新年度から執筆依頼のあった新しい論文を書いています。
震災の前に練っていた構想はいったん封じ込め、人文学の上でも何かこの震災についても刻まれるようなものにすべきではないかと考えていて。依頼されたものなので、そこまで自由が効くかはわかりませんけれど、所々にちりばめたいと考えていて。
それで、タイトルに戻すと。
最近、健全な生活で充実しているのは確か。
なのに、どこかストレスを感じていて。
それは、結局「素晴らしき健全」に対するストレスだったと判明。
おかしな話のようで、実はこれは私たち研究者の思考過程には、健全さとはまた違った悩ましく、乱れるほどの時間を要する。それが大切な要素であることは明らか。
経験している人なら頷ける部分もあるかもしれない。少なくとも、私の研究人生において、指導教官たち、研究仲間たち、海外の研究仲間ですら、やはり「どこか一瞬気がふれたか、というような感覚じゃないと、奥にある何かをえぐり出す痛みに耐えられない」という共通の感覚を持っている。
え、それって異常者、と思われそうだけど、誰しも心に狂気はあるものであり、それをどこにぶつけるかで、見える形が違うわけです。犯罪に走ったらアウト。犯罪未満でも人間としてアウト。しかし、それを論文なり、作品なりにぶつけて形にすることがクリエイティブな活動、および研究だと確信しています。
だから、研究仲間が集まって話しているときは、一瞬アブナイ人達の集まりのようでもあるけれど、他には非常に礼儀正しく、おそらく通常よりもそういったマナーには敏感で、真面目な人が多い。けれども、研究者同士集まると、言葉も時にきわどく(タブー的なことも話す)、真実なんで幾重にもあるし、正しさに対するものはまた別の正しさであることなどわかりきっていて、ではそれらをどうやって出会わせ、破綻しつつも、対話するという果てしないことをしているのです。
で、ここまで書いても何のことやら、で結構。そういう世界だし、説明するより、興味がある方は一度学会を聴きにきてくださいね、というところ。
話は戻って、論文執筆中は、私もかなり生活リズムを変えます。健全さが規則正しさだとするのならば、それとはまた別のリズムがある。健全な日々を送っていることは素晴らしいことだと感じている反面、これだと論文執筆のあの特異な感覚が麻痺する。
健全さがストレスという状態で、ここのところ、ブログも淡々としていて、Twitterもどうでもよかったのだけれど、今朝、ふと気づいて「健全でありつつ、ストレスを緩和させるためにところどころ無茶する」ことがちょうどよい気がしたので、吹っ切れました。
そう言えば、大学卒業して10日後、大学院生兼TA(ティーチングアシスタント)として、大学教壇に立って教えていたあの頃の自分を思い出すと、とにかくやってみよう、という気概があったので、そんな調子でやってみようかなと思った次第。
大学助手時代も、大学院生でありながら、院生はじめ学生を教える立場だったので、同じ年でも私は大人だったな、いや大人である必要があったなと思う。
今は、それらの経験もいかせているし、やってきたことは全て糧になっている。考えがすっきりしたので、記事に綴ってみたということ。
それでは、続く。