日本古代史の深層 〜さざなみのひかり〜 by 真空心
序言
日本の古代史は、謎に包まれた部分が多い。
例えば、大和朝廷と邪馬台国の関係も、いまだに定説を見ない。
インターネット上でも、さまざまな見解が飛び交っており、興味深いものも多い。
しかし、古代史を長年追いかけてきた一人として、筆者は、多くの人が見落としてい
るか、もしくは気づいていない部分に、まだ重大な真実が潜んでいるということに気づ
いた。
もっとも、このことに関しては、色々と差し障りもあり、当面、発表は差し控える予
定であった。
ところが、不測の事態が生じ、筆者がこの先どのくらいの期間元気でいられるかが甚
だ心もとない状態となった。
そこで、私としては、このウェブページに、メモ書き程度ではあるが、思うところを
記して、心ある方の閲覧を乞う次第である。参考にして頂ければ幸いである。
ただ、事の性質上、わざと分かりにくい表現を使うこともあるが、お許しいただきた
い。この問題を追いかけている方ならば、きっと理解しうる内容にはしているつもりで
あるから。
(そうはいっても、事態が切迫しているので、あまり表現に工夫をする余裕がないか
もしれない。よって、分かり易い部分とそうでない部分が混在するかもしれない。当方
も、十分な落ち着きをもって叙述することが困難な状態なので、その点はご容赦賜りた
い。なお、用語の問題について言えば、例えば、天皇というより大王という表現にすべ
きといった考えを知らないわけではないが、あえて天皇・帝などと表記している場合が
多い。また畿内という言葉も他の言い方の方が適切かもしれないが簡略化のため使用し
ているので諒解せられたい。)
本文
神代〜応神帝までの記紀の叙述は、実は「倭国興亡史」を角度を変えて2回叙述した
ものである。
本当は、懿徳帝と孝昭帝の間に断絶があり、孝昭帝は懿徳帝よりはるかに前の、いわ
ば神代の人物なのである。
従って懿徳帝と応神帝がほぼ同時代ということになる。
上記は、結論を先に記しているので、突飛な感じになり申し訳ない(出来れば避けた
かったことだ)が、ここで、とりあえず、分かりやすくするため、上記の「興亡史」の
中間地点の辺りから書くことにする。
要は、卑弥呼の国が狗奴国に滅ぼされたあと、しばらくは狗奴国が倭国代表となった
ものの、その後邪馬台国系で強力な人物が出て、狗奴国と和解をして倭国の実質的代表
(政治的な王)となったのである。これが神武天皇であり、そのときの名目的・精神的
な代表が倭人伝の臺与で、これがひめたたらいすず姫と同一人物である(彼女は、狗奴
国側の王女であった)。
この神武天皇の、いわば邪馬台・狗奴折衷政権に不満をもつ勢力が2つあった。
一つが手研耳命の勢力(九州)で、もう一つが、狗奴国王の王子で、実質的王になりそ
こねた人物(ひめたたらいすず姫と相当に親しかった人物)の勢力である。
前者が、神武から綏靖への権利継承を否定したのはいうまでもないが、ここでいすず
姫が手研耳命の妻となった点が重要である。 この夫妻は、九州にあって、畿内の綏靖
以下の政権に対峙することとなったが、ここに眼をつけたのが上記「後者」の人物であ
る。どうやらこの人物は畿内から九州に移動し、いすず姫にとりいって、実質的権限を
掌握するに至ったと思われる。
そしてこの人物の王子と目される人物が東征し、懿徳帝の率いるかの折衷政権を倒し
たのである。
この時点で狗奴国系が倭国を再統一した形となるが、この後にさらに騒乱があり、履
○帝以降数代は、地方政権にすぎない場合もあった。したがって、前述の「興亡史」の
「亡」という表現は語弊があるが、
ひとつの大きな時代が終わったという意味に解釈して頂ければ幸いである。
ここで、倭国全体を代表する実質的王の地位の捉え方としては、邪馬台・狗奴両系の
和解を重視し、神武→綏靖→安寧→懿徳への継承を正統とする考え方と、その後の政治
の流れを重視し、神武→手研耳命→いすず姫と相当に親しかった人物→その子の継承を
正統とする考えの二種があったようだ。
記紀が「倭国興亡史」を角度を変えて2回叙述したというのは、この二種の捉え方に
基づいた歴史を縦列して記述することで両者のニーズに応えたということなのである。
ここで孝昭帝〜景行帝は、神武以前の神代に相当する「倭国興亡史前半」なのであっ
て、後半史について思い切っていえば、日○○尊こそが「邪馬台国系の強力な人物」で
あり、その子である仲哀帝はほかならぬ「○○○命」である。さらに、神功皇后は某姫
と同一人物であり、また、○○○○は、「狗奴国王の王子で、実質的王になりそこねた
人物」であり、さらに、○○帝こそが、懿徳帝の畿内政権を倒したのである。
もっといってしまえば、カゴサカ・オシクマ王とは、その畿内政権の王や王子を指して
いるのである。
ここで、記紀の叙述のうち「2巡目」は、1巡目では天皇とされていない人物を天皇
として遇するように工夫されており、決して同一人が二人の天皇とはならないようにな
っている。
神武帝は1巡目に置いて天皇であるから2巡目では皇子とされているし、○○○命は、
1巡目では皇子だが2巡目では天皇とされている。
さらに、○○○○は1巡目では無論天皇ではないし、2巡目でも○○○○という人物
(天皇ではない)として登場するが、実はこの人物は2巡目の○○帝と同一人物であっ
て、さらにいうとその父こそが卑弥呼の政権を打倒した畿内の狗奴国王であるのであっ
て、実際記紀においても父子の関係として叙述されている。だから、しばしばこの○○
帝は事蹟が無いから架空だとか解かれるが、とんでもないことであって、その事蹟は事
情が事情であるので○○○○として描かれているのである。
角度を変えていえば、誰を歴代天皇として戴くかについて諸勢力の中でも意見の相違
があった訳で、それが記紀の1巡目2巡目に反映しているのであり、決して架空の人物
を天皇に架上して濫りに架空の帝を創出してはいないのである。(また、崇神帝・神武
帝・応神帝は全くの別人である。)
ここで賢明なる読者は気づかれたかもしれないが、誰を初代天皇にするかについても
意見の相違があったということであり、1巡目の神武天皇とする考えと、それよりも
「前の」人物である崇神天皇(2巡目に登場)とする考えがあり、さらに崇神の正統性
の源泉となったその祖先たる始祖的人物(孝昭帝)をあてる考え方もありうる。
1巡目のように初代を神武帝とする考えの場合、神武帝以前は、神聖な系統、日嗣の
御子ではあるが、天皇ではない、として神代のこととすることになる。そこで「神代」
に神話的なモチーフを大量に織り込んで、歴史叙述的な面では大幅にぼかした表現をす
ることになる。これでは不満が生じるのも確かであり、そこで2巡目では、1巡目では
神代の人物であった方でも天皇として登場することになる。といっても
2巡目でも、事
蹟の記述が豊富な崇神帝以降と、系図記事が中心の開化帝以前とでは大きな差異がある
ことは確かだ。しかし実は、率直にいうと、これは1巡目の神代における、天孫降臨以
降と、それ以前とに対応することになる。
ここで、少し唐突だが、記紀において卑弥呼が種々の事情から殆ど存在を消されてい
ることが多くの人を錯誤に陥らせていると思われるので、話の都合上ここで少し触れる
ことにする。
卑弥呼が女王として在位した時期については、中国の史書だけをみると現在の通説の
ように3世紀の初頭には在位したしていたというのが妥当に思えるが、上記のことを考
え合わせると、とある少数説のいう方が妥当で、中国の史書に錯誤があるという古い説
が実は正しかったのである。要するに、即位が239年から何十年も遡ることはないと
いうことである。(もっとも、これについては孝昭帝以降の数代(邪馬台王朝前史)の
ことを理解しないと納得できないかもしれない。)
そこで分かりづらいのを承知で簡潔にいうとすると、邪馬台王朝前史における男王統
治する王朝が数十年「とどまった」あと、その後継争いによって、倭国が大きく二派に
分かれて大乱が生じ、この中で後継を主張する一方が、数次の移動の後畿内に至って畿
内の旧勢力支配を試みた。ところが在来勢力に悩まされて、傍目には大乱が続いている
ように見える状態であったようだ。だが一応この人物が邪馬台王朝の由緒ある血統に属
する人物であることは確かであるから「初国しらす」天皇として扱われているわけであ
る。
ただ、争乱の終結は、その後、卑弥呼の即位を待たねばならなかった。卑弥呼は「初
国しらす」天皇の近親者であり、その位を継承したと思われ、倭国連合から倭国代表と
して仰がれたが、どうやら、その際狗奴国は倭国連合から離脱してしまったらしい。こ
のことからすると、卑弥呼の時代には倭国を代表する者の都のある邪馬台国は、九州に
移転したと考えられる。そして、実はかの「男弟」こそが「初国しらす」天皇の次代の
天皇として、記紀に記されることになる。すなわち、この天皇の時代こそが、卑弥呼の
時代ということであって、これは、戦前に人気のあった説ではあるが今では殆ど省みら
れない説なのではあるが、実はそれが正しかったことになる。
これが、1巡目においては神話的「ぼかし」が入っているがために、天孫降臨は日向
においてなされ、所謂日向3代はずっと九州にいたことにされているが、初代は、畿内
に移動していたことということになる。2代目は、その「次代」である男性であって、
やはり卑弥呼は登場しないが、神武帝を初代天皇とする以上、それ以前は、神聖な系統
であるその祖先を懸賞する側面が強くなるから、一応納得されたのであろう。そうする
と、1代目2代目は、「イリ系」人物であるから、3代目は、これは決して「タラシ」
系人物ではなくて、狗奴国の卑弥弓呼が邪馬台国を滅ぼしたために倭国代表者になるこ
とができなかったイリ系の人物であって、おそらく2代目の子で、神武天皇の父にあた
る人物であろう。
さて、孝昭帝以降の数代(邪馬台王朝前史)について理解するためには、ある書物を
充分読み込まないといけないのであるが、これは、岩波文庫の魏志倭人伝の非常に古い
版で参考文献欄にのせられていたある書物であるが、これについて語る時間が今後とれ
るか疑問であるので、それを使わない範囲で説明すると、邪馬台王朝前史における男王
統治する王朝というのは、観念的な統治の部分があり、当時の倭国における実質的支配
者は別にあったが、どうも上記男王王朝の内部で種々の内紛外紛があり、その一派は天
孫降臨以前に畿内に到来して在来勢力と折り合って支配をしていたらしい。その後、最
終的にはもう一つの派(卑弥呼を含む一族)が倭国における実質的支配者となるわけだ
が、そうなるまでの間に倭国大乱が生じたのであり、これは、邪馬台王朝前史における
王朝の後継争いであって、上記両派の争いということになる。もっというと、孝霊帝の
後継者の地位をめぐる争いということになる。
さらにいうと、孝霊帝のまつりごとが、その混乱の大きな要因ということにもなるよ
うで、某書物においては、孝霊帝の名こそ出ないが、孝霊帝をもって、ある一つの王朝
が終わったかのような扱いがされている。というのは、ある高貴な女性の帰趨を記して、
王朝の終焉をほのめかしているのであるが、その女性は実は、孝霊帝の皇女だからであ
る。
(というと、理解しがたいかもしれないが、この書物においては、孝昭帝(に当たる
人物)も、それ以前の神聖な系統を引くということになっているので、その長い系統が
そこ(孝昭帝の数代後)で終焉するかのような記述になっているということである。
もっとも、この書物においては、孝昭帝にあたる人物は、いわば全くの傍系の王系の
人物としてしか出現しないので、筆者がでたらめな解釈をしていると思うかもしれない
が、そうではなく、孝昭帝にあたる人物は、かの書物で正統視されている系統の人物が、
かつて居た場所から移転し、移転先の在来勢力の女性を娶って生んだ子であって、その
人物がその在来勢力をも継承した(一種の折衷政権)のであるところ、それを当該在来
勢力の系統であるように記述してしまっているのである。一方、その折衷政権の開始と
いう点に着目すれば、記紀が密かに示唆しているように、孝昭帝を始祖とする考えも成
り立ち得ることになる。)
だから、その書物的にいえば、(あくまでもその書物的にはであるが)孝霊帝は、王
朝の衰微を招いた人物ということで、ある意味武烈天皇な側面があるといえないことも
ないわけで、そうだとすると、この方が、「1巡目」の、天孫降臨以前、の、どの神様
にあたられるかは、何となく察しがつくのではないだろうか。
さらにいうと、これは例えば2巡目の○○○○について理解する際にも問題となるこ
とだが、昔は、古代のエジプトのような兄弟姉妹間の婚姻も血統の神聖性を保持するた
めに相当おこなわれたらしく、これが記紀ではカモフラージュされてしまっていること
を理解する必要がある。 そうすると、孝霊帝の妃の内のどなたかは、神代のどなたか
にあたられるということになりうるわけである。
ここまで書くと、ある意味で始祖的な孝昭帝が、神代のどなたにあたられるかもなん
となく察せられるのであるが、そうすると孝安帝が謎となってしまうことになる。これ
については、三貴子という考えがヒントになるとすることもできよう。ただ、これにつ
いてはさらに熟考を要する。どうも、某書物において、上記折衷政権が兄弟政権であっ
たとされていることに関係するようであり、これが、実際には異父兄弟であって、その
間で例の神聖な血統の盟主性をめぐる争いが既に発生していたことと関係するようであ
るが、結局、その兄側でない人物が一旦盟主的地位を得たこともあったかどうかを検討
する必要がある。これに関して、紀は三貴子に近しい地位をもつ人物の存在を示唆して
いることと、孝安帝に関してまた別の特殊な文献が特異な記述をしていることが関係す
るのかもしれない。そしてこの系統が、2派の争いにおける非イリ系に対応するのかも
しれない。
上で、孝霊帝について、ある王朝の終焉的な側面があると記したが、少し補足してお
きたい。記紀の「1巡目」には、ある意味これに近い面がある。つまり、一旦そこで仕
切りなおす必要が生じたからこそ、女神たる天照大神が、皇祖となって、あらたな王朝
の開始を告げたという捉え方が根底にあると見ることができる。そして「2巡目」は、
その時点での仕切りなおしという捉え方をしない見解も存在したことの反映であるとい
うこともできる。
ここで、また唐突であるが、多くの人が正しく認識していない点を指摘すると、邪馬
台(イリ系)王朝は、実は、いわば海人王朝であった。そして、狗奴王朝は、在来勢力
との提携から海神性も有してはいたが、その男系祖先は、非海洋性の文化をもつ系統で
あり、基本的には非海人王朝であった。
ただ、応神帝のあたりまでならこの2つの流れで把握可能であるが、その後を理解す
るには、少なくともさらに、狗奴王朝の傍系的勢力と、邪馬台王朝の傍系的勢力との2
つを合わせた4つの勢力を考える必要がある(その他、邪馬台王朝の本家の系統ではあ
るが別の勢力と親しい系統等も存する)。
そして、各勢力が王位を主張したが、種々の事象を経て、最終的には邪馬台王朝の傍
系的勢力の系統が天皇家となることに落ち着き、そして現代に至るのである。
ここで、海人性という点についていうと、狗奴王朝の傍系的勢力が非海人的であること
は勿論だが、実は、邪馬台王朝の傍系的勢力は、本家と異なり、種々の経緯から、非海
人性を明確に有していた。
このことが、現代において古代史理解を困難にしている。たとえば孝昭帝が海人系氏
族の祖とされていることが系図の仮冒であると説かれるが、そうではない。それは、非
海人性の文化が支配的文化として一貫しているとの先入観によるものである。また、い
わゆる垂直降臨系神話=非海人的(大陸的)/水平移動的神話=海人的、とされ、後者
の場合阿曇族などが念頭におかれているが、実は、海人でも、両者の性格を併有した氏
族があって、阿曇族とは異なる面を有する部族があるということを看過している。
いいかえれば、天孫系海人族というものを考えないと誤った理解に到達しかねないと
いうことである。
邪馬台王朝の傍系的勢力については、ここでは詳述をさけるが、関裕二氏の指摘に傾
聴すべき点がある。ただ、氏の場合、邪馬台王朝の傍系と本系を区別せず、本系までも
が非海人系であるような捉え方になっていることが、大きな問題をはらんでいる。さら
にこれが、邪馬台王朝の本系と狗奴王朝の本系の混同にまでつながると、もう真実は分
からなくなってしまう。
尾○系と物○系は、(後世に融合があったにしても)区別せねばならない。
孝元帝と開化帝についての記述が未だであったのでここで触れる。両者は、その子孫
氏族がそれぞれ異なる特徴を示すことは一目瞭然であるが、孝元帝は、孝霊帝の後継候
補の一人であって、倭国大乱の前はほぼその地位を確保していたとみられる人物である
(その確保にあたっては、婚姻が重要な要素であった)。一方、血統的には有利な面も
ある別の人物が後継をねらって、先の人物に仕え、いわば養子入りしたような形になっ
たが、事態が変転し、最終的にはこの「別の人物」の子に当たる人物が倭国大乱の末期
に王位を宣言するような経過をたどる(一部は既述)。
ここで、倭国大乱の発生は、後者の系統が前者の系統を除外して排他的なかたちで正
統な後継者としての支配権確立を図ったことによるが、当初は、上記のように和睦的で
あった。これは比較的理解が容易であると思う(神代記参照。もっとも、同一人物が別
人であるかのようなカモフラージュはなされている)。
ややこしいのは、後者の後継候補は、当初は、別の子を連れて共に一種の養子入りを
し、この子(後に王位を宣言したものの兄弟に当たると思われる)が孝元帝に信頼され
て同帝の後継の地位を得ていたらしいことである。もし、そのままその子が即位するこ
とになっていれば、邪馬台・狗奴の両系が神聖な地位の継承権を確保したままで別の歴
史が進行したことであろう。
ただ、邪馬台系で方針の変更があって大乱が発生したわけであるが、その際その王子
がどういう行動をとったか考えてみてほしい。義理の父のことを想い、権利委譲に反対
する事態は容易に想到される(神代記を参照してほしい)。邪馬台王朝の前半史におい
て、実はこの王子の系統が第3の勢力として存在する(これは、狗奴国が倭国連合から
脱退した後で、誰が狗奴国にとっての真の王かということに関する当時の2つの捉え方
に繋がっており、これが現代における系図の理解、氏族の理解に混乱をきたす一因とも
なっている。)
この第3の勢力は、狗奴国より東方に所在しており、その実力よりも神聖性によって
重視されたと思われるから、無視しても一応の歴史理解は可能だが、たとえば、神武帝
が東征したときに、狗奴国側が、(実際は自らが国内を狗奴王として統治しているにも
かかわらず)反論としてもちだしたのが、実はこの王子の系統の存在であったりするか
ら、それなりの重要性はある。どうも、この王子の系統と、狗奴王とを混同して
しまっている説が相当人気を博しているから、注意する必要がある。
(これについては、別名表記によるカモフラージュが相当影響しているから、それも止
むを得ないが、宝賀光男氏が、長髄彦について、醜類に非ずという見解を紹介されてい
るのが参考になる。)
話は変わるが、古事記について少し述べる。古事記の特徴は、天孫系海人族について
重視した記述がなされていることである。
それだけではなく、邪馬台王朝・倭国興亡史に関する真相・系図を(一見それとはわ
からない形で)盛り込んであるという特色がある。これが古事記の眼目なのであろう。
いわゆる倭建命の子孫の系図がそうだし、神代の十七世の系図がそうだし、オホヤマ
トクニアレ姫の系図もそうである。以下に少し述べてみる。
・神代の十七世(とおまりななよ)について (便宜上、各神に算用数字を付した)
1八嶋士奴美神は、後述。
2布波能母遲久奴須奴神は、実はみまつひこかえしね命と同じことである。
3深淵之水夜礼花神は、実はおおやまとたらしひこくにおしひと命と同じことである。
4淤美豆奴神は、ひこふとに命と同じ。
5天之冬衣神は、ひこくにくる命と同じ。いわゆる大国主命は、この方を指すらしい。
6大国主神は、一般的な意味での大国主命の、養子的人物のことであるが、その養父も
同じく大国主と呼称されたため混同された結果、このような系図になったものらしい。
なお、1八嶋士奴美神というのは、みまつひこかえしね命の親にあたる人物ということ
になろう(したがって素尊の子ではない。)一方、紀で、素尊の子が大国主という場合
の素尊は素尊本人で、大国主はその婿となった人物(5)を指す。
7阿遅鋤高日子根神も、一般的な意味での大国主命の養子になった人物であるが、6と
の重複でないとすれば、6が親、こちらが6の実子ということになろう(すると、原田
常治氏のいう大国主は、6と思われる)。
8事代主神は、いわゆる大国主命の、実子であり、おそらく比比羅木之其花麻豆美神と
同一神であろう。
9鳥鳴海神
この方は、5や6の子ではなく、恐らく4の子で実は女性であるが、あえて直系系図
の形を示すために男性であるかの如き扱いになっているが、それほどの重要人物である
ということである。
この方と日名照・額田・毘道男・伊許知邇神(=まさか・あかつ・かちはやひ・あめの
おしほね命)との間に生まれた子である、
10国忍富神は、あまつひこ命と同じである。
11速甕之多氣佐-波夜遲奴美神は、いくめいりひこいさち・ほほでみ命と同じ。
12甕主日子神は、その子。甕主は、うがやと同じ。
13多比理岐志・麻流美神は、かむやまと・いわれびこ命と同じ。
この神が比比羅木之其花麻豆美神の女 活玉前玉比賣神(=ひめたたらいすずひめ)を
娶って生んだ子の(生母は別の可能性がある)14美呂浪神は、かむぬなかわみみ命と
同じである。
15布忍富・鳥鳴海神は、しきつひこ・たまでみ命と同じである。
16天日腹大科度美神は、おおやまとひこすきとも命と同じである。
17遠津山岬多良斯神は、紀にいうたぎしひこあやしともせ尊と同じであって、おおや
まとひこすきとも命の太子である。
この系図の特色の1つは、聖なる系統の盟主と認められる方をほぼ時系列に列挙した
点である(6〜8は次の特色との関係で例外となっている)。この十七世の系図こそ、
記紀が歴史を繰り返しているという筆者の見解に立って真実の歴史を見極めないと、そ
の意義が不明となる系図である。
なお、もう1つの特色は、狗奴国の人物(5・8)をも含んでいる点である。
筆者は、この系図が、記の著者の本音をあらわしているのではないかと考えている。
まず、13〜17を見ると、13における邪馬台・狗奴の和睦による政権を重視して
いることがわかる。
(5・8を正式な王として扱うのは、和睦の反映といえる。)
そして、全体としては邪馬台系を重視しており、しかも4以前からの連続性を重んじる
という考えにたっているから、例の1巡目とも2巡目とも違う見解にたっているという
ことがいえよう。
なお、厳密には在位していない、尊称天皇的な方も含まれる(12・7など)。
・倭建命の子孫系図
倭建命の子孫系図の中には、詳述はさけるが、神武帝が狗奴国側との和睦により作り
上げた畿内政権に関する系図が含まれている。この系図は、迦具漏比売が景行の妃とな
るのが実際上ありえないことから、この姫の祖父の若建王を孝霊帝の皇子にあてる説が
あることでも有名な系図であるが、その説は正しくなく、若建王の孫の迦具漏比売を景
行の妃の迦具漏比売(別人)と意図的に混同させることによって、関連する景行帝の子
孫の系図を倭建命の子孫系図の補足として記せるようにしたものである。
要するに、倭建命―若建王―須売伊呂大中日子王というのは、大王家の系図にほかな
らない。
すると、その次の代がないのはなぜ?ということであるが、それは、香坂王であって、
これを須売伊呂大中日子王の子としたいのが真意なのであるがそれが記の建前上できな
いので、その母の系図を載せることによりこの人物を登場させたのである。
なお、杙俣長日子王は、狗奴側の人物であって、これも大王家との通婚関係を示すた
めに登場しているのだが、便宜上倭建命の子孫にされている。
・オホヤマトクニアレ姫の系図
クニアレ姫の系図は、クニアレ姫の系図という形で、孝昭帝にあたる人物を始祖とす
る系図の存在を暗に示したものである。より正確にいえば、その人物の親にあたる人物
を2巡目の安寧帝の皇子としているが、これは実際にはありえないのであって、本当は、
その人物は時系列でいえば最も古い時期の人物に属しているのであって、その人物を祖
とする系図もあったことを示す※。従ってその子孫は1巡目の登場人物であるのである。
さらに、上記「親」にあたる人物に二人の子がおり、一人が名を伏せられているのは、
その人物が重要人物であるが名を記すのに憚りがあることを示す。(実はこの兄弟につ
いては、既に少しだけ触れている。)
※従って姓氏録には、この「親にあたる人物」も登場していると考えられる。
おわりに
綏靖帝から開化帝は欠史8代としてひとくくりにされるが、孝昭帝以降の欠史は、そ
れが邪馬台国成立前史(天孫降臨以前)なので、ぼかす必要があることによるのであり、
一方綏靖・安寧・懿徳帝が欠史なのは、2巡目の立場との明白な矛盾の顕在化を避け
るためである。
諡号を撰上した人は、この事情を熟知していたと思われる。だから孝昭帝から突然「孝
○」という形式を連続させて、何かを示唆しようとしたのだろう。
補足 仁徳帝について少し触れておきたい。
ここまで読めば既に気がついた方がおられるかもしれないが、梅原猛氏の説には、鋭
い部分もあって、諡号に関する氏の説は、懿徳帝にも妥当することが理解されよう。
こうなると、氏の説についての例外は仁徳帝だけということになるが、逆にそれだけが
例外というのも妙である。
邪馬台王朝の本系は、神武帝のあと二分する(本稿では便宜上両方とも本系として扱
っている)が、仁徳帝とは、実はその一方である○○○命の系統であって、その育った
環境等から○○○○に仕えてその養子のようになり、したがって○○帝の義理の兄弟の
ような位置にあったが○○帝から権利委譲を受けたあと、当時の混乱を鎮めるために力
を尽くされた方らしい。
記紀のこの辺りの関連記事に登場するある有力人物の記事を精読すると、もし仁徳が
その人物としても登場しているということがいえるならば、その諡号の意味が俄然説得
力を帯びる、ということが理解されよう。ちなみに、その後数代は、○○帝の勢力が弱
体化した形で一定の勢力を有することになる。
当ページの内容の転載を禁じます。引用する際は、URLと著者名を明記してください。
当ページを参考にした文章を発表される際も、その旨明記してください。
本稿発表の経緯