日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ
NHK大河ドラマ「平清盛」が面白い。が、これは現代の物語だなと思わせるのは、白河法皇の血脈と氏族の親子関係みたいな部分だ。血脈は所詮ファンタジーなのでどうもよいが、物語の、親子関係というか親子の愛情の描写を支える心情は実に近代人のそれであり、近世から現代の家族観を反映しているにすぎない。あの時代にそういう心情はなかっただろう。
物語なんだから、それで悪いというわけではない。古代・中世の親族構成というのは、なかなか現代人の感覚からはわからないものだ。昨日、近世日本の家族の与太話を書いたが、これも機会かもしれないので補足しておこう。
村落の皆婚化が進んだのは江戸時代中期であった。なぜかという理由に、とりあえず生産力向上を挙げ、さらにその背景に統治の安定を挙げた。基本的に江戸時代初期は統治が安定に向かう時代だといえるし、その理由も自明のようだが、踏み込むと考えさせらることがある。
昨日のエントリで参考にした「歴史的に見た日本の人口と家族」(参照)では、家族の発生について、こう書かれている。
江戸時代前期に生じた大きな変化とは小農の自立であった。平安末期以降の荘園・公領は、名主と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態をとっていた。室町時代以降、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せていたが、この流れを決定的にしたのが 16世紀末に行われた太閤検地である。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことは小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いた。
太閤検地により、一地一作人が原則化されたという。これが「家族を単位として耕作を行う近世農村」を形成した。村落はむしろ、近世に家族とともに成立したものだ。村落の皆婚化はその付帯状況だった。
別の言い方をすると、太閤検地以前の村落は、現在の日本人が、田舎なり、昔の村落と思っているものとは異なっていた。どのようなものだったか。
この傾向は江戸時代に一層強まった。まだ江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていった。
マルクス史観的に「農奴」と呼ぶのは勇み足すぎるが、いずれにせよ、農民は、権力者・権力者氏族に隷属していた。
この隷属のイメージは、現代日本人からすると、家族が身分やカーストに所属していて、家族単位で権力者に従うかのように理解されがちだが、そういう家族なるもの自体が存在していなかった。
さらに言うと、そもそも結婚というのが、少なくとも庶民的には存在しえない社会構造だった。
そうは言っても、男女の性交はあり、子どもは生まれていたことは間違いない。では、家族なくして、子どもはどういう状況で生まれて、どう生育されたのか。
これらには当然ながら、法が関連している。当時、法はどのように世代の再生産にかかわる問題を規定していたか。以前ブログで触れた「江戸時代(大石慎三郎)」(参照)が参考になる。
在地小領主が戦国大名にまで成長した段階でだした領内統治のための法である分国法には、多くの場合子供の配分のルールを決めた項目がある。それは主人の違う男女のあいだに生まれた子供の配分であるが、たとえば、「塵芥集」では男の子は男親の主人が、女の子は女親の主人が取ることを決めている。また「結城家法度」ではそれが原則ではあるが、一〇歳、一五歳まで育てた場合には、男女とわず育てたほうの親の主人がその子供を取るべきだと既定している。
地域によって法のあり方は異なるだろうが、基本的に、農民は人間というより「財」の概念であり、子どもまた財の配分として見られていた。あるいは子どもはその財のまさに利子のようなものであった。引用にある「塵芥集」という法では、男の子なら男親の主人の財であり、女親は女親の主人の財であるとしていた。
とはいえ、実際に子どもは育てられていた。当時、具体的に誰が子どもを育てていたのか?
同書には明示されていないが、財としてみれば、最終的には主人が管理していた。隷属民の子どもは、主人が制度的に責務を持ち、財としてその氏族なりの集団で管理・育児されていたのだろう。当時の説話などから推測するに、その管理システムが性交・出産のシステムをも包括していたようにも見える。
いずれにせよ、江戸時代初期までは、日本の社会の多数の庶民には、父子の関係は薄く、母子の関係はあっても家族はない。同書は簡素にこう描く。
このことはまだ庶民大衆の祖先たちは、この段階では夫婦をなして子供まであっても、夫は甲という在地小領主の隷従者であり、妻は乙の隷従者であるというように、夫婦が家族とともに一つの家で生活するという家族の形態をとっていないことの反映である。つまりわれわれ庶民大衆が家族をなし親子ともども生活するようになったのはこの時期以降、具体的には江戸時代初頭からのことである。
江戸時代初期になって村落の世帯分化と皆婚化とで家族が形成されていく。氏族集団を一地一作人的な家族の集合に変化させ、見合いというか性交・婚姻・出産のシステムがかつての氏族内の機能を代替していったのである。
江戸時代が始まるころまで、庶民には概ね、日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ。
その後、家ができて、家を死後に持ち越すために墓ができて、墓の管理のためにも家の存続が必要になった。しかし、そうした時代もいよいよ終わりつつあり、皆婚はなくなったし、墓もなくなってきた。
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