「明るい部屋」で、写真撮影をしつつ過ごした後は、この目で見て、さらには写真におさめたい場所へ。
前の記事は、こちら。★
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早朝に日の出を眺めてから、朝食、さらに自分の姿も撮影し、昼頃にホテルから出発。
まずは、牡蠣の配送をホテルに手配してもらって、あちこちに送付。
その後、車で移動して広島市街地中心へ。
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ここだけは、もう一度見ておく必要がありました。
高校生の時に訪れて、初日にも夜に訪れて、最終日には必ず行こうと思っていた場所。
原爆ドーム。
真っ先に、「こんなに小さかったかな」と感じました。
かつて訪れた時よりも、広島市街地は高層のビルが次々と建設され、その中にひっそりと原爆ドームは佇んでいました。
原爆ドームは、世界遺産としては、所謂「負の世界遺産」のカテゴリーです。この呼称も非常に奇妙なものなのだけど、それはアウシュヴィッツを参照すればわかることでしょう。
よって、原爆ドームを景観的に保護することはない、ということです。
廃墟である原爆ドームは、耐震性での問題も多く、その保存に関してはさまざまな意見があります。
しかし、ここに、その姿を晒していることで、わたしたちは多くのことを感じ、考え、語らなくてはいけないと思います。
私はますます深刻になっていました。
時間とともに、この「廃墟」は、ますます「廃墟」と化している、と。
いったい、原爆ドームは、何度「廃墟」とならなくてはいけないのだろう、と考えていました。
廃墟の廃墟。それを目の当たりにした私たちに問われるものはあまりにも多い。
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原爆ドーム付近では、跡形もなく消尽した建物、そして夥しい数の生命体がありました。それは「原爆被害者」という一括りでは表現したくない――してはいけない、一人一人のかけがえのない存在があるのです。
かの瞬間に奪われた一人一人の命を想起し、生々しく肌で感じなくてはいけない。
今、この瞬間も、被爆者の苦しみは続いています。決して過去のものではないし、「ヒロシマ」という経験は続行しており、現代を生きるわたしたちも「ヒロシマ」は経験できるものであるということです。
原爆ドームを前にして、かつて高校生だったわたしたちは、黙り込んでしまいました。そして、今回の私もまた沈黙したのだけれど、この「ヒロシマ」という経験を刻むために、原爆ドームを写真に収めました。
目で見て、写真を撮影することで、また語り始める…それが必要だったのです。
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今回のHIROSHIMA(広島)の旅において、「視力」から思考することは、私における「ヒロシマ」の経験のひとつだったと言えます。戦後生まれの親のもとに生まれたわたしたちだけれども、「ヒロシマ」は今も経験であり続けるこのです。それを心に刻んで。私のHIROSHIMA(広島)の旅は終わり、また新たな始まりとなりました。
私は、今回、一人で視る=思考する時間の中にいました。
こうした旅は続けてゆきたいと思います。
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私には、研究という活動、学界において、何かを発信し、語ることができる喜びを改めて感じています。
たとえ多くの危険を伴っても、私は研究者として生きているのだから。
Joaillerie