若き学生ブロガーのあつもり氏がいい記事を投稿しているのでご紹介。
アフリカの子どもの笑顔を見てホッとする自分に、どうしようもない差別意識を感じます。 – あつもり@まいぺーす -
同情という上から目線
「アフリカの子どもの笑顔を見てホッとする自分に、どうしようもない差別意識を感じます」と語るあつもり氏。少し切り口が違うかもしれませんが、これは僕もよく感じることです。
例えば、現在僕はビッグイシュー・オンラインのお手伝いをしているわけですが、NPO活動などに興味がなかった大学生時代には、ホームレスの方々を「かわいそう」だと思っていました。無批判、盲目的に、疑問を抱くことなく「かわいそう」だと捉えていたのです。
しかし、ビッグイシューのスタッフ、ビッグイシューの販売員の方々と接することで、そういう一方的で無理解な「かわいそう」は見事に消え去りました。
当然のことですが、ホームレスの方々は「かわいそうな存在」ではなく、僕と変わらないごく普通の人間だったのです。ホームレスと呼ばれる方々は、たまたまセーフティネットの網に掛からなかっただけで、僕だって体を壊せば、数年後にはホームレスになっていてもおかしくありません。彼らと僕の違いは「たまたま」存在しているだけにすぎません。階層があるように見えたとしても、現実はとてもフラットなわけです。
同情というのは、とても上から目線の感情です。「あの人は可哀想だ」という感情には、「あの人は自分に比べて劣っている、未熟だ」「あの人はもっと成長できるし、そうすべきだ」という上から目線が内包されています。
例えば職場に配属された新入社員で、明らかに不器用で仕事も遅い人材がいるとします。先輩社員であるみなさんは、彼の苦労や境遇に「俺も昔は苦労したよ」と「同情」し、彼の「面倒を見ます」。
あなたは彼に善意をもって「こうした方がいい」「ああした方がいい」と指示を出し、結果的に彼を支配することになります。
しかし、彼は必ずあなたに勝る能力を持っているはずです。例えば謙虚さ、例えば電話応対、例えばプレゼン。あなたがもし彼の素晴らしさを見て、それをフラットに「私よりうまいじゃないか、素晴らしい!」と賞賛することができないとすれば、それはあなたが「同情」という上から目線のフレームに収まっている証左です。
望ましいのは「確かに相手には足りないところもあるが、自分にも足りないところがある」という態度で、フラットな関係性を維持しつづけることです。与えるだけではなく、与えられることも意識してみましょう。支配するのではなく、創造性を発揮してもらいましょう。ありのままを認めましょう。そういう関係性が、真に人間的なものだと思います。
(余談ですが、「ホームレス人生相談」はその意味でも素晴らしいコンテンツだと思います。人間誰しも、素晴らしいものを与えることができるのです。)
そんなわけで、無意識的に「うつ病の人は可哀想だ」「貧困に苦しむ人は可哀想だ」と「同情」しそうになるとき、僕は自分に嫌気が差します。お前はどんだけ偉いんだ、と。
関連本。こういう考えになったのは、この本を読んでからかも。