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日本の原発作業員:勇敢さと謙虚さ

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 日本のように集団志向の強い文化では、ヒロイズムは微妙なテーマだ。徹底的に批判されている東電の社員に話を聞くとなれば、なおのことだ。10万人を超える住民が原発周辺の村や町からの避難を余儀なくされ、もしかしたら永遠に戻れない可能性もある。

 吉澤氏は、現場で非常事態の対応に当たった東電幹部の1人だ。当時はあまりに多くのこと――地震、余震、津波、3回の爆発、放射線測定値の上昇など――が起きていたため、危険を顧みる余裕などほとんどなかったと話す。

「死ぬということは諦めるということ」

 福良氏も同意見だ。「ひどい状況だった」「けれども、私は死ぬつもりはなかった。全員が最善を尽くした。死ぬことは諦めることを意味した」

 だが、そうした義務感は、ドラマの中の非常に人間的な面を覆い隠す。現場にいた作業員の5人に4人は地元出身だった。彼らは自分の家族が津波で流されたかもしれないという不安を抱きながら働いていた。また、放射線レベルの上昇が自分たちの町を危険にさらしていることも理解しており、それを必死に食い止めようとしていた。

福島第1原発「10年で廃炉に」、東芝が計画案 共同通信

作業員たちは、地域社会を守ろうと必死に戦った(写真は2011年4月1日に福島第一原発の免震重要棟で行われた災害対策本部会議の様子)〔AFPBB News

 作業員は何年にもわたって一緒に働いてきた間柄で、互いをよく知っていた。それが彼らの原動力となっていた。

 吉澤氏によると、地震と津波の直後の大きな関心事は、原子炉の近くで働く2000人を含む6000人の作業員の安全を確保することだったという。初日の夜、しばらくの間は、すべての原子炉が冷却されているように思われた(結局、それは間違いだった)。

 これで多少の時間が稼げると見られた。しかし、1号機の原子炉建屋で水素爆発が起きると、連鎖的に恐ろしいことが起こり、原子炉を冷却するために水を注入する作業員の能力が至るところで妨げられた。

 月曜日と火曜日(3月14日と15日)にさらに2つの爆発が起きると、大半の作業員を避難させろという圧力が強まった。

「ここに骨をうずめるのかもしれない」

 吉澤氏によれば、これがまさに、責任者だった吉田氏(その後、原発事故とは無関係と言われる種類のがんで入院している)が最も難しい判断を迫られた時だったという。必要な作業を行うために必要な人員を十分残しながら、できるだけ多くの作業員を危険から守らなければならなかったのだ。

 インタビューに応じた2人は、現場の指揮官たちには、原発から立ち去るという考えは微塵もなかったと主張する。一時、福島第一原発から少し離れた事務所に移動した吉澤氏は、危機がピークに達すると現場に戻った。「もしかしたら、もう現場を去ることはないかもしれない、日本の言い回しにある通り、あの場所に『骨をうずめる』ことになるかもしれないと思った」

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