【ついき秀学の未来への決断】「戦争責任は日本にある」は筋違い (2/3ページ)

2012.10.26 05:00

米国国防長官との会談で、日本政府による尖閣国有化を非難した中国の習近平国家副主席(右)=9月19日、北京の人民大会堂(AP)

米国国防長官との会談で、日本政府による尖閣国有化を非難した中国の習近平国家副主席(右)=9月19日、北京の人民大会堂(AP)【拡大】

 辛亥革命後、中華民国の時代になると、ナショナリズムによる排外運動が盛んになりました。ただし、その様態は、外国との条約や合意を守らない、外国人を暴力的に迫害する等、近代的な法治主義とは相いれない物騒なものでした。国民党政府も同様の手法の「革命外交」を展開し、1928年、日清通商航海条約の改訂交渉の最中に、その失効を突如一方的に宣言しました(日本が自国を近代化しながら、列国と粘り強く条約改正交渉をした姿勢とは全く対照的です)。

 当時は、9カ国条約などに基づく極東での国際協調体制(ワシントン体制)を米国が主導していたので、日本は、そんな中国の国際法無視の蛮行について米国の態度を打診しましたが、米国は国際協調に動きませんでした。後に日本は満洲事変を起こしてワシントン体制を破ったといわれることがありますが、その前に米国が協調体制を空洞化させていたのです。日本は大陸の権益や居留民の安全を、単独で守らざるを得ない状況に追い込まれました。

 --満洲ではどんなことが起こっていたのですか

 現地の当局は、日本人に土地を貸した人間は極刑に処するという法令を作ったり、日本企業が経営する農場に勝手に鉄道を敷設したりと、居留民や企業にさまざまな圧迫を加えました。また、反日教育を徹底し、日本商品のボイコット運動も展開。通行中の日本人への威嚇・暴行、列車の運行妨害、鉄道守備兵への襲撃なども度重なりました。いわば、先月の反日デモのような、あるいはそれ以上の暴力沙汰が頻発していたのです。1931年には日本陸軍の中村大尉殺害事件が発生し、実力行使もよしとする議論が国内で沸き起こりました。かくして、日本の関東軍によって満洲事変が仕掛けられたのです。