2012.10.25
マインドコントロールの基礎
うちの家を、まったくの他人が支配してたことがあったという逸話を読んで思ったこと。
リンク先では、「母の友人」としてやってきた正体のよく分からない人が、家族のそれぞれに怪しい働きかけを行うことで、一家が離散寸前まで追い詰められる。
おそらくこの人は、「心理的隔離」と「物理的隔離」、「行動と説得の接着」という、マインドコントロールの基礎的な技術を使っているのだと思う。
心理的な隔離の効果
上司に当たる人が、組織から誰かをつかまえて、「君、なんだか評判悪いみたいだね。でも僕は君の味方だから」といい含め、組織に戻すと、呼び出されたその人は、他の人を信じられなくなる。他ののメンバーに自分の評判を確認すれば、もちろん「そんなことはない」という返事が返ってくるのだろうけれど、それが嘘である可能性もあって、「君、評判悪いみたいだね」という言葉をかけられた人は、それを否定するのが難しい状況に追い込まれてしまう。
上司が別の誰かをつかまえて、また「君、評判悪いみたいだね。でも僕は」を繰り返し、すべての部下にそうした言動を繰り返すと、チームの横のつながりは切れる。チームは猜疑心で満たされ、部下はもう、明示的に「味方」であることを宣言してくれた上司以外は信じられなくなってしまう。
リンク先の物語では「子供」の体験談でしか詳細が分からないけれど、この人はたぶん、「君、なんだか評判悪いみたいだね。でも僕は君の味方だから」という文言を、家族の全員に、何度も繰り返していたのだろうと思う。
嘘をつくのは本来体力のいることで、根も葉もない陰口を全員に吹きこんでも、得られた結果は労力に見合わないし、人数が増えれば、陰口も矛盾から自由でいられない。普通はだから、こうしたやりかたは引き合わないのだけれど、息をするように嘘を生産できる、矛盾を突かれてもしらばっくれて厚顔無恥を貫けるような人ならば、こうした支配が大した苦労もなくできてしまうのかもしれない。
横のつながりは大切
「君、評判悪いみたいだね。でも僕は味方」の文言は、そう吹きこまれたチームのメンバーが一同に会して、「自分は上司からこう言われた」と誰かが発言すると、矛盾が生じて効果が失わる。とくにその場に上司その人が同席していると、今度は上司が排除の対象になってしまう。
心理的な隔離は、組織に横のつながりが復活すると意味を失ってしまう。リンク先の物語では、家族が一堂に会する機会には、家族を支配していた当人は席を外す描写が出てくる。ここで本人が同席すると、吹きこまれたうわさ話は家族による検証を受け、家の中に本人の居場所はなくなってしまう可能性が出てくる。
合宿形式の自己啓発セミナーでは、セミナーの参加者は原則として、お互いにその日の感想を交換することを禁じられる。「それをやるとセミナーの効果が落ちる」という説明がされることもあるし、宿泊所までセミナーを主催する側の人がついてきて、お互いの意見交換をそれとなく注意したりする。合宿の期間を通じて、セミナーの参加者はそれぞれ個別に呼び出され、リーダーから「注意」を受ける。お互いの口数はだんだんと少なくなり、表情が変わる人が増えてくる。
リンク先の物語では、実の母親が母屋でなく離れに暮らすようになり、父親もまた仕事が忙しく、お互いの生活時間帯がずれていく情景が描かれる。組合の成立を回避したい企業では、たとえば昼休みの時間を各人でずらしたり、休憩所をあえて複数作ったりすることで、みんなが一堂に会する機会を減らそうと試みるのだという。
組織の各人を心理的に隔離すると、組織には猜疑心が増していく。横のつながりは場の猜疑心を減らす。心理的な隔離の効果を維持するためには、お互いを物理的に隔離してしまうことが確実で、心理的にも物理的にも「味方」と呼べる人が「上の人」しかいなくなってしまうと、もしかしたら部下は従順になっていく。
行動と説得力を接着する
物語では、「母の友人」が家族の食事を作る場面が出てくる。それは単なる料理ではあるのだけれど、バラバラになった家族の中で、この人だけが家族をまとめるための行動を行っていることにもなる。
その人の言葉に説得力があることと、その人が何か素晴らしい行動をしたこととは本来全く関係がないのだけれど、両者はいろんな場面で接着される。
旧軍の参謀だった辻 政信は、「前線で兵士が苦労しているのを放っておけない」と率先して戦場に参加し、兵士に混じって前線で銃を取ったんだという。辻の作戦は政治の方針と衝突することが時々あったのだけれど、辻の行動は道徳に照らして「正しかった」から、無茶な作戦に対して、軍部は逆らうのが難しかったのだと。
統一教会の合宿では、教祖の人がどれだけ献身的であったのか、素晴らしい行動を行ったのか、逸話がいくつも語られる。あるいは自己啓発セミナーにおいて、街頭で署名を募ったり、みんなを前に何かの宣言を行った人は賞賛され、重用され、発言力が増していく。
行動と説得力とが接着された結果として、理論だった反論は、全て「行動もできない腰抜けの屁理屈」へと貶められ、「行動」する人の数は増え、説得を試みる人が少数派に転じると、やがてはすべての人が「行動」を強制されることになる。
同じ構造はいろんな場所にある
こうした場をコントロールする技術は、宗教家や自己啓発セミナーの人たちが得意だけれど、企業や学校みたいな場所でも、似たような側面はあるのだろうと思う。
あるいは「物理的な隔離」といえば警察の取り調べだけれど、容疑をかけられた人が物理的に隔離され、捜査官の人が「いろいろ聞いたけれど、あんたずいぶん評判悪いね」とつぶやくだけで、ダメージはずいぶん増すんじゃないかと思う。そうした中、「勇気を出して真実を語る」ことで罪を償った人たちの逸話を物語れば、隔離されたその人もまた、行動に転じるのかもしれない。
ネットの言論もまた、掲示板では理論だった陰謀の構造が語られる一方で、「テレビや新聞は嘘つきだ」という前提が共有される。お互いの顔を見ることはそもそも不可能で、家族をはじめとするまわりの人は「マスコミに洗脳されている」から、そもそも相談相手にならない。あの場にはたぶん、コントロールを試みる人はいないのだけれど、構造としてはよく似ているのだと思う。
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