一連の取材を通して一つの共通点が浮かび上がってきた。中心人物とされる角田(すみだ)美代子(64)は家族を乗っ取る中で、まず子どもを取り込む。ドラム缶女性遺体遺棄事件の公判で証言に立った川村博之(42)も、2009年春、知り合った直後に「子どもが見たい」と言われている。
1年後には小学生だった2人の子どもだけで、美代子の自宅マンションへ遊びに行くようになった。
川村一家の話を続ける。
翌10年の秋、川村と妻の裕美(41)の離婚問題をめぐって家族会議が開かれるようになると、子どもたちは学校に通わなくなった。そればかりか「角田さんの子になりたい」と訴えた。
子どもたちが美代子の影響下に置かれたことで、家族の崩壊は加速度を増していく。
裕美は当時マルチ商法を手がけていた。その社名をもじり、子どもたちは母親を「○×星人(せいじん)」と呼んだ。父親は「川村」、祖母の和子のことは「ばばあ」。裕美をたたくこともあった。
その年の12月、裕美と離婚した川村は自宅を出て、美代子のマンションの脇にあるワンルームに引っ越した。数カ月後には残る家族のうち、裕美と次女、裕美の姉香愛(かえ)(44)、母の和子の4人もここで暮らすようになった。長女だけは美代子と生活した。
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ワンルームでも家族会議は続いた。「子育てなどあれやこれやと反省させ、一人一人に自分が悪いと総括させた」と捜査関係者。8畳一間は壮絶な暴力の場と化していく。美代子が暴行に使ったとされるのが、通信販売のカタログを固く丸めた「しばき棒」だ。これで目や口を突く。耳が裂け、唇が切れ、かさぶたになるとまた突いた。
自分がいないときは、発言や暴行を記録した「報告メモ」を提出させた。納得のいかない発言を見つけると「なんで、たたいてへんのや」と追い込んだ。
11年6月末、親戚を頼って東京へ逃げていた裕美の母和子が連れ戻された。全員が外出を禁じられ、食事と水、トイレさえも制限されるようになった。汚物の臭いが漂う中、暴力が和子に集中する。川村はその理由を「すぐに居眠りをして会議が進まなくなったから」と法廷で述べている。
9月11日ごろ、和子が死亡する。66歳だった。解剖結果によると、喉の骨と肋骨(ろっこつ)3本が折れていた。
9月16日、川村は美代子の片腕の李正則(38)とともにドラム缶とセメントを買い、近くの倉庫で和子を詰めて遺棄する。
11月、裕美の姉香愛が2階にあったワンルームの窓から飛び降り、脱出。大阪市内のホテルに2泊し、交番に駆け込む。「母が死んだ。次は私が殺される」。11月3日のことだ。
香愛の逃亡で事件の発覚を恐れたのだろうか。美代子はすぐに川村に遺書を書かせている。「和子の遺体処理は全部私がやりました。遺体を詰めたドラム缶は尼崎港に捨てました。私の資産管理は角田さんにお願いします」
自殺するしかない。11月4日夜、川村と裕美は気持ちを固め、尼崎市内の駐車場に止めた車の中にいた。そこへ、行方を追っていた兵庫県警の捜査員が急行、身柄を確保した。裕美は耳が欠け、唇はえぐれていた。話しかけても、放心したように無表情だったという。
「あと1日遅れていたら川村と裕美は自殺し、事態は美代子の思う通りに運んだかもしれない」。捜査幹部が言った。
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川村は法廷で、声を震わせながら事件について証言した。だが「美代子から受けた恩は大きかった」とも述べている。長女はマンションに現れた捜査員を見て「いやだ、いやだ」と叫んだという。裕美と香愛も県警の調べに対し、美代子を崇拝するような心情を口にしたという。
2人の子どもは今、児童相談所に保護されている。
=敬称、呼称略=
(事件取材班)
(2012/10/25 15:57)
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