日系アメリカ人強制収容所の概要「アメリカの強制収容所-日系アメリカ人の体験を語り継ぐ」展よりこの展示はどんなものですか?
「アメリカの強制収容所」展は、いまだ一般のアメリカ人にもほとんど知られず、理解されていない、アメリカ史の暗い1ページを、日系アメリカ人自らがひもとき、作製した歴史展示です。 なぜ日系アメリカ人は収容所に入れられたのですか?
1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲すると、アメリカはすぐ、日系アメリカ人が国防に危険をもたらすのではないかと疑いました。実際には、日系アメリカ人は真珠湾攻撃にまったく関係しておらず、スパイ行為や軍事、生産への妨害行為なども、当時もいまも、まったく発見されなかったにもかかわらずです。 第二次世界大戦では、アメリカはドイツとイタリアとも戦争をしていたわけですが、ドイツ系とイタリア系のアメリカ人たちも強制収容所に入れられたのですか? 短い期間だけ拘留されたドイツ人、イタリア人はいましたが、集団強制収容はありませんでした。20世紀のはじめから、反アジア人、とりわけ反日本人感情が蔓延していました。たとえば、日系移民は人種差別によって、ヨーロッパ系移民と違い、1952年まで市民権を取得することはできませんでした。 強制収容された日系アメリカ人たちの家や財産はどうなったのですか? 自分たちの家から立ち退きを命ぜられたとき、かれらは自分で持てるだけの荷物しか持っていくことを許されませんでした。家はそのまま空家にするしかなく、家具など持っていけない財産は、足元をみたアメリカ人たちに安く買い叩かれました。少数ではありますが、収容されているあいだ、家や商店、会社を管理してくれる日系でない友人を見つけることができた人もいました。経済的損失は計り知れないものでした。 なぜ「Concentration Camps(強制収容所)」と呼ばれたのですか?
当時のアメリカ政府関係者たちが「Concentration Camps(強制収容所)」という言葉を使っていたのです。ジョン・ランキン下院議員は、日本軍の真珠湾攻撃から8日後の1941年12月15日に、こう言っています。 しかしアメリカ政府は「Relocation Centers(転住センター)」とも呼んでいたのではないですか?
アメリカ政府は「強制収容」という非人道的行為を、歪曲的表現で和らげようとしました。しかし、アメリカ最高裁判事オーエン・J.ロバートも、1944年12月18日に、「『集合センター』とは牢獄の言い換えである。(中略)『転住センターは強制収容所の言い換えにすぎない」と、その歪曲的表現を批判しています。抑留命令は「市民排除命令」と言い換えられ、アメリカ市民を「非外国人」と呼んで区別しました。 アメリカ政府は、収容所が間違いであったと認めましたか? はい。ロナルド・レーガン大統領によって署名された「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」で、アメリカ政府は強制収容が重大な基本的人権の侵害であったと認めました。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、議会は国を代表して謝罪する」
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