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「 歴史 」カテゴリ記事一覧


「開発独裁」について

公開:2006/10/1 再編済
 『開発独裁』という概念について見解を述べたい。
本稿はウィキペディアにおける”開発独裁”の文章をベースにして評論したい。

wikipediaより『開発独裁』

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終戦記念日であるのか?


8月15日は一般的には「終戦記念日」と呼ばれる

この言葉があまり好きになれない

個人的には、
8月15日を「敗戦記念日」と呼んでいる
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幕末における英仏帝国主義の余波

幕末の歴史知識に関して
世界史的な見地から苦言を呈しておきたい

幕末の世界情勢に関する知識は、
歴史小説家・歴史家も極めて乏しい

歴史小説家は、小説として面白くするために
過剰な脚色・演出によってリアリティのない描写を積み重ねる
学術的見地の歴史とは掛け離れた歴史観がまかり通っている
これは、「国史学」による歴史観の影響が強い

日本の歴史は、歴史文献が豊富であることから
文献中心主義である
それは、勝者の歴史を誘導しやすく
歴史の全体像を捉えるに不適と言える

幕末後期を東洋史学・世界史的に俯瞰すれば

倒幕(討幕)vs 佐幕(列藩同盟)は
イギリス vs  フランス
英仏帝国主義の代理戦争に他ならない

薩長・幕府を通じて商人は巨大な利益を確保し
日本を内乱状態にして本国の侵略準備を進める

という典型的な帝国主義の手法が展開していた

つまり
戊辰戦争を筆頭に
幕末動乱は、ある意味では、英仏による作為が見られるのである

悪意的な歴史観と言われるだろうが
世界史から見れば、英仏帝国主義らしい展開を見ているのである

最終的には、フランスが応援していた幕府勢力が内乱回避を選択

全国的な内乱状態は回避されたわけである


もし、幕末後期に
全面的な内乱状態になったら
今の日本は、英仏の植民地の歴史を歩んでいたかもしれない

「歴史にifはない」が
そんな可能性が高かったことを
世界史教養ある立場から指摘しておきたい


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奴隷解放と産業革命

リンカン
 奴隷解放といえば、A・リンカンを思い出すのが一般的だが、
歴史的にみれば、奴隷解放はイギリスが一番早い。
その理由は、奴隷労働よりも、産業革命による機械生産の方が安価で高い品質を保証できたイギリスの優位性が存在する。
産業革命
アメリカの奴隷解放のムーブメントが19世紀中期だが、イギリスで半世紀早く奴隷解放の精神が見られる。
  いち早く産業革命を成し遂げたイギリスは、早くに奴隷生産産業を脱し、もはや安価な奴隷労働よりも、マニファクチャーの合理性が安価な生産力として市場を席巻できることを認識していた。
事実、大英帝国は、18世紀から20世紀初期までマニフェアクチャーによる生産力で世界市場を席巻し、奴隷制国家の経済力を軽く凌駕していた。
(もっとも、農産力などの一部機械化の限界がある産業は事情が異なるが・・・・・)
奴隷解放を巡る南北戦争に関しても、イギリスの影響力は大きい。奴隷解放の方針転換した北軍を海軍力で支援するイギリスは、南北戦争のおける重要な地位を占めているとも言える。
 
 すでに1807年にはイギリスは奴隷貿易停止を宣言し、1814年のウィーン会議でも奴隷貿易停止を提案するまでに至っている。
 
 その後、各国が奴隷解放を行うが、その背景には、奴隷を原始的労働に従事させる人海戦術よりも、機会を使役するマニフェクチャーへの切り替えがあったことは言うまでもない。
 
つまり、本当の意味で "奴隷解放の父" は 工業機械 であって、リンカンなどではない。

もっとも、リンカン自体が、奴隷解放に後ろ向きだったことは、歴史家には常識だが、奴隷の敵になりえただろうマシンが、奴隷解放の父とは不思議である。
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チベット人による民族浄化に晒されたブータンの歴史

ブータン
ブータンの国王が即位したニュースが流れているが、ブータンに対する理解深度は非常に低い。
冥王星が危惧するのは、ブータン国内の人権問題である。
ブータン難民問題は、国連でも幾度か議題にされていたが、経緯と現状に大きくチベット人が関わっていることは伝えられていない。
ブータン難民って?にも記載されているが
1989年に導入されたブータン北部の伝統と文化に基づく(南部の民族にとっては強引な内容、例えば暑い南部で北部の民族衣装の着用を強制)国家統合政策により、誘発された南部の民主化運動(暴力的な事件もあったと言われている)を口実に、行政機関をあげての「民族浄化」が行われたためです。

簡単にいえば、民主主義体制化におけるマジョリティのマイノリティ迫害というものです。
そして、そのマジョリティに該当するのが、チベット系の住民です。
週間金曜日に記載された記事に詳しく指摘されているが
 ブータン王家は公式的には民主化・近代化を成し遂げたように触れているが、実態なブータン難民を生み出した結果責任は問われるべき存在ではある。
 
外務省のサイトでは
.民族 チベット系(約80%)、ネパール系(約20%)等
.宗教 チベット系仏教、ヒンドゥー教等
.略史
 17世紀、この地域に移住したチベットの高僧ガワン・ナムゲルが、各地に割拠する群雄を征服し、ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握。
 19世紀末に至り東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが支配的郡長として台頭し、1907年、同ウゲン・ワンチュクがラマ僧や住民に推され初代の世襲藩王に就任、現王国の基礎を確立。第4代国王は、1972年に16歳で即位。第4代国王の下で、国の近代化と民主化に向けた粘り強い取組が行われてきた。現国王(第5代目)に、2006年12月王位継承。

となっているが、ワンチョク王朝4代国王の時にブータン難民問題は発生している。
近世までのブータンの歴史サイト

どうしても言い残したいのが、ブータンに土着していた諸民族が
移住してきたチベット系民族によって民族浄化されている事実を理解してもらいたいのである。

ブータンに関する情報はほとんど入らない。
政府窓口が存在しないことも原因だが、何より興味を抱く人がいないせいで情報を発信する人が少ない。
それが幸いしてチベット系ブータン人の民族浄化活動については、ほとんど語られることがないのである。
中国のチベット人が民族浄化されている。これは有名である。しかし、ブータン難民は当局政府の肝いりで行われた合法的民族浄化でしかも国際的支援がない。

 ブータンはチベット仏教が存在している国でもある。ダライラマのゲルク派ではない、ニンマ・カギュー派が残り多くの寺院がブータン国内に残っている。
 ラサのゲルク派のチベット仏教だけが、チベット仏教ではないし、それはダライラマも認めていることであるが、なぜ問題として取り扱われないのか?
 それは、それだけ公平性ある立場で報道されないこと、と
「チベット仏教に関する無知」が生んだ結果論だろう。


まるでダライラマがチベット仏教のTOPというような公式見解がまかり通ってるが、チベット仏教の諸派はそれを公式的に認めているわけでもない。
むしろ、諸派の中ではダライラマ体制への批判さえ存在することは伝えられない。
単純にいえば、悲劇のヒーロー”ダライラマ”の肖像しか見れない人が圧倒的なのである。

チベットの歴史とチベット仏教の関係は複雑怪奇である。知られているチベットの歴史=ダライラマの都合のいい歴史だけでチベットを論じているメディアの多くは、危険としか言いようが無い。
 
極論すれば、ブータンのチベット系住民は民族浄化の加害者である。
そして、チベット人はクルド・パレスチナ人とは徹底的な相違点がある。

チベット人は事実上、チベット民族が多数化したブータンという”安住の場”がある。
その安住の場では、チベット人が南部の諸民族を迫害している。
逃げる国家のないクルド人・パレスチナ人とは違うのである。

もちろん、中国当局の民族浄化と思われる行為は問題だが、単なる内政干渉でしかない行為を正義として叫ぶのは、国際慣習違反でしかない。

 違反を覚悟で叫ぶのは結構だが、そのような自覚がない人間が、
フリーチベットを論じているのは、非常にバカらしいし、視野狭窄であるし、無知が起こせる間違いとしか言いようが無い。
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朝鮮は植民地化する公算が大だったのか?

 韓国併合の歴史において、巷説では、
おそかれ早かれ、遠くない将来、朝鮮も植民地化しただろう。
しばしば見られる意見だが、精査してみるとあまり首肯できない部分が大きい

今回は、朝鮮情勢に関して、当時の総合的歴史見地から見解を述べたい。

 韓国併合以前の朝鮮状態を俯瞰すると、国際政治的にいえば、緩衝国化の可能性が強い
日露戦争の戦果を挙げた日本は見劣りするにしても列強の一翼を担うだけの余地も垣間見られた。
三国干渉などを見る限りは、欧州列強は日本の台頭を懸念していたし、その懸念は、韓国併合当時にも当然ありえただろう。 しかし、朝鮮利権を欧州諸国が干渉してこなかった
この歴史事実が、欧州諸国の朝鮮へのアテンションが見えてくる。
早い話が、欧州諸国にとっては、まずは中国市場の整備が重要で、朝鮮植民地化の野心はなかったのである。
  日本の朝鮮利権が守られたのは一重に、国際政治上のバランスで許容されたのに過ぎなく、その最大の要因は、対ロシア政策の効果にあるだろう。つまり、対ロシア政策を日本に担わせることで、列強の利害が一致したのである。それが日露戦争であり、韓国併合を許容した背景にあるだろう。
 つまるところ、朝鮮の植民地化を狙っていた国は、日本とロシアしか当時においてはありえなかった
 
 知られていないが、アジアにおいてはタイが植民地化していない。
タイは、東西を英仏植民地に囲まれたが、両国が軍事衝突を避けるために、タイを中立地帯とした経緯があり、独立を保ってきた。
 もちろん、緩衝国化してから近代化を成し遂げたタイの功績を素晴らしいが、地政学上での緩衝国化によってタイは独立を維持していた。

 韓国併合前の朝鮮は、中国という植民地市場の利権争いの激化と国際政治情勢から、緩衝国化する要件が揃っている。
(日露戦争の結果を受けて、日本による併呑と対ロシア外交の有用性が出てきたに過ぎない)
日本とロシアだけは朝鮮利権に拘る必要性があったが、欧州諸国にとっては、朝鮮の価値は中国に見劣るのが本音だろう。

 さて、ロシアによる植民地化の可能性を排除しきれないわけだが、ロシア帝国主義は、欧州列強の帝国主義とは事情が異なる。
 一般に列強の帝国主義は、植民地市場を介して富国強兵政策に邁進するわけだが、
ロシアにとっての朝鮮は、知地政学上の”橋頭堡”の意味しかない。
 いわゆる「不凍港」を求めているのであって、朝鮮を全体を植民地化する旨みはロシアにはない。(ウラル以西のロシア地域から遠すぎて物資のやり取りが行いづらい)
 シベリア鉄道経由して商品の輸出入が可能だったにしても、朝鮮の生産力は既存の中国満州利権ほどの旨みはない。
 第一、日露戦争以降のロシアは国内不安に悩まされていることから考えれば、朝鮮を狙う勢力は日本しかありえなかったのである。

 そんな状態であるにも関わらず、冒頭で指摘したような
「朝鮮も近い将来、植民地される」などという思い込みが支配的で、
その思い込みを前提に、日本の植民地化が肯定される傾向にある。

 歴史は身勝手に解釈されるもの傾向にあるが、
朝鮮情勢に関しては、日本の植民地統治を大前提にした歴史観が未だに根強い。
 もちろん、植民地化による効果を全否定できるものではないが、当時の国際情勢を加味しない手前味噌な歴史観ほど相手国に失礼なものはないだろうし、精査すれば異論は噴出するだろう。
 
 冥王星個人は、日本が韓国併合しなければ、朝鮮は緩衝国化して仮初の平和だったように思うが、
それはIFの話でしかない。
 歴史にIFは禁物であるから自重しているが、巷説の無知な歴史教養ほど、IFの傾向が強いことは極めて不健全と言えよう。
 IFの歴史を全否定するわけではないが、IFを大前提に現実の歴史を見据えてはならないことだけは譲れない部分である。
 IFとは都合のいい歴史観に他ならないのであって、仮に歴史教養がある個人であっても、まことしやかに主張してはならない。

 歴史に対する恐れがない巷説の暴走を批判するために、このような記事を作ったが、それだけ巷説の歴史が危険で有害でありえることが重要なのである。

 前記事で指摘したように、史実性を検討した上で 歴史知識を身につけてほしいものである。

もっとも、韓国併合に関してマイナス査定ばかりではないが、そのプロセスに問題を身勝手な歴史観の集積があるから問題なのである。
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観光史学・歴史文学の罠

 歴史の間口は、広い。
教科書以外の文献で歴史教養を身につけることは極めて危険かつ難しい。
 
 世間に転がっている歴史知識の多くが、観光向けの郷土史・歴史文学・歴史芸能の上の歴史教養に依拠しているからである。

 歴史教養の多くは、
史実性を無視した大衆芸能の受け売り
に他ならないことが多いからである。

別にこれらの大衆文化としての歴史教養を全否定するわけではない。
あくまでも史実性について、精査した上で

史実とは異なることを踏まえて歴史教養として身に着ける分には問題がない

簡単に言えば、巷説の歴史教養は、
史実性のないフィクションが多く、根拠の希薄な希望的観測が支配的である
 特に、戦国時代・幕末の歴史に関しては、郷土史研究家の脚色・私怨などが強く介在する上に
歴史の全体像を俯瞰できない評論が多く存在する

 郷土史研究を全否定するわけではないが、それらが我田引水で客観性を伴わない”贔屓もの”で終わってしまうことが多いことに問題がつきる。
 特に観光資源として歴史を利用するケースはその傾向が強く、史実性のない説話まで、まるで史実のように取り扱われる。
 (直江状など)

 歴史教養の多くが、精査を経ていない思い込みの産物であることを、歴史教養のない市民がよくよく理解する必要性があるだろう。

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キニーネの世界史

 大航海時代以降、世界がヨーロッパを機軸にして展開するにしても、
ヨーロッパから見て身近なアフリカ大陸をスルーして、アジア・新大陸への進出が盛んに行われたことには違和感がある。
 距離的に見ても、ヨーロッパにとってはアフリカ大陸が近く、地中海を隔てるにしても、当時の航海技術からしても不安要素は強くない。
不思議なほどに、アフリカ開発はアジアよりも遅れている。
 この遅れがアフリカ奴隷の悲劇ともなったし、帝国主義の被害が遅かった幸運とも言える。


マラリア分布
 ヨーロッパ社会がアフリカ大陸・とりわけサハラ以南のアフリカへの進出が遅れたのは、マラリアに原因があった。
 マラリアそのものは熱帯・亜熱帯地域に存在し、アジアでも発生するが、サハラ以南のマラリアはその発症確率の高さから、植民地進出が遅れている。
キナノキ
 それでも、18世紀後期には、キナノキの成分のキニーネがマラリア予防薬となると、アフリカ進出が盛んになり、それに応じて、キニーネの需要が高まる。(右絵はキナノキ)
 マラリアはインドやインド洋諸島などにも多く見られ、キニーネの登場によってこれらの地域の開発も進むことになる。

 このキニーネの原材料のキナノキは南アメリカ大陸に自生し、重要な輸出品にもなった。
キニーネの自家栽培を目指した列強が数多くの植物公園を作るのも、キニーネが由来である。(キュー植物園など)

 キニーネとマラリアが物理的に歴史に果たした意味は大きい。

 歴史の本質的部分には、人にはどうにも出来ない部分があって、英雄などの政治行動などで説明がつかないものが圧倒的に多い。
 このキニーネの歴史も同じだが、歴史の本質は物理的障害で鳥瞰するべきであって、人物史観などで見ると本質的原因を見誤る可能性がある。
 
 特に、歴史と伝染病の関係は深いが、安っぽい人物史観・歴史文学の史学を陥る世間の歴史観の危険性についてよくよく考えてほしいものである。
  
 人が気候や自然科学の影響下にある限りは、その拘束を受け続ける。
歴史学が地理学の下部構造とみなすことは不適切ではない。むしろ、地理学の元で仔細の歴史が存在すると言えることを冷徹に踏まえなければならない。

  
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日露戦争は防衛戦争に非ず

日露戦争は防衛戦争に非ず

 昔から憤りのようなものを感じるのが、日露戦争を「防衛戦争」とする歴史観である。
 仮に、アメリカ・北朝鮮間で通常兵器による戦闘が日本本土で行われたとして、米朝両者が”防衛戦争”との自称に日本人が堪えないだろう。
(満州は、日露双方の植民地ではないのだから、この比喩は決して間違いではない)
本稿では、日露戦争の政治肖像だけで考えてみたい

”防衛戦争”観の根拠として

 日本が朝鮮を地政学的に抑えることは、自国防衛において重要であり、
当時、ロシア勢力が朝鮮に及べば、日本・朝鮮の独立性を危うくするものだった。
 ロシアの侵攻に対する抵抗・防衛行為は、自衛行為に過ぎない。
 
 一見して『防衛戦争論』と首肯させる説得力に富むように思えるが、疑問点は尽きない。
ロシアの朝鮮進出の現実性については、『不凍港』(=極東軍事戦略)を根拠にするが、それは、朝鮮支配を必要としない。簡単にいえば、港とその周囲だけを掌握するだけで十分であり、朝鮮全域の支配を目論む必要性はない。
 朝鮮を市場にする必要があるほどロシアには余剰生産力はなかったし、ロシアは資源確保が先立つ意味では、列強の消費市場を求める帝国主義とは事情が異なる。
要は、材料を求めるロシア帝国主義・消費市場を求める列強(日本を含む)帝国主義では政治戦略が異なる。
 簡単にいえば、ロシアは戦略的に朝鮮の『不凍港』を求めることはあっても、朝鮮を支配するだけの余力はなかった。
国際政治的にみれば、ロシアの朝鮮奪取は列強の対立を増大化させるから、決してロシアの利が大きいものではない。
 実際に、朝鮮進出の機会は幾度もあったが兵站の問題などから満州を押さえる程度であったのは、国力・帝国主義的需要から指摘できよう。(朝鮮進出の機会は、幾度もあったのである)
 従って、防衛戦争論の要であるロシアの朝鮮進出からして、事実でもない可能性であってフライングの部類と言えよう。
 先制的自衛権に関しては、朝鮮の権利であって、日本国にそのような自衛権の発動の権利など存在しない。
言うまでも無いが、ロシアの朝鮮占領が日本侵攻の必然性とする根拠などは提示できるはずがない。

ポーツマスに見る日本側の意図

   日露戦争の具体的発火点は1903年の日露交渉において「日本の朝鮮介入権の適否」で最後までロシア側が譲歩しなかったこととも言える。
 その後、停戦交渉であるポーツマス条約締結では日本側の「ロシア勢力排除」の意図が露骨に見える。
実際にポーツマス条約2項「朝鮮の日本の自由処分権限を認める」趣旨が争点となっていたし、小村全権への訓令にも確認できる。
 ”朝鮮支配に邪魔なロシア勢力の排除を目論んだ日露戦争を防衛戦争を言い換える”認識には、さすがに、防衛権の限界射程を軽く凌駕している。
 断言してもいいが、朝鮮の自衛権を無視して、日本の予防的自衛権などは認められる余地はない。
その後に(1928年)批准されるケロッグ・ブリアン協定(不戦条約)でも確認されることであるし、古来、防衛戦争において、他人の庭先の危機に対して、自己の防衛権を主張するなどという事例はない。
 慣習上の集団的自衛権もあくまでも紛争当事者間の交戦状態があって成立するものに過ぎない。
 以上のように、日露戦争を自国の防衛戦争とする歴史観は、極めてエゴであって、法的・政治的にも説得力がない手前味噌の歴史観と断定できる。

文末に

 歴史文献として名著の誉れ高い『父がわが子に語る世界歴史』(ネルー著)では、
”日露戦争がアジア解放熱を情勢し、アジア人を励ました”趣旨の指摘があるが、その直後が極めて皮肉タップリの記述になっている。
 保守の論説では割愛されるが、後節こそネルーが意図する余地があるので、翻訳で紹介したい。
(日露戦争はアジア人を勇気付けた)ところが、日露戦争のその後の結果は、一握りの侵略的帝国主義国のグループ(=欧州列強)に、もう一国(=日本)を加えただけに過ぎなかった。
その苦い結果を舐めたのが、朝鮮であった。

 これが、世界の歴史観の標準であり、支持が多い歴史観である。
都合のいいネルーの一部分だけ抽出する保守系の論説などは、歴史の一面だけをご都合主義で捉えているに過ぎない狭量かつ醜悪な自慰行為に過ぎない。
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ルーマニア革命20周年

 1989/12/23はルーマニア革命の日でもある。
博士の独り言というサイトは2008年で処刑20周年と勘違いしているが、2009年が20周年である)
日本人にとっては今上天皇の誕生日であるが、ルーマニアにとっては大変革の日が12月23日

 チャウシェスク大統領は夫人とともに、軍法裁判にかけられ、即日処刑される。
大統領夫妻は「大量虐殺」「不正蓄財」の罪で訴追されるが、十分な証拠・訴訟経緯も踏まずに、処刑が断行される。

 実は、チャウシャスク裁判は東京裁判に似ている部分が多々ある。
根本的には、本件はルーマニア国内事由として他国が干渉できる性質ではない上に、東京裁判のような国際法的側面が希薄であるが、軍法会議という特異性について考えるにはいい資料である。
(なお、市民法廷・人民法廷という政治用語に興味がある人は、本件は極めて有用な資料になる)

 本件のような訴訟が政治力学的に行われる現実を直視する必要性はあるが、今日の東京裁判論では軍法会議に関する知識などが欠如が顕著である。
 東京裁判論に関しては、政治力学から逃避した机上の法原則論だけで論及する流れが強く、関心しない。

もっとも、管轄法に関する妥当な理解、法原則論の知識などの大きな障害がある以上は、東京裁判は永遠の政治課題というべきだろう。


チャウシェスク チャウシェスクの評価は難しい。
 
ソビエトとは一定の距離を保つ路線を継続していた上に、西欧とのパイプも強かったと言われる。
現実的には、革命後1999年の世論調査では、6割以上が革命後社会に対する不満が強いことが明らかになっている。
 ベルリンの壁崩壊の余波とは若干異なる政治事情からルーマニア革命が為ったことは知られていないが、
チャウシェスクの処刑はテレビ放送され、東欧の独裁政権の崩壊を象徴するシーンになった。

ベルリンの壁崩壊は、東側社会の”自由を求める”ヒステリックに過ぎないに比べて、チャウシェスク処刑はフランス革命(1789)から200年目の衝撃的事件。
 奇しくも東京裁判におけるA級戦犯7名の絞首刑執行と重なったことも興味深い。

 なお、西欧では、ルーマニア革命を市民革命と解する人は少なく、クーデーターと看做す傾向が強い。

市民革命の歴史のない日本人にとっては、市民が革命に参加すれば、”市民革命”と解するのかもしれないが、市民革命の意味を精査する限りは、ルーマニア革命は、明治維新と同じでクーデーターに過ぎない。



 ところで、本件とベルリンの壁崩壊が89年のイメージとして強烈だが、東欧の民主化・自由主義化の萌芽は古くから垣間見られる。
 89年6月のポーランドの「連帯」の選挙大躍進・8月ハンガリーのピクニック事件と89年は東欧の重要年になったことは間違いないが、本件合わせて、東欧全体の政治変革を個別に検証する歴史観が必要だと感じる。

 ベルリンの壁崩壊が東欧社会の革命と誤解している人がいるならば、是非、各国別に民主化・自由主義化の過程を調べてみてほしい。

文責:冥王星 
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