が強い戦争に海軍上層部の間で疑問の声が上がり始めていた。
 当時の海軍次官、沢本頼雄の手記が、そのときの海軍上層部の考えを記録している。
 10月6日、幹部会談の記録。
 海軍上層部が中国の撤兵問題のみで日米戦うはばかげたことという点では共通の認識を持っていたことがわかる。
 しかしこの席で及川海軍大臣陸軍とけんかしてでも戦争に反対することを主張したのに対し、永野軍令部総長が、「それはどうかね」と反対し、海軍大臣の決意に水を差したことが記されている。

 外交交渉の期限もいよいよ迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衛首相は政府の重要閣僚を自宅に呼び、対米戦争への対応を協議した。
 いわゆる荻外荘会談である。

 この会談では9月6日御前会議決定の国策が問題となった。




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【及川】



外交で進むか、戦争の手段によるかの岐路に立つ。
期日は切迫しておる。その決断は総理が判断してなすべきものである。
もし外交でやり、戦争をやめるならばそれでもよろしい。
【東条】






問題はそう簡単にはいかない。
御前会議決定により兵を動かしつつあるものにして、今の外交は普通の外交と違う。
日本では統帥は国務の圏外にある
総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可能である
政府と統帥部の意見が合い、御聖断を必要とする。
軍のやっている基準は御前会議決定によっておるのだ
【豊田】

遠慮ない話を許されるならば、御前会議の決定は軽率だった
前々日に書類をもらってやった
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【近衛】

今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。
戦争に私は自信はない自信ある人にやってもらわねばならん
【東条】



これは意外だ。戦争に自信がないとはなんですか。
それは国策遂行要領を決定するときに論ずべき問題でしょう。なお、細部について言えば、駐兵問題(中国)は陸軍としては一歩も譲ることはできない
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 外交交渉に行き詰まった近衛首相は開戦にも踏み切れず、ついに政権を投げ出した。軍部に押し切られ、最後まで政治的主導権を握れずに終わったのである。
 新しく首相に任命されたのは対米強行派の東条陸軍大臣であった。


 海軍大臣は島田繁太郎。島田は艦隊勤務が長く、中央の情勢に疎かった。
 外務大臣は東郷茂徳
 東郷外交交渉の継続を条件に入閣した

 東条内閣の成立は陸軍でも驚きをもって迎えられた。

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【石井秋穂氏談】
東条さんになるということは予想しなかった。

東条さんはおしかりを受ける。総理大臣にだれかがなってね、それで東条さんにね、駐兵をもう断念して、みんなの意見を聞け。
残念だろうけどもこらえとけ、というお言葉が出ると思って信じておった。
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 東条内閣には「9月6日御前会議の決定にとらわれることなく、内外の情勢を再検討するように」という天皇の意向が木戸内大臣から伝えられた。

 東条陸軍大臣を首相に推薦したのは木戸内大臣であった
 企画院総裁鈴木貞一も東条内閣誕生に深くかかわりを持った
 東条を首相に推薦したねらいを戦後こう証言している。
 
   左 木戸内大臣

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【鈴木貞一氏談】(録音テープ)
東条さんをやったのは、陛下がご発言になって、それはやっちゃいかんと。陸軍は非常にあれだろうけれども、とにかくシナから撤兵をしてアメリカと仲よくなるのを……。だけど交渉だけするようにしなさいということを一言おっしゃっていただいてね。そうすりゃこれはね、東条という人は非常にああいう忠誠心の強い人だから、もう断じてこれ抵抗しませんよ。
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 天皇も東条内閣について言葉を残している。
 いわゆる天皇独白録では、「組閣の際に条件さえつけておけば陸軍を抑えて順調に事を運んでいくだろうと思った」という言葉が記されている。天皇は東条を信頼していたと言われる。東条は天皇への忠誠心が強く、きめ細かく天皇に上奏したからだとされている。

 東条首相は9月6日御前会議で決定された国策の再検討のため、大本営政府連絡会議を開いた。会議は8日間にわたった。
 再検討はヨーロッパ情勢、作戦の見通しなど多岐にわたったが、中でも国力の判断がその中心の課題であった。

 事務方としてこの再検討に携わった元陸軍大佐中原茂敏
 彼は陸軍省資材班長として国力判断を担当していた。
 当時国力判断の基礎となるのは船舶の保有量であった。
 国力の維持には南方から船でいかに資源を運ぶかが重要なかぎとなったからである。そのため再検討は敵の攻撃による船の沈没予想量を海軍が出すことから始まった。

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【中原茂敏氏談】
最初出てきた予想量では、ものすごく沈むんですよ。つくるほうもあんまり大したことない。
これじゃ初めから戦争できんじゃないかと言いましたらね、いやいやと言っていうことで一晩待って出てきたのがあの表なんですよ。
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 海軍が提示した船の沈没予想量である。
 1年目は80万トン。2年目は60万トン。3年目は70万トンと、横ばいのまま推移するとされた。
 一方造船量は次第に増加し、3年目には沈没量を超えると楽観的に予想されていた。
 しかし実際に戦争が始まると沈没量は予想をはるかに上回り、造船量も思うように伸びなかった。そのため国力維持が全く不可能になるというずさんな計画であった。

 さらに作戦時期にこだわる軍部は国策再検討を急がせていた。
 連絡会議議事録には「4日も5日もかけてやるのは不可、早くやれ、簡明にやられたし」という軍部の要望が記録されている。

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【中原茂敏氏談】
だから両総長は、私なんか8日間缶詰でやっとるときに、時々あらわれて、「いつまで議論しとるんだ」と。海軍は永野さん。陸軍は杉山さんですよ。
だから僕はあっちのほうには再検討のご命令がなかったと、そのときはなかった。陛下のご心配も国力がついていくかどうか。それに伴って戦力もついていくかどうかをもう一回再検討を、白紙還元しなさいと・・・こういうことだったですね。
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 再検討が進む一方で島田海軍大臣は開戦を決意した。
 沢本海軍次官の手記には10月30日島田海軍大臣が決意表明したことが記されている。
 島田は、自分は突然場末から飛び込み、いまだ中央の情勢はわからずも空気からして容易に事態は挽回できず戦争を決意すると述べたとされている。

 11月1日、再検討の結論を出すべく最後の連絡会議が開かれた。
 会議は17時間に及び、この席で鈴木企画院総裁国力判断について企画院としての結論を出した。

 連絡会議議事録には、「物的には不利のように考えているようだが心配はない、物の関係は戦争したほうがよくなるという鈴木総裁の言葉が記されている。

 しかし会議の最後の段階で東郷外務大臣危機的な日米関係を打開する外交の切り札を提案した。
 東郷外務大臣の提案は乙案と呼ばれる日本の妥協案であった。

 この案は交渉の議題を南方に絞り、南部仏印からの日本軍の撤退という画期的な内容を含んでいた。
 撤退により資産凍結以前の日米関係に戻すことが、そのねらいであった。
 軍部は東郷外務大臣の辞職をおそれ、しぶしぶ乙案を認め外交交渉を続けることに同意した。

 しかし、戦争決意が明確に打ち出され、結果的には国策の再検討はできずに連絡会議は終わった。

 連絡会議の結果、新たな帝国国策遂行要領が合意された。
 そこでは戦争を決意し武力発動の時期12月上旬と明記された。
 しかし12月1日までに交渉が成功すれば武力発動は中止することも最後に盛り込まれたのであった。

 国策の再検討終了後、ただちに天皇への上奏が行なわれた。
 天皇はこの時開戦の大義名分について東条に問いただしている。戦争機密日誌はこの時の天皇の様子を「お上はすでにご決意あそばされあるものと拝察する。安堵す」と記してある。
 
 昭和16年11月5日、宮中東一の間において開戦の決意を固める御前会議が開かれた。
 この年3回目の御前会議である。


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【原】

本日決定の御前会議の議題は9月6日の御前会議の決定の延長である
9月6日の決定は第1に日米交渉の進展に関することであったが、これが妥協を見ざるは遺憾である。
交渉の内容については、余は全然承知しあらず
本日までに提示されているこの文書だけではわからん。
まずもってどういう点が本案の成立前までにできたかということを外相に伺いたい。
【東郷】







欧州の戦争に対する両国の態度に関しては、拡大を防止する点は大体一致している。
日中の和平問題に関しては、駐兵問題において一致せず、アメリカ側は全面撤退の声明をなすべきと主張し、日本はこれに応ぜられぬ。
太平洋の政治問題は双方ともに武力進出をせざることにしあり。
これについては仏印の撤兵問題であって、これは話はついていない。


【原】









本日のご説明によると、前回と今日とアメリカの態度は何ら変化なく、今日はかえってますます横暴をきわめておる。
したがって本交渉も望み薄と見て甚だ遺憾に思う。
しかし、アメリカの言うことをそのままに受け入れることは国内情勢から見ても、また国の自存から見ても不可能であって、日本の立場を固守せねばならぬ。
今をおいて戦機を逸してはアメリカに対し開戦を決意するもやむなきものと認める。
初期作戦はよいのであるが、先になると困難も増すが何とか見込みあると言うのでこれを信ずる。
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 東条首相に国策の再検討を命じた天皇は、この日の御前会議では慣例に従い何も発言しなかった。


 アメリカに対しては乙案が提示され、交渉継続の意思が伝えられた。
 ワシントンの大使館には交渉期限11月25日と打電された。

 アメリカは南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討を始めた。
 アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲンソー財務長官であった。
 国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわらない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。

 暫定協定案では日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力を2万5,000人にとどめれば資産凍結を緩和し、民間用の石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。
 

 ハル国務長官は中国イギリスなどの大使を呼び暫定協定案を提示し理解を求めた。
 しかし中国の胡適駐米大使が猛然と反発。直ちに本国の蒋介石に暫定協定案の内容を送った。

 重慶の蒋介石はアメリカが中国を犠牲に日本と取引をするのではないかと激しく動揺した。そして夫人の宋美齢とともにアメリカ政府の説得を試みた。

 ワシントンでは宋美齢の兄の宋子文が胡適大使とともに説得工作に当たった。宋子文はアメリカの大学で学び、アメリカ政府に知己が多かった。
 このとき、蒋介石が出した秘密電報が台湾に残されている。



 かつて蒋介石が住んだ陽明山。
 ここに蒋介石の資料が多数納められている。今回初めて公表された蒋介石の機密電報。
 アメリカが暫定協定案を取り下げるようワシントンの中国大使館に説得工作を指示した電報である。

 宋子文あてに出された電報。
 宋子文には陸・海軍の長官を説得するように指示している。

 この電報には「日本に対する石油禁輸と資産凍結を緩和すれば、中国人民はアメリカが中国を犠牲にして日本と取引したと受け取らざるを得ない。4年半に及ぶ我々の多大の犠牲と、史上類を見ない破壊を伴った日本との戦いはむだに終わるであろう」と記されている。

 一方、胡適大使にあてた電報ではハル国務長官を説得するように指示している。
 ここでは「今妥協すると、中国はかつてチェコスロバキアやポーランドがドイツの犠牲にされたのと同じ災難をこうむる」と訴えている。

 中国側は繰り返しアメリカ政府への説得を試みた。
 ハル国務長官は洪水のごとく大量の電報が寄せられたと後に述べている。


 中国の反対は功を奏し、ハル長官はルーズベルト大統領あてに、中国政府の反対により「暫定協定案の提出は留保する」という意見書を提出するに至った。

 さらに陸軍長官から日本軍が南方へ移動中との情報も入り、ルーズベルト大統領は暫定協定案の放棄を決断したのであった。

 11月26日、アメリカは従来の四原則に加え、さらに厳しく中国・インドシナからの全面的な撤兵を要求した、いわゆる「ハルノート」を日本に提示した。
 事実上の最後通告であった






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【石井秋穂氏談】
和解となればね、あのときは日本はシナから撤退せにゃいけなくなりますね。
それでわしは考えたんですがね、シナから撤退となると満州を含む。
それにもかかわらず賛成する人があろうかと・・・・

おったらそれはほんとの平和主義者か。
そういう人がずっと上の人から、下のほうの幹部に至るまで、だれかおるだろうかと考えたら、おらん、だれも。

・・・理論的に申せばどれもこれもみな問題はあったことになりますけどね・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(しばし沈黙の後)
それを正直に申せばね・・・・・
・・・・・侵略思想があったんですね。
ええ。それで、限りなくね、あっちこっち、これが済んだら今度はこれというふうに、侵略思想があったんですよね、もとは・・・
そういうことになりましょうね・・・
..


 中国からの全面撤退を求めた「ハルノート」を日本政府は拒否、外交交渉は終わった。
 陸軍参謀本部は、こう情勢判断した。
 「これにて開戦決意は踏み切り容易」。

 また、当時の天皇の様子について陸軍の機密戦争日誌には、「お上も十分納得あそばされたるがごとし」と記されている。

 昭和16年12月1日開戦を決断する御前会議が開かれた。

 この日、初めて政府の全閣僚が出席し、会議の冒頭、東条首相は、自存自衛を全うするため、やむなく開戦に至ったと説明した。

 会議は2時間で終わり、太平洋戦争開戦は決断された。


 12月8日、日本は真珠湾を攻撃。
 およそ3年9カ月に及ぶ太平洋戦争に突入していった。

 昭和16年に開かれた4回の御前会議。その合わせて10時間余りの会議が、その後の日本の運命を大きく変えたのであった。


エンディング タイトル
 資料提供
    防衛庁防衛研究所
    外務省外交資料館
    財団法人 陽明文庫
    亜東関係協会
    大渓 案館
    アメリカ国立公文書館
    アメリカ議会図書館
    フランクリン・D・ルーズベルト図書館
    ハーバード大学ホートン図書館
    スタンフォード大学フーバー研究所
-了-

以上 NHKスペシャル 「御前会議」画面より転写 
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日米開戦への御前会議
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開催日 (昭和16年7月〜12月) 御前会議
7月2日 日 独ソ戦ドイツ勝利を前提  独ソ戦争後の国策
   情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 陸軍:対ソ戦準備 海軍:南仏印進駐
9月6日 米 対日石油禁輸 在米資産凍結  対米戦争の決意をめぐる国策
11月5日 米 日米首脳会談拒否  開戦の決意を固める御前会議
12月1日  11月26日 ハルノート  開戦を決断する御前会議

12月8日 日米開戦
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ミズーリ艦上における降伏調印に外務省随員として出席 (右より三人目)
写真秘録 『東京裁判』 講談社 1983年5月28日第1刷 裏表紙より
写真秘録 『東京裁判』 講談社 1983年5月28日第1刷 裏表紙より