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特集2◎「少年」の現在
少年犯罪は凶悪化しているか
Juvenile Crimes are Getting Vicious, Really?
奥平康照 本学人間関係学部教授
1――「凶悪化」という論調
少年たちの凶悪な事件が続いている。神戸で中学二年生が小学生を惨殺する事件(一九九七年)がおこり、二〇〇〇年には、愛知県豊川市の主婦刺殺事件(五月一日)、佐賀バスジャック殺人事件(五月三日)、岡山の金属バット殺傷事件(六月二一日)、大分の一家六人殺傷事件(八月一四日)と続いた。いずれも高校生によるものだった。マスコミはその度に、少年犯罪が凶悪化していると言いたててきた。
少年犯罪凶悪化報道は最近のことではない。一九八〇年代もつづけられていたことである。少年による凶悪な犯罪事件や、学校での暴力事件などが大きくとりあげられ、そして身近でクソババア・クソジジイなどと罵られる場面を体験すると、そういう見聞がいっしょになって、多くの人たちは「少年の凶悪化」を「実感」することになる。少し変わった風体の若者に出会うと、恐しくなる。
しかし少年凶悪化現象の実態は非常に曖昧なままになっている。いくつかの部分的な事実や言説をもとにして、想像がふくらんで、少年恐怖症(youth phobia)が社会に広がっている。私はすでに一〇年近く前に少年犯罪凶悪化は単純な事実ではなく、統計の上で見るならば、少年による凶悪犯罪は大きく減少していると書いた。すなわち、「凶悪犯」とは殺人、強盗、強姦、放火犯の四種を指すが、その少年検挙者総数は、一九六〇年の八一一二人をピークとして、八七年には一六三〇人にまで減少している。[1]
もちろん、だから安心していい、騒ぎ立てるな、と書いたのではない。件数としては明らかに減っているのに、身近に少年犯罪が迫ってきているように感じるのはなぜか、問うべきは少年犯罪の質の変化がどのようにあるのかないのか、なのである。少年犯罪の傾向については、たくさんの論述が行なわれてきた。そして最近、少年法改正問題と絡んで、雑誌や新聞にも凶悪少年犯罪は増えていないという論調も、かなり目にするようになった。しかし依然として、世間的常識では少年犯罪凶悪化言説優位である。
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図1 | 図2 |
ところが最近、少年犯罪凶悪化を統計的に正面から実証しようとする本が現れた。前田雅英『少年犯罪――統計からみたその実像』[2]である。従来の凶悪化論が、統計を十分に踏まえないで行なわれる印象主張であったのに対して、もっぱら統計によりながら少年犯罪凶悪化を主張しているのである。いわく、「国民の大多数が肌で感じている『少年犯罪の増加・凶悪化』は、統計的に裏付けられた事実なのである」(一〇二頁)。
前田はその主張を次のような統計グラフなどを示して裏付けている。その一部を例示しておく。
(1)「少年の凶悪犯(殺人に強姦や強盗・放火を加えたもの)を犯す率は、ここ一〇年で三倍にもなってしまった」(図1)
(2)「ここ一〇年間を見た場合に、少年の殺人犯は明らかに増加したといわざるを得ない」(図2)
(3)「戦後一貫して、成人の検挙率のほうが少年のそれより高かった殺人罪において、九九年に初めて、少年の検挙人員率が上回った」、「少年犯罪の凶悪化を示す事実といえよう」[3](図2)
2――図表の示し方と読み方
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図3 |
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表1 |
このような図表を見せられれば、やっぱり少年犯罪凶悪化は紛れもない事実なのだと、誰でも信じたくなる。しかしもう少し丁寧に統計を追ってみると、事はそんなに単純ではない。たとえば同じ本の中で、「戦後復興と少年犯罪」の章に掲載されている別の図表と比べてみる。これは戦後から今日に至るまでの殺人犯の変化を示したものである。この図からは、少年による殺人は、戦後五〇年代と六〇年前後をピークとして、その後大きく減少していることが分かる。たしかに九〇年代には増加傾向にあるが、大きな流れからすれば、急激な変化だとはとても言えない。
ここで図2と図3を見比べて欲しい。まったく同じ数字を正確にグラフ化しているにもかかわらず、九〇年代の少年殺人犯の数的変化について、まったく違った印象を受けないだろうか。グラフにはこのような魔術があり、危険がある。
また図1と図2はかなり意図的な切り取り方をしていると言われてもしかたがない。
表1から分かるように、凶悪犯検挙数も殺人犯検挙数も九〇年がもっとも落ち込んだ年である。そして九八、九九年は急増した年である。その九〇年から九九年の間だけを切り取って図示すれば、凶悪犯増加の図を描けるのは当然である。しかし八九年の殺人検挙数は一一六人で九八年の一一五人より多かったのである。
ただ、この表からも少年凶悪犯検挙数は九七、九八年と急増していることは確かである。その急増を担っているのは、主要には強盗犯の検挙数である。強盗犯検挙数は凶悪犯検挙総数のうちの、九七年は七四%であり、九八年は七二%を占めている。
犯罪発生の増減を知ることができる数字は、検挙数あるいは検挙人員率(人口一〇万人当たりの検挙者数)にたよることが普通である。しかし検挙数は発生数をそのまま表わしていない。犯罪発生数と認知数と検挙数の間には差がある。その差は、犯罪の種類によっても違う。殺人はもっとも差が少ないだろう。
しかし殺人の場合でも、人が突然原因不明の死に方をしたとき、病死か、事故死か、自殺か、他殺か、判断できないこともある。他殺と認知されても、検挙されるまでには、いくつかの壁がある。ましてや、他の犯罪の場合は、発生数と検挙数との間には大きな差がある。しかもそれぞれの犯罪の検挙率も、警察の方針やそれとも関係する警察力量配分などの要因によって、大きく違ってくることがある。
四つの凶悪犯の中では、殺人の場合は発生に対して検挙率は高いであろう。しかし強盗の場合はどうなのか。「おやじ狩り」などの事件を想定すれば、おそらく殺人事件ほどには高くないであろう。検挙率が不安定だということも考慮にいれて、その増減数を読むべきである。[4]
少年による強盗事件が「おやじ狩り」のような形でこの二、三年増加していることはたしかだが、それがこのまま一層増加の趨勢をとるのかどうかは、もう少し長く見なければならない。そういう忍耐を怠って、危機的な凶悪化であると断定することは軽率であり、その分野の統計を長く扱ってきた専門家がそのようなことをすれば、自説を強化するために都合のよい図表づくりをしたと批判されてもしかたがない。
3――少年犯罪の変化
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図4 |
以上のように述べたからといって、現在の少年犯罪の状態に心配の必要はないと、主張しているのではない。凶悪化を言い立てて取り締まりの強化や管理強化をすればいいというような論調は安易に過ぎる。現代の少年犯罪問題の正確な理解と対応への努力を放棄させる危険がある。たとえ少年犯罪の数量が減少しているとしても、問題は大きいと私は考えている。
少年犯罪凶悪化の主張は、統計的数量の上では正確ではない。それにもかかわらず、凶悪な少年犯罪が増えているにちがいないし、身近におこるかもしれないという、多くの人たちが持っている実感はどこからやってくるのか。それは少年犯罪の質的変化を反映しているのではないのか。
まず、少年による凶悪犯罪は減少しているし、九〇年代になってもその統計的傾向は大きく変わっていない。八〇年代後半までについては既に書いたことがあるから、詳しくはそれを見て欲しい。そこで示した少年凶悪犯の補導・検挙数の変化は図4のとおりである。
これを見て分かるように少年凶悪犯補導・検挙数最高は一九六〇年であり、その人数は八一一二人であるが、一九八七年は一六三〇人であり、五分の一にまで減っている。この数は一三歳以下も含めているから、それを除くと、検挙数は一九六〇年が七五〇四人、一九八七年が一三一八人であり、その減り方はもっと大きい。(一三歳以下の「凶悪犯」で補導されることが一番多いのは「放火」である。ちなみに一九六〇年の一三歳以下の補導数六〇八人のうち放火は四〇二人、一九八七年は三一二人のうち二六五人である。)
その後九〇年代は、表1から分かるように、しばらくは同じような数で推移してきたのである。そしてこの三年(九七、九八、九九年)の凶悪犯検挙数は急増している。一九九五年の一二九一人に比べると、一九九七年の二二六三人は倍増に近い。しかしその増加分の九七二人は、強盗の八一〇人と強姦の一三七人がほとんど(計九四七人)である。強盗は八六五から一六七五へ、強姦は二六四から四〇一へと倍に近い増え方である。九〇年代後半の増加傾向がそのまま進んでいくとすれば、それは少年犯罪の凶悪化が統計的事実となった言えよう。しかしそれは一時的な傾向なのか、それとも今後も続く傾向なのか、まだ分からない。
少年凶悪犯検挙数が増加していないにもかかわらず、少年凶悪化論は八〇年代からずっと続いている。凶悪犯検挙数が底値になって安定し始めた頃から、逆に少年凶悪化論が言われ始めたのである。少年による殺人検挙数は七五年に一〇〇を切り、八〇年が四七人(一三歳以下の触法少年をふくめても五一人)と最低で、その後八九年と九八、九九年を除いて、一〇〇人以下で推移している。この八〇年の四七という数は、六一年の四四〇人の九分の一以下である。二〇年の間に少年凶悪犯罪は激減したのであるが、その時、凶悪化論が出てきたということは、どう説明したらよいのだろうか。少年犯罪の内容において際立った変化があり、それが「凶悪化」の言説と印象をつくっているのだろうか。
九三年の論文で取り上げた少年事件のうち、少年犯罪事件は当時世間に大きな衝撃を与え、それぞれにかなり詳しいルポなどがある次の六つであった。
(1)東京の学者一家の高校生が祖母殺し(七九年一月)、
(2)川崎市で浪人生が金属バットで両親殺害(八〇年一一月)、
(3)横浜の中学生たちが公園のホームレスを襲撃・殺害(八三年二月)
(4)名古屋で少年少女五人が無関係のアベックを連れまわし殺害(八八年二月)
(5)東京目黒区で中学二年生が両親と祖母を刺殺(八八年七月)
(6)東京足立区で無職少年らが女子高校生を監禁・殺害・コンクリート詰め遺棄(八九年一月)
これらの事件が大きな衝撃を大人たちに与えたのは、次のような特徴をもっていたからである。
一、一見したところ安定した生活を営んでいると見える家族に、事件が起こっている。((1)(2)(5)(6))
二、「明るい」「ひょうきん」などと評されていた「普通の子」が、重大事件を起こしている。((1)(2)(5))(6)の場合も中学生までは「普通の子」であった。
三、殺人のあとで、すぐには苦悩や反省を表わしていない。
四、殺害をしなければならなかったほどの動機や利害を本人自身も明らかにすることができない。
五、単に殺すだけではなく、必要以上に相手の肉体を傷つけ、破壊している。[5]
これらの特徴は最近の少年犯罪にも共通する特徴である。
衆目一致の不良少年ではなく、経済的にも安定した家庭で親から大切にされて育った「普通の子」が、残虐事件を次々に引き起こすようになった。周囲の人びとも、当人もどうしてそのような事件を起こさなければならなかったのか、分からない。世間は、勉強を強いていたのではないか、冷酷な育て方をしてきたのではないか、冷たい関係しかない家族だったのではないか、子どもの気持ちをえぐるような叱り方をしたのではないか、などと、残虐事件発生の原因を見つけ出して、自分たちの家の我が子どもたちと、事件の子どもたちとは別なんだという安心を得ようとしたが、無駄だった。自分たちと同じような家族に、あるいは自分たちよりも経済的にも安定し、親の社会的地位も学歴も高く、子育ても丁寧にしていたとしか思えないような家族に、悲劇が起こったのである。それならば、我が家にだっていつ事件が起こるか分からない、という不安が生じるのも無理ないことである。
さらにこれらに付け加えて、最近起こっている少年犯罪では、まったく無関係の人を誰でもいいから殺傷するという共通の特徴をもつ事件が続いている。(豊田市の主婦殺し、佐賀のバスジャック殺人、東京池袋や横浜の通行人襲撃など)
凶悪な少年犯罪は私たちの身近でいつどこで起こっても不思議ではなくなったのである。我が子も、毎日会っているまじめなあの子も、ひょっとしたら凶悪犯罪を起こすかもしれないという恐怖が、「凶悪化」論調を生み出している。
凶悪事件は増えていない。しかし凶悪事件は身近でおこる。「身近」とは私の生活圏で、ということであるが、また私の家庭や子どもと異質ではない家庭や子どもに、ということでもある。それが七〇年代末以降の少年事件に生まれた傾向である。
では六〇年代始めに現在の数倍もあった殺人事件は、私たちの「身近」ではなくて、どこで起きていたのか。どのようにして私たちの「身近」にやってきたのか。
4――少年犯罪の新しい現象
凶悪犯罪は六〇年代の経済成長と共に急減する。それは成人についても、少年についても同じである。そして成人はなおも減り続けるが、少年については七〇年代の後半にその検挙数は底をつく。
ところがその時期から、従来の少年犯罪についての常識では理解できない凶悪事件がおこりはじめる。その一番早い例が、七九年の有名な学者一家の少年による祖母殺し事件であり、翌八〇年の川崎金属バット両親殺害事件であろう。その先駆けとして、少年による事件ではなくて親による犯罪だが、七七年の家庭内暴力の開成高校生を父親が絞殺した事件も、新しい少年問題として重要である。
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図5 |
少年犯罪のこの変化について、図5のイメージ図を示して、次のように解説したことがある。
「経済的貧困を主要な原因とする犯罪が一九六〇年代頃より急減し、それに代わって新しい形の少年犯罪が八〇年頃から目立つようになった。(中略)
経済的貧困が少年犯罪の温床であることは現在でも変わりはない。現在の日本ではそれが少し下火になっているだけで、そこを軽視してはならない。もし貧富の差が拡大したり、若者の失業が急増するようなことが起これば、貧困を原因とする青少年犯罪もたちまち増加に転じることはまちがいない。
しかしこの貧困という原因の他に、別の犯罪誘発原因が現代日本の子どもたちを動かしている。その最大のものは、管理と競争の社会であり、その教育であろう。学校だけではなく、企業も世間も家庭も親も、成績主義競争をけしかけている。それによって、子どもたちは現代の差別と抑圧の下におかれている。それに耐えられなくなった子どもたちが暴発する」[6]
上に断ってあるように、経済的抑圧原因型非行は現在でもあるし、また逆に、学校の成績競争など非経済的要因がもたらす抑圧によって追いつめられ、犯罪的逸脱行動にはしった少年は、もちろん、いつの時代でもいた。図5は、七〇年代の後半を境として、少年犯罪・非行の主導的な原因が、前者から後者に転換したことを示している。文化的抑圧原因型犯罪・非行は、かつては世間に見えないほど少数の事例だったが、確かにあったのだということを、哲学者鶴見俊輔の少年時代の逸脱に見ることができる。
俊輔の父は貴族院議員、母は後藤新平の娘で、姉に続く二番目の長男として一九二二年に生まれた。いつも、デキのいい姉とくらべられ、学校の成績は良くて当り前、名門の長男として特別に厳しく監視されて育てられた。
「うちにはくつろぎがないし、といって学校にもない。学校とうちとの間を、もがいて歩くわけですね。そのころの東京は一五区で小さかった。だから、電車を降りちゃ、いろんなところを歩くわけですよ。いろんなとこへ降りていって、道端へ座ってね、小学校三年か四年で道端に座って、あーっと溜め息ついてるわけ(笑)。そういう暮らしですね」
学校の成績でも、生活でも、最上級であることを要求する母親にたえられない俊輔は、母親の期待に反する行為へと傾いていく。盗んで金をためるようになる、自殺を図る、手首を切るとか、致死量のカルチモンをのんで渋谷の道玄坂をふらふら歩いていて、警官とやり合って、病院に担ぎ込まれるとか、たばこを食べるとか、いろんなことをやる。動機は、
「おふくろに対して、はっきりオープンに世の中で復讐したかったんです。自罰的なんですね。おれは悪い人間だから死ぬ。悪い人間としてしか、おれは生きられないんだ。それですね」[7]
少年が管理と監視と過剰な期待の下に縛られてしまえば、現在の自分も、将来の自分も肯定できなくなって、行き場を失ってしまう。それはいつの時代も変わらないということを、上の例は示していないだろうか。七〇年代後半以降、俊輔的少年の苦悩が、日本の普通の家族の中に広がっていったのである。
その事態にマスコミは驚き、慌てふためいた。少年犯罪が自分たちの身近に近づいてきたからである。これは考えてみればずいぶん勝手な話である。
六〇年代はじめの頃、数倍もの少年凶悪犯罪が発生していたにもかかわらず、マスコミは小さくしか取り上げなかった。経済的貧困と社会的差別の下におかれていた家族に悲劇が限定され集中していて、経済的に一定の安定を獲得していた家族からは遠くはなれた別の場所の出来事であったから、マスコミは大きな関心を示さなかったのではないか。些細なことでの親殺し、教室での友人刺殺など、当時も次々に起きていたのだが、新聞は数行で小さく載せるだけだった。そして、自分たちと同じ家族に悲劇が迫ってはじめて、多くの人たちは少年の犯罪を自分たちの問題と見ることができるようになったのである。
5――存在意味の喪失 その一
七〇年代後半を境として、少年凶悪犯罪の主役は経済的抑圧原因型から文化的抑圧原因型に転換したのだが、しかしその両者には、外側の原因の違いにもかかわらず、共通する苦悩があったと見るべきだろう。それは、自分の存在の意味を感じることができない、という共通の苦悩である。青年は将来に大きな希望をもちたいという願いと、それが次々と断ち切られていく絶望の現実とにはさまれ、もみくちゃにされて、自分を失う。この青年の苦悩は自殺や犯罪の温床である。
たしかに、経済的貧困は少年犯罪の直接の原因になる。例えば、食べるものがなく、空腹の少年が他人の食物を強奪しようとするが、抵抗されて殺してしまう、というような犯罪がその典型であろう。しかしそのように経済的困窮が直接に凶悪な犯罪に結びつく事例は、戦後日本の最も貧しかった時期でも、それほど多くはなかったのではないか。
敗戦後、地主と小作のように身分に基づく関係と言っていいような、固定的な階層較差を解消する方向で、法と制度の改革が進展した。学校教育についても単線型学校制度が実現した。前期中等学校教育が義務教育になって、さらに誰でも、高校・大学へと進学することができる形が現われた。職業選択をはじめとして、自分の人生を自分で選択し、自分でつくる自由、自分の存在の意味を自分でつくることができる自由へと、日本社会の制度原則は大きく前進した。しかし法的・制度的な形として保障されたこの自由は、経済的かつ文化的に比較的恵まれた少年たちには享受されたが、経済的・文化的貧困の中におかれた多くの少年たちには、掲げられた自由と平等の理念とその制度を利用することができなかった。中学校の卒業が近づくにつれて、掲げられた素朴な希望は現実の絶望にとって代わる。
一九五〇年代、中学を卒業して進学できないで、家で農業を継ぐことになって数年間の農村青年を、堀越久甫は「忘れられた青年たち」といって、彼らにもっと注意を向けるよう呼びかけていた。彼らは、青年団にも出てこない、サークルにも参加しない。なにを考えているのか、サッパリわからない、と周りの者から言われていた。
「私は、中学をでて、すぐ家の農業で働くようになった青年たちのことを考えると胸が痛くなる。私自身、そうであった頃があるからである。希望と絶望が、無茶苦茶に胸のなかをかけめぐっていた頃が。これは、おそらく、高校、大学と進んだ人たちにとっては想像もつかない心境であろう」[8]
そして数年たち、百姓で生き、死ぬのだと、彼らはあきらめを身につけさせられて、やがて青年団にも出てくるようになる。だからほうっておけばいい、というのは誤りだ、この青年たちの悩みを放置しておいて、学校教育や青年の学習活動を語ることは許されない、と堀越は書いた。
一九六〇年、私は二〇歳だった。堀越が「忘れられた青年たち」と注意を喚起したその青年たちと同世代である。そして凶悪犯罪最多期をつくり出したその少年・青年たちと全く同世代であることになる。
しかし大学まで疑いもなく生きていくことができた私のような者には、中学卒業で進学を諦めなければならなかった少年たちの苦悩が、十分に理解できていなかったと、今になって思う。空間的には私が彼らと別世界で過ごしたわけではない。私の学区は、東京のはずれの農村と工場地帯を含むような地域だった。わたしはその農村部に住んでいた。同じ集落の同学年生は八人だったが、私ともう一人の女子を除くと、女三人、男三人の六人は高校に進学しなかった。学校成績で言えば、内一人以外は、比較的よくデキル生徒だったと思う。特に女子の二人はクラスの上位にいると見られている子だった。また中学校区は貧しい家庭をたくさん抱えた地域だったが、そのまま進めば、どこの有名大学に入学しても当然であるような成績の生徒たちが、何人も、中学校卒業と同時に就職しなければならなかった。そのうちの多くは夜間定時制高校へ通ったけれども。彼らもまた、堀越と同じような苦悩を体験したに違いない。しかしそのすぐ側にいながら、なさけないことに、私は彼らの苦しみを共有することができなかった。
彼らには、学校制度体系の単線化によって、能力に応ずる教育機会の理念と制度が、示されていた。前期中等教育の義務化によって、従来よりも一層深く、知的世界への関心が開かれていた。その理念と制度の船に乗って中学校卒業の時点までやってきて、この社会での役割と位置を思い描き、進むべき道を選ぼうとしたとき、その船は経済的現実や親の無理解という嵐に翻弄されて、難破した。彼らは自分の存在の意味づくりを、大きく制限されたのである。彼らの中にはそのために、自分の存在意味を見失ってしまう者もいたであろう。
6――存在意味の喪失 その二
今日の子ども・青年たちが、経済的理由から進路を阻まれることは、少なくなった。しかし高校に進んで、大学に進んで、専門学校に進んで、そのあとなにがあるのか、見えない。そこで彼らは苛立ち、苦しんでいる。四〇年前の若者も現代の若者も何者かでありたいと切実に希求している。しかしその道が絶たれる。
存在あるいは生きることの意味は、社会との関係から出てくる。社会との関係において実感することができる。社会にとって意味のある役割を果たしていること、そしてできれば、社会からその役割を認められ歓迎されていること、これが私の存在の喜びであり、意味である。それぞれの人にとって、「社会」の範囲や質には違いがある。小さく家族や地域の範囲に社会が限定されている場合もあれば、現代日本あるいは現代世界である場合もある。さらに過去も未来も、死者も子孫も含んで「社会」である[9]場合もある。
子どもが幼なければ、その「社会」は小さい。家族や仲間集団や学級が「社会」である。その社会の中で、その子が肯定的に受け入れられることが必要である。思春期になれば「社会」は時空共に広がる。やがて自分が参入していく社会が描けて、そこに受け入れられて、そこで必要な参与ができる、そういう見通しを、思春期以後の子ども・青年は必要とするようになる。その見通しの中に現在の生活が位置づいていると感じることによって、今の生活への意欲も意味も生まれる。[10]
この点では一九六〇年代の経済成長期の日本社会は単純だった。日本社会が経済的豊かさを実現していくこと、それに寄与するために経済・生産活動に参加し、その結果として家族の経済的安定を確保すること、それは価値あることだった。そのために学校に行き、努力をし、勉強をし、仕事の場に参加したいと思っても、五〇年代の貧しさは、それを許さなかった。しかし六〇年代に入ると、経済成長と進学率が相伴って高くなっていったから、子ども・青年にとって社会参加の見通し、したがって生活と学習の意味は、見やすかったのである。その意味が現在から見て正しかったかどうかは、ここでは問題にしない。
ところが七〇年代になって、高校進学率は九〇%を超え、高度経済成長も終わる。経済的豊かさは、実現されれば当然の日常となり、高校卒業も当たり前のことになる。他方では、過剰な生産と過剰な消費が自然環境と社会を蝕みつつあり、そういう事態がハッキリしてきたのに、どうすることもできない。社会の次の課題、歴史の課題が、見えなくなる。青年が参加するに足る価値ある社会が見えなくなる。見通しを失った青年の新たな苦しみが、ここから始まったのである。
家庭で子どもたちの役割がなくなったことも、存在意味喪失感をもたらしているに違いない。一世代前までは、ほとんどの家庭で、子どもは一〇歳にもなれば家族生活を支えるためにどうしても必要な仕事を割り当てられていた。その仕事を子どもは嫌々やっている場合でも、自分が必要とされ、当てにされているんだと感じたし、親から喜ばれれば、存在の充実を感じたであろう。しかしいまや、子どもは愛情の対象ではあっても、役立たずであり、厄介者である。
しかも進路・職業選択は制度的形式的条件からすれば自由になっているのに、偏差値という幻想の怪物ににらまれて心も体も動きがとれなくなっている。制度的希望と実質的絶望の間を揺れ動く青年たちの苦悩は、何者かでありたいと思いながら何者にもなれない、と諦めなければならなかった、あの戦後青年たちと同じではないのか。
7――荒れの広がり
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表2 |
少年犯罪が凶悪化しているとは単純に言えないし、ましてやバスジャック殺人事件など上記の最近連続して発生した事件によって、少年犯罪凶悪化を説明することは誤りである。しかし、現代少年が重大な非行や犯罪から遠ざかりつつあるというのではない。逆に、犯罪や非行への接近可能性は一般化し広がっていると警戒すべきであろう。
表2の調査校は東京の「有名進学校」であり、そこの教師目良誠二郎さんが授業の一環として行なったアンケートの一部である。入学してくる子どもたちは、よくデキル、イイ子たちである。「ここ数年の間に身近な人を殺したいと思ったことがありますか」との問いに、半数が「ある」と答えている。比較することができる過去の資料をもたないが、危険な数値であることはまちがいない。少年犯罪拡大の可能性はなくなっていない。
重大な非行・犯罪の発生を促進あるいは阻止する条件を、三つのレベルにわけて考えることが、非行・犯罪発生の原因を探るために有効だと思う。主体的条件のレベル、発生の直接契機(きっかけ、引き金)あるいは阻止の契機(引き留め)のレベル、実行への方法や道具のレベルの三段階である。
第一に非行・犯罪の主体的条件である存在意味喪失感は小さくなっていない。
第二に非行・犯罪発生の直接の契機となる葛藤と孤立は少なくなっていない。[11]
第三に、上のような条件や契機があって非行・犯罪実行に近づいたとしても、それを実行するための道具を獲得できなければ、実行は成功しない。非行・犯罪実行方法としてのイメージや言語、実行手段としての凶器などの道具によって、非行・犯罪の発生件数も質も変わってくる。犯罪イメージや言語の情報はあふれている。今後もしも銃器が容易に手に入るようになったら、凶悪犯罪発生は急増するであろう。
常識的感覚的凶悪化論ではなくて、少年の非行・犯罪について、もっと詳細な情報を整理する必要がある。
*1 奥平康照「現代の子ども事件が問いかけるもの」『講座・現代社会と教育 2 子どもと大人』大月書店、一九九三年。
*2 前田雅英『少年犯罪――統計からみたその実像』東大出版会、二〇〇〇年。
*3 以上、前田同書102〜105頁。
*4 「おやじ狩り」の場合、金品をひったくるだけなら「窃盗」であり、暴力を加えて奪えば「強盗」である。モノを奪った後で、被害者が抵抗したので暴力をふるった場合はどうなるか。両方を一つの行為と見れば「強盗」であり、二つの行為に分ければ、「窃盗」と「暴行」である。そのどちらの見方をとるかは、裁判の争点になることがある。これも「強盗」について認定の不安定な例である。
*5 奥平「現代の子ども事件が問いかけるもの」、前掲書、38〜40頁
*6 奥平康照「少年事件」『日本の学童ほいく』一九九八年六月号、一声社。
*7 河合隼雄『あなたが子どもだったころ』講談社+α文庫、一九九五年、18〜52頁
*8 堀越久甫「学校は今のままでいいか――農村青年の学習活動と学校教育」『教育』一九五九年三月号、国土社。
*9 柄谷行人『倫理21』平凡社、二〇〇〇年、を参照。
*10 奥平康照「社会参入過程としての学習と学校生活」『教育学研究』第六七巻第一号、日本教育学会、二〇〇〇年、を参照。
*11 奥平「現代子ども事件が問いかけるもの」、前掲書41〜50頁参照。
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