Joaillerie I LOVE LOUIS VUITTON♪

LOUIS VUITTONのVIPルームでの時間が大好きな人文研究者のブログ


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前の記事では、最近の「私のカラダ」についてでした。記事は、 こちら。★


それで、もちろん切り離せない「ココロ」について。

体と心を区別する必要はなく、やはり連動しているものですね。


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ここのところ、というか、このブログを始めた頃から、某巨大掲示板にターゲットにされていることは知っていました。このことは、周囲の人々から聞いて知りました。もちろん、そういったしかるべき組織にも知ってもらっています。


その掲示板の住人(こう呼ぶそうです)は、とにかく人の生活が材料としてないと、何もできない部類だそうです。読者の皆さんでもブログをしている方々はおわかりかと思います。ブログをしてみればわかりますね。ブログをしたことのない人には、わからないでしょうが。


それで、どうやら私はそこでは、「精神障害者」であるとか、「境界性人格障害」であるなどとも言われているそうです。憶測でものを言う際に、だいたいこうした精神面の障害をあげる傾向が強い。


何度も今までブログで書いてきたとおり、そういう救いようのない輩であっても、生きて存在するのは勝手だから、どうでもよいわけです。

しかし、それらは執拗に私と関わりたいようで、あれこれ瑣末なことをしてくるわけです。非常に瑣末なことまでも。


私は、そうしたことには一切関わりたくないし、関わる必要性も感じない。

このことは、こちらの自由であり、当然のこと。


それでも、情報は流れてくるのだけれども、その中で特に、この「人格障害」という面については、看過できない理由があります。


(これ以後、文体を変えます。)


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私が人格障害かどうかは、勝手にそうしたいのだろうし、勝手に思えばよい。

ただ、それらの輩にとっては残念なことに、そうではないけれども。


実際に人格障害で苦しむ人たち、またその人たちを支える家族や友人たちのことを実際見ているからこそ、私が看過できないのは、それら掲示板の「低脳な輩」特有の浅薄な救いようの考え、まさに「低脳」(何度も言う)という以外表現のしようもない思考回路だ。


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私の経験から話せば、周囲でも、同じ研究者であり、教授であった方が、実際にそういった障害を抱えていた。普段もお一人でいられることが多く、私が大学助手をしていた頃にも、指導教官や大学院の後輩と食事をしている時にお見かけしたけれど、一人でお食事をされていた。エレベーターで一緒になると、必ず行き先を聞いて押してくださるような、心配りのある、きさくな方でもあった。

その方の悲報。あまりにも衝撃で、指導教官たちとともに、しばし言葉を失った。


また、まだ若いとされる研究者が、海外の滞在先で、戻らない人となった。話を聞いた時、張り裂けるような気持ちとともに、本当に息の詰まるような痛みを感じた。


それと、私が直接教えていた学生ではないのだけれど、学部の大学生が、ある時自宅で帰らぬ人となった。第一発見者はご両親だった。


大学の文献資料室で、私が研究資料を読み込んでいると、そばに来ては、タイミングを見計らって質問してくる真面目な女子学生だった。直接の教え子でないにしても、私はそういったことに時間を割くのも役目、という方針だったから、専門外であってもできるだけ指導した。それだけの接触だったが、すでに彼女の孤独を感じていた。だが、彼女は自分から積極的に人と関われない、そういうタイプで、無理に仲間の中でいるよりは、自分のペースで行った方がよかったようだった。そういう彼女を尊重しつつ、気にしていた。そして、ある夏のことだった。


直接の教え子であったなら、と何度も思った。しかし、彼女には、そちらの専攻の助手もいて、先輩達もいる。もちろんその専攻の講義に行かなくてはいけないわけで、私の専攻の時間とは全く別の流れ。彼女を見かけるたびに、そっと見守っていた。


その彼女の悲報。

私は泣きました。私が泣き続けたのを知っているのは、ごく一部の人間。

「Joaillerieさんは、優しい」と言われて、余計に傷ついた。なぜなら、それは感じて当然の痛みだろうはずだから。

だけれど、信じられないことに、その専攻の誰もが話題にはしたものの、すぐに過去の話になっていった。今でも、彼女を忘れていない。


命を絶つ、このことには、いったいどれだけの苦痛があったのか。人格障害や鬱病、さまざまな精神面の苦しみは、いくら想像しても、専門の医師であっても、常に想像を絶するものであるのが事実だ。


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この一人、一人の尊い命を、ブログで綴ることですら、すでに何かを冒涜しているようで、心が張り裂けそうです。一人一人の日常には、人格障害や鬱病など、精神面での耐え難き苦痛が毎分毎秒その人の中に続いていて、どれほどに苦しかったことか。


こうした精神面での病や苦痛は、身体をも滅ぼします。

つまり、尊い一人、一人の命を奪ってしまう。


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軽はずみに、「人格障害(とりわけ境界性人格障害に興味がある様子)」、さらには「精神異常者」と言って、何かの一つ覚えのように、人を誹謗中傷する際に、これらを登場させるのは、決して赦さない。


もう一度、言っておく。


決して赦さない。


赦されるものではない。


精神異常者であるとか、人格障害であるとか、軽はずみに口にする者。

私は手段を選ばず、それらを抹消する。

私は、人の命や、人の人生を、自分の憂さ晴らしや、妬み、恨みによって、操作しようとする輩は徹底的に抹消する考えである。


そんな輩でも、生きて存在しているのは勝手だが、私に執拗に関わってくるのであれば、私は徹底的にそれらを消尽させる。容赦はしない。


それを覚悟で、まだ暴言を吐くようであれば、一度自分の人生を考え直したらどうか。他人の人生を見て、それに荒唐無稽で救いようのない浅薄かつ低脳な思い込みをしていることを恥じる方が賢明だ。

人を誹謗中傷し、命を冒涜するのことでしか楽しみが見出せないというなら、私はそれらの輩に「救いを見出さない」。よって、そういう輩は絶対に赦さない。


人の命は、一人、一人。

ニュースでの、「被害者○○○人」というあの表現ですら嫌悪する。


一人、一人のかけがえのない存在があることを認識しなさい。

これは、何があっても譲らない。


人が命を絶つ状況がどんなものか。突発的なものであったとしても、それ以前に何かしらの闇を抱いている。精神面を軽はずみに口にし、またそれで人をからかうなどのふざけた態度は赦さない。


誰しも闇を抱く可能性がある。他人事ではない。

他人の人生を見て、それにあれこれ救いようのないことを述べてしか生きてゆけないとするならば、まずは自分の闇の所在を確認した方がよい。


これもまた親切な警告。


私は以前から綴っているように、闇は闇でも、「白い闇」を抱いている。

光を見出すような「暗い闇」ではない。

目を覆うような、閃光で目がつぶれるような、そんな白い恐怖の闇だ。


しかし、これは、精神面で異常をきたしているという部類でなかった。

換言すれば、異常をきたしていないからこそ、苦しむ。

正気の中での「狂気」を感じることの息苦しさは計り知れないものだ。


そして、また、人はいつでも「狂気」を持っている。

だからといって、「狂気」は何もすべて異常なものではない。

この「狂気」によって、突き動かされる力も存在する。


いつも言うことだが、私が愛するもののひとつに、人が何かに向き会う際の「真摯な姿」がある。


他人の人生にあれこれ言うことにしか楽しみを見出せないような悲惨な日々は捨てた方がよい。

「他者」が存在していること、それは決して自己の拡張でないことを思い知りなさい。

それほどまでに、重く、そして動かし難い存在があることを、徹底して感じなさい。


これは何も難しいことを述べているのではない。


私からは、まずは、このことのみを伝えておく。


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Joaillerie


私の人生のうちで、体を蝕む病によって倒れた人、一人一人。精神面のダメージによって生涯を閉じた、一人一人。私は、あなた、そして、あなた、一人一人を決して忘れません。私はもう少し生きます。生きる時間があるのだから。

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