○ | NHKスペシャル 「御前会議」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
太平洋戦争開戦はこうして決められた | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
戦災で焼けたかつての明治宮殿。 御前会議はその東一の間で開かれた。 昭和16年の7月から12月にかけて、この部屋で4回の御前会議が開かれた。 日本はその4回の御前会議で太平洋戦争の開戦を決断したのである。 しかし当時国民は御前会議の存在さえ知ることはなかった。 開戦をめぐる御前会議は終戦後の東京裁判で初めて国民の知ることとなった。 天皇の側近だった内大臣木戸幸一は、法廷で御前会議の複雑な実態を初めて証言した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
防衛庁防衛研究所。 ここに昭和16年の御前会議をめぐる重要な資料が残されている。 御前会議議事録である。 この資料は東京裁判中は関係者の手で隠され、連合国側の目に触れることはなかった。 御前会議とは果たしてどのような会議だったのか。 その実像を知る手がかりは今なお限られている。 昭和16年12月1日の太平洋戦争開戦を決めた御前会議の議事録。 4回の御前会議はどのような経緯で開かれ、太平洋戦争の開戦はどのように決められていったのであろうか。 独が決められた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
御前会議に諮られる国の最高政策の原案を書いた元陸軍軍人が今も健在である。山口県宇部市に住む石井秋穂氏である。 当時、陸軍大臣東条英機の側近であった石井氏は国策、つまり戦争にかかわる国の政策の立案を任務としていた。石井氏はみずからかかわった国策の立案と、その国策が御前会議で決定されていったいきさつについて初めて語った。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和16年、日中戦争は既に4年近く続き、日本はその打開に苦しんでいた。 中国を支援するイギリス・アメリカとの対立は深まる一方であった。そうした中で、重慶に追い込んだ蒋介石の国民政府への攻撃が続けられていた。 一方ヨーロッパでも、昭和16年6月、ヨーロッパ各地を席巻していたドイツが突如ソビエトに侵攻、独ソ戦争が始まった。 ドイツ・イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、極めて重大な岐路に立たされたのであった。 御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。 陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。 陸軍の参謀本部が日々の行動を記録した機密戦争日誌。 今回初めて撮影が許されたこの資料は、御前会議に至る陸軍を中心とした国策立案の経緯と、当時の陸軍の情勢判断を伝えている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
藤井茂がつづっていた日誌。 この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。 この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。 従来からの海軍の主張を、独ソ戦争を契機に実行しようというもくろみであった。 原案には、「歴史に残る大文章なり」と記され、藤井の興奮を伝えている。 当時海軍が進出をもくろんだ南方とは、今の南部ベトナム、当時のフランス領インドシナであった。 そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
二人は陸軍と海軍で戦争にかかわる国策の立案に携わり、連絡をとりながら国策をまとめていった。 当時国策は次のように決められた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
既に日中戦争によって戦時態勢にあった日本の国策とは、戦争をめぐる国の最高政策である。 そのため、原案は陸海軍の中堅官僚によって起案され、調整を経て陸海軍の部局長会議に上げられた。 その後、大本営と政府との連絡会議に諮られ、ここで合意に至ると国策として事実上決定された。 しかし、太平洋戦争開戦のような国策については御前会議が開かれ、天皇を前にした会議で天皇が納得したという形がとられたのであった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
起案から二日後、直ちに首相官邸で政府と軍部との会議が開かれた。 会議は三日間に及び、当時の松岡外務大臣は南方進出に反対し、ソビエトとの開戦を主張した。 この松岡外務大臣の開戦の主張は会議では採択されず、軍隊を国境地帯に動員し、ソビエトとの戦争を準備するという結論に落ちついた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
こうして独ソ戦争後の新しい国策が決められた。 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」である。 この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外務大臣と陸軍が主張した対ソ戦準備という、二正面での作戦展開であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
南方進出について軍部は事前に天皇に報告している。いわゆる上奏である。 上奏は陸軍参謀総長杉山元、海軍軍令部総長永野修身が行なった。 この上奏に天皇がどう答えたか。 防衛庁に残る「御下問つづり」に天皇の言葉が記録されている。 天皇は、「国際信義上どうかと思うが、まあよろしい」という言葉を残している。 昭和16年7月2日、宮中、東一の間において独ソ戦争後の国策を議題とした御前会議が開かれた。 主な出席者は陸軍参謀総長杉山元、海軍軍令部総長永野修身、総理大臣近衛文麿、陸軍大臣東条英機、海軍大臣及川古志郎、外務大臣松岡洋右、企画院総裁鈴木貞一、そうして枢密院議長原嘉道であった。 原は発言しない慣習になっている天皇にかわり疑問点を質問し、意見を述べる役割を担っていた。 議題は事前に合意されており、会議の議論は形式的なものであった。しかし、ここで決められた国策は国家の不動の意思となった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
海軍軍令部総長 永野修身 |
総理大臣 近衛文麿 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
陸軍大臣 東条英機 |
海軍大臣 及川古志郎 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
外務大臣 松岡洋右 |
企画院総裁 鈴木貞一 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
枢密院議長 原嘉道 |
陸軍参謀総長 杉山元 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
最後の原枢密院議長の要請はソビエトとの戦争の準備を計画していた陸軍に弾みをつけることになった。 こうして独ソ戦争後の国策は起案からわずか十日間で御前会議で決断されたのであった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
kase | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
当時の明治憲法では主権者である天皇の大権のもと、国務をつかさどる政府と、統帥、つまり軍隊の動員・作戦は制度上明確に分けられていた。 政府は統帥については全く立ち入ることができなかった。 日中戦争以後、統帥の最高機関として大本営が設置され、国策は政府の要求で設けられた大本営政府連絡会議で事実上決められた。 しかし、開戦など戦争をめぐる重要な国策は、さらに天皇が出席した御前会議に諮られる慣習になっていた。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
7月2日の御前会議決定を受け、軍部は直ちに国策を実行に移した。 北方のソビエトに対しては演習を名目に国境を接する満州に70万人を超える兵力を大動員した。 独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。 しかし、ほどなく独ソ戦争が膠着状態となり、この計画は中止された。 一方、南方については南部仏印への進駐が実行された。 南部仏印一帯はアメリカにとっても重要な戦略拠点であった。 日本の進出を東南アジア一帯を支配する計画的な一歩ととらえたアメリカは日本に対し強い懸念を抱いていたのであった。 アメリカは日本への警告として、まず日本の在米資産の凍結を実施。 アメリカでの日本の経済活動をすべてアメリカ政府の管理下に置いた。そして日本の進駐を確認した上で、石油の対日輸出禁止という強硬策を打ち出した。 当時日本はアメリカに石油の75%を依存していた。アメリカ政府は日本の南部仏印進駐がアメリカの安全保障にとって死活的な問題であると言明し、初めて軍事上の脅威であるという認識を示した。 アメリカの強硬策は南方進出を強く主張した海軍に大きな衝撃を与えた。 海軍省軍務局の高田利種課長は戦後こう証言している。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
近衛首相は思わぬ事態の進展に驚いた。そして直ちにルーズベルト大統領との首脳会談を提唱し、危機的な日米関係の打開を図ろうとした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
当時アメリカは日本の大陸政策を厳しく批判していた。 昭和16年の4月以来続けられていた日米交渉においても国務長官ハルは絶えず日本に厳しい要求を突きつけていた。日本の野村吉三郎大使は苦しい交渉を強いられた。
それまでソビエトを戦争の相手と考えてきた参謀本部はアメリカの強硬な対応に激しく動揺した。参謀本部の「機密戦争日誌」は、「対英米戦を決意すべきや、この苦悩連綿として尽きず」と記している。 この苦悩は巨大な国力を誇るアメリカを前にしたおびえでもある。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
アメリカの国力を軍部はどう認識していたのか。 参謀本部からアメリカの国力調査に派遣された一人の軍人の資料が最近研究者の手で明らかにされた。 参謀総長杉山元が出した辞令には「対米諜報ヲ命ズ」と記されている。任務を命ぜられたのは陸軍主計大佐新庄健吉であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
新庄健吉が任務についたのはニューヨークである。 新庄は活動の舞台を三井物産ニューヨーク支店に選んだ。当時エンパイアステートビルの7階にあった三井物産。新庄は物産の社員を装って諜報活動に専念していった。 当時三井物産はアメリカに最大のネットワークを誇る日本の企業で、新庄はその情報量をフルに活用した。新庄はこうした企業や軍の情報をもとに当時のアメリカの国力を徹底的に調査していったのである。 当時既に世界一の工業生産力を誇っていたアメリカは民主主義陣営の兵器工場を自認していた。そして全米の工場をフル操業させて生産を続け、ドイツや日本と戦うイギリスや中国に対し武器を送り続けていた。新庄健吉がアメリカで調査した内容を伝える文書が残されていた。そこにはアメリカの工業生産の実態が細かく記され、日本の国力はアメリカの20分の1という結論であった。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
東京の陸軍省でも秘密裏に日米の国力調査が行われていた。調査を担当したのは陸軍省戦争経済研究班。ここには多くの民間の学者も加わっていた。責任者は秋丸次朗中佐であった。
資産凍結、石油禁輸という事態を受けて日本では感情的な主戦論が台頭し、急速に戦争の機運が高まっていった。 陸軍の石井中佐も新たな国策の立案を急いでいた。
しかし新たな国策の原案は海軍から先に提出された。
海軍で国策の立案に当たった藤井茂。 藤井日誌には石油禁輸を受けた二日後の8月3日に原案を書き、局長の同意を得たと記されている。 しかし陸軍は対米戦争の決意が明記されていないと、海軍案に反発した。 戦争準備を急いでいた陸軍は国の最高方針として戦争決意を固めることを求めた。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
陸軍によって戦争決意が明記された国策案は直ちに部局長会議に上げられた。しかし海軍は戦争決意の表明に難色を示した。 陸軍案は当初、「戦争を決意し・・・」と明記。 しかし海軍首脳がそれに反対したため結局、「戦争を辞せざる決意のもとに」という海軍案で落ちついた。 戦争決意という重大な問題が文章上の表現をめぐる議論に終始したのである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
この国策に軍部は重要な項目を追加した。 南方地域の天候、石油の事情など、作戦上の理由からアメリカなどとの外交交渉に10月上旬という期限をつけることを要望したのである。 こうして資産凍結という新たな事態に即した国策、「帝国国策遂行要領」がまとまった。 第1項には、「帝国は自存自衛を全うするため対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとにおおむね10月下旬を目途とし戦争準備を完成す」と記され、戦争の決意が示された。 第2項に、「帝国は右に並行して米英に対し、外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む」と第1項の戦争決意の後に外交交渉の努力が記された。さらに軍部の主張どおり外交の交渉期限は10月上旬と明記されたのであった。 この新たな国策は9月3日、たった1回の大本営政府連絡会議で合意された。 大本営政府連絡会議から2日後の9月5日、天皇の要望により参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身が国策の内容を上奏した。 このとき天皇は第1項に戦争決意、第2項に外交努力を記した国策に対し、なるべく平和的に外交でやれと強調した。 杉山は天皇の質問に対し、南方上陸作戦を説明した。 すると天皇は怒りをあらわにして、絶対に勝てるかという言葉を杉山に投げかけた。 杉山はそれに対し、絶対とは言えぬが見込みはあると述べている。 天皇は9月6日、御前会議の直前に内大臣木戸幸一を呼び、きょうの御前会議で質問したいと述べた。 それに対し木戸は、会議の最後に外交が成功するように協力すべしと軍部に警告するように進言している。 昭和16年9月6日、この年2回目の御前会議が開かれた。 「対米戦争の決意」という重大な問題をめぐる国策を議題とした御前会議であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
御前会議議事録によると質疑は短く終わった。 しかしこの後、極めて異例のことが起きた。 天皇が初めて御前会議で発言したのである。 御下問つづりによると、杉山・永野両統帥部長に質問するという形で天皇は発言した。 天皇は、明治天皇の歌を詠み、感想を求めたのであった。 天皇が詠んだ「四方の海みなはらからと思う世になど荒波の立ち騒ぐらむ」という歌は明治天皇が日露戦争の際に詠んだもので、軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だとされている。 その意味で、昭和天皇も戦争に対し疑問を呈したと言われている。 後に近衛首相は手記の中で、9月6日の御前会議は未曾有の緊張のうちに終わったと述べている。 会議に出席していた企画院総裁鈴木貞一はこの日の御前会議をめぐり近衛首相と次のような会話を交わしたと証言している。
政府が干渉できない統帥権のもと、参謀本部は直ちに軍隊の動員を命じ、ひそかに南方に作戦部隊を集結していった。
アメリカ・ワイオミング州キャスパー。 ここに天皇が御前会議について率直に述べた貴重な資料が残されている。マリコ・テラサキ・ミラーさんが保管している、いわゆる昭和天皇独白録(※)である。 天皇の言葉を書き記したのは戦後天皇の御用掛を務めた寺崎英成である。 この資料は昭和21年3月から4月にかけて5回にわたって天皇が側近に語った言葉を記したものである。 天皇は「御前会議というものはおかしなもので、全く形式的なものであり、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」と述べている。 さらに大本営政府連絡会議という仕組みに欠陥があったとしている。 「四方の海……」という明治天皇の歌を詠んだ9月6日の御前会議を「実に厄介な会議だった」と述べている。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
御前会議の終わった9月6日の夜、近衛首相は駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談した。 外交交渉に期限をつけられた近衛首相は時間が切迫していることを強調し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。 事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打った。 国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。 当時国務省の対日政策に大きな影響力を持っていたのは、顧問のスタンレー・ホーンベックであった。ホーンベックは国務省の中国通であったが、日本に関する知識は乏しかった。 スタンフォード大学にホーンベックの膨大な資料が残されている。 これらの資料から当時の彼の対日認識を知ることができる。 ホーンベックは頻繁にハル国務長官に意見を具申しており、長官にあてて提出した覚書が多数残されている。 ホーンベックは近衛首相のもとで日中戦争が始まり、三国同盟が結ばれ、南部仏印進駐が行われたとして近衛に対し不信感をあらわにし、その責任を追及している。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
ハル長官もこうしたホーンベックの意見に同調し、首脳会談には消極的であった。 しかし、東京のグルー大使は繰り返し首脳会談の実現を訴えた。 グルーは、日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいていると述べ、首脳会談が危機打開の最後のチャンスだと訴えた。 しかし、ホーンベックはグルーの意見に反論。 断固たる態度こそ日本を抑えることができるとし、妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと主張した。 こうして10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。 日本の陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
当時参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。機密戦争日誌には、「外交の目途なし、速やかに開戦決意の御前会議を奏請するを要す」と記されている。 急速に対米戦争の機運が高まる中で、長期戦となる公算が強い戦争に海軍上層部の間で疑問の声が上がり始めていた。 当時の海軍次官、沢本頼雄の手記が、そのときの海軍上層部の考えを記録している。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
10月6日、幹部会談の記録。 海軍上層部が中国の撤兵問題のみで日米戦うはばかげたことという点では共通の認識を持っていたことがわかる。 しかしこの席で及川海軍大臣が陸軍とけんかしてでも戦争に反対することを主張したのに対し、永野軍令部総長が、「それはどうかね」と反対し、海軍大臣の決意に水を差したことが記されている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
外交交渉に行き詰まった近衛首相は開戦にも踏み切れず、ついに政権を投げ出した。軍部に押し切られ、最後まで政治的主導権を握れずに終わったのである。 新しく首相に任命されたのは対米強行派の東条陸軍大臣であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
海軍大臣は島田繁太郎。島田は艦隊勤務が長く、中央の情勢に疎かった。 外務大臣は東郷茂徳。 東郷は外交交渉の継続を条件に入閣した。 東条内閣の成立は陸軍でも驚きをもって迎えられた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
東条内閣には「9月6日御前会議の決定にとらわれることなく、内外の情勢を再検討するように」という天皇の意向が木戸内大臣から伝えられた。 東条陸軍大臣を首相に推薦したのは木戸内大臣であった。 企画院総裁鈴木貞一も東条内閣誕生に深くかかわりを持った。 東条を首相に推薦したねらいを戦後こう証言している。 |
左 木戸内大臣 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
天皇も東条内閣について言葉を残している。 いわゆる天皇独白録では、「組閣の際に条件さえつけておけば陸軍を抑えて順調に事を運んでいくだろうと思った」という言葉が記されている。天皇は東条を信頼していたと言われる。東条は天皇への忠誠心が強く、きめ細かく天皇に上奏したからだとされている。 東条首相は9月6日御前会議で決定された国策の再検討のため、大本営政府連絡会議を開いた。会議は8日間にわたった。 再検討はヨーロッパ情勢、作戦の見通しなど多岐にわたったが、中でも国力の判断がその中心の課題であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
事務方としてこの再検討に携わった元陸軍大佐中原茂敏。 彼は陸軍省資材班長として国力判断を担当していた。 当時国力判断の基礎となるのは船舶の保有量であった。 国力の維持には南方から船でいかに資源を運ぶかが重要なかぎとなったからである。そのため再検討は敵の攻撃による船の沈没予想量を海軍が出すことから始まった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
さらに作戦時期にこだわる軍部は国策再検討を急がせていた。 連絡会議議事録には「4日も5日もかけてやるのは不可、早くやれ、簡明にやられたし」という軍部の要望が記録されている。
再検討が進む一方で島田海軍大臣は開戦を決意した。 沢本海軍次官の手記には10月30日島田海軍大臣が決意表明したことが記されている。 島田は、自分は突然場末から飛び込み、いまだ中央の情勢はわからずも空気からして容易に事態は挽回できず戦争を決意すると述べたとされている。 11月1日、再検討の結論を出すべく最後の連絡会議が開かれた。 会議は17時間に及び、この席で鈴木企画院総裁は国力判断について企画院としての結論を出した。 連絡会議議事録には、「物的には不利のように考えているようだが心配はない、物の関係は戦争したほうがよくなる」という鈴木総裁の言葉が記されている。 しかし会議の最後の段階で東郷外務大臣が危機的な日米関係を打開する外交の切り札を提案した。 東郷外務大臣の提案は乙案と呼ばれる日本の妥協案であった。 この案は交渉の議題を南方に絞り、南部仏印からの日本軍の撤退という画期的な内容を含んでいた。 撤退により資産凍結以前の日米関係に戻すことが、そのねらいであった。 軍部は東郷外務大臣の辞職をおそれ、しぶしぶ乙案を認め外交交渉を続けることに同意した。 しかし、戦争決意が明確に打ち出され、結果的には国策の再検討はできずに連絡会議は終わった。 連絡会議の結果、新たな帝国国策遂行要領が合意された。 そこでは戦争を決意し武力発動の時期は12月上旬と明記された。 しかし12月1日までに交渉が成功すれば武力発動は中止することも最後に盛り込まれたのであった。 国策の再検討終了後、ただちに天皇への上奏が行なわれた。
天皇はこの時開戦の大義名分について東条に問いただしている。戦争機密日誌はこの時の天皇の様子を「お上はすでにご決意あそばされあるものと拝察する。安堵す」と記してある。 昭和16年11月5日、宮中東一の間において開戦の決意を固める御前会議が開かれた。
この年3回目の御前会議である。
東条首相に国策の再検討を命じた天皇は、この日の御前会議では慣例に従い何も発言しなかった。 アメリカに対しては乙案が提示され、交渉継続の意思が伝えられた。 ワシントンの大使館には交渉期限は11月25日と打電された。 アメリカは南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討を始めた。 アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲンソー財務長官であった。 国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわらない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。 暫定協定案では日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力を2万5,000人にとどめれば資産凍結を緩和し、民間用の石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
ハル国務長官は中国・イギリスなどの大使を呼び暫定協定案を提示し理解を求めた。 しかし中国の胡適駐米大使が猛然と反発。直ちに本国の蒋介石に暫定協定案の内容を送った。 重慶の蒋介石はアメリカが中国を犠牲に日本と取引をするのではないかと激しく動揺した。そして夫人の宋美齢とともにアメリカ政府の説得を試みた。 ワシントンでは宋美齢の兄の宋子文が胡適大使とともに説得工作に当たった。宋子文はアメリカの大学で学び、アメリカ政府に知己が多かった。 このとき、蒋介石が出した秘密電報が台湾に残されている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
かつて蒋介石が住んだ陽明山。 ここに蒋介石の資料が多数納められている。今回初めて公表された蒋介石の機密電報。 アメリカが暫定協定案を取り下げるようワシントンの中国大使館に説得工作を指示した電報である。 宋子文あてに出された電報。 宋子文には陸・海軍の長官を説得するように指示している。 この電報には「日本に対する石油禁輸と資産凍結を緩和すれば、中国人民はアメリカが中国を犠牲にして日本と取引したと受け取らざるを得ない。4年半に及ぶ我々の多大の犠牲と、史上類を見ない破壊を伴った日本との戦いはむだに終わるであろう」と記されている。 一方、胡適大使にあてた電報ではハル国務長官を説得するように指示している。 ここでは「今妥協すると、中国はかつてチェコスロバキアやポーランドがドイツの犠牲にされたのと同じ災難をこうむる」と訴えている。 中国側は繰り返しアメリカ政府への説得を試みた。 ハル国務長官は洪水のごとく大量の電報が寄せられたと後に述べている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
中国の反対は功を奏し、ハル長官はルーズベルト大統領あてに、中国政府の反対により「暫定協定案の提出は留保する」という意見書を提出するに至った。 さらに陸軍長官から日本軍が南方へ移動中との情報も入り、ルーズベルト大統領は暫定協定案の放棄を決断したのであった。 11月26日、アメリカは従来の四原則に加え、さらに厳しく中国・インドシナからの全面的な撤兵を要求した、いわゆる「ハルノート」を日本に提示した。 事実上の最後通告であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
.
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
中国からの全面撤退を求めた「ハルノート」を日本政府は拒否、外交交渉は終わった。 陸軍参謀本部は、こう情勢判断した。 「これにて開戦決意は踏み切り容易」。 また、当時の天皇の様子について陸軍の機密戦争日誌には、「お上も十分納得あそばされたるがごとし」と記されている。
12月8日、日本は真珠湾を攻撃。 およそ3年9カ月に及ぶ太平洋戦争に突入していった。 昭和16年に開かれた4回の御前会議。その合わせて10時間余りの会議が、その後の日本の運命を大きく変えたのであった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
戻る |
○ | ※ 日米開戦への御前会議
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
ミズーリ艦上における降伏調印に外務省随員として出席 (右より三人目) 写真秘録 『東京裁判』 講談社 1983年5月28日第1刷 裏表紙より 写真秘録 『東京裁判』 講談社 1983年5月28日第1刷 裏表紙より |