石ノ森章太郎とチキンラーメンのこと
石ノ森章太郎は,宮沢賢治や石川啄木と同じ,北上川のほとりで生まれ育った人である。
彼の場合は,子どもの時から漫画を書く才能があったようで,高校時にマンガ雑誌に投稿を始め,それが認められて雑誌編集者から上京を進められ,高校卒業と同時に漫画家としての生活に入ることになったのだから,恵まれたスタートだったと言える。
しかも,彼が暮らしたトキワ荘というアパートには先住者として,マンガ界のゴッドファザーとも言うべき手塚治虫がおり,そのトキワ荘に赤塚不二夫や藤子不二雄,寺田ヒロオ,園山俊二,鈴木伸一などが住んでおり,つのだじろうが自宅からここへ通ってきたりしていた。
石ノ森章太郎は恵まれた環境と恵まれた仲間に囲まれて,漫画家としての才能を開花させていくわけであるが,子ども時代の石ノ森は普通の秀才で,医者か公務員を目指していたという。
ちなみに彼の父親は町役場の役人で,退職後教育長を務めたインテリの方。
1938年に宮城県登米郡中田町石森で生まれ,その誕生の地にあやかって本名小野寺章太郎を,ペンネーム石ノ森章太郎としたのだとのことである。
トキワ荘時代,彼のマンガの最大の理解者にして最愛の姉であった由恵さんの死に遭遇する。(由恵さんは当時23歳だった。)
彼はいつも年上の女性に恋をしていたと自分で告白しているが,この病弱な姉の由恵さんのことがいつもこころにあったのだろうか。
後に彼は手塚治虫夫妻の媒酌で利子さんと結婚することになるが,写真で見ると姉の由恵さんと奥さんの利子さんは目の辺りがそっくりである。
彼はマンガの編集者に,マンガのヒロインはどこか奥さんにそっくりですねと言われると,僕のマンガのヒロインに似た女性と結婚したんだよと言っていたそうだが,おおもとはやはり,彼のマンガの最大の理解者であり最愛の姉であった姉の由恵さんへの思いが作品の中に反映された結果と考えられる。
石ノ森萬画館の3階のカフェ「ブルーゾーン」で遅い昼食となった。石巻は鯨肉が名物のようで,鯨肉定食が800円,チキンラーメン定食が500円で,あとはサンドイッチやスパゲッティ程度の軽食がおいてあった。
僕は,中継川など遠距離釣行の際のいつもの習慣により,質素で軽い昼食をとろうと考え,チキンラーメン定食を頼んだ。
チキンラーメンというと初めて大和デパートか小林デパートで,確か立ち食いで食べた即席ラーメンの印象が,子ども時代の懐かしい思い出として残っている。
僕の小学校就学前や小学生の頃は,西岸良平の漫画「3丁目の夕日」に出てくる時代である昭和30年代の世界で,その頃のラーメンは憧れの食べ物であった。
小学生の時から高校まで学校を同じくした,学校一の秀才だったK君の小学生の作文には,母親と妹と古町(当時も新潟市一の繁華街だった。)の東華楼へラーメンを食べにいったことが綿密に書かれていて,僕はその作文をうすボンヤリと覚えている。
東華楼の五目ラーメン
今の時代のような日本各地で競って作られたラーメンブームに乗っかっての色々な手を加えたラーメンではなく,正統派のしょう油ラーメンを彼は食べたのだと思う。
ラーメンを家族で食べに行くという出来事は,当時は家族でフランス料理のコース料理を食べに行くに匹敵するような贅沢なものだった。
K君だが,小学校時代はA君と秀才NO1を競い合い,中学時代は1番で我がT中学を卒業した。
その後,高校も彼と一緒であったが,彼は京都大学へ進み,理学部と文学部を卒業し,学者の道を歩いているようである。
T中学を確か250名位の中で7番で入り,9番で卒業したことを今でも憶えているが,まあ中程度の成績で県内一の進学校N高校へ入ったと考えている。
卒業も中程度の成績で,地元N大学に現役合格ということになったが,この合格を一番喜んだのはたぶん死んだ親父ではなかったかと,もう今となっては聞くこともできないが,そう思っている。
チキンラーメンというと,遊びに忙しくて,ほとんど悩みもほとんどなく,毎日が面白おかしく過ぎていった幸せな子ども時代の風景がよみがえって来る。
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