昭和林業逸史 若い頃体験した林政関連行政
はじめに
もう二、三年ほど前になるだろうか、ある日曜日のこと、林野庁先輩の公平秀蔵氏から電話をいただいた。
内容は、「山林」誌で昭和林業逸史の企画がスタートし、自分も執筆することになったが、君にも執筆を勧めるとのことであった。テーマは、国土、自治、林野の三省庁にわたる森林山村政策が良いとのことであった。
この政策は、従来主力をなしてきた補助金型の政策ではなく、年間二千億円から三千億円にも及ぶ超大型かつ画期的な特別起債措置等を内容とする財政政策措置であり、この政策が登場するについて関わりを持ったことがある私としても林政史上特記すべき事柄とは考えていたが、実現したのが、平成年代の事柄でもあり、公平氏には、考えておきますと答えて電話を切らせていただいた。
最近になって、小林富士雄山林会会長から、このテーマにはこだわらないということで、「山林」誌への寄稿を勧められたことから、筆を執ることにした。
通算二三年間にわたる霞が関勤務(林野庁及び科学技術庁)の中で携わった事柄は、少なくはないが、一貫して、森林が持続することによって国民生活に恩恵をもたらすことができるよう出来る限り広い視野から政策の立案と実行に当たってきた積もりである。
これらを記述する時、いわゆる自分史との境目はどうなるのか、一方、客観性を重視すれば臨場感に欠けることになりかねない。したがって実体験を踏まえつつも、ここは自慢話でもなければ、評論でもなく、協働体験感覚で林政史の一部を味わっていただくということでお許しを得たいと考える。
以下、ある程度時系列的に話を進めてみたい。
霞が関の勤務は科学技術行政から
私の霞が関勤務の始まりは、林野庁ではなく、総理府科学技術庁であった。昭和三十九年六月、それまで七年余を過ごした、長野営林局・署の勤務に別れを告げて、佐藤栄作大臣の辞令をいただくことになった。辞令書には研究調整局調整課予算総括係長を命ずるとなっていた。先任の科学技術庁採用の一色長敏予算第一係長(科技庁採用・工学)のほか、係長、係員の皆さんと総勢六人ほどのチームを組んでの仕事が始まった。当時、科学技術庁に林野庁先輩として資源局科学調査官の松形祐堯氏もおられ、お付き合いが始まった。
ところで早速取り組んだ仕事が、小林富士雄氏が当時勤務して居られた林業試験場を含む国立試験研究機関の人当研究費(経常研究費のうち研究員一人当たり研究費として積算される予算)の改訂問題であった。
この頃、国立試験研究機関は九十ほどあったと記憶しているが、これが、通産省工業技術院系列を主とする理工系研究所、農林省技術会議系列・厚生省系列を主とする生物系研究所さらに文部省系列の人文系研究所などに三区分され、人当研究費単価は、おおよそ工学系八十万円程度、生物系六十万円程度、人文系二十数万円程度なっていた。さらに、同じ生物系でも農林系は二分の一の係数が掛かっており、極めて低位に甘んじている状態であった。
同僚の一色氏の話では、国立大学の研究費を勘案した改定案を持ち込んでいるが大蔵省の壁は厚く、農林系の係数処理問題についても見通しが立たず困っているという。
当時の大蔵省主計局における科学技術予算の扱いは、大型プロジェクト予算などは、文部担当主計官のもとでの科学技術係が担当し、人当研究費については、主計局総務課総括係の担当となっていた。主計局総務課の陣容は、総務課長相沢英之氏、財務調査官江口穣氏のもと、直接の担当は浜口正武課長補佐であった。
一方、科学技術庁の陣容は、佐藤栄作大臣は、自民党総裁選に立候補のため、間もなく辞任し、愛知揆一大臣に代わった。研究調整局長は運輸省出身(工学)の芥川輝孝氏、調整課長は通産省出身(工学)の大塚恭二氏、総括補佐は厚生省出身(医学)の児崎宜夫氏であった。上司の児崎補佐は大蔵省は筆者に任せるというので、八月の予算要求時期も迫っていたことから、早速主計局に出掛け科技庁の従来の主張である講座制大学並の予算要求を行いたい旨の話をしたところ、そのような要求は絶対受け付けないと言うことであった。
翌日から、打開策を求めて、主計局通いが始まった。
それまで営林局の技術者で北アルプスの上高地で森林計画の編成作業に従事していた人間が、予算の予の字も知らないで、主計局にやって来て予算の話とは非常識な話だと浜口氏に厳しく言われ、また何で課長補佐が来ないのかとも言われたが、良い意味でファイトが湧いてきて今後本格的に予算の勉強がしたいので宜しくとお願いし、小さな質問も、大きな宿題も必ず翌日には、一応の答えを組み立てて訪問することにしたところ徐々に話も聞いて貰えるようになり、時にはアドバイスもいただけるようになってきた。
そのうちに分かってきたことは、大学予算の模倣ではなく、独自性と客観性があれば聞く耳はあるとの感触が得られた。そこで、一色係長と意見交換を行い新しい独自の方程式を作ることにした。簡単にいうと、研究者一人当たりの予算(人当研究費単価)をAとすれば、これをa、b、cの三項に分ける。a項は、やや大型の研究機器で、平均実態耐用年数で除した数値に、買い替え時の性能アップ分として一定の係数を掛ける。b項は、消耗品的な小型の研究機器の年間の必要経費を積算する。c項は光熱水道料のような雑費を積み上げるという、大学の模倣はせず、あくまで独自性を打ち出したものであった。
あとは裏付け調査である。全研究所に前記三項目の支出調査用紙を配布して置き、二か月近く掛けて、東京周辺から名古屋くらいまで日帰り圏の研究所は片端からまわって聞き取りをしながら調査用紙を回収する。もちろん主な研究室や施設もしっかり説明していただいた。この実態調査は、一色氏と二人三脚で当たったが夏の暑い時期で、かなりの重労働であった。連日朝から夕刻までは工業試験所、消防研究所、防衛関係研究所、畜産試験場などを片端からまわり、夜は役所に戻って整理をし、翌日は別の研究所を訪問するというやり方であったが、この方法で急速にわが国の国立研究機関の業務状況の把握が進み、貴重な財産を得ることができた。ただ会計検査院のような調査をして果たしてどういう効果が上がるのかという質問も受けた。これには皆さん方の協力次第ですよと答えて進めた。
このような実態調査で得たデータを前記方程式に当てはめると実にきれいに適合することが分かった。また農林系に二分の一の係数を掛けることについても合理性の無さが確認できた。
この案で、研究調整局の局議で説明したところ局長からお褒めの言葉をいただくとともに、技術系スタッフ及び通産省出身(法律)の中村泰男課長補佐からも異議なしとの評価を得て正式に大蔵省に持ち込むことになった。
九月から大蔵省との折衝が開始されたが、その頃には、浜口補佐とのやりとりも円滑になり、浜口氏の紹介で個室に入っておられた江口穣財務調査官からも、コーヒーが飲みたくなったら寄りなさいとの言葉を掛けていただき、実際、再三お邪魔したのも懐かしい思いでである。
その後更に相沢英之総務課長にもお目に掛かることになり、筆者のふる里が新潟県の高田の近在であるという話から、お父上が高田師範学校の教官をしておられたことがあるとかで、氏も少年時代の一時期を雪の高田で過ごしたことがあるとのことであつた。
年末の予算内示の時期になったところ、内示より一足早く人当研究費予算については、ほぼ要求の線で認める旨の連絡があり、大いに面目を施した。
昭和四十年度の研究所の予算書を見ていただければ、林業試験場における研究費の増加が分かる筈である。
なお、昭和三十九年当時、主計局内で活躍して居られた、方々としては鳩山威一郎氏(主計局次長)、宮下創平氏(文部科学技術係主査)、加藤剛一氏(公共総括係長)らがあるが、いろいろご指導やお付き合いをいただくことになったのは後年のことであった。
年が明けて、昭和四十年四月には、課長補佐への昇格辞令をいただき、大蔵省にも大手を振って出入りするようになった。結局科技庁では四年間の勤務で二つの課を経験することになったが、後半は芥川局長後任の高橋正春局長(医学)のお供で国会通いが増えた。この経験も後年、林野庁での国会対応に際し大いに役に立つことになった。
ただし、当時の林野庁の技術官の昇進と比較して、入省八年での補佐昇格が早かったためか、林野庁で課長補佐に任命されたのは、それから七年後の昭和四十七年のことであった。
現場体験を経て林野行政の舞台へ
結局、科学技術庁には昭和四十三年の五月一杯まで勤務したが、課長補佐昇任後は総合研究科に席を移し、自然災害、松代地震対策、火災対策、海難事故対策など複数省庁にまたがる、規模の大きな研究プロジェクトを担当した。
一般的に、総理府に設置された新設官庁は寄り合い所帯と評されマイナス面が強調される嫌いがあるが、筆者の感覚では、むしろメリットが大きいと感じた。
総合研究課でも、通産、郵政、建設、気象庁、海上保安庁、国鉄、農業土木、水産庁、科技庁プロパーなど多彩な人材と仕事を共にし交友関係もできたことは幸いであった。公害担当補佐の石塚貢氏(プロパー採用・工学系・後年科学技術事務次官)とも一時期机を並べて仕事をした間柄である。
中央官庁もいろいろなしきたりがあるようであるが、科技庁のような発足後十年足らずのところは自由な雰囲気もあり良い経験をしたと思っているが、後年林野庁時代に農林水産省内は言わずもがな霞が関の他省庁との垣根を気にせず行動できたのは、この時の体験が役に立ったと思う。
さて、科学技術庁四年の経験後、昭和四十三年六月付知営林署長に出ることになった。
一転して林野庁や営林局では、当然新米署長の扱いではあるが、本人としては、霞が関で三年強の課長補佐歴で各省と対応してきた実績があり、いっぱしの行政官であるとの意識があり、これに相応しい行動をすべきであると考えていた。
署長経験もそれなりに興味深かったが、ここでの林政史的な事柄としては、先ず振動障害発祥の地の趣があった付知から見て、チェンソー使用時間規制などの中央判断の際に、現場の管理側の意見を聴かれることもなかつたことは、現場意見等の集約についてもう少し工夫があっても良いのではないかとの感想を持った記憶がある。
また、現場に分権管理手法の導入がなされた時期であり、なかなか良い手法で、もっと推進すべきでないかと思ったが、短期間での幕引きは残念に感じた。
さらに、このころ世間的にも動き出した自然保護の問題が印象に残る。営林署の現場を一巡して、大面積のヒノキ天然林皆伐が目立った。間もなく吉原平二郎名古屋営林局長と付知営林署管内の山歩きをする機会があり、局長に対し伐採の仕方が粗放なのではないか、連続した伐区となっているため結果的に大面積の伐採となっており改善すべきものと考えると述べたところ、実は自分も直感的にはそのようにも感じたが、技術官ではないので、発言を控えて来たものであるとのことであった。
もちろん実行する側から見れば、いろいろ理屈はあったわけで、先ず経済効率、すなわち林道投資の効率を考えても、飛び飛びの伐採は非効率と他から指摘の恐れもあるという類である。
当時、マスメディアのみならず、既に地域からも天然林伐採抑制の声があがっていることが分かった。
しかし、林野庁が新たな森林施業に向けて、舵を切ったのは、「丸刈りから虎刈りへ」との新聞見出しが踊った四年後の昭和四十七年のことであった。
二年間の営林署勤務の後いただいた辞令は、林業講習所教務指導官を命ずというものであった。
名古屋局からは、もう少し居て欲しいとの声も聞かれたが、東京では何か行政と繋がる場面も出て来る可能性もあると考え赴任した。林業講習所では、専攻科の学級主任(九期及び十一期)として余り年齢の違わない生徒から先生と呼ばれ、人材育成も面白いと思い、翌年から課外時間に英語学習を、体育ではサッカーを新規に取り入れた。さて二年間の研修機関勤務で、後々行政部局での仕事に役立った経験としては、野崎主任教務指導官の提案で導入された発想法(KJ法)のトレーニングである。筆者も含む数名が、インストラクターとなり、営林署長研修などでトレーニングを行った。
この話が伝わったとみえて、講習所に東京営林局の山田喜一郎総務部長から局の部課長一同でKJ法の研修を受けたいとの申し出であり、筆者がインストラクターとして派遣され、目黒の宿泊所で二泊三日の集中的な研修が行われた。
このことがあってから、山田喜一郎氏とは親しくさせていただいたが、のち、林野行政にとつて記憶すべき事柄に繋がることになった。
林野庁での第一歩は保安林行政から
研修所での二年間の勤務の後、昭和四十七年六月林野庁治山課保安林班長として、林野行政官としての第一歩を踏み出すこととなった。その年の春の頃であったと記憶しているが当時、技術系の人事を仕切っていた猪野曠計画課長と何かの会合で同席した際、筆者の発言を聞いて突然、君は行政に向いているようだねと声を掛けられた。これが猪野先輩とのお付き合いの始まりであった。
かくして、今では珍しいかも知れないが、採用後十五年を経過した人間が、本庁初勤務、しかも嵐の吹きすさぶ保安林行政の中に飛び込むこととなった。
当時の保安林行政は、日本経済の進展とも相俟って、さらに列島改造のブームとも重なり、宅地造成、ゴルフ場・スキー場・別荘などの開発が森林に及ぶと共に、公共事業に伴う道路整備や林道整備も盛んで、保安林の解除申請件数だけでも一年間で二千件を超える情況となっていた。
一方、昭和四十六年に環境庁が発足したように、自然保護運動も社会的な潮流となっていた。
したがって、林野行政とりわけ保安林行政に対する世間・マスメディアの目も厳しくなっており、連日のように保安林解除案件などについての批判的な報道がなされ、当然国会でも連続的に質問要請があり、福田省一長官、松形祐堯指導部長、鈴木郁夫治山課長は対応に忙殺される情況にあった。
一方、筆者をはじめとする事務方としての保安林班は課内調整で増強され、総勢十一名の実働部隊となっていたが、その後も増加し最終的には十五名ほどの人員になった。しかし解除等の審査や国会対応に連日深夜に及ぶ事務作業が続き、それはともかくとして、書類審査の最終段階の林政課では書類が山積みとなって滞留が目立ち、また都道府県からの特に公共事業についての審査を円滑にという声が高くなると同時に処置を誤ると社会問題を引き起こすことが予想される困難案件についての相談が引きも切らない状態であった。
これらの問題を一挙に解決するにはどうするかということであったが、先ずは国会対応については、鈴木課長は災害対策等治山事業本体の指揮もあり、保安林関係については、筆者が長官を直接補佐すべき状況が生じていたため、当時保安林の制度論等では生き字引存在であった栗田秀夫氏から知識を吸収することとした。しかも栗田氏は僅か二カ月後には長野営林局管理課長にご栄転ということになり、さらに学識者を集めての保安林制度検討会もスタートしたことから、筆者の速やかな独り立ちが必要であった。
そこで、班内では、山本武義、木村進等の諸氏から制度運用の仕組みなどを吸収すると共に、原則として毎日午後六時以降は企画課に顔を出し、検討会のまとめを行うと共に、日出英輔総務班長、副島、太田道士の法令担当の諸氏に森林法等について特に勉強をしたいと申し入れ、毎晩夜遅くまで付き合ってもらうことにした。この勉強会は、九月に検討会報告書がまとまった後も暫く続き、全部で半年位は集中した記憶があるが、勉強コーナーと対角線上の窓際に席を占めていた、石川弘課長からも声が掛かるようになり、深夜冷や酒を飲みながら特別講義の一幕もあった。
国会関係は、長官室での打合せが頻繁で、そのうち福田長官から、来客等もあり、落ちついて勉強が出来ないので別室を取ってくれとの要請がありグリーン会館に部屋を取って差し向かいで対策を練った。
当時の衆議院農林水産委員会は社会党の芳賀貢先生をはじめ舌鋒鋭い論客が揃っており、真剣な論議が交わされた。ある日長官から欧米の保安林制度について勉強しておきたいとの話があり、庁内では詳しい人も見当たらず、国会図書館で調べて冊子としてまとめ喜んでいただいた。
松形指導部長からは、君は経験がないだろうから恐縮だが、保安林についてのカンニングペーパーを作って欲しいとの、ユーモアを交えた要請があり、急な質問にでも即答出来るよう、また何時でも背広のポケットから取り出せるように小さなノートにまとめて差し上げたことなども記憶に残る。
また、都道府県では保安林係になり手がないと言う風評も流れる情況もあったので、担当者を全国から百人ほど集まってもらい,挫けず一丸となって頑張ろうと挨拶をし、制度についての専門性、社会的視野、緊急対応等についての対策を講じることとした。
先ず、難しい問題は遠慮なく本庁に相談に来ること、この人達には兄弟・親戚の意識で対応することを班内でも徹底することにした。さらに常時一堂に集まることは難しい面もあるので、各県の論客を選抜して、保安林大学と称して数名単位の意見交換会を東京或いは地方ブロック単位で開催した。このことにより、担当者のレベル向上、考え方の統一、連帯感の醸成などが図られ、林野庁と地方庁との連携も強化され、問題解決に向かって確実な歩みが始まったとの手応えを得た。今でも当時が懐かしいといわれる人達が各地におられるのが嬉しいことである。
さらに林野庁内の書類の流れの問題の解決については、林政課の主として若手事務官グループと話し合いを行った。提案は書類の簡素化のほか、保安林班で書類ごとに付箋で色分け処理をすることであった。例えば赤色の付箋は、レジャー関連の解除案件で徹底的な審査を要するもの、緑色の付箋は公共的な解除でしかも小規模なものでスピーディな審査がこのましいものという具合である。結局、数種類の色分け方式について了解が成立し、二千件以上の書類が逐次順調に動くようになっていった。当時頑張ってくれた人たちとしては、安慶重雄、内田勲らの諸氏の顔が目に浮かぶ。
さらに、保安林班内の結束を図り、機動力を増すため、班員全員のアイデアを集めて戦力化することを目論み、林業講習所の経験を生かしてKJ法を用いた。班員全員のブレーンストーミングから百数十枚のカードが集まり、これを似たもの同士を集めてグループ分けし、班員に示し、一枚残らず実現させることを目標とした。カードの内容は班員の所在が分かるよう専用黒板を設けるという提案から始まって、二班体制にせよというようなものまであった。もちろん書類の色分けもKJ法の応用から生まれたものである。
環境時代と保安林行政
この時代は列島改造の動きの一方、環境庁の設置と共に自然環境の保全行政の動きも活発になり、自然環境保全法の施行に伴う行政上の調整が林野庁と環境庁の間に生じていた。
それは政令や省令の整備に伴う官庁間の調整論議のほか、環境保全地区の指定は当然保安林指定地区との調整を必要としていた。例えば、原生自然環境保全地域の指定は、保安林との重複指定をしない、つまり相互排除の制度になっており、一見先行指定をしている保安林に分がありそうな制度であるが、実際には、環境庁が指定したいところは概ね既設保安林と重なっているという事態があり、結局一部については保安林の指定を外すという行政上の調整も体験した。
また、建設省から都市緑地保全法案の提出があり、国会を通過した。都市地域についての指定範囲等についての激しい議論を建設省サイドとも交わしながら、一方時代に乗り遅れずに林野行政を進めていくためには、林野庁としての独自の政策の立案が必要と考えた。
この当時、林野庁が目論んでいた森林法改正案は、流域に着目した全国森林計画の樹立、普通林地における開発規制の導入、保安林については、全保安林を対象とする買い入れ規定を森林法本法に組み込むことなどで進められていたが、四号以下の保安林(防風、防潮、風致、保健などの保安林)についての買い入れ実績がないなどの理由で調整がつかず、一年近い検討が結果的には実らない状態になった。
昭和四十八年の春のことであった。心機一転、今風に言えばリセットして出直すというようなことで陣容の一新を図った。新たに、原喜一郎氏及び鈴木重近氏を迎え、法律問題を練り直すことにした。また田尾秀夫氏には長沼裁判を担当してもらうことになった。
保健保安林の大規模指定と買い入れ
法律問題の方向としては、一年後に迫っていた保安林整備臨時措置法の期限延長(十年)を考えることとし、この場合、延長の目玉の一つに環境時代に適合する保健保安林(風致保安林を含む)の大規模増設(全国四十七万三千ヘクタール、うち民有林三十五万ヘクタール)を据えようということであった。また、全体計画としては風致保安林を含むものとしたが、主力は保健保安林の整備になるものと想定した。
なお、保健保安林の制度的沿革としては、明治三十年の第一次森林法においては、公衆衛生林としてスタートしたもので、その後、昭和二十六年の森林法改正により、森林法第二十五条第一項第十号「公衆の保健」を指定目的とする保安林に改められたものである。
ただし、指定の実体は極めて少なく、昭和四十年度までは全国で百ヘクタール前後の面積で推移してきたもので、四十一年以後年々増加が図られて来てはいたが、昭和四十七年度末において、指定総量は一千七百四ヘクタール(国有保安林五ヘクタール、民有保安林一千六百九十九ヘクタール)に過ぎなかった。
風致保安林の指定実績は保健保安林に比較すれば多く、昭和四十七年度末では、二万三千七百八十六ヘクタール(国有保安林一万一千二百五十九ヘクタール、民有保安林一万二千五百二十七ヘクタール)であった。
買い入れ計画は、十年間で、一万五千ヘクタール、買い入れ主体は都道府県等の地方公共団体、国庫補助は買い入れ経費の三分の一(都市緑地保全法等と同率)とした。
因みにもう一つの目玉として、保安林指定整備要件(伐採規制など)の全面見直しを行うこととした。
また、国有林についても十万ヘクタール以上の追加指定を考えていたことから、大蔵省から先ず反応があった。当時の公共二係担当主査の藤井威氏(のち理財局長、駐スウェーデン大使など)によれば大量の保健保安林の指定が将来の国有林経営にマイナスの影響を及ぼす恐れはないかと言うことであった。このことについては時代の要請に適合していること、またレクリェーション地域における指定が考えられることから、むしろプラス効果が見込まれるとして了解を取り付けた。
一方、懸案の保安林買い入れについては、前述したように、森林法改正から外れたため、予算措置で対応することとした。
予算折衝は九月から開始されたが、大蔵省担当公共主査は米澤潤一氏にかわっていた。折衝の議論が進むうち、治山工事の実施を前提としない保安林の買い入れが、森林法上「森林の維持若しくは造成のため」に行われる「保安施設事業」として認められるかどうかの森林法をめぐる法律論になった。結局、大蔵省との論戦では決着がつかず、内閣法制局の見解を質して来てくれということになった。
当時、林野庁企画課総務班長の太田道士氏と案文をまとめ、二人で、法制局山田喜一郎参事官に会って経緯を説明した。 暫し、瞑想の後、出た言葉は、「森林法の現代的解釈としてあり得ると判断します」とのことであった。
お礼を言って帰ろうとしたら、にっこり笑って一杯やっていきませんかと冷や酒をついでもらった記憶があるが、昭和は遠くなりにけり、帰途、「良かった」と簡潔な表現の太田氏の笑顔も忘れられない。
かくして、一乃至三号保安林と保健保安林の兼種指定を前提とするものの、四号以下の保安林買い入れ予算が初めて認められた。
予算作業終了後、米澤氏も破顔一笑、私も森林のファンですとの趣旨の言葉も良かった。ただこの時は、後年(十八年後)筆者が長官時に長期借入金のことで、理財局次長としての米澤氏と難しい折衝の場で相まみえることになるとは、もちろん知る由もなかった。
ところで、この予算要求を実現するため作成した付属参考資料は、B四判、二百五十二ページに及ぶもので、米澤主査に対する筆者の説明は、三時間に及んだが、その間終始、真剣に聞いていただき、その人となりに感銘を受けた。
この説明書は、爾来三十三年を経過した今でも、記念として手元に保管しているが、作成に当たっては、土曜日の午後と日曜日は総て返上し、原、鈴木両氏の限界までの頑張りには頭が下がる思いがした。
一方、治山課総務班長の鈴木剛氏からは、課の一年分の印刷費が保安林関係で消えてしまったと嘆かれたこともあったが治山課を挙げて応援していただいたことに感謝したい。
おわりに
翌年四月、国会審議で法案も上がり、予算も確定してからは、各地を原氏と歩いて、買い入れ箇所を検討した。この結果、秋田県の能代海岸林、熊本市内の立田山、佐賀県唐津の保健保安林の買い入れが決まり、価値の高い緑の保全が実現することとなった。
四十九年の暮れ、保安林の一班増設も実現し、二年半の間濃密な体験の場となった保安林班長のポストをはなれた。
この後、途中高知営林局長の一年二か月を除く約二十年にわたる林野庁本庁勤務の中で、治山・林道政策、地域林業・流域管理、国有林経営改善、目的税創設運動、国際協力・地球サミット、さらに公平先輩ご所望の自治省・国土庁との連携プロジェクトとしての森林・山村対策事業の創設など、多くの事柄に関与させていただいた。
これからの林野庁を担う行政官や森林問題に関心が深い読者の参考になることを祈りつつ、語り次ぐべきことは余りにも多いが、今回はこの辺で筆を置かせていただきたい。
(平成十八年八月十八日記 昭和林業逸史・平成十九年一月十五日 大日本山林会より刊行)