まずは記事を読んでくださり、ありがとうございました。日本語版を私も読み、実は内容に困惑している箇所があります。
残念ながら発言していない内容が公になっており、現在記事を書いた記者と会社に連絡をとっているところです。
またご報告させて頂きます。
プノンペンの空港より
今回お話を聞かせていただいたSさんは、愛知県三河の山奥に、義理の娘さんとふたり住まいです。
元日本兵を対象にした詐欺集団がいたためか、地域の社会福祉関係の方の紹介でお伺いしたにも拘らず、こちらの素性が分からない内は、おふたり共に警戒を解かれませんでした。
しかしながら、ある事をきっかけに不信感を解いていただき、その後は快く取材に応じていただきました。
Sさんは、大正8年生まれの93歳。
小学校を卒業された後、岡崎市に数多くあった石屋向けに工具を作る鍛冶屋に「丁稚奉公」に入りました。
4年後、兵隊検査を受けそのまま現役で陸軍18連隊(豊橋市に本部)に入隊、3ヶ月の訓練を受けた後、「南支(中国南部)」に送られました。
広東周辺に展開、主に討伐作戦に関わったと言います。しかし、討伐作戦の内容について伺おうとしても、詳しい話になると口ごもり、落ち着かない表情になり、寡黙になってしまいました。
心の奥に何かお持ちのようでしたが、問い質すのがBFPのミッションではないので、「その後」に話を移しました。
帰国予定だったSさんに言い渡されたのは、「仏印(仏領インドシナ)進駐」の一員に加わること。今で言うヴェトナムのサイゴンに物資を運ぶのが役割でした。
1941年12月の開戦時はサイゴンにいたそうです。真珠湾攻撃など、破竹の勢いの日本軍を見てSさんは「戦争に負けることは無い」と確信しました。
任務を終えると帰国しますが、直ぐに召集されて第17連隊(秋田に本部)に配属されて19年8月末にフィリピンに向けて出発しました。6隻で構成される船団でしたが、出発後約2時間で米潜水艦の攻撃を受け、1隻が撃沈されました。
沈没船から多くの兵士が逃げ出し、海上に漂って助けを待ちましたが、そこへ友軍の飛行機や軍艦から機雷や魚雷が落とされたり、発射されて、多くの海に浮かぶ兵士の命が奪われました。
普段なら10日で到着するところを、潜水艦を避けて航行したため、40日かけてフィリピンに到着。戦局が悪いため、休憩する間もなく10日間行軍(一部列車による移動)してルソン島南部のバタンガスの本隊に合流しました。
現地では、特攻隊の警護をする守備隊に配属されます。特攻隊と言っても、二人乗りのモーターボートで、それに爆薬を積んで米軍艦に体当たり攻撃するのが任務でした。
10代後半の威勢の良い若者が特攻隊員だったと言います。張り切って肩で風を切るその姿を見てSさんは「若いのにかわいそうに」と思ったそうです。
かなりの規模の特攻隊でしたが、一度だけ出撃した際も高波で任務を遂行できず、結局は何の成果もあげられませんでした。
昭和20年になると、米軍の攻撃は激しくなり、やがて連隊は軍隊の体を成さなくなり、食料と塩を持ってジャングルに逃げ込みます。しかし、食料は直ぐに無くなり、地元農民の食料の略奪が日常化しました。
「悪いことをしたと思いますが、当時は生きるのに必死でしたからね。畑に入って芋等を獲って生き延びました」
17連隊は、日本軍に捨てられた軍隊とも言われます。食料や武器の補給も一切無い状態で司令本部から切り離されてしまったのです。そうして“棄てられた”兵隊たちは、規律を失い、略奪、殺人、放火、暴行(強姦を含む)の悪の限りを尽くします。飢餓地獄に追い込まれた兵士たちの中には、屍肉にまで手を出したと証言する者もいます。
飢餓地獄になると、生命力に差が出ました。それまで粋がっていた特攻隊の若者は、一様に若さと脆さを見せることになりました。
裕福でない農家に育ったSさんはそこまで追い込まれること無く終戦を迎えることができたと言います。
ある日、海を見たら船団が見え、その船に大きな白旗が掲げられたこと、飛行機からビラが配られたこと、そして最終的に所属していた「藤兵団」から「投降せよ」との命令が下りてきたこと等から敗戦を確信し、9月のある日、投降しました。それまで着ていた服は脱ぎ捨て、食料も棄てて投降しました。
それは身に付けていたり、持っていた物全てが地元住民から略奪したもので、米軍に見つかると罪に問われると判断したからだそうです。
約1年3ヶ月、米軍の収容所で過ごした後、フィリピンを離れ名古屋港に到着しました。
港では女学生の集団が歌を唄って出迎えてくれましたが、近くにいた男たちが群れになり、復員してきた兵士達に「お前たちがだらしないから負けたんだ」と口々に叫びながら石を投げてきました。悔しさで一杯でしたが、Sさんたちはじっと耐えたといいます。
そして地元に戻ったSさんは、三河の山奥で平穏な日々を送られてきました。当時を回顧して何度も何度も「戦争は絶対に起こしてはいけません」と繰り返されました。