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視点・論点 「"ハーグ条約"子どもの利益を第一に」2012年02月14日 (火)
弁護士 伊藤和子
「国際的な子の奪取に関するハーグ条約」について、日本政府が批准の動きを進めています。この「ハーグ条約」は、国際結婚の破たん等に伴って、親の一人が、16歳未満の子どもを国境を越えて移動させ、それがもう一人の親の監護権を侵害している場合に、これを「不法な連れ去り」とし、子どもをもといた国に原則として返還するという条約です。今年の1月、法制審議会は、ハーグ条約を実施するための「子の返還手続等の整備に関する要綱案」を公表し、近く正式に政府に提出する予定とされています。
これまで日本では、国際離婚に伴い、子どもと一緒に親が実家のある日本に戻ってくることが違法だとは考えられてきませんでした。私は子どもを連れて日本に帰国した女性たちの相談をよく受けますが、外国で夫から深刻なDV、ドメスティック・バイオレンスにあい、命の危険を感じて逃げてきたという女性、母子ともに生活に困窮し、実家のサポートを得てようやく帰国できた女性など、やむを得ない事情を抱えて帰国した例が多いのが実情です。
しかし、ハーグ条約を批准すれば、帰国せざるを得ない事情などは考慮されることなく、子どもと帰国したというだけで違法とみなされ、残された親が返還を求めれば、子どもを原則として返還しなければならないことになります。
そもそも、子どもの福祉よりも連れ去られた親の監護権を優先して、原則返還するというのが、国際ルールとして妥当か、という問題があります。条約加盟国は欧米中心に80数か国、原則返還は国際的なコンセンサスとはいえません。他方日本を含む世界190か国以上が批准している子どもの権利条約3条は「子どもに関する措置をとるにあたっては、子どもの最善の利益を主として考慮する」と定めています。どの国でどの親と生活するか、は子どもにとって重大な決定であり、返還ありきではなく、子どもの利益を最優先に判断がなされるべきです。ヨーロッパ人権裁判所は、最近、子どもの利益を害する返還命令は子どもの権利条約に違反する、との判決を出しました。ハーグ条約の在り方そのものが見直しを迫られており、無批判に加入するということでよいのか、疑問です。
ハーグ条約には、返還の例外が定められています。先日法制審議会が公表した国内法の要綱案には、ハーグ条約と同様の例外事由が掲げられています。それは、
(1)子の連れ去りから1年以上が経過し、子が新たな環境に適応していること。
(2)申立人が子に監護権を行使していない、連れ去りに同意したなどの事情があること。
(3)返還が,子の心身に害悪を及ぼし,子を耐え難い状況に置く重大な危険があること。
(4)成熟した子どもが返還を拒んでいること。
(5)返還が人権保護に関する基本原則に反すること
です。しかし、諸外国では、原則返還というハーグ条約の強いルールのもとで、これらの返還例外事由が極めて制限的に解釈され、子どもが強く反対しても返還されるケースが多くみられます。母親に対するDV行為の存在は、返還例外事由とされていないため、DV事案でも原則として返還が命じられます。
昨年、アメリカでは、日本人の母親が子どもを連れて日本に帰国したことを理由に、約5億円の損害賠償の支払いが命じられたり、子どもを返還しない限り懲役12年の刑に処すとする判決が出されました。多くの国で同様に、国境を越えた連れ去りは犯罪とされているため、母親は子どもと一緒にもとの国に戻れば、同様の危険が待ち受けています。それを怖れて母親が帰国できない場合、子どもは一人で返還され、父のもとで暮らすか施設に入れられるか里親に出されることになります。母親が訴追やDVの危険にも関わらず子どもと一緒に戻り、裁判所で子どもの監護権を求めても、「子を連れ去った」ことがマイナス評価され、監護権をはく奪されることも少なくありません。このようにして、幼い子から母親を奪うことは、子どもの福祉に反する不当な結果にほかなりません。特に、DVなどの有害行為から自分と子どもを守るために逃れてきた女性にとって、一連の仕打ちはあまりにも過酷と言わなければなりません。
日本の立法は、こうした懸念に対応できるのでしょうか。法制審議会の要綱案では、例外事由のうち、「子に対する重大な危険」を判断するにあたって
1. 返還を申立てた親から子が暴力等有害な言動を受けるおそれの有無
2. 連れ去った親が返還を申立てた親から、子どもの心理的外傷を与えることとなる暴力等を受けるおそれの有無
3. それぞれの親について返還後に子を監護することが困難な事情の有無。
を考慮する、としています。しかし、要綱案は単に考慮要素を列挙するだけで、昨年の閣議了解に比べても著しく後退したものです。結局は裁判官の裁量に委ねられ、原則返還というハーグ条約や各国の実務、国際的なプレッシャーを受けて、不当な返還命令が出される危険性があります。
子どもや女性の権利を後退させることがないよう、子への虐待や母へのDVがあった場合、また、母親が子と一緒に帰国できない事情があるなど、返還が子どもの最善の利益といえない場合には、法律で明確に、返還を認めない、と規定することが必要です。
要綱案は、返還の審理は家庭裁判所において、調査官も関与して行う、としています。子への虐待やDVは密室で行われ、まして海外で起きた暴力については、証拠が保全されていない場合が少なくありません。返還という重大な処分による取り返しのつかない危害を防止するため、DVの保護命令と同様、子や母親の供述や関係諸機関への相談等が疎明されれば、広く返還例外を認めるべきです。
さらに、要綱案では、子の返還命令が出た後、命令を実行に移すために、執行官が親に対して威力を用い、親の監護から子を解くことができるとされています。しかし強制的な引き離しは子どものトラウマをもたらす危険が高く、執行官が返還を強制するという仕組みは極めて問題です。
手続の入り口、子の所在を発見する方法についても懸念があります。外務省の下に中央当局が設置され、子どもを発見するための情報収集にあたるとされていますが、私立の学校や幼稚園、民間のシェルターや携帯電話会社にまで、情報提供を要請することができる、とされています。しかし、居所を知られるのを怖れて、帰国した母子が学校にもシェルターにも行けなくなればそれこそ追い詰められてしまいます。私的な団体に情報提供を義務づけることは到底容認できません。
最後に、条約では返還のための援助ばかりが指摘されていますが、本来国は、外国で国際結婚に破綻し、困難に直面している女性や子どもたちにこそ手厚い支援をすべきです。海外でDV等の被害に会った女性たちは、親戚や友人も近くにいない、経済的基盤もない、言葉の壁から行政や司法のサポートも受けられない、というなかで、精神的にも経済的にも追い詰められています。在外公館が積極的な相談支援を行い、在外公館に助けを求めたりシェルターに保護された女性や子どもについては、「国の援助等を必要とする帰国者に関する領事官の職務等に関する法律」などを積極的に活用し、帰国したくてもできない被害者が国の支援を受けて合法的に帰国できるようなシステムを構築し、そのための交渉を諸外国と始めることが必要だと思います。
様々な問題点について「条約だから仕方がない」という議論がありますが、子どもや女性たちを犠牲にする条約なら本来批准すべきではありません。ハーグ条約批准によって、万が一にも国際結婚に失敗し、助けを求めて日本に逃れてくる女性や子どもの人権保障を後退させることがないよう、これから出されてくる法案を厳しく見極めることが必要です。