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1   巴里の憂鬱
  著・ボードレール
  訳・三好達治

  出版・新潮文庫
  初版・昭和二十六年三月十五日
  発行・平成二十三年九月十五日 第五十六刷

目次 ◇アルセーヌ・ウーセイに与う (1)異人さん (2)老婆の絶望 (3)芸術家の告白 (4)剽軽者 (5)二重の部屋 (6)人みな噴火獣を負えり (7)愚人と女神 (8)犬と香水壜 (9)けしからぬ硝子屋 (10)夜半の一時に (11)檻の中の女と気取った恋人 (12)群衆 (13)寡婦 (14)老香具師 (15)菓子 (16)時計 (17)毛髪内の半球 (18)旅への誘い (19)貧者の玩具 (20)妖精の贈物 (21)誘惑 ――或は恋の神、富の神、名誉の神 (22)黄昏 (23)孤独 (24)計画 (25)美女ドローテ - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - (26)貧者の眼 (27)悲壮なる死 (28)贋せ金 (29) 寛大なる賭博者 (30)紐   (エドゥーアル・マネに) (31)天稟 (32)酒神杖 (フランツ・リストに) (33)酔え (34)ああ既に (35)窓 (36)描かんとする願望 (37)月の恩恵 (38)何れが真の彼女であるか (39)名馬 (40)鏡 (41)港 (42)情婦の画像 (43)意気な射手 (44)スープと雲 (45)射撃場と墓地 (46)円光喪失 (47)小刀嬢 (48)どこへでも此世の外へ (49)貧民を撲殺しよう (50)善良なる犬(ジョセフ・ステヴァン氏に) ◇エピローグ --------------------------------------------------------------------------------------  ◇アルセーヌ・ウーセイに与う       我が親しき友よ、私はここに一巻の小著を貴兄に贈ろうとする者である。が、これに    就て、もしも世人から首尾の備わらないものだなどと云われてはいささか迷惑である。    なぜと云って、反対に、ここでは総てが、同時に、代る代るまた相互に、首でもあり    尾でもあるのだから。そして願わくは、このような組合せが、我々すべて、貴兄にも、    私にも、読者にも、どのような喜ばしい便乗を齎すかを考えてみてくれ給え。    (略)     音楽的であって拍節も押韻もなく、而も魂の叙情的抑揚のため、幻想の起伏のため、    意識の飛躍のために、適用するに足るべく十分に柔軟して且つはまた充分に錯雑せる、    詩的散文なるものの奇蹟を、そもそも我々のうちの何人が、その野心に満ちた日に於いて    夢想しなかっただろうか?     そうしてこの執拗なる念願の生じたのは、わけてまた、あの諸々の大都会への往来と、    それらの相錯綜した無数の交渉とによっている。友よ。かつて兄貴自らも、あの甲高い    硝子売りの呼声を一つの歌曲(シャンソン)に詠じようとか、街路の高い靄を透して、    その声が屋根裏部屋に送ってくる、くさぐさのもの悲しい暗示を、叙情的な散文の    うちに叙述しようとか、試みたことはなかったか?     さてしかしながら、真実を告げるなら、私は私のこの宿望が、果して私に成功を    もたらしたかどうかを危うんでいる。私はこの仕事に着手するや否や、ただに私が、    あの神秘にして燦爛たる私のお手本に、遥かに及ばないのを覚えたのみならず、なお    また私が、それとは似ても似つかぬ何ごとかを、(これをしももしも何ごとかと    呼び得るなら、)なしつつあるのに気づいたのである。恐らく余人に於いては、    この偶然にも誇りを感じもするだろう。しかしながら、それはただ、その為さんと    企てたところのものを正しく完成するを以て、詩人の最大名誉と見なす魂を、    ひたすらに忸怩(じくじ)たらしめるのみである。                                       親愛なる友                                        C・B -------------------------------------------------------------------------------------- (1)異人さん    ――お前は誰が一番好きか? 云ってみ給へ、謎なる男よ、お前の父か、お前の母か、      妹か、弟か?     ――私には父も母も妹も弟もいない。    ――友人たちか?     ――今君の口にしたその言葉は、私には今日の日まで意味の解らない代ものだよ。    ――お前の祖国か?     ――どういう緯度の下にそれが位置しているかをさえ、私は知っていない。    ――美人か?     ――そいつが不死の女神なら、欣んで愛しもしようが。    ――金か?    ――私はそれが大嫌い、諸君が神さまを嫌うようにさ。    ――えへっ! じゃ、お前は何が好きなんだ、唐変木の異人さん?    ――私は雲が好きなんだ、……あそこを、……ああして飛んでゆく雲、……あの      素敵滅法界な雲が好きなんだよ! -------------------------------------------------------------------------------------- (2)老婆の絶望     その皺だんだ小さな老婆は、恰(あたか)も彼女と同じように、小柄な老婆と同じように    か弱い、そうしてまた彼女と同じように歯もなく髪もない、この可愛い幼児を、誰もが    その前でちやほやし、世間の人が誰彼なくみなその機嫌をとろうとする幼児を見ると、    つい彼女も、気も晴れ晴れするのを覚えた。     そうして彼女は、幼児の前に近寄っていった、晴れやかな笑顔をつくって、微笑みかけ    ようとしたのである。     ところが幼児は、この齢すぎた優しい婦人の愛撫の下で、恐怖して身を悶え、家中に響き    渡る金切声で泣き立てた。     そこでその優しい老婆は、永遠の彼女の孤独の中に身を退け、そうしてとある片隅で涙を    流した、こう考えながら、「ああ! 私たち、不幸な世過ぎた女共には、もはや人の気に入る    時は過ぎたのだ、あのような無心の者にさえも、そうして私たちは、私たちの愛そうとする    幼児にさえも恐怖を与えるのだ!」 -------------------------------------------------------------------------------------- (3)芸術家の告白          秋の日の黄昏時は、何と心に滲みることか! 嗚呼! 苦痛なまでに心に滲みる!    (略)     とまれ、これらの思想が、私から出づるにもせよ、それらの物象から生まれ出づる    ものにせよ、ややあって、それは余りにも緊張したものとなる。快感の裡に、精力が    不快をつくり、消極的な苦悩を創造する。既にして、過度に張りつめた私の神経は、    ただわずかに、甲高い苦痛な振動をつづけるのみである。     今や天空の深さが私を狼狽させる、その清澄さが私を憤らしめる。海の無感覚と風景の    不動の様が、私をして反逆を試みしめる……。嗚呼! 永遠に悩まなければならないのか、    或は、身を以て、永遠に美から逃れ去らなければならないのか? 私を釈放せよ! 自然よ、    仮借なき魔女よ、常に勝利を奪う我が敵手よ、私の希望と私の誇りとを、誘ない試みること    をやめよ! 美の探求とは、そこで芸術家が打負かされるに先だって恐怖の叫びをあげる、    一つの決闘である。      -------------------------------------------------------------------------------------- (4)剽軽者     それは騒然たる新年の巷であった。    (略)     そして私は、忽ち我を忘れて、仏蘭西の機智を残らずその身に集めたかの観のある、    特別仕様のこの馬鹿者に対する、測り知られぬ憤懣に捉われてしまった。      -------------------------------------------------------------------------------------- (5)二重の部屋     垂れ籠めたその雰囲気が淡紅微青の色を帯びた、一個の夢想ともいうべき部屋、飽く    までも精霊的なる一室。    (略)     如何なる悪魔の好意によって、私は今かくも、神秘と、静寂と、平和と、香気とに    とりかこまれているのであろうか? おお、至福! 凡そ我々が人生と呼ぶころのものは、    その幸福の極みにあっても、今や私の、分また分、秒また秒に、認識し味得する、この    至上の生命と、決して相通ずる何ものをも有していない!     否! 既にして分もなく、既にして秒も存しない! とく時間は消え去り、支配する    ものはただ永遠、陶酔の永遠のみ!    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (6)人みな噴火獣を負えり     灰一色の空の下、道もなく芝生もなく、薊(あざみ)も蕁麻(いらぐさ)も生えていない    埃っぽい広野の中で、私は一群の人々が身を屈めて進んでゆくのに行会った。     彼らはいずれもその背中に、麦粉や石灰の嚢か、さては羅馬騎兵の軍装にも等しい重量の、    巨大な噴火獣(シメール)を負っていた。     しかもその奇怪な獣類は、ただおとなしく負ぶさっているのではなく、それどころか、    弾力のある力強い筋肉で、その上に覆いかぶさって、人々を締めつけているのである。大きな    二つの爪で、その乗物の胸に獅噛みついているのである。そうしてその異様な頭を、往昔の    戦士たちが、それによって敵の恐怖を増そうとしたあのすさまじい兜か何ぞのように、    人々の額の上に乗せているのである。     これらの人々の一人を呼びとめて、私は彼に、こうして彼らがどこへ行こうとするのかを    訊ねてみた。彼は私に答えるのであった、彼も、また他の人々も、それに就いては何も知って    いない、ただしかし、彼らは確かにどこかへ行こうとするのである、なぜといって、彼らは    みな進んでいこうとする打克ちがたい欲求に駆られているのだから、と。     特にまた奇妙なのは、これらの旅人の何人も、その頸に懸りその背中に獅噛みついている    残忍な獣類に就いては、いっこう焦燥の色を示していないことであった。まるでそれを彼ら    自身の一部分とでも見なしているといった風に。これら総ての、疲労した真摯な顔は、いずれも    みな絶望の影は浮かべていない。陰鬱な空の円天井の下を、空と同じく荒涼たる地上の塵埃に    足を埋めて、彼らはみな常に希望を抱くべく罰せられた者の、諦めに満ちた面もちをして、    その行路を辿ってゆく。     そして行列は私の傍を過ぎ、この遊星の円みある表面が、人の眼の好奇心に隠れ去るところ、    かの地平線の雰囲気の中に消え去ってしまった。     そしてなお暫くの間、私はこの神秘を了解しようとして専念した。けれどもやがて抵抗しがたい    無関心が私の上に襲い来り、ついに私を屈服した、彼らがその噴火獣(シメール)によって圧し    潰されるよりも重たく。 -------------------------------------------------------------------------------------- (7)愚人と女神     何という輝かしい日であろう! この広々とした公園は、いま燬きつく太陽の眼の    下に喪神している、恋愛の支配下にある青春さながらに。    (略)      そしてその眼が告げている。「この私は、人間の中で最もつまらない、最も孤独な、     恋愛も友情もなくしてしまった、その点では、最もくだらない動物よりもなお遥かに     劣った者です。しかしながら私も、この私もまた、不朽不滅の美を感じ、それを理解     するために、この世に生れて来たのです! 嗚呼! 女神よ! 私の悲哀と、身も世も     あらぬ悩みを憐れみ給え!」     しかしながら情れない女神は、その大理石の眼で、私の知らない何ものかを、遠くの    方に眺めている。 -------------------------------------------------------------------------------------- (8)犬と香水壜    「犬よ、可愛い犬よ、私の親しい犬ころよ、ここへおいで、街第一の香料店買ってきた、    この良い香料を嗅いでごらん」    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (9)けしからぬ硝子屋     世には純粋に観照的で、全く行動に適しない人々がある。しかしながら、時として、    彼らもまた、ある神秘な不可解な衝撃のもとに、恐らく彼ら自らが不可能と考えていた    素早さで、行動に移ることがある。    (略)    「――何だい? お前は色硝子を持っていないんだね? 薔薇色の、赤の、青の、魔術の    硝子、天国の硝子はどこのあるんだい? けしからんじゃないか! 大きな顔をして    貧民区を売って歩きながら、その癖人生を美しく見せる硝子を持っていないなんて!」    そして私はよろめいて不平を呟く彼を、階段のところまで激しく押しやった。    (略)     凡そかかる神経質なる悪戯は、ともすれば危険を伴わないものではない、また、    しばしば、高値にそれを支払わなければならない。しかしながら、一瞬のうちに    無限の快楽を見出した者にとって、永遠の刑罰がそもそもまた何であろう! -------------------------------------------------------------------------------------- (10)夜半の一時に          遂に! ただ一人である! 聞えるものとては、もはや時刻外れの三四の辻待馬車の、    疲れた轣轆の音より外には何もない。 今より幾時間か、我らは、休息はともかくとして、    沈黙をもちうるだろう。 遂に! 人の顔の暴虐は過ぎ去った。私はもはや私自身によって    しか悩まされはしないだろう。     遂に! 私に、暗黒の浴みの中で疲労を休めることが許された! まず、しっかりと    錠前を下ろそう。私には、こうして鍵を廻すことが、私の孤独を増し、現に世間から私を    隔てている城壁を、一層堅固にするように思われる。     恐るべき生活よ! 恐るべき都会よ! 今日一日の仕事を再び数えてみれば、私は数人の    文学者と会見したが、その一人は私に、陸路によって露西亜に行くことが出来るだろうかと    質問した。(勿論彼は露西亜を島だと考えている)ある雑誌の主筆と寛大に議論を戦わしたが、    彼はどんな駁論に対してでも、「我社こそは、清廉潔白の士を集めているんですから」と    答えた。そう答えるついでに、他の新聞雑誌が悉く無頼漢によって、編纂されているとでも    云うかのように。 また、二十人ばかりの人々に挨拶したが、その十五人までが初対面の人物    であった。そして、丁度その数だけ握手を交したが、予め手套を買っておくという準備をした    のではない。それから驟雨の間、時間つぶしに、ある軽業娘の部屋に上がって行ったが、    彼女は私に、ヴェニュストルの扮装を考案してくれるようにと依頼した。私はまたある劇場の    支配人の鼻息を窺いに出かけたのだが、彼は私を送り出して、「では、Z‥‥を訪ねて見給え、    きっとうまくゆくでしょう、何しろあの男は、私の方の作家仲間で、一等鈍い、一等頓馬な、    そして一等有名な人物ですから、彼にお話になれば、何とかものになるでしょう。会ってらっ    しゃい、それからまたお眼にかかりましょう」と云った。それから私は、決して自分が犯した    ことのない、数々の忌まわしい行為に就いて自慢をした。(なぜだろう?)そして卑怯にも、    喜んで私が犯した他の悪行を否定した。空威張の咎、虚飾の罪。またある友人には容易い助力を    拒絶しておきながら、まるで碌でなしのために私は紹介状を書いてやった。嗚呼! やっと    これでおしまいだろうか?      一切の人々に不平を抱き、私自らにも不満を感じ、今、夜半の孤独と寂寞の中に、私は私    自らを恢復し、暫く矜恃の中に溺れたいと希う。私が愛した人々の魂よ、私が賛美した人々の    魂よ、私を強くせよ、私を援けて支えよ、この世の虚偽と腐敗気とを、私より遠ざからしめよ。    この世の虚偽と腐敗気とを、私より遠ざからしめよ、そして汝、主なる神よ! 願わくは聖龍    あって、私がせめて人間の最下等の者ではなく、私の軽蔑する人々よりも劣れる者ではないと、    私自らに説明する、よき数行の詩句をして、この手に成らしめ給え。 -------------------------------------------------------------------------------------- (11)檻の中の女と気取った恋人    「恋人よ、実にあなたはきりもなく、容赦もなく私を疲らせる。あなたの溜息つくのを    聞く人は、あなたが落穂拾いの七十歳の老婆よりも、酒場の戸口で麺麩屑(パンくず)を    拾い集めている年老いた女乞食よりも、より多く悩んでいるというでしょう。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (12)群衆     大衆の泉に浸るということは、誰にも許されている能力ではない。群衆を楽しむことは、    一つの芸術である、嘗て、その揺籃の中に於いて、妖精が、仮装と仮面への興味、定住居    への憎悪、旅への情熱を吹きこんだ者のみが、ひとり檀(ほしいま)まに、あまねく人類を    介して、生活力を楽しむことが出来るのである。     大衆と孤独と、この二つの言葉は、生気あり詩想豊かなる詩人にまで、共に相等しく    互いに置き換えられるべき言葉である。その孤独をして殷賑(いんしん)ならしめる途を    知らない者は、また、かの東奔西走する群衆の間に在って、彼の孤独を保つ途をも知らない。     詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受    する。彼は欲する時に、肉体を求めてさ迷う魂の如く、人の何人たるを問わず、その人格    に潜入する。ただ彼一人のために、人はみな空席に外ならない。そしてまた、ある席が彼    にまで塞がれて見えるならば、それは彼が、それを眺めて、既に訪れる努力にも値しない    ものとしたのに因る。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (13)寡婦          ヴォヴナルグは云った、公園という公園には、必ず遠く離れて、愉快な人々や閑散な    人々の、思い遣りのない視線を避けた、失敗した野心、不幸な発明家、流産した名誉、    砕かれた心の、その中で嵐の最後の溜息がなお怒りつづけている、すべての閉ざされた    狂おしい心の、主として訪ねてゆく小径があると。そしてその蔭深い隠れ家こそ、人生の    跛行者たちの会合所であると。     詩人及び哲学者は彼らの、飽くことを知らぬ探索の眼を、好んでこのような場所に注ぐ。    彼らが訪れるのを屑(いさぎよ)しとしない場所があるとすれば、それは今や私が暗示した    ように、まさに富める者たちの歓楽場に外なるまい。その所詮空虚なる喧騒は、彼らを誘う    何ものももっていない。反対に彼らは、すべての弱きもの、敗北せるもの、悲しめるもの、    寄辺なきものに向って、抗しがたく自らの牽引されるのを、感ずるのである。     経験ある眼は決して欺かれはしない。それは直ちに、硬直(ひきつ)った顔、または打ち    萎れた顔に、落ち込んで艶のない、または最後の努力に輝いた眼に、深い数多くの皺に、    かくも緩慢な、またはかくも苛立たしい歩みぶりに、裏切られた恋愛の、認められない    犠牲の、酬いられない努力の、沈黙と謙抑とを以て耐えられた飢えと寒さの、数限りもない    物語を読みとるのである。     君は嘗て、寡婦が人けのない腰掛の上に、貧しい寡婦が、休んでいるのを見たことが    あるか? 喪服をつけていると否とに拘わらず、それは容易に解るものだ。その上また、    貧しい者の喪服には、常に何か不足な点、調和を欠いたところがあって、それが一層その    姿を痛ましくしているものである。悲哀に関してでも、なお余儀なくつましくしなければ    ならないのだ。富める者なら立派にそれを着飾るけれども。     その最も不幸な、また最も人を痛ましめるものは、まだ心を分つすべもない頑是ない子供の    手をひいてゆく寡婦であるか、または全く一人身の寡婦であるか? 私には解りかねる……。    私はある時、そのような悩める一人の老婦人の後に、幾時間もついていったことがある。     小さい擦り切れた肩掛の下の、強張ったまっ直ぐなそのからだ全体に、禁欲主義者の誇り    かな容子を、彼女は見せていたのである。     確かに彼女は、その絶対の孤独によって、年老いた独身者の日常を強いられている。そして    その習慣の男性的な特徴が、神秘な圭角を、その厳めしさにつけ加えているのである。私は    彼女がどんなに見窶(すすぼ)らしいカフェで、どんな風に朝食をすませたのかを知らない。    私は新聞閲覧所まで彼女の後についていった、そして彼女が、嘗ては涙に熱したことのある    眼を輝かせて、新聞紙上に、人知れぬ激しい興味の報道を探している間、私は永らくそれを    窺っていた。    (略)     不思議な光景である! 「実に、彼女の貧困は、よしそれが貧困であるとして、かかる    見苦しい倹約を許してはならない。あのかくも高貴な容貌が、それを私に告げている。どうして    彼女はまた、こんなに彼女が輝かしくも眼にたつ場所に、好んで止まっているのであろうか?」    と私は考えた。     しかしながら、好奇心から彼女の傍らを通りつつ、私にはその理由の推察がつくように    思われた。この立派な寡婦は、彼女と同じく黒い服装をした子供の手をとっていた。たとえ、    どんなに入場料が些少であろうとも、その値は恐らく、この小さな者への必要品の一つを    支払うに足り、且つはまた、贅沢品の、玩具の一つを購うにも足るのであろう。     彼女は徒歩で帰ったであろう。考えながら、夢みながら、ひとり、いつもただひとりで、    何となれば、子供はただ騒々しく、我がままで、優しさも辛抱もなく、まるで動物と同じ    ように、犬や猫と何の変りもなく、それはついに、寄辺のない苦悩の頼り手とはなることが    出来ないから。 -------------------------------------------------------------------------------------- (14)老香具師     家具を廃した人々は、到るところに居並び溢れて遊んでいた。それは香具師、手品師、    見物興行者、露天商人等が、一年中の不景気を取戻そうと、永い間待ち構えていた祭礼の    一つであった。    (略)     しかし、如何に幽玄な忘れ難い眼ざしを、彼が、この見苦しい悲惨の数歩手前で立ち    どまってしまう群衆と、燈火との、うつろいやまぬ波浪の上に、動かしていることか!     私はヒステリーの怖ろしい手で、私の咽喉を締めつけられるように感じた。そして、落ち    ようとしても落ちない涙に、両眼が遮られるように思った。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (15)菓子     旅行中のことであった。私の置かれていた周囲の風景は、抗しがたい気品と偉大さとを    備えていた。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (16)時計     中国人は猫の眼のうちに時間を読む。     一日、南京城外を散策しつつ、懐中時計を忘れたのに気づいた宣教師が、とある少年に    時間を尋ねた。     頑是ない中華の少年は一瞬躊躇っていたが、また思い直した様子でこう答えた。    「只今お返辞いたしましょう」そして間もなく、大きな逞しい猫を両腕に抱いて、再び    現れた。そして人の云うように、その白眼を見ながら、逡巡する気色もなく、きっぱりと    こう告げた、「もうすぐ正午でしょう」それは合っていた。    (略)     時に、ねえ猫族、これこそまさにお褒めにあずかる値打のある、そしてまたあなた自身の    ように仰山な、恋歌ではありますまいか、まったく私は、このような気障(きざ)な口説を    刺繍するのに、たいへん歓びを覚える者です。といっても別段あなたに、その返礼を求める    訳ではありません。 -------------------------------------------------------------------------------------- (17)毛髪内の半球     いつまでも、どうかいつまでも、私にお前の髪の毛の薫りを呼吸させておくれ。渇いた人が    泉にむかってするように、その中に私の顔を、すっかり浸らせておくれ、数々の思出を虚空に    浪うたせるために。     総て私の見るものを、お前の髪の毛の中に、総て私の触れるものを、総て私の聞くものを、    もしもお前も知ることの出来るなら! げに、人々の魂が、楽の音の上を旅する如く、私の魂    は、薫りの上を旅してゆく。     お前の髪は、帆布と帆檣(マスト)に満された、完たき夢をかくしている。それはまた大空が    一層青く、奥深く、空気が果実と、木の葉と、人々の皮膚の匂いを湛えている、快い国土の方    へと私を伴れてゆく。     お前の髪の毛の大洋のあなたに、私は港を暫見する。うら悲しい唄声と、あらゆる国の勇ま    人々と、そうして、四季を変らず熱のたたえられたその涯しない空を劃して、複雑な、繊細な    建築の姿を浮べている。あらゆる形の船舶と、それらの集り輻輳している一つの港を。     お前の髪の毛を愛撫していると、私はまた思い出す、美しい汽船の一室の、花甕と水甕の    間に長椅子の上に身を投げて、港のかすかな横揺れに揺られつつ、嘗で過した、あの永い時間    のけだるさを。     お前の髪の燃えさかる炉の中に、私は呼吸する、阿片と砂糖にまじった煙草の薫りを。お前    の髪の夜のあなたに、私は見る、熱帯地方の青空の、無限の光り輝くのを、お前の髪の、産毛    の生えた岸辺に私は酔い痴れる、瀝青と、麝香と、椰子油の入り混じった薫りに。     こうして私にいつまでも、黒くて重たい、お前の束髪を噛ませておくれ。弾力のある、自由    にならない、お前の髪を噛んでいるのは、私には思出を食べているような気持がする。     -------------------------------------------------------------------------------------- (18)旅への誘い     そは、宝の国と人の呼ぶ荘厳善美の国である、年老いた恋人と共に、私の訪れたいと    夢みるのは。我らの北方地方の霧に溺れた、比類ない国、そは西洋の東洋とも、    ヨーロッパの支那とも呼ぶべく、しかくそこでは、溌剌たる気紛れな空想が、ほしい    ままに身を振舞い、はたまたしかく丹念に、執拗に、その高尚な、繊細な植物をもって、    国土を飾りつくしている。     ああげに宝の国、そこでは一切が美しく、富み且つ静謐にして、また純潔である。そこ    では奢侈が秩序のうちに、自らの姿を反映するのを喜んでいる。呼吸にまで生活の甘く    豊饒なる、既に混乱と喧既と偶然とのとり除かれたる、華南は沈歎と融合し、料理さえもが    刺戟あり滑らかにして能く詩的なる、げに、懐かしき憩人よ、一切が、お前に髣髴たる国土。     冷たい悲惨の中にあって、我らを捉える悪熱の如きもの、この未知なる国への郷愁、    このやみがたい好奇心の苦悩を、お前もまた知っているだろう! ああそはお前に髣髴たる    郷土、そこでは一切が美しく、富み且つ静謐にして、純潔なる、そこでは空想が、一箇西洋の    支那を建築し扮飾せる、そこで生活は呼吸にまで甘く、そこで幸福は既に沈獣と融合せる国。    ああげに、そは往きて住むべく、往きて死すべき国土なるかな!         然り、それこそは我らが行きて、感覚の無限もて呼吸し、夢み、時間をして更に永からしむ    べき国土なるかな。ある音楽家は『ワルツヘの誘い』を書いた。さらば、愛する婦人に、    選択した妹に、彼女に捧げるべく『旅への誘い』を書くのは誰だろう?     然り、それこそは行きて幸多く暮すべき雰囲気である。そこではより歩みの遅い時間がより    多くの思想を有し、大時計は、遥かに奥床しく、遥かに意味の深い厳そかさで、世の幸福を    点鐘する。     磨きこまれた鏡板の上、或は金箔を置いた黒黒とした、豊かな革の上には、それを描いた    芸術家の魂の如く、落着きのある、穏やかな、奥床しい絵が、今もなお虔ましく生きている。    食堂や客間を豊かに彩色して沈んでゆく太陽の光線は、美しい織布や、鉛の格子の細かに    入った高い飾窓を漉されてくる。家具はみな厖大で、奇異な、怪異な姿をして、世故にたけた    魂のように、錠前と秘密にその身を鎧っている。鏡と金属品と、織布と、金銀細工と、そして    陶器の類は、それを見る眼に、無韻の神秘な交響楽を奏でている。その時一切の物から、隅々    から、抽出しの隙間から、織布の襞(ひだ)から、云いようもない香気が、この部屋の魂でも    あろうか、あのスマトラの、なつかしきものの香りがたち罩める。     ああげに宝の国、と私はお前に言った、そこでは一切が、美しい良心のように、一揃の精巧な    食器のように、燦爛たる金銀細工のように、色とりどりの寶石のように、清純にして富みかつ    光り輝いている! 地上のあらゆる寶は、全世界に偉大な貢献のあった、勤勉な人の館への如く、    そこに集り集注する。なお芸術が自然に勝れる如く−他のすべての国々に勝れる唯一の国、そこ    では幻想によって自然が変形され、正しくされ、美化され、改鋳されている。     願わくば、園芸における錬金道士らの、探求し、なおも探求して、絶えず遠くへ、彼らの    成功の限度を押し進めんことを! 願わくば彼らが、彼らの野心ある課題を解く者のために、    六万フロラン十万フロランの賞金を懸けんことを! 私は、既にこの私は、私の黒チューリップと    私の青ダーリアとを発見した!     比類なき花、発見されたるチューリップよ、寓意あるダーリアよ、げに行きて生を営むべく    花咲くべきは、かの、かくも静穏なる、かくも夢見心地なる、美まし国土にあらざるや、如何に?     その時こそ汝は、汝との相似の間に置かれないであろうか、そして汝は、汝の姿を、神秘家の    口吻を以て言えば、汝自らの万法照応(コレスポンダンス)の裡に、映し見ることが出来ないで    あろうか?     夢なり! 常に夢なり! 魂のいよいよ希望に満ち、いよいよ精緻なる時、夢はそをいよいよ    可能より遠ざからしむ。凡そ人は、その体内に、絶えず分泌され、絶えず新たにさるる、自然の    一抹の阿片剤を有している。そして、生より死に至るまでの間に、遂行し實現したる行為に    満されし、現實の歓喜に満されし、そもそも幾ばくの時を我らは数うるや? ああ、私の心が描いた    この画幅の裡、お前に髣髴たるこの画幅の裡に、終いに私は生を営まないのだろうか、終いに私は    住居を移さないのだろうか?      これらの宝、これらの家具、この奢侈、この秩序、これらの香気、これらの奇蹟の花、それは    お前である。これらの河流、これらの靜かな運河、それもまたお前である。それらが運び去る    ところの、富を満載した、操作の単調な唄がそこから立ちのぼる巨大な船舶、それはお前の胸の上で、    まどろみ輾転する私の思想である。お前は、空の深さをお前の清澄な美しい魂に映しながら、    それらを音もなく、悠久無限なる、海の方へとつれてゆく。――そうして、波浪に疲れ、東洋の    産物を満載して、それらが再びかえってくる時にも、それは即ち、無限の方から、お前に向かって    再び帰ってくる,私の豊富にされた思想に外ならない。      -------------------------------------------------------------------------------------- (19)貧者の玩具          私は無邪気な慰みを教えよう。世には罪のない楽しみが如何に少ないことだろう!     朝、君が、あてもなく大通を散歩しようと考えて家を出る時に、ほんの一寸した一二銭の、    思いつきの品物で君のポケットを満たし給え、――例えば、一本の紐で操るあの扁平な    ポリシネールだとか、鉄砧を打つ鍛冶屋だとか、その尾が笛になっている馬に跨った騎士    だとか、――そうして、並樹の蔭の酒場の前を歩きながら、君の出会う見も知らぬ貧しい    子供達にそれを与え給え。君は彼らの眼が途方もなく大きくなるのを見るだろう。彼らは    その幸福を疑うだろう。しかし、次には、彼らの手がその贈物を咄嗟に奪いとるだろう。    そして恰も、人に信用しない癖のついた猫が君の与えたものを遠いところへ持っていって    喰おうとするように、そんな風に、彼らも逃げて行くだろう。     (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (20)妖精の贈物     それは、やっと二十四時間前にこの世に生れ出たすべての嬰児への、贈物の分配に    着手しようとしている妖精の大集会であった。     これらは総て、古風にしてまた気紛れな運命の姉妹たち、これら総て、歓喜と苦悩との    怪奇なる母親たちは、千差万別とりどりの容子を見せていた。或るものは陰鬱で無愛想な    態度を示し、また或るものは悪巫山悪戯(わるふざけ)て腹の黒い容子に見える。嘗て常に    若かりし者は、今もまた若く、嘗て常に老いたりし者は、今もまたやはり老いた姿でいる。     これらの妖精たちに信を置く世の父親らは、己がじしその嬰児を腕に抱いて、残らず    ここに来り会している。     才能、器量、幸福な偶然、打克ち難い環境、それらが、褒賞授与式に於ける卓上の賞品の    ように、審判席の傍らに堆く積まれている。ただ変わったことといえば、これらの贈物は    ある努力の褒賞としてではなく、それとは反対に、まだ生活を閲(けみ)しないものにまで、    その運命を限定し、その幸福の源ともまた不幸の源ともなりうる、恩寵として与えられる    のであった。     あわれなる妖精たちは甚だ多忙を極めていた。何となれば、懇願者の群れが多数であった    上に、神と人間の間に置かれたこの中間の世界は、また我々と変りなく、時間と、限りなき    その後裔、日時分秒の、おそろしい法則の下に置かれていたから。     実に、彼女らは会見日の大臣のように、徳政を発した国祭日の公設質店の雇員のように、    忙殺されていた。私はまた彼女らも、人間世界の裁判官が早朝から椅子に坐っていると、    どうしても昼食に就て、家庭に就て、懐かしいスリッパに就て空想しないではいられない    ように、それと同じ耐え難さで、屡々時計を眺めたことであろうと信ずる。そしてもしも    超自然の審判に於いても、時にいささか倉卒や偶然が存するとすれば、同じくそれが人間    世界の審判にあるとしても、我らは驚かないでおこう。後の場合に於いて、我らは、我ら    自らが不正な審判者なのだから。     気紛れよりは寧ろ慎重の態度を以て、もしもそれら妖精たちに持前の、普遍の性質だと    考えるならば、随分如何わしく思われるところの、三四の出鱈目も、その日に行われたの    であった。     かくして、磁力のように富を吸引する能力は、ある富豪の一人子の、いかなる慈悲心も    持たず、人生の最も明瞭な善に対してさえ、何の熱意ももたない相続人に与えられた。    間もなく彼は、その巨万の富に甚だしく束縛された、自らを見出すことであろう。     かくして、美への愛と詩的能力とは、石截(いしきり)工夫を渡世とする、如何なる手だて    を以てしても、悲しむべきその世継ぎの才能と困難を軽減してやることの出来ない、佗しげな    貧者の息子に与えられたのである。     私は云うのを忘れていたが、この晴れの場所で、分配は要求を俟たずして行われ、そして    如何なる贈物も、拒絶されることは許されないのであった。     やがて、その役目が果たされたものと信じて、妖精たちは一人残らず立ちあがった。もはや    一つの贈物も、これら憐れな人間共に投げ与うべき、一つの恩恵も残っていなかった。その時    小売商人らしい一人の正直そうな男が、立ち上がりさま、最も彼の身近にいた妖精の、多彩な    気体の衣装に取り縋って叫ぶのであった。    「ああ! 奥さま! あなたは私どもをお忘れになりました! 私の子供が残っております!    折角ここへ参りまして、何も頂かないのでは困ります」     その妖精は、もはや何も残っていないので、どうやら困っているらしい様子に見えた。けれ    ども彼女は、恰もその時、たとえば妖精の地祗(グノム)や、火神(サラマンドル)や風神(シルフ)や、    風女神(シルフィド)や、ニックスや、水神(オンダン)や水女神(オンディヌ)など、これら人間の    友であり、また屡々気紛れな行為をも免れない、触知すべからざる神々の住まっている超自然の    世界に於て、稀にしか適応されないけれども、誰もがよく知っている、一つの法則を思い出した、    ――私が云うのは、かかる場合、すなわち分け前が尽きてしまったような場合、もしも彼女が、    時を移さずそれを創造するだけの思いつきさえもっていれば、なおその一つを、補足的例外的に、    与えることの出来る力を、特に妖精に許している、法則のことである。     そこでその親切な妖精は、彼女の身分に相応しい口調を以てこう答えた、「ではね、お前の    息子に……、そう、お前の息子には…… 人に歓ばれるという、贈物を上げよう」    「すると、それは、どんな風に歓ばれるので? 歓ばれると申しますと? ……歓ばれるという    のは、なぜまた?」と、勿論不条理の条理を解するまでには至らない、よくある理屈屋の一人の    この小売商売は、執こく問い質した。    「なぜって! なぜって!」と答えながら、妖精は怒って彼に背を向けてしまった。そして彼女    は、再び仲間の列に追いついてこう告げるのであった、「まぁあなた方は、この、賜物の中の    一番いいものを息子のために得ておきながら、総てを理解しようとして、その上厚顔(あつかま)    しく問い質したり、言葉を返す余地のないことに言葉を返す、この見栄坊の仏蘭西人を、どんな    風にお考えになって?」 -------------------------------------------------------------------------------------- (21)誘惑 ――或は恋の神、富の神、名誉の神         尊大ぶった二人の悪魔と、それに劣らぬ異形な女性の悪魔が一人、昨夜、地獄が    そこを(略)      -------------------------------------------------------------------------------------- (22)黄昏     日が沈む。一日の労苦に疲れた憐れな魂の裡に、大きな平和が作られる。そして今    それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬ仄かな色に染めなされる。     かかる折しも、かの山の嶺から薄暮の透明な靄を通して私の家の露台まで、高まって    くる潮のような、吹き募る嵐のような、ほど遠い距離がもの悲しい諧調に作りかえる、    雑多な叫びの入りまじった、大きな呻りが聞こえてくる。     夕暮れが平静へと帰さないところの、夜の到来を魔宴の合図ととり違える、この梟の    ような、不幸な魂は何だろう? この不吉な呻り声は、山の上に位置を占めた暗い病院    から聞えてくる。夕暮、私は煙草をくゆらしながら、そこに建ち並んだ家々の、その窓    の一つ一つが、「今ここに平和あり、ここに家族の悦びあり!」と告げている、この    広々とした谿間(けいかん)の休息を眺めながら、かの巓より風の吹き渡る時、あの地獄の    和音の模倣にうち愕く私の思想を、静かにも揺り動かすのである。    (略)     ああ黄昏、汝の如何に甘く優しきかな! 勝ち誇らんとする夜の威圧の下に、一日の    縡(こと)きれる苦悩の如く、なお水平線に棚曳いている薔薇色の光、日没の最期の栄光の    上に、濁った赤い汚点をつくる諸々の燭火の火穂、東洋の奥処より眼に見えぬ手の抽き    いだす重い絨毯、それらは、生命の荘厳なる時刻に於いて、人の心中に互に相剋する、    すべての複雑した情緒を模倣している。     またそれは誓えるならば、踊子の一着の奇異な衣裳であり、その暗色の軽羅を逸して、    陰鬱な現在を隔てた懐かしい過去のように、輝かしいスカートのあでやかさが和らげ    られて見え隠れする。そして彼女を鏤めている金銀の煌めく星は、夜の深い喪の下でしか    明らかに点火らない空想の燭火である。 -------------------------------------------------------------------------------------- (23)孤独     ある博愛家の新聞記者が孤独は人間にとって悪しきものなりと私に告げた。そうして    彼は自説を支えるために、すべての不信心家の如く、御堂の師父たちの言葉を引いた。     私もまた、悪魔が好んで人けのない場所を訪れること、殺戮と姦淫の心が、孤独の中に    於いて熾烈に燃えることを知る者である。しかしこの孤独も恐らくはだ、その魂を欲情と    妄想とを以て満たす無為放埒の人にのみ、危険であるとも云えるであろう。     彼の無上の快楽が演壇講座の高所より物語ることに存する饒舌家が、ロビンソンの孤島に    於いて、発狂狂躁するという危険にあることもまた事実である。私はクルーソーの勇気ある    美徳を、この新聞記者に対(むか)って要求する者でない。しかし私は、彼が批難を以て、    孤独を愛し神秘を愛する人々を云々しないことを要求する。     饒舌なる種族の間には、もしも絞首台上から、一場の演説を思う存分に試みることが    許されるならば、サンテール将軍の太鼓が時ならずその言葉を遮る恐れがないならば、    死刑をも余り嫌悪なく承認するだろう人々がある。        (略)     -------------------------------------------------------------------------------------- (24)計画          人影のない広い公園を散歩しながら彼は考えた。「ああ彼女が善美を尽した複雑な    宮廷の服装をして、美しい夕暮の空気の中を、大きな芝生と水盤の前へ、宮殿の大理石の    階段を降りてくる時に、如何に美しいだろう! もと彼女は、王女の風姿を備えているの    だから」    (略)     彼は、もはや下界の喧騒によって智慧の忠言が打消されない時間に、ただ一人家に帰って    そして考えた。「今日私は、空想の中で三つの住居をもち、そこで等しい快楽を見出した。    私の魂は、こんなに素早く旅をするのに、何故私の肉体を強いて、場所を移す必要があろう?     そしてまた計画を実行するとは何の事だろう? 計画は、既にそれ自身で十分な歓びである    時に」     -------------------------------------------------------------------------------------- (25)美女ドローテ     太陽はその垂直の怖るべき光線もて都の上を押し渡り、砂山は眩めくばかりに輝き、    海もまたぎらぎらと乱れ燿いている。昏迷した世界はあえなくも恐れ伏して、うつうつと    午睡に入る、そは一種風味ある死の午睡、眠る者は半ば眼覚めて、己が寂滅の快楽を味わう。     かかる時、涯しなき青空の下、人影絶えし路の上を、光の中に艶やかな黒い一点を作り    ながら、太陽のように黒く誇りかな、ドローテは進んでいく、今この時生ける唯一人。     彼女は進んで行く、あんなにも細っそりとした上体を、そのあんなにも幅広い腰の上に、    柔らかに揺りながら、しっくり身体にあった、派手な明るい薔薇色の絹の衣裳は、彼女の    皮膚の暗黒と鮮やかに対照して、丈長い体幹と、窪んだ背中と、尖った胸の形とを、    はっきりそれと見せている。    (略)     ドローテは、総ての人々から讃美され可愛がられている、そして彼女はもしも、そのもう    十一歳になる、既に成熟して、あんなに美しい妹を買い戻すために、金貨の上に金貨を    積み重ねるのを余儀なくされていなかったら、完全に幸福であっただろう! けれども    また彼女は、心優しいドローテは、きっとそれにも成功するであろう、その子供の主人は、    金貨を措いて外そのものの美を理解するためには、あまりにも守銭奴であるから!     -------------------------------------------------------------------------------------- -------------------------------------------------------------------------------------- -------------------------------------------------------------------------------------- (26)貧者の眼          ああ! あなたは今日なぜ私があなたを憎んでいるかを知りたがっていらっしゃる。    それをあなたが理解なさるのは、それを私があなたに説明するよりも遙かに難しいこと    でしょう。何となれば、確かにあなたは、女性の不浸透性の、またとない最も見事な    お手本だから。     私たちは一緒に、私には短いと思われた、永い一日を過ごしたのでした。私たちは、    私たちの思想はすべて私たち双方に共通なものであるだろうと、今後は二つの魂がもはや    一つでしかないだろうと、固く約束したのでした。――それも今となっては、総ての人びと    に夢みられた、そして誰にも実現されなかった、というより外に、所詮は何の曲もない、    ただの一つの夢でした。     夕暮、あなたは少し疲れて、新しい並木路の一隅を占めている、新しいカフェの前で、    腰を下ろしたいと仰しゃった。そこにはまだ石膏の粉が散らばっていたが、未完成ながら、    既にその華麗さが誇りかに示されていた。そのカフェには煌々と燈がついていた。瓦斯も    また首途の勇気を見せて、力いっぱい照らしているのであった、眼を奪うばかり真白な    壁の上を、眩めくばかりな鏡の面を、竿縁と軒蛇腹の黄金を、犬に綱うち掛けて牽いて    いる頬のまるい小姓たちを、拳の上にとまらせた鷹に微笑みかけている貴婦人たちを、    頭上に木の実とパイと狩の獲物を載せているニンフと女神たちを、バヴァリア風の小さな    酒瓶や色混りアイスクリームの多彩な方尖碑(オベリスク)を手をのべて差し出している    エベやガニメードたちを、それは照らしているのであった、食慾の奉仕に置かれた総ての    歴史と総ての神話とを。     丁度私達の正面の歩道の上には、齢の頃四十ばかりの、顔の窶(やつ)れた、胡麻塩髯の、    純朴そうな男が一人、片手には一人の少年の手を携え、片方の腕には歩みもならぬか弱い    幼児を抱きかかえて、佇んでいたのであった。彼は乳母の役目を果たしながら、子供たちに    夕暮れの外気を呼吸させているのであった。みんな見窶らしい身なりをしていた。それらの    三つの顔は、異常に真剣であり、それらの六つの眼は、年齢によって様々に相違はしていて    も、一つの同じ感嘆で、新築のカフェをまじまじを視つめているのであった。     父親の眼が云っていた、「何と美しいことだろう! 何と美しいことだろう! まるで    貧民社会の黄金が残らずこの壁の上へ来てしまったとてもいうようだ」――─少年の眼が    云っていた、「何と美しいことだろう! 何と美しいことだろう! けれどもこの家は、    自分たちのような者じゃない人たちだけが、入ってもいい家なんだ」――最後に、いとけ    ない幼児の眼は、あまりにも魅惑されて、呆然として深い歓喜より外の何ものも現して    いなかった。     小唄作者は、歓びが魂を善良にし、心を優しくすると云う。その小唄は、恰も今宵、    私一人に就て云えば、首肯(しゅこう)すべきであったのだ。ただに私は、この一家族の    眼によって心を柔らげられたばかりでなく、私たちの乾きに較べて遙かに大袈裟なこれらの    コップや水差を、いささかは気恥しくも思ったのだった。そしてその時、私は私の眼を、    恋人よ、あなたの眼の方へ、そこにもまた私の思想を読もうとして廻らしたのだったが、    そしてかくも美しい、かくも不思議にやさしいあなたの眼の中へ、月の心が宿され移り気が    住むあなたの緑の眼の中へ、私は沈んでゆくのであったが、するとその時あなたは仰しゃった、    「まああんなに、あの人たちといえば、まるで馬車でも通れそうな眼をして、私とても我慢が    ならないわ! ね、あなた、ここの主人に、どうかあちらへやるように云って下さらない?」     お互に理解し合うということは、こんなにも難しいのだ、私のやさしい天使よ、そして    思想はこんなにも離れ離れだ、たとえ愛し合っている者たちの間に於いてさえ! -------------------------------------------------------------------------------------- (27)悲壮なる死     ファンシウールは感嘆すべき道化役者であり、また殆ど王の友人の一人でもあった。    けれども生業として滑稽に身を委ねる者にとって、真面目な事物は宿命的な魅力を有する    ものである。祖国とか自由とかの観念が、専ら、一人の喜劇俳優の頭脳を奪い去って    しまうというのは、奇妙に聞えることではあるが、一日ファンシウールは、不平貴族に    よって結成された陰謀に加担してしまったのである。     君主を廃し、それに謀らずしてしかも社会の改革を行わんとするこれら気鬱性の人々を、    権力にまで密告する善人たちはどこの世界にもいるものである。問題の貴族たちは補縛され、    確実な死罪に定められた、ファンシウールもそれに漏れなかった。     彼の如く生まれながらに、また好んで、常軌を逸する人にとっては、一切が可能である、    徳と雖も、寛恕(かんじょ)と雖も、わけてまた、もしもそこに意想外の歓びを見出すことの    望まれえたとするならば。    (略)     突然、王は謀反人すべてに恩赦を賜うであろうという風評がひろまった。この風評の    源は、ファンシウールがそれの最も重要な主役の一つを演ずべき大観劇の発表であって、    そこへはまた、人々の云うには、先に罪せられた貴族たちも陪席するだろうとのことで    あり、さらに軽信な人々は、蓋しこれは侵犯された王の、性情の寛大なる明らかな証左    であるとつけ加えた。    (略)     観客は一人残らず、如何に彼らが鈍感で移り気であったとは云え、忽ちにこの芸術家の    全能の支配を受けてしまった。もはや何人も、死と喪と拷問に就いては考えなかった。    誰もがみな、心には何の不安もなく、生気発刺たる芸術の傑作を見ることから齏される、    いやまさりゆく歓楽に我れを忘れていた。喜悦と感嘆の声が幾度か繰りかえして爆発し、    連続する雷鳴の勢で建物の円天井を揺るがした。王さえもが酔い痴れて、彼の拍手を廷臣    たちに和したのである。    (略)     数分の後、長く尾をひく鋭い口笛が、ファンシウールをその至上の瞬間に立ちどまらせ、    併せて人々の耳と心を劈いた。そしてこの意外な非難の突発した観客のその場所から、    笑を押えながら、一人の少年が廊下へとび出していった。     ファンシウールはぎくりとして、夢の中に揺り醒され、ふっと眼をつむると、すぐにまた    それを見開き、その眼を途方もなく大きく見開いて、次に口を開き、喘ぎながら呼吸をする    かと見るひまに、少し前によろめき、少し後ろによろめき、そしてついに息絶えて、硬直して    床の上に倒れてしまった。     あの口笛が剣のように素早く、事実に死刑執行者の役目を果したのであろうか? 王自ら    さえも、その策略の効果した殺人を予測したであろうか? それを疑うことは許される。彼は    またその親愛なる比類なきファンシウールを哀惜したであろうか? それを信ずることは、    正当にしてまた優情を感ぜしめる。     罪ある貴族たちは、これを観劇の最後の見おさめにして、その夜ことごとく人生から抹殺    されてしまった。     その時以来、諸方の国々で正当にも取沙汰された多数の喜劇俳優が来て、この宮廷の前に    演技を試みたが、その誰もが、ファンシウールの素晴らしい才能を髣髴させることも、彼ほどの    人気者になることも出来なかった。           -------------------------------------------------------------------------------------- (28)贋せ金    (略)     私たちは、顫えながらその帽子を私たちの方に差出している、一人の乞食に行遇った。――    感受性あってそれを読みうる者にまで、この哀願する眼の、これほど卑屈さとそうしてこれ    ほどの非難を含んだ、この沈黙の雄弁にもまして、人を不安にするものを私は知らない。    鞭打たれる犬の涙ぐんだ眼のうちには、この複雑な感情の深さに近い何ものかが見出される。     私の友人の施与は、私のよりも遥かに大したものであった。そこで私は彼に云った、「なる    ほど、君も尤もだ、驚かされた喜びの後では、一つびっくりさせてやる位、大きな喜びはない    からね」彼は落ち着き払って、自分の浪費を弁解するように答えた。「贋せ金だよ」    (略)     しかし私の友人は、私の言葉を鸚鵡返しにして、突然私の空想を絶ちきった。    「そうだよ、全く君の云う通り、思惑以上のものをやってさ、びっくりさせてやる位、愉快な    喜びはないからね」     私は眼を見はってまじまじと彼の顔を見つめた。そして彼の眼が、疑う余地のない無邪気さ    に輝いているのを見て、すっかり呆れかえってしまった。私はその時、彼が慈善と同時にうまい    取引をもしようと欲したのを、即ち、四十スウと共に神の御心をも儲け、経済的に天国をちょろ    まかして、その上また、無償で慈善家の肩書を手に入れようと欲したのを、明らかに見てとった。    私が少し前まで、可能として仮りに考えていた、あの罪悪的な享楽への希望ならば、私は殆ど    彼に許したであろう。彼が貧民を危険に曝して慰むのを私は珍しいとも特異だとも眺めたことで    あろう。ただしかし、彼のこの計算の抽劣なるに至っては、断じて私はそれを許さないであろう。    蓋し、人の悪意あるは決して非難を免れないが、なおそれも、本来人の意地悪しきものなることを    知る上にいささかは役だち得よう。ただ最も済度しがたい罪は、愚昧よりして為される悪である。         -------------------------------------------------------------------------------------- (29)寛大なる賭博者     昨日私は、並樹路の群衆を横ぎりながら、かねがね私が近づきになりたいと願っていた、    一人の神秘な人物と擦れ違ったのを感じた。かつて一度も出会ったことのないその人物を、    すぐに私はそれと認めることが出来た。疑いもなく、彼の方でも、私に関して同様の願い    があったのであろう、何となれば、行き過ぎながら、彼が私に、合図の眼配せをしたの    だから。私は急いでそれに従った。私は注意深く彼の後ろに縱いて、それからほどなく、    巴里の如何なる上流社会の住居も到底これに較ぶべきもない豪奢が、燦然として眼を奪う    とある地下室に、彼のあとから降りていった。私が今まで、その入り口とは思いも寄らずに、    この魔法の隠れ家の傍を、あれほど屡々通りすぎていたのは、不思議に耐えない気持がした。    (略)     これほどまでの好意に勇気を得て、私は彼に、神の消息を訊ねてみた、そしてまた彼が    最近神に出会ったかどうかと。彼はふと悲哀の色を見せながら、さりげない様子で私に    答えるのであった、「我々は行会えば互に会釈は交すが、それもまるで、生まれながらの    嗜みも、旧い怨恨の思い出を拭い去り得ない、二人の年とった貴族のように、ね」    (略)     もしも、これほど多数の人々の前に、自分を卑しめるのを怖れるのでなかったならば、    私は喜んで、この寛大な賭博者の足下に身を投げ出して、その前代未聞の大雅量を感謝した    ことであもあろう。しかしながら、彼と訣別すると、不治の疑惑が一歩一歩私の胸に忍び    こんできた。もはや私には、かかる不思議な幸福を信ずる勇気がなかった。そして寝床に    就き、愚かな習慣の名残で、なお私の祈りを捧げるなら、半ば眠りに落ちながら私は繰かえす    のであった、「神よ、主なる神よ! 願わくはかの悪魔をして、その誓約を守らし給え!」 -------------------------------------------------------------------------------------- (30)紐   (エドゥーアル・マネに)          私の友人が私に云った、「凡そ幻想は、恐らく人間相互の、また人と物との関係ほど    無数なものである。そして一度び幻想の消え去ったとき、云い換れば、我らが事物或は    事件を我らの外部に存するままに見る時、我らは、半ば消え去った幻影への哀惜と、    半ばは新規なるものを前にせる、現実的なる事実を前にせる快い驚愕との、相錯綜した    不思議な感情を経験するものである。    (略)    「すると、突然、ある光明が僕の頭を掠めた、そして僕は理解した、何故あの母親が    あんなに拗こくつき纏って、僕からあの紐を奪いとったか、そしてまたどのような    取引で、彼女の慰めを見出そうと欲したのかを」 -------------------------------------------------------------------------------------- (31)天稟     秋めいた太陽の光線がいつまでも歩をとめて遊び呆けているかとも見える美しい    庭園のうち、はや緑がかった大空に旅をする大陸のような金の雲が漂っている下に    あって、四人の可憐な子供たち、四人の少年が、どうやら遊びにも倦(う)んだらしく、    お互いに話し合っていた。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (32)酒神杖 (フランツ・リストに)     酒神杖とは何であるか? 精神的なる、また詩的なる意味に於いては、それは僧或は    尼僧の手中にあって、彼らがその仲介者であり僕婢である神性を祝ほぐところの、即ち    司祭の標識である。    (略)    (略)歓楽の、さては云い現し難き苦悩の歌を、興にまかせて綴りつつある、或はまた    幽玄の思索を紙片に託しつつある、永久の快楽と苦悩の歌い手よ、哲学者よ、詩人よ、    芸術家よ、不朽の名に於いて、私は御身に敬礼する!     -------------------------------------------------------------------------------------- (33)酔え     常に酔っていなければならない。それこそは一切、それこそ唯一の問題である。    汝の両肩を圧し砕き、汝を地面の方へと圧し屈める。怖るべき時間の重荷を感じまいと    ならば、絶えず汝を酔わしめてあれ。     さらば何によってか? 酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むが    ままに。ただに、汝を酔わしめよ。     もし時として、宮殿の石階の上に、濠端の緑草の上に、或は室内の陰鬱なる孤独の中に、    汝が眼醒め、既にして陶酔の去って消えゆく時、かのすべて過ぎゆくもの、嘆息するもの、    流転するもの、歌うもの、語るもの、風に、浪に、星に、鳥に、大時計に、問え、今は    何時であるかと。その時、風と浪と星と鳥と大時計とは汝に答えるであろう、「今こそ    酔うべきの時なれ! 虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、    詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」 -------------------------------------------------------------------------------------- (34)ああ既に!     太陽は既に百度びも、その辺際のようやく髣髴と認められる、この海洋の広大な    浴槽から、焔爛と、またはもの悲しげに身を現し、そして百度も、輝きながら、または    うち萎れて、その夕暮の広大な浴みの中に、身を沈めていった。    (略)    (略)そのために私の同船者たちが、誰も彼も「ああやっと!」と云う時には、私だけは    ただ「ああ既に!」としか叫ぶことが出来なかった。     しかしながら、それは諸々の情熱と、快適と、祝祭とを伴う陸地であった。それは富み    且つ栄えた、約束に満ちた、薔薇と麝香と神秘な芳香を我らに送ってくるところの、それ    から生命の音楽が、恋愛の囁きとなって我らに聞えてくるところの陸地であった。 -------------------------------------------------------------------------------------- (35)窓     開け放たれた窓を外部から見る者は、閉ざされた窓を透かして見る者と、決して    同じほど多くのものを見ない。蝋燭の光に照らされた窓にもまして、奥床しく、    神秘に、豊かに、陰鬱に、惑わし多いものはまたとあるまい。白日の下に人の見得る    ものは、常に硝子戸のあなたに起るものよりも興味に乏しい。この暗い、または輝いた    孔虚(うつろ)のなかには、人生が生き、人生が夢み、人生が悩んでいる。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (36)描かんとする願望     恐らく人は不幸である。されど、願望の虐む芸術家は幸いなるかな!     時あってたまたま私に現れ、    (略)     私は彼女を一個の黒い太陽に喩えるであろう、光明と幸福とを降り注ぐ黒い天体を    もしも考えることが出来るならば。しかしながら彼女はそれにもまして、紛う方なく    彼女に怖るべき影響の跡を残したあの月を、なおよく聯想(れんそう)せしめる。冷や    やかな花嫁に似た、あの牧歌風の白い月ではなく、暴風の夜の底に懸けられて、走り    去る雲に掻き消されうち消される、あの物狂おしい不吉の月を、純潔な人々の睡眠を    訪れる、あの平和な虔(つつ)ましい月をではなく、怖れわななく草葉の上に、    テッサリアの巫女らが無慙にも舞を強いる、あの空を逐われた敗北と謀反の月を。    (略)     -------------------------------------------------------------------------------------- (37)月の恩恵     移り気そのもののあの月が、窓越しに、揺籠の中で眠っているお前の姿に眼をとめて、    そうしてこう云ったのだった、「私にはこの子が気に入った」     そうして彼女はしずしずと雲の階段を下りてきて、音もなく硝子戸を抜けたのだった。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (38)何れが真の彼女であるか     私は嘗て真のベネディクタを知っていた。彼女は周囲の空気を理想で充たし、その眼    には偉大への、美への、栄光への、そして不死を信ぜしめる一切のものへの、願望を    溢れさせていた。     しかしこの奇蹟の少女は、長く生きるには余りにも美しかった。そして、私が彼女を    識ってから数日を経て、彼女は死んでしまった。春がその香炉を墓地の中にまで振り    動かしていたとある一日、彼女を埋葬したのはこの私であった。印度の調度か何ぞの    ように不朽の香木で作った棺に、たしかに彼女の遺骸を納めて、それを埋葬したのは    私であった。     そして私の眼がなおそのまま、私の宝の埋没された場所の上に注がれていた時に、    私はまた突然、今はなき彼女に不思議なまで髣髴たる一人の少女を眼にとめた。彼女は    ヒステリックな気味の悪い乱暴さで、まだ新しい土の上を跳ねまわりながら、笑いころ    げてこう云うのである、「私なのよ、ほんとのベネディクタは! 私よ! 相当な悪党    よ! でもね、あなたのその御熱心と、あなたの眼光が利かなかった罰に、もう私が    どんなだっても、可愛がって下さるでしょう!」     しかし私は怒りを発して、私はこう答えた、「否! 否! 否!」そして私の拒否を    一層強めるために、私は激しく土を蹴った、新しい墓地に私の脚が膝のところまで没する    ほど、そして恰も係蹄にかかった狼のように、恐らく永久に、理想の墓孔に私が繋ぎとめ    られたほど。 -------------------------------------------------------------------------------------- (39)名馬     なるほど彼女は醜い。しかし彼女は心を奪う!     時間と恋愛とは、彼女の上に爪痕を残し、そして無残にも彼女に教えた、分(ミニユット)の    一つ一つ、接吻の一つ一つが、青春とみずみずしさとから持ち去るものを。     真に彼女は醜い。彼女は蟻であり、蜘蛛であり、また云うべくは、髑髏でさえもある。    けれどもまた、彼女は飲料であり、霊薬であり、魔術である! 要するに彼女は言語に    絶している!     時間もなお、彼女の歩行の燦たる調和と、その躯幹の不朽の典雅とを滅ぼし得な    かった。恋もなお、彼女の子供らしい呼吸の快い味を変えなかった。そして歳月を経て    なお依然として、彼女の豊かな丈長髪から、南方仏蘭西の太陽に祝福された恋と魅力の    街、ニーム、エース、アルル、アヴィニヨン、ツールーズの、悪魔的な一切の正気が、    野生の香りとなって放散している!     時間と恋愛とは、その鋭い歯並で、空しく彼女を噛んだ。そしてついにいささかも、    男児めいたその胸の、漠とした、しかし永遠の、魅力を減らしはしなかった。     ものなべてこと古りたが、しかし疲れることのない、そして常に雄々しい彼女は、    たとえ借馬車の轅(ながえ)に繋がれていても、真の伯楽の眼には直ちにそれと識別される、    血統正しい名馬を思わしめる。     そして彼女はかくも優しく、かくも情熱に満ちている! 彼女はまた、人が秋恋する    ように恋をする。恰も人は云うだろう、近づく冬が、その心に新しい火を点ずると、    その恋情への服従に疲れを覚える時はないと。     -------------------------------------------------------------------------------------- (40)鏡     ぞっとするような一人の男が、部屋に入ってくると、鏡に対って自分の姿を眺めていた。    「どうしてまた鏡なんかを眺めているんだい? どうせ君は不愉快な思いをするにきまって    いるのに」     ぞっとするような男は私に答えた。    「君、八十九年のあの不滅の原則によればだね、人はみな権利に於いて平等なんだ。だから    僕だって鏡の前に立つ権利はもっているさ。そりゃ、快不快の段になりゃ、僕一人の意識に    関することだからね」     常識の名に於いては、もとより私の方が正しい。しかし、法の見地よりすれば、彼もまた    誤ってはない。 -------------------------------------------------------------------------------------- (41)港     人の世の闘いに疲れた魂にとっては、港こそ、こよなき休息所である。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (42)情婦の画像     男たちの私室、詳しく云うと、洒落た賭博室にひきつづいた喫煙室で、四人の男が    煙草をくゆらしながら酒を呑んでいた。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (43)意気な射手     木立の間を馬車が通っていた時に、とある射撃場の近くで、彼はそれを止めさせて    こう云った。    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (44)スープと雲     無性に私の可愛い女が、私を晩餐に招待した。私は感に耐えて、開け放たれた食堂の    窓から、神が水蒸気もて建て給うた移動する建築、手に触れ得ない見事な構成を眺めて    いた。そうして感嘆の余り、私は思わずこう呟いた、「これらすべての幻想は、私の    美しい恋人の、緑の眼をした私の可愛い小悪魔の、その眼と殆ど同じほど美しい」     すると突然、私はどしんと背中を一つ突かれて、皺枯れた、魅力のある声を、    ヒステリックな、火酒に焼かれたような声を、無性に私の可愛い女の、その声が    こう云うのを聞いたのである。「どうなの、スープを早く召し上がらないの?    まあこの、雲屋さんのお馬鹿さん……」 -------------------------------------------------------------------------------------- (45)射撃場と墓地          酒亭、墓地が見えます。――「珍しい招牌だ」とその散策者は呟いた、「けれども    渇を覚えしめるには上乗だ、たしかに、ここの酒場の主人は、オラースやエピキュール    の亜流詩人やなんかを、読んでいるのに違いない。また恐らく、古代埃及人が、あの    骸骨か何か、人生の無常迅速を示すそのようなものなしには、洒落た酒宴とはしなかった、    深遠な嗜みをも心得ているのだろう」    (略) -------------------------------------------------------------------------------------- (46)円光喪失     「おや! これはまた! こんなところに、あなたが? あなたが、こんな悪所に!     霊気を呼吸なさるあなたが!神饌(しんせん)を召し上りになるあなたが! 全くこりゃ、     一驚に値しますね」     「いや君、君も御承知の通り、私は馬や馬車が怖ろしい。今しがた大急ぎで並樹路を     横ぎる時に、四方八方から襲歩(ガーロブ)で死が駆けつけてくる、上を下への混雑の     中で泥濘の間を跳びながら、どうした拍子か、突然私の頭上から円光が滑り落ちて、     砂石道(マカダム)の泥に落ちてしまった。私はそれを拾い上げる勇気もなかった。     もしも骨でも折られるよりは、あんな記章を喪くした方が、まだしもましだと判断     したのだ。とまたすぐ、私はこう考えた、不仕合せというのも何かの取柄はあるもの     だと。今じゃ私は、お忍びで散歩に出かけ、卑しい仕草も、世間並に放蕩無頼な真似     も出来るということだ。こういう次第で、御覧の通り、諸君と全く変るところがなく     なったのさ!」     「だがそれにしても、紛失の掲示を出すのか、その筋へ届けを出さなくっちゃなります     まいね」     「いや、どうしてどうして! これでたいへん気に入ってるのさ。私の顔を識っている     のは、たった君が1人っきりさ。とにかく、あんな威厳は私をうんざりさせるし、それ     にまた、誰かへっぽこ詩人があいつを拾い上げて、図々しく頭に載くだろうと考えて     みるのも悪くはないね。幸福者をつくってやるのは、何という愉快なことか! とりわけ     また私を笑わせる幸福者を! 仮りにXだとか、Zとかを考えてみ給え! えへっ!      どんなに可笑しいか!」           -------------------------------------------------------------------------------------- (47)小刀嬢      とある郊外の外れまで、瓦斯燈の光の下を、私がようやく来かかった時、ふと私は、     誰かの腕が私の腋の下へ静かに差し入れられるのを感じた。そして私は、私の耳もとに     話しかける声を聞いた。     「ね、あなたはお医者さまね?」      ふりかえって見ると、それは脊丈の優れた、体格の立派な、眼のぱっちりとした、薄く     化粧をして、その髪の毛を婦人帽の紐と一緒に風に吹かせている、一人の婦人であった。     「いいえ、私はお医者じゃありません。失礼させていただきます」「おお! いいえ!     あなたは、お医者さまです。ちゃんと解りましてよ。宅へいらして下さいな。御迷惑は     かけませんわ、わたし、参りましょうよう。さあ!」「お伺いいたしましょう、間違い     なく、だが、後ほど、そのお医者さまとやらの、先生の後からね! ……」「あら!      まあ!」     (略)     「しかし」と今度は、私の方も、私も意地っ張りにいいつづけた「なぜまた私を、医者だと     お信じになるのです?」     「でも、あなたはそんなにお上品で、女に対してそんなにお優しいんですもの!」     「不思議な理論だ!」と私は思わず呟いた。     (略)      大都会に於いて、もしも散策と観察との術を知る時、なお人の見出さない如何なる奇怪事     があろう? 人生は、罪もない怪物によって蠢動している。――主よ、おお神よ! 御身     造物主よ、御身支配人よ、御身御掟と自由とを作り給いし者よ、御身為すがままに委せ給う     主権者よ、御身放任し給う司法者よ、御身発因と理由とに満ち給える、且つは恐らく、この     心を改めしめんがために、刃ものの先に治癒を置き給う如く、私の精神に恐怖の嗜好を置き     給える者よ、主よ、憐憫を垂れ給え、願わくは心狂える男女の群れに、憐憫を垂れさせ給え!      おお造物主よ! 何故にそれらが存在し、如何にしてそれらが作られしかを、及び、如何に     してそれらが作られずもありえしかを知り給える、唯一人なる者の御眼にまでは、そも怪物     とは存在しうるものでしょうか?  -------------------------------------------------------------------------------------- (48)どこへでも此世の外へ      この人生は一の病院であり、そこでは各々の病院が、ただ絶えず寝台を代えたいと     願っている。あるものはせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば     病気が治ると信じている。      私には、今私が居ない場所に於いて、私が常に幸福であるように思われる。従って     移住の問題は、絶えず私が私の魂と討議している、問題の一つである。     (略)      終いに私の魂が声を放ち、いみじくも私にむかってこう叫んだ、「どこでもいい、     どこでもいい……、ただ、この世界の外でさえあるならば!」      -------------------------------------------------------------------------------------- (49)貧乏人を撲殺しよう           私は二週間も部屋に閉じ篭っていた、そして当時流行の(十六七年も昔のこと     だが、)多くの書籍にとりまかれていた。それらは二十四時間のうちに国民を幸福     にし、聡明にし、且つ裕福にする方策を論じた書物であった。私はこれら社会的福祉     の企業家たち、すべての貧民にその身を奴隷にせよと忠告して、彼らはみな王位を     奪われた王であると説明しいる人々の、総ての労作を消化した――というよりも、     鵜呑みにしたところだった。従って当時、混迷乃至は蒙昧(もうまい)に近い精神     状態に私があったとしても、敢えて愕くにも当たらなかったかもしれない。      私は、ほんの今し方私がその辞書に一と通り眼を通したばかりの、世の貴婦人     たちのきまりきった紋切型よりも、やや高尚な観念の、漠とした萌芽を、私の叡智     の奥になお閉ざされたままに、感じていたように思われる。しかしながらそれは     観念の観念、ただ飽くまでも漠然たる何ものかに過ぎなかった。      そして私は非常な渇きを覚えて外出した。くだらない書物の熱っぽさは、それに     比例して外気と清涼剤との欲求を生ずるものである。      私がまさに酒場に入ろうとした時、一人の乞食が、もしも精神が物質を動かし、     伝磁者の眼が葡萄を熱せしめるものならば、これは王位をも転覆しかねない、まこと     に忘れ難い眼つきをして、その帽子を私の前に差し出した。      同時に私は、私の耳に囁きかける声、ある旧知の声を聞いた。それは到るところに     私と同行する、よき天使の、よき守神(デモン)の声であった。ソクラテースが彼の     よき守神をもっていたのなら、何故私が私のよき天使をもたないのであろう? そし     て何故私が、ソクラテースと同じく、巧妙なレリュ及び慎重なバイヤルジェ両医師の     署名した、狂気の免許状を授かる名誉をもたないであろう?      しかしソクラテースの守神と私のものとの間には、ソクラテースのは、彼のために     防御し、警告し、禁止するためにしか出現しなかったのに、私のは進んで忠告し、     暗示し、慫慂(しょうよう)するという相違がある。あの憐れむべきソクラテースは、     保守的な守神しかもたなかったが、私のは偉大なる是認者である、活動の守神、戦闘     の守神である。      ところで、その声が私にこう囁いた、「他人と同等であることを証明する者のみが     他人と同等であり、よく自由を征服する者のみが自由に値するのだ」      時を移さず、私は乞食の上に飛びかかった。拳固のただ一撃で、その片方の眼を塞     げてしまった。それは直ぐと鞠のように大きく膨れ上がった。彼の歯を二本砕いて、     ために私は生爪を一枚剥がした。そして私は蒲柳(ほりゆう)の質で、拳闘も録に習わな     かったから、この老人をすぐさま撲り殺してしまうほど、自分を強いとも思わなかった     ので、片手で彼の服の襟首を掴み、片手で咽喉笛を押えて、その頭を壁に向って激しく     打ちつけ始めた。云っておかなければならないが、私は予め周囲を一瞥して、こんな     人気のない郊外では、可なり永い間、警官たちの手のとどかないところに私がいるのを     確かめておいたのである。      そして続いて、肩胛骨が折れるほど力をこめてその背中を蹴りとばし、この六十歳     ばかりの衰弱した老人を打倒すと、私は地面に転がっていた丸太棒を拾いとって、     ビフテキを軟らかくする料理人のように、根性強く彼を撲りつけた。      すると私は忽ち、――おお奇蹟! おおその学説の卓越を証明した哲学者の喜悦!     ――この年老いた屍が向き直って、あんなにまで調子外れだった機械の中に決して     想像もつかなかったほどの精力で、立ち上がるのを見た。そして、私には瑞兆と思わ     れた怨恨の眼ざしで、この老衰の放浪者は私に飛びかかり、私の両眼を撲りつけ、     私の四枚の歯をうち砕き、あの同じ丸太棒で微塵になれと私をしたたか殴りつけた。     ――私の荒療治によって、即ち私は、誇と生命とを彼に恢復してやったのである。      そこで私は彼に喧嘩はもう終ったのだと私が見なしているのを分からせるために、     しきりに合図をし、詭弁派哲学者のような満足を以て立上って、そうしてこう告げた     のである。「君、君は僕の同等者だ! どうか僕の財布を君と分かつことの名誉を     許してくれ給え。そしてどうか忘れずに、もしも君が真の博愛家ならば、君の同僚     が君に施物を乞う時に、彼らのために、僕が今君の背中に向って得て敢て試みた学理を、     適用しなければならないのを、憶えておいてくれ給え」      彼は私に、私の学理を理解したこと、私の忠実に従うだろうことを、明らかに誓約した。      -------------------------------------------------------------------------------------- (50)善良なる犬(ジョセフ・ステヴァン氏に)      私は、現世紀の若い作家たちの前ででも、決して私のビュフォンに対する讃美を     恥しく思ったことはない。しかし今日私が援助を求めるのは、それはあの壮麗な自然     の描写家の魂ではない、否。      それよりも私は一層喜んでスターンに呼びかけるであろう、私は彼に云うだろう、     「天国から降りて来給え、極楽浄土から僕の方へ昇って来給え、そして僕の心に善良     なる犬、憐れな犬のために、君にふさわしい歌を啓示してくれ給え、感傷の諧謔家よ!      比類なき諧謔家よ! 後世の記憶のうちで、いつも君と同伴のあの有名な驢馬(ロバ)に     跨って来給え、わけてもその驢馬が、例の不滅の糖杏菓(マカロン)をそっと唇の間に     咥えて来るのを忘れないように!」      アカデミックな美神はどうかあちらへ! そんな年増の賢婦人には何の用事もない。     私は親しみ易い、市民的な、活発な美神をお招きする。善良なる犬、憐れなる犬、泥に     まみれた犬、――彼らの仲間である貧民と、彼らを親愛な眼で眺める詩人とを除いては、     人がみな黒死病(ペスト)患者か虱乞食のように追いのける犬を――私が謳うのを、彼女が     援けに来るようにお招きする。     (略)      人の気に入るものときめこんだように、有頂天で、訪問者の股の間や膝の上に惜しみも     なく転がり込んでくる、子供のように騒々しい、おしゃらく女のように間の抜けた、時と     するとまた下男のように横着で突慳貪(つっけんどん)な、器量自慢の犬ころめ、高慢ちきの     四つ脚め、デンマーク、キング・チャーレス、狆ころ乃至狆くしゃめ! わけてまたルヴ     レットとか名づけられた、尖った鼻の中には友人の踪をつけるだけの嗅覚もなく、扁平な     頭の中にはドミノを遊ぶだけの智彗もない、四つ脚の蛇め、ぞっとする出来損いめ!      総てこれらだらしない寄生虫よ、帰れ、犬小屋へ!      彼らは退却せよ、柔らかものずくめの、填めものされた犬小屋や! 私はかの智慧の     よき母、真の保護者なる必要によって、貧民や流浪者や旅芸人と同じく、その本能が感嘆     すべきまで尖鋭にされたる、泥まみれの犬、貧しき犬、喪家の犬、流浪の犬、辻芸人なる     犬を讃美する!      或いは広大な都会の、曲り紆った雨後の水溜りの間を淋しげにさ迷っている、或いは     世に捨てられた男に向ってしばたたく霊的の眼で、「どうか私を一緒に伴れていってくれ、     すると私たちの二つの悲惨から、恐らく一種の幸福が生れるだろう!」と告げている、     零落の犬を私は讃美する。     「犬は何処へ行くのか?」と、嘗てネストル・ロークプランが、ある文芸欄で不朽に     叫んだことがある。恐らくそれを彼は忘れてしまっただろうが、今日もなお私一人は、     それから多分サント・ブーヴとが、それを記憶している。      犬は何処へ行くのかと、迂闊な人々よ、君らは訊ねるのか? 犬は用を足しに出かける     のだ。      事務の打ち合わせに、恋の逢引に。霧の中を、泥の中を、三伏の暑熱の下を、篠つく     豪雨の下を、彼らは行き、彼らは来り、彼らは速歩で駆け、馬車の下を潜りぬける、虱に、     情熱に、欲望に、或は義理に駆り立てられながら。我々の如く、彼らは朝早く起き上がると、     彼らの生活を探し求め、彼らの快楽へと走らせる。     (略)      そしてあの詩人は、あの画家の同着を身につける毎に、必ず思い浮べないではいられ     ないのである、善良なる犬、哲学者なる犬を、サン・マルタンの夏を、及び、既に齢すぎた     婦人の美を。 --------------------------------------------------------------------------------------  ◇エピローグ      この心満てり、我れ今山上に立つ。ここよりして能く都の全景を眺め讃えるべし。    病院、娼家、煉獄、地獄、徒刑場。        かしこに一切の偉大は花咲けり、一輪の花の如くに、我れが憂苦の守護者、おおサタンよ、    汝ぞ知る、我れのかしこに行きしは、甲斐なき涙を流さんとにあらざりしを。        げに我れは、地獄の魅力絶え間なく我れを若からしむる、かの偉大なる酒場に酔い痴れんと    こそは願いしなれ、恰も年老いし放蕩者の年老いしその情婦に於けるが如く。        願わくは、都よ、なおも汝の感冒におかされて、重き、幽暗の、朝の毛布につつまれて    眠りてあらんことを。はたまた、妙なる金の紐飾りせる、黄金の帳帷(とばり)の中を、    誇りかに歩まんことを。        おお、我れは汝を愛す、原罪の首府! 娼婦らよ、強盗どもよ、汝らの、神を信ぜぬ俗人の    絶えて知るなき快楽を、げにかくもしばしば捧げもたらすかな。                                     (了) -------------------------------------------------------------------------------- ※[註] 一部の機種依存文字及び常用外漢字を常用漢字に変換しています。 <<<戻る    bannar  ∧∧∧上へ