慰安婦問題への政府の対応が、ここにきてもたついている。このまま謝罪を繰り返していては、問題の先送りになるばかりで解決はさらに困難になるのは目に見えている。この問題には国家と国民の名誉がかかっており、これを正しておくのは先人および子孫にたいする我々の責任でもあると思う。問題の重要性を真剣に考えれば、外交上の面子とか、責任者の責任追及とかを懸念して、いい加減な処理で済ませることがあってはならない。
慰安婦問題で正されねばならないのは、平成5年に出された河野談話であり、「河野談話が慰安婦の強制連行を日本政府自身が認めたものと誤解されていること」である。安倍首相が「慰安婦の強制連行を裏付ける証拠はなかった」と発言されたが、これは正しい発言である。慰安婦問題に関する日韓両国政府の調査報告にも、その証拠がなかったのは事実であり、それをアメリカの議員やマスコミ、駐日大使までもが、問答無用とばかりの態度で安倍首相に発言の変更を求めたのは明らかに不当である。日本外務省にも事実関係について充分な説明をしてこなかった責任がある。改めて最初からの経緯を追って、どこで間違ったのかを明らかにしたい。
本論の理解に資するために、先ず当時の公娼制度について触れておこう。
公娼制度
昭和32年に売春防止法が施行されるまで、日本では娼妓の登録制、稼業場所の許可、健康診断の義務など一定の規制の下で、売春は合法であった。公認の貸座敷地域は国内各地にあったが、朝鮮でも現在のソウルをはじめ、釜山、北鮮の平壌など主な都会にはどこにもあった。
そこでは、日本人女性も朝鮮人女性も多数が働いていた。戦地の慰安所も概ねこの延長線上にあったものと思う。この経営者達が女性を連れて戦地に行き、施設、移送、衛生管理などについて、軍の便宜供与を受けて営業をしていたのが実態であったと思う。
これについては多くの資料があるが、平成5年8月4日の日本政府による調査報告や『今村均回顧録』(芙蓉書房)にもその実態を伺える記述がある。公娼制度については種々意見があるが、わが国では江戸時代から公娼制度を採用していた。
明治維新の改革の際、「娼妓、芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付イテノ貸借訴訟総テ不取上候事」との布告によって一時娼妓を解放したことがあった(明治5年太政官布告295号)が、その後私娼の弊に耐えずして、旧制に戻った経緯がある。現在の売春防止法施行下にあっては、売春はもとより、勧誘、周旋なども違法とされ処罰の対象である。
河野談話公表に到るまでの推移
慰安婦問題の論議に大きな影響を与えていたのは、千田夏光氏の著作『従軍慰安婦』(昭和53年刊)と吉田清治氏の著作『私の戦争犯罪−朝鮮人強制連行』(同58年刊)であった。特に吉田氏の著作では朝鮮人女性を強制連行する模様を、奴隷狩りさながらの表現で写実的に記述しており、さらに吉田氏自身が韓国を訪れて、韓国人聴衆を前に土下座して謝罪したとのことである。
戦時中を体験的に知っている人たちは韓国人、日本人を問はず「何を、バカなことを言って」と思ったはずだが、戦時を知らない年代の人たちは「そんなことがあったのか」と、驚いたことであろう。しかし、吉田氏は強制連行の場所について、具体的に済州島の城山浦の貝ボタン工場と述べた部分があったために、嘘がばれることになった。
平成元年、前記吉田氏の著作の韓国語訳が出版されたとき、済州新聞の許栄善記者は同書の紹介記事を執筆している(8月14日)が、その中で「この本で記述されている城山浦の貝ボタン工場で15、16人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏付ける証言をする人はほとんどいない。
島民たちは、『でたらめだ』と一蹴し、この著作の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦のチョン・オクタン(85歳の女性)は『250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった』と語ったと述べ、さらに郷土史家の金奉玉は『1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。
この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる』と憤慨している」と述べている。この他秦郁彦教授が吉田氏との直接対話の結果、著作の信用できないことを明らかにしておられる(秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』230頁、233頁新潮選書)。
しかし、吉田氏の著作などを根拠にして一部市民団体や、弁護士などが韓国に渡り、こういう問題を提起しなさい、こういう主張をしなさい、などと元慰安婦をあおり、それを受ける形で日本の国会でも当時の社会党議員であった本岡昭治議員や清水澄子議員などが質疑を行ったりしていたが、この問題に政府が直接表面に出ることになったのは、平成4年1月であった。
加藤紘一官房長官の謝罪談話
慰安婦問題の処理を誤った原点は、平成4年1月の朝日新聞の記事に対する宮沢内閣の誤った対応にあった。
この日、朝日新聞は「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その数は8万とも20万ともいわれている」と報じた。これに驚いた宮沢内閣は記事の内容についての検討は殆どすることなく謝罪を表明したものと思われる。
続いて訪韓した宮沢首相は謝罪と反省を何度も繰り返し、同行記者との懇談では「あったことは、あったこととして、次のジェネレーションに正確に伝えていかなければならない。教育は確かにその1つ」と語っている。これが日本軍による強制連行を日本政府自身が認めたものとの誤解を世界に広げたのである。これこそ河野談話の原点であった。
当時の責任者であった人達、宮沢元首相、加藤元官房長官、谷野元外政審議室長、そして朝日新聞にも敢えて聞きたい。貴方方は今でも、あの新聞報道や、それに対する宮沢内閣の対応は正しかったとお考えなのか、ご意見を是非とも聞かせて頂きたい。この意見こそ、慰安婦問題究明の道を拓くことになると思う。日本の名誉回復のために是非ともご協力をお願いしたい。
重複もあるが、重要なことなので事実の推移を正確に述べておきたい。
平成4年1月11日、朝日新聞は「慰安所、軍関与を示す資料発見、民間任せ政府見解揺らぐ」と大きく報じたが、要点は2つあった。
第1は、それまで慰安婦問題に政府は関与していないと説明してきたが、政府の関与を示す資料が見つかった、である。
第2は、挺身隊の名で、主として朝鮮人婦女子を強制連行した。その数は8万とも20万とも言われている、であった。
この記事に驚いた宮沢内閣は、記事の実態についての確認も行わず、2日後の1月13日に、加藤紘一官房長官は次のような謝罪談話を発表した。
《一、関係者の方々のお話を聞くにつけ、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦の方々が体験された辛い苦しみを思うと胸のつまる思いがする。
二、今回従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与したと思われることを示す資料が防衛庁で発見されたことを承知しており、この事実を厳粛に受けとめたい(以下略)》
これに加えて、その直後に訪韓した宮沢首相は盧泰愚大統領との会談で謝罪と反省に8回も言及し、更に同行記者団との懇談では「あったことは、あったこととして次のジェネレーションに正確に伝えていかなければならない。教育はその1つ」と語っている。
一体、加藤官房長官や宮沢首相は、挺身隊の名で8万とか20万名の朝鮮人女性を強制連行した事実があったと考えてこのような謝罪と反省を口にしたのか。少なくとも外国では、朝日の記事を日本政府が事実として、全面的に認めたものと受け取られたのである。これによって「日本政府による強制連行と、20万人」という数字が定着し、その後は独り歩きするようになった。
宮沢内閣の、この対応は明らかに軽率であり、間違っていた。これは外務官僚の不勉強と情報収集、分析の不足によるものであった。加えて、このような謝罪談話の今後の外交に及ぼす影響についての考慮が全く欠けた対応であった。
「政府の関与を示す資料発見」の記事については、発見されたという資料を実際に見れば、全く問題にする必要のない資料であることは、すぐ分かるはずである。「挺身隊の名で強制連行した」という記事は全く根拠のないものであり、読者に誤解を与えることを目的としたものと断じてよいものであった。
政府の関与を示す資料とは、慰安婦募集に関わった業者の一部にトラブルを起こしたりしたことがあったため、「慰安婦の募集は適正になすように業者を指導せよ」と軍の中央から出先に宛てた通達であり、常識的なもので、特に取り上げて問題にするほどのものではなかった。
挺身隊とは戦時中、労働力不足に対応して総動員業務に動員されたものであるが、総動員業務とは総動員法に列挙された総動員物資の生産、輸送、保管等の業務であった。従って慰安婦が徴用の対象になることが制度上あり得ない。また、韓国政府も調査報告で、挺身隊と慰安婦は無関係であると述べている(日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書)。
仮にも8万とか20万の女性が強制連行されたとすれば、数十万から百万の目撃者がいるはずである。戦後早々から、これに対する抗議運動が大きく展開されて当然であろう。目撃者の証言など聞いたこともない。朝日がこれを知らぬはずがない。この記事は慰安婦問題について世論誤導を目指したものと断じてよいものであった。
河野洋平官房長官談話
政府は平成5年8月4日に慰安婦問題について強制連行を認めた「河野談話」を公表した。さきの加藤官房長官の謝罪談話は、首相の訪韓を間近に控えた時間的な制約もあって充分な調査ができなかったという事情があったとしても、河野談話は公表までに十分な時間があり、この問題について日韓両国政府による、それぞれの調査結果も明らかになっている。
これらの調査資料を基礎にして、あのような河野談話の立案、決定がなされたとすれば奇怪としか言いようがない。公表された日韓両国の調査結果と河野談話には多くの矛盾が見られ、整合していないからである。
韓国政府は、1992(平成4)年7月31日に「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表している。この報告書では、それまで韓国政府が強く要求していた強制連行について、吉田清治氏とか千田夏光氏など日本人の著作を引用して強制連行を推定する手法を採ったり、元慰安婦13名の証言を裏付け調査も行わずに列挙して強制連行を説明しようとするものであった。
当時、韓国内では戦時中を体験的に知っている人がまだ多数おり、この人達の目撃証言こそ実態究明の決め手となり得るものであったが、この中間報告では強制連行の根拠をそこに求めた記述はなく、強制連行の根拠として説得力のある記述は全く見当たらない。注意深く読むと、この報告書は強制連行の立証に確信のないことを、実質的に認めたものと判断できる内容であった。
日本政府は、平成4年7月6日に第1次調査を、平成5年8月4日の河野談話と共に「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」と題した第2次調査報告書を発表している。
第1次調査報告は、防衛、警察、外務、文部、厚生、労働の各省庁の保管する資料を調査し127件の資料が発見された。これを平成4年7月6日の記者会見で、資料を配布して加藤官房長官が説明、公表した。この中には慰安所の設置、慰安婦の募集取り締まり、慰安所の築造、慰安所の経営監督、慰安所の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書の発行などの資料があり、政府の関与は明らかになったが、韓国政府が問題にしていた強制徴用の裏付けになる資料はなかった。
第2次調査はB4判30頁の資料で、この中にも強制連行を証するものはなかった。逆に300円から1000円を家族に払って22名の朝鮮人女性を集め、女性を連れてビルマに行った、という、妻及び20名の慰安婦とともに捕虜になった民間人慰安所経営者の証言がある(「連合軍の調査報告書」)。
また、1943年後半陸軍は負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は帰国して良い旨の命令を出した。これにより帰国をゆるされた慰安婦がいた(「米軍戦争情報局報告書」)。さらに、前借金の弁済が終われば、自由に朝鮮に帰ることができた、という記述もある(「連合軍調査報告書」)。
このように日本政府の2度にわたる、手を尽くしての調査によっても強制連行の証拠、証言は得られなかった。しかし、韓国政府は加藤官房長官の謝罪談話や宮沢総理の盧泰愚大統領への謝罪、さらには同行記者団との懇談における発言などを「質」にとり、日本政府が自発的に強制連行を認めるよう外交攻勢をかけ続けていた。
これに対して、その間に見せた日本の外務官僚の姿勢はどうであったか。責任の自覚はあったのだろうか。平成5年2月11日の読売新聞は「今までのところ強制連行の十分な裏付け資料がなかったからといって、突っぱねるだけでは解決しない、との意見が強まっている」と報じ、さらに「政府は第2回調査結果公表の際、従来の方針を転換し、旧日本軍が朝鮮人慰安婦を強制連行した可能性について言及する方向で検討に入った」と報じている。
そして、3月4日の同紙では、「政府はこれまでの姿勢を転換して、強制連行の事実を認める方向で検討に入っているが、その証拠となる資料が発見されないことから、対応に苦慮している」と報じている。外務官僚はこの段階で既に、たとえ証拠、証言があろうがなかろうが、強制連行を認める方針を決定していたのではないだろうか。
先ず、さきに述べた平成元年8月14日の済州新聞に掲載された吉田清治氏の著作の内容について疑問を提起した許栄善記者の執筆を無視している。これは、ソウルの日本大使館からも情報としても上がってきているはずだが、たとえそれを見落としたとしても、平成4年5月に発行された月刊誌『正論』6月号で秦郁彦教授がその内容を発表しておられるし、産経新聞もこれに関する記事を報道している(4月30日)。
外務省の関係者は、これによって吉田氏の著作の内容にも疑問を抱き、さらには平成4年1月に公表した加藤官房長官の謝罪談話の再検討に、速やかに取りかかるべきではなかったか。更に付け加えれば、このことは、あったとすれば朝鮮での出来事であるが何百年も昔のことではない。そして目に見える具体的な事象である。当時を体験的に知っている人がまだ多数生存していた時期であるのに、外務省はこれらの人を直接訪ねての聞き取り調査をすることなどをどうして怠ったのか。その手順を踏んでこの問題の処理にあたれば誤りは確実に回避できたはずである。
このような状況でありながら、日本政府は「強制連行は容認は出来ない、または強制連行はなかったと考えざるを得ない」と、どうして韓国政府に申し入れができなかったのか。加藤談話で謝罪しているので、あれは勘違いだった、とは今さら、面子の上からも言えないと考えたのか。
韓国政府の調査報告によっても、日本政府の2度にわたる調査報告によっても強制連行を証する資料は全くなかった。それを、敢えて加藤談話を引き継いで、強制連行を認める決定をしたのは、どんな理由によるものか。考えられるのは次のようなことであろうか。
1、謝罪した前言を、いまさら翻すことはできないと面子にこだわったのか。
2、連日官邸に押し掛けたデモ隊の威嚇に屈したのか。
3、韓国政府の要請が強いので、応じるのもやむを得ないと考えたのか。
以上のどれであったにしても、外務官僚の姿勢は無責任過ぎるし、国民を見下した傲慢さすら感じさせるものであり、絶対に許されることでない。
結局、このような経緯で韓国政府の要求を容れ、16人の元慰安婦の聞き取り調査で強制連行を認めることになったが、この聞き取りは非公開で行われ、裏付け調査をすることも認められないものであった。