<< 前の記事 | アーカイブス トップへ | 次の記事 >>
視点・論点 「"沖縄"からの声(3) 徒然の『うちあたい』」2012年10月24日 (水)
編集者 新城和博
タイトルにある「うちあたい」という言葉は、うちなーぐち、つまり沖縄の言葉です。二十年程前、はじめて出した僕のコラム集は『うちあたいの日々』というタイトルでした。日本語・共通語に訳するのは、なかなか難しいのですが、そこではこう説明しました。「会話の対象が自分ではない第三者のことなのに、何故か自分にあてはまって後悔や反省したりする心理状態」。内心忸怩たる思い、とでも言えばいいでしょうか。「うち・あたい」、つまり「心の中・うちに なにかが当たる」、心の内側に、ひそかな痛みを感じるわけです。「内心打撲傷」とある人は訳していました。日々の生活のちょっとしたことで感じる痛みです。でも沖縄で暮らしていると、さまざまな局面で、大きな「痛み」を感じてしまうことがあります。自分には関係ないと思っている問題が、本当は自分の問題でもあったと気づく。日本国民……といったら大げさかもしれませんが、みなさんは、普天間基地移転問題、オスプレイ配備、そして先週起こったばかりの、何度も何度も繰り返される、米軍兵士による女性への暴行事件など、ここ最近の沖縄に関する様々なニュースを聞いて「うちあたい」しませんか。
沖縄は、今年復帰四十年を迎えました。僕は、復帰の年の1972年、小学校四年生でした。今年四九歳になったのですが、この四十年の間に、沖縄はどう変わったのだろうかと、この一年間、ずっと考えてきました。復帰当時の小学生たちの間では、日本になるのだから、「沖縄にもきっと白い雪が降るにちがいない」という噂がありました。子ども心に、目に見える変化があるだろうと期待したわけです。南の島々に、白い雪が降り積もるとは綺麗な光景です……たわいもない思いですが、四十年後、この節目ともいえる年に、米軍のオスプレイが、普天間飛行場に配備された、ということは、とても象徴的なことに思えてしょうがありません。日本という国に復帰したということが、果たして沖縄にとって良かったのか。今は、そんな疑問が、自然と湧いてくるのです。これは沖縄の人にとって、そんなに過激な思いではありません。
台風のため、予定より二、三日遅れてオスプレイが沖縄にやってきた日、僕は自分でも意外なほど、気が重くなりました。それ以来、沖縄の各地に住んでいる友人達から、フェイスブックを通して、オスプレイ目撃の情報と写真が、ぞくぞくシェアされてきました。オスプレイが普天間基地に配備されるということは、その周辺地域が危険にさらされる、ということだけではなく、要するに、沖縄全体が危険にさらされているということを、強く実感させられたのです。みんな一応にショックを受けていました。
もちろん「沖縄」といっても、住んでいる場所や立場によって、米軍基地に対する思いは違います。僕は、普天間基地のゲート前での座り込みのニュースを見たり、座り込みに参加している知り合いの、フェイスブックにアップされる状況をシェアすることくらいしか、していません。ただ写真とその意見をシェアしているだけなのに、あたかも抗議活動をしているような気分になっている。だからオスプレイ関係のニュースを見ると、僕は「うちあたい」してしまいます。でもその「怒り」は、確かに、多くの沖縄の人が共有していることも事実です。……逆に、沖縄県民の中には、オスプレイ配備を支持する人たちだっています。沖縄にとって米軍基地という存在は、生活の隅々に密着していて、「そんな沖縄に誰がした! と思わずにはいられません。
でもそもそも米軍基地が、戦後、ずっと存在し続けているのに、オスプレイが来ることによって、改めて基地の重圧・恐怖を体感したというのは、僕もどこかで、米軍基地に対して、麻痺している部分があったかもしれないとも思い至りました。何かが起こらないと意識しない。那覇に住んでいる僕でさえそうなのだから……敢えて「本土」といいますが……つまり沖縄県以外の方々の多くは、米軍基地があることの弊害を意識していないだろうと思います。もっと強く言えば、見ないようにしている。
根本的にオスプレイの配備は、それが欠陥機の恐れがあるから問題になっているのではなくて、要するに、「沖縄にこれからも米軍基地は固定化しますよ」という態度を、日米政府があからさまに主張しているからなんです。オスプレイの安全性うんぬんは、僕ははっきり言って関係ないと思っているんです。安全だったら、配備に問題はないのでしょうか。違うんです。新しい軍事施設、兵器を沖縄に配備すること自体が、問題なのです。それは、沖縄島・北部の自然豊かな土地「山原」の東村高江地区に、米軍施設のヘリポート建設を強行していることとか、普天間飛行場撤去のかわりに、沖縄島北部名護市の辺野古地区の海上に、軍事目的の新たな飛行場を作ろうとすることとリンクしています。
復帰四十年たって、沖縄戦から六七年たって、日本とアメリカが、沖縄という場所を、まるで占領地のように扱っていることの象徴が、オスプレイの飛来する姿なんです。だから僕たちは、あの日、とっても気持ちが重くなったのだと思います。沖縄が、日本という国の中で、極めて特殊な場所として位置づけられていることを、リアルに表している。オスプレイ配備に関しては、これまで以上に、多くの県民が反対の姿勢で一致しているのは、危険な機種だから、ということではなく、アメリカと、日本と、沖縄の、いびつな関係を表しているからでなんです。国の思惑で、沖縄をかってに「国防の島」に仕立て上げないでほしいんです。なぜこんなにも、沖縄の声がとどかないのか、という不信感は、今、もっとも強くなっているのです。
僕はこういう問題、例えば基地問題を考える時に、大局的に考えるのではなく、小さい視点でとらえてもいいのではないか、と思っています。あくまでも「生活の場」の問題として考える。国防とか外交とか、専門家の意見を知ることは大切かもしれないけれど、僕は、専門家っぽい意見を語りあうのではなく、「この島で、この街で生活していきたいんだ」「ここで生まれて、ここで生活を、全うしていくために、必要なことはなんだろう」という、そんな小さな声、小さな気持ちを合わせることによって、生まれる力を信じたいのです。だから、僕にとって、最大の異議申し立て、抗議活動というのは、今までとおり普通に沖縄に住み続けることかもしれません。
沖縄が復帰して四十年後、「白い雪は降らなかったが、オスプレイが降ってきた」という風にならないことを願っています。これまで沖縄には、実際、数多くの米軍関係の墜落事故が起こっています。不発弾の処理は毎週のように行われ、そして戦後ずっと基地があることによって起こ
る暴行事件が続いています。これ以上の悲劇を僕たちは必要としていません。何か起こってから「うちあたい」するのではなく、今「うちあたい」して欲しいのです。
沖縄は今でも多分日本にとって、遠い場所だと思います。地理的にも社会的にも、そしてなにより心理的にも。不思議なことに、人は遠いところとか、小さいものに対して「癒し」を感じるようです。ここ数年沖縄のキーワードは「癒し」でした。でもこれからは、それに「痛み」という言葉も追加してもいいかもしれません。遠くにいる人たちの、小さい声に「痛み」を感じること、想像すること、共感すること。それが「うちあたい」です。
沖縄に住み続ける僕も、逆に原発問題や津波後の復興で悩んでいる人たち、沖縄から遠い場にいる人たちの、小さい声に、「うちあたい」する、そんな小さな力をもてればといいなと思います。