連合赤軍事件から40年
今年は連合赤軍事件から40年。そして、社会にその実像が伝わらぬまま歴史から消されていくことに異議を唱えるように「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を制作した若松監督も事故で還らぬ人となってしまった。
今年、5月13日に「連合赤軍事件の全体像を残す会」主催の「浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」シンポジウムが開かれましたが、以下、そこでの当事者たちの発言。
青砥幹夫(赤軍派)『連合赤軍が、その中の人間に対して、死を突きつけてもいいんだという状況があったことは確かだと思う。それに対して抵抗する気持ちも当然たくさんあった、ためらいもあったが、一方で共産主義化とか、援助のための暴力であるとか理屈を受け入れていく自分もあった。ためらいと、そういったものを受け入れていく自分があった。』 植垣康博(赤軍派)『略。当時は党のためとか言われると、そこで思考停止という人間でした。残念ながら、それ以上、物事を考えることができなかった、ということです。もう一つは、自分自身が武装闘争の中で死ぬんだ、という思いでいるので、自分が死ぬということを前提にすると、他人に対しても死を強制していくということに対して、それ程の緊張感が無かったという面もある。』 雪野建作(革命左派)『その当時、我々がやろうとしていた武装闘争、その思想、それを私が支持していた、そこに責任を感じる。そういう闘争を支持していたから、準武力的な闘争を一部含めることについては同意していた。それについて責任を感る。だから、銃を持ってきたとか、それを作ったとか、渡したとか、それよりも責任を感じるのが、当時の我々の政治思想、軍事方針。』 ◇
「T君の死を知らぬ父上の呼掛けを 籠城の吾ら俯(うつむ)きて聞く」 坂口弘『歌稿』
「T君」とは寺岡恒一さんのことで、すでに浅間山荘に籠城している坂口たちによって殺害されていたのですが、まだその事実を知らぬお父さんが、恒一さんも中にいるものと思い、武器を捨てて出てくるように必死で呼掛けていた時の気持ちを、のちに坂口弘が詠んだもの。
坂口弘は「恒一君の父親の呼掛けの言葉が我々5人の胸に重くのしかかり、胸中つらく苦しかった」と述べている。
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連合赤軍事件の当事者たちが、特に他の人と違っていたとは思いません。本当は、人が人として尊重され生きられる社会を、より強く望んでいた人たちのだと思います。
あの頃、私も、共産主義には興味を持ったものの、本を読んでも理解するのは難しく、また、ロシア革命の初期から、ボルシェビキは地域ソビエトを弾圧し、強力な中央集権化をはかったことを知ってから、あまり興味を持てなくなっていました。そして、学園闘争で、個人を主体とした全共闘運動が出現したときは、とても希望を感じたものです。
高校の頃のリーダーだったA君も、某新左翼セクトのシンパで、熱心に活動していたのを思い出します。
ある日、私たちの活動拠点であった部室に行くと、彼が、仲間の女性たちにいっせいに非難されていました。
彼は、すでにセクトの大学生たちの集会にも出ていましたが、その前日のデモで、初めてゲバ棒を持ち、機動隊とぶつかったようでした。
彼は、「俺にはできなかった」と言っていたので、それは誰だってこわくてできないよ、と私は思いましたが、そうではありませんでした。
「いくら、相手が機動隊でも、相手にゲバ棒を振り下ろすことなんか、俺にはできない」と言いながら涙を流していました。
しかし、まわりの女性たちは、「そんなことははじめから分かってることでしょ。そんなことで革命なんてできるわけないじゃない。」と彼を責め続けました。
私は、彼女たちに同調はしなかったものの、彼を弁護することもできませんでした。
彼は、その後、大学へは行かず、自分の道を歩んでいきました。
なぜあの時、彼をかばえなかったのか、と後悔します。
ただ、あの頃は、私たち社会を何とか変えたい、と思う人間には、まだ、「革命」は絶対的なものだったと思います。
それを信ずるものにとっては、「命」も、それに比べれば小さなものとの意識は少なからずあったと思います。
あれから40年、今の脱原発デモを見ていると、社会の進歩を感じます。
人を傷つけずにすむ社会を私たちは望んでいます。
そして、その目標にふさわしい方法で、社会を変革することも可能となりつつあると思います。
やはり、リーダーのA君の感性は、とてもまともだったのだと思います。
連合赤軍事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。 転載元: 無心 |
コメント(1) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。
あの頃は、良くも悪くも、国を憂いた行動と理解出来ますが、
その後の闘争で、ゲリラ的に犯罪を繰り返し、プロ市民と化した?
例えば、中核派などは、絶対に根絶させる可きですよね。
2012/10/30(火) 午後 2:09 [ 短足おじさん ]