『マスコミ市民』 389号(2001年6月号) 掲載何が起こっているのか
辛淑玉さんといえば、人材育成コンサルタントとして企業における女性人材の育成支援 や人権研修を行う会社を経営するかたわら、さまざまな社会的問題、とりわけこの国にはびこる差別や排外主義に対して鋭い批判の声をあげてきたことで知られている。本誌の読者であれば、連載『山椒のひとつぶ』を通して、少なくとも一度は彼女の声に触れたことがあるだろう。
在日朝鮮人(辛さんは韓国籍だが、あえて日本社会の差別と向き合うために在日朝鮮人 と自称している)であり、女性であるという二重のマイノリティの立場から、臆することなく勇気ある異議申し立てを続けている辛さんは、まさにそれゆえに、これまでにもさまざまな脅迫や嫌がらせにさらされてきた。そんな辛さんに対して、インターネット上でひどい中傷攻撃が行われていることを知ったのは、今年の1月末のことだった[1]。
悪名高い「2ちゃんねる」を始めとするいくつかの掲示板に、「人材コンサルタント業経営 在日コリアンの辛淑玉氏のお話」と称する、彼女の名前を騙った悪質なデマ文書が掲載され、これを材料に彼女に対する非難罵倒が繰り返されているのである。
許してはならない卑劣な行為
問題のデマ文書は、昨年発生した英国人女性殺害事件の容疑者として逮捕されている人(既に帰化しているにも関わらず、元在日であるという出自が一部週刊誌によって暴かれてしまっている)を題材に、辛さんが一言も言っていない低劣な内容の「コメント」を捏造し、彼女の発言と称して並べ立てたものだ。そして掲示板の参加者たちのほとんどが、何ら事実確認をすることもなく、こんなコメントをするのは許せない、と寄ってたかって彼女を攻撃しているのである。
今さら言うまでもなく、匿名性の陰に隠れ、他人の名前を騙ったデマ情報を流布して憎悪を煽るこのような卑劣な行為は、インターネット上であろうとなかろうと、決して許せるものではない。
このデマ文書の具体的中身は、ひどすぎてとてもここに引用する気にはなれない。どうしても実際の内容を確認したい人は、自分で調べるか、私宛てに個別に問い合わせて欲しい。ただ、一つだけ指摘しておくと、問題の容疑者を在日差別の犠牲者とし、朝鮮人「従軍慰安婦」と日本女性を対比させて日本文化の低劣性を非難する(そのような発言を在日の辛さんがしているとする)この文書は、単に辛さん個人に対する誹謗中傷であるだけでなく、在日社会全体を攻撃する、悪質な差別文書でもあることを忘れてはならない。
匿名で転載を繰り返されているこのデマ文書の出所がどこで、誰が作ったのかは、いまだに不明である。しかし、辛さん風の言い回しをあちこちにちりばめて作られたこの文書の作者は、かなり彼女の発言を調べた上でやっていると思われ、それだけに単純な嫌がらせとは異質な、たちの悪い計画性を感じさせる。
鏡に向かって吠える犬たち
他者を批判する言論の自由は誰にでもある。だが、批判するなら、事実に基いて正々堂々と行うのが最低限のルールというものだ。捏造や歪曲をもとに、自らは反撃の届かない安全な場所に身を隠して個人攻撃を行う今回のような行為は批判でも何でもない。陰湿ないじめである。
実は私は、このデマ文書が掲載されたある掲示板上で、出典も何も記されていないこの文書はデマであり、捏造されたものだと指摘してみたことがある。驚いたことに、誰もその内容が辛さんの発言だという根拠を示せないにもかかわらず、このデマ文書を投稿した者も、付和雷同していじめに参加した者も、誰一人として発言の撤回も謝罪もしないのである。
その代わりに彼らが始めたのは、辛さんの別の発言(今回のようなゼロからの捏造ではないが、発言の文脈を無視し、内容を大きく歪曲したもの)を持ち出して、辛淑玉はこんなことも言っている、これは差別だ、けしからん、と言い立てる新たな罵倒だった。
こんな行動を取って恥じない中傷者たちのメンタリティは私には理解の外だが、恐らく現実社会ではさまざまなしがらみの中で抑圧され、不満を抱えながら生きているであろう彼らにとって、自分たちより遥かに下の存在と思っていた「在日」の、しかも「女」が、この社会の現実に正面から異議申し立てをし、胸を張って清々しく生きていることそれ自体が、耐え難くプライドを傷付けるのだろう。だから、捏造でも歪曲でも何でもして、彼女もまた差別者の側だというフィクションの中に安住したいのである。
彼ら自身は気が付いていないだろうが、例えば、低賃金でマスコミ産業に使われる外国人留学生たちの処遇に思いを致せ、という趣旨の辛さんの発言[2]を、「新聞配達は負け犬の仕事」などというおよそ正反対の内容に歪曲して差別だ、偏見だと非難するとき、彼らはそのような曲解しかできない自らの差別意識に向って声を張り上げているのである。彼女の発言をこのような醜悪な内容に歪曲しているのは、まさに彼ら自身の差別意識に他ならないからだ。
自分自身の持つ差別と偏見を気に食わない他者(「生意気な朝鮮人の女」)に投影して非難罵倒する彼らの言動は、まるで鏡に映った自分の姿を敵だと思い込んで吠え掛かる犬のようだ。その余りの醜さには、吐き気を抑えられない。
いじめ社会の病理
思えばこの国では、国家自身が率先して弱者に対するいじめを繰り返してきた。在日朝鮮人やアイヌ・沖縄民族に対する差別政策から、公害や薬害エイズの被害者、ハンセン病者たちに対する理不尽な扱いに至るまで、すべてがそうである。
歴史上一度として民衆が政府を打倒して権力を勝ち得た経験を持たず、国家から自立した個としての市民が育っていないこの国では、「国」が公然といじめを行えば、「国民」もまた嬉々としてそれをまねる。ネットの匿名性の陰に隠れてデマ情報を流し、集団で辛さんをバッシングした今回の事件も、その一つの現れに過ぎない。そして、酷薄な大人社会の本質を敏感に感じ取った子どもたちは、学校という彼ら自身の社会でそれを再現する。かくして、この国のいじめ体質は、世代を越えて引き継がれ、拡大再生産されていく。
在日であり、女性である辛さんが標的にされた今回の事件の根底にあるのは、実は決して在日の問題でもなければ、女性の問題でもない。それは何よりもまず、この社会のマジョリティである日本人自身(特に「健康な」「大人の」「男」)の問題であり、異質な文化、異なった人々と共生していけるだけの豊かさをいまだ持ち得ていない日本人社会の問題である。日本人である我々自身が変わり、排他的で酷薄なこの社会を根本的に変えていかない限り、こうした問題の解決はない。
対抗軸としての共同抗議声明
昨年春、住民の人権擁護に責任を負う自治体首長である石原慎太郎東京都知事が公然と外国籍住民を犯罪者扱いし、差別と迫害を扇動する「三国人」発言を行った際、これに抗議した女性市議が自宅の住所と電話番号をある掲示板上に公開され、「レイプしてやる」などの卑劣な脅迫を受けるという、許し難い事件が発生した。このとき、辛さんも個人メールアドレスを何者かによって勝手に公開され、嫌がらせメールが殺到するという被害を受けた。
そしてまた、今回のこの事件である。
残念ながら、発言することに対して敷居の低いインターネット(特に掲示板)というメディアが、悪質な差別落書きの温床となっている事実は否定できない。
それでは、今回のような事件にはどのように対応していけばいいのだろうか。もちろん、被害者である辛さんの側からは名誉毀損で告訴することもできるだろうし、大いにやるべきだろう。考えなければならないのは、被害者の名誉回復を支援し、同様な事件の再発を防止するために、我々にもできること、なすべきことがあるのではないか、ということだ。
その方法に悩んでいた私に、共同抗議声明という形で意志表示をしてみてはどうか、という提案をしてくれたのが、「インターネット本多勝一を応援する読者会」[3]の高奥紀夫さんだった。その後読者会メーリングリストの中でとんとん拍子に話がまとまり、私が抗議声明を起草し、広く賛同のコメントを集めて、それを高奥さんがホームページ[4]にまとめ、インターネット上に掲載するとともに、被害者である辛さんの事務所には応援のメッセージとして、問題のデマ文書を掲載している掲示板の管理者には抗議のメッセージとして送付することになった。
抗議声明への賛同は、わずか半月程の間に50名以上もの方から寄せていただくことができた。これだけの人たちが、それぞれ自分の言葉で卑劣な中傷攻撃への怒りと辛さんへの共感の思いを書いてくれたことは、なんとも嬉しく、感動的な体験だった。改めて、高奥さんや賛同を寄せてくれたすべての人々に感謝したい。
掲示板管理の問題
問題のデマ文書を掲載している主要な掲示板の管理者に対しては、これまでにも個人的には抗議を行ってきたが、共同抗議声明が一通りの完成を見た後、改めて賛同者の総意を代表して削除を求める抗議メールを送付した。しかし、その結果は「のれんに腕押し」としか言いようのないものだった。
Yahoo! Japanからは、「掲示板利用規約に照らしてチェックさせていただきます」とのメールが帰ってきただけで、その利用規約で禁じられている、「…他人の名誉を毀損するもの…他人を中傷するもの…民族的・人種的差別につながるもの…をサービスを通じて他人に掲載、開示、提供または送付すること」「自分以外の人物を名乗ったり…偽ったりすること」に明白に違反しているにも関わらず、何の対処も行われなかった。
2ちゃんねるからは、「削除依頼板へお願いします」という一言が帰ってきただけである。削除依頼板というのは削除依頼を書き込む専用の掲示板だが、依頼に応じて削除するかどうかは担当者の自由意志に任されており、その上この掲示板自体が公開されているため、ここをウォッチして、削除依頼が出されるような「危ない」投稿をネタに更に被害を広げるような手合いすら存在する。これでは依頼を出しても問題解決どころか、事態の悪化にすらつながりかねない。
インターネット上で誰もが自由に読むことができる掲示板は、私的な管理と責任のもとに運営されているものであっても、一方では公共の場という側面をも持つようになる。そのような場でデマ攻撃や脅迫扇動を放置するのは、これらの犯罪行為を助長することに他ならない。それはまた、インターネット上の言論を規制しようとする権力による介入を招く結果にもつながりかねない。
大規模な掲示板を管理する管理者がそのことの重大性を理解せず、十分な管理責任を果たしていないのは、極めて残念なことである。
誰もが安心して意見の言える社会へ
今年3月、ジュネーブで開かれた国連人種差別撤廃委は、石原の「三国人」発言を差別扇動と認定し、人種差別を犯罪として処罰する特別立法を含め、再発防止のための適切な措置を取ることを日本政府に勧告した[5]。この最終所見が、「人種的優越または憎悪に基づくあらゆる思想の流布の禁止は、意見および表現の自由についての権利と両立する」と指摘していることは極めて重要である。
テロリズムの横行する社会に自由が存在しないのと同様に、差別を煽り、女性やマイノリティ、権力構造に逆らう者を中傷・脅迫する言葉の暴力が放置されているところに、真の言論の自由などないのである。こうした卑劣な中傷攻撃を許さないことは、誰もが脅迫や嫌がらせに怯えることなく、安心して意見を主張できる真の民主的社会を作っていくための第一歩となりうるし、またそうしなければならない。
最後に、今回の事件への対応を通して、改めてそのことに気付かせてくれた辛淑玉さんに感謝して論を閉じることとしたい。 あなたの勇気に、心からの敬意を表します。ありがとう。
[共同抗議声明への賛同は現在も受け付け中です。賛同頂ける方は是非メッセージをお寄せください。]
参考
[1] 辛淑玉のページ
http://www.sps-kogasha.co.jp/shin/
[2] TBSラジオ「永六輔の土曜ワイド」1998年8月28日放送
[3] http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/
[4] 辛淑玉さんへの卑劣な中傷攻撃に抗議します!
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/koe/20010401.html
[5] 国連・人種差別撤廃委員会「最終所見」 2000年3月20日
http://www.imadr.org/japan/2001/cerd.final.japan.html
関連情報
鏡に向って吠える犬たち