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10月

2012

わたしの決意!

 深刻な少子高齢化のいま、私は、三児の母として、子育ての真っ最中です。

この子どもたちの将来を考えると、どうしても現在の社会のあり様が気になります。

近年、虐待や性的犯罪、誘拐殺人など、子どもが巻き込まれる事件が激増していますが、

これらは、すべて、大人の「荒れた心」が起こすもの。

どうして、こんな、他者に思いを馳せない世の中になってしまったのでしょう?

 

 私は、自らを磨くために書道を学ぶ傍ら、書を通じて、

子どもたちの豊かな情緒と道徳心の育成に取り組んでいます。

書道に限らず、剣道や茶道など「道」がつく芸事は、単に技術を学ぶものではなくて、

精神を学ぶものですが、その入口は、必ず「礼儀作法」です。

まずは、これらの「形」を身体に覚え込ませ、常に無意識にそれができるようになって初めて、

「中身(=心)」がついてくるというのが、日本古来の考え方です。

現代人は、この「形」を旧いものとして捨て去ってしまいました。

だから、「心」も荒れてしまったのではないでしょうか。

私には、そのように感じられてなりません。「道」は「心」を鍛えますが、

その「心」は「言葉」によって表されます。もし「言葉」がなければ、

「心」は大変薄っぺらいものになってしまうでしょう。

そして、その「言葉」を作っているのが「文字」なのです。

簡単に言うと、現代人は「文字」をおろそかにしたから、

「心」が荒れてしまったということなのです。

 

 このことに気づいた私は、「文字」を扱う書家として、人の心を動かし心を救う字を書こう、

そして子どもたちに書道を教えることで、子どもたちの心を育てよう、と努力して来たのです。

しかしながら、私一人の力は、所詮小さなものです。

しかも、いくら一民間人が努力を積み重ねても、学校教育の現場でそれがいとも簡単に突き崩されてしまう例はたくさんあります。例えば、西日本のある県では、

「書道」は戦前の軍国主義につながるからといって、「書道」を「書写」と言い換え、

墨を磨ることを禁じて墨汁の使用を強い(しかも硯も使わずにプラスチック製の墨池を使わせる)、楷書を教えずに最初から芸術的な書を真似させる、という暴挙に出ました。

因みにその県は、この1年、公立学校での陰惨ないじめによる生徒の自殺で揺れています。

こうなってくると、もう政治がリーダーシップをとって、変えていくしかありません。

 

 儒学の教えに「徳治政策」というものがあります。これは「徳」のある統治者が、

その持ち前の「徳」を以て人民を治めるべきであるとした孔子の統治論に由来する政治理念です。

これを現代の民主主義社会に当てはめると、主権者である国民一人ひとりが「徳」を持つべきである、ということになります。そして、この「徳」とは、法令などによって強制されるのではなく

一人ひとりが、自分自身の価値観や倫理観に基づいて何が正しいか、どうすればよいのか、

自律的に判断して行動できることを意味します。

国民一人ひとりがしっかりと「徳」を身につけられた時、

わが国は穏やかで平和な社会になるのではないでしょうか。

 

私は、大切な「書」を通して、道徳心のある、情操豊かな人間性を養うための「徳育」を

実現することによって、岡崎を、延いては日本を変革したいと考えています。

 

市民の皆さん、私、横山ゆうふうと一緒に、岡崎市を変革しましょう。

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