石ノ森章太郎
2011年03月30日
「漫」の字
震災から3週間近くたちました。
あまりに大きな被害状況に心が痛みます。
さきほどテレビ番組で
被災地のひとつである、石巻市の様子が報道されていました。
この石巻市には石ノ森章太郎先生の記念館
「石ノ森萬画館」が存在しています。
私は漫画好きですので、
阪神大震災の時でも「手塚治虫記念館はどうなった?」と気になりましたし、
今回の東日本大震災でも「石ノ森萬画館はどうなった?」と、
同様の心配をしていました。
石ノ森萬画館は石巻市内を流れる旧北上川の中州に建っています。
津波の被害をうけやすい立地条件です。
報道をみると、市内の仮面ライダー等の石ノ森キャラオブジェや、
萬画館の建物自体(細かい被害状況までわかりませんが)は無事だった様子です。
しかし、石ノ森萬画館の文字盤の「萬」の字がはがれおちていました。
私はそれに大きなショックをうけました。
「よりによって『萬』の字がはがれ落ちたか・・・」と。
さて、そもそもこの石ノ森萬画館。
なぜ「漫画」ではなく「萬画」という表記なのでしょうか?
それは石ノ森先生が生前、手塚治虫先生が逝去した時に発表した
「萬画宣言」からきています。
要約すれば「漫画」従来の表記だと、
単に「おもしろおかしいいたずら書き」という意味にも捉えられるので、
新しく「萬画」の字をあてていこうという提言です。
「萬」の字をあてた理由は、萬ほどの数の膨大な事象を表現することができる
メディアだから・・・と、簡単にいえばそういう事で、
「萬画宣言」の全文についてはネットで検索すればすぐにヒットすると思うので、
ここで全文紹介するのは避けておきます。
それから石ノ森先生は「萬画家」を名乗るわけですが、
あまり浸透しなかったのか、宣言後もだいたい「マンガ」と
カタカナ表記していましたね。
それでも、記念館は石ノ森先生の遺志を尊重して
「石ノ森萬画館」と命名されています。
思えば若き日の手塚先生は自作に
「これは漫画に非ず 小説にも非ず」
というただしがき(宣言?)を入れた事もあります。
それは自分の作品が従来の漫画のように
ただおもしろおかしいだけの単純なモノではない。
という意志の現れです。
かといって新しい呼び名も考えつかなかったのか、
とりあえず「しまりがない」という意味をもつ
「漫」という字の脱却をはかったのか?
「マンガ」「まんが」などの表記を主に使用する様になり・・・
後に大阪の日の丸文庫出身の若手漫画家・辰巳ヨシヒロ先生が
「劇画」の呼称を発案し、
それが定着しつつある時代もありましたが、
「マンガの神様」手塚先生が劇画の表現を嫌った為に
(劇画の手法は貪欲にとりいれてはいる)
やはり現在でも「漫画」の言葉が結局は生き残りました。
一般には「マンガ」とカタカナ表記されるのが普通ですね。
あと、ほぼ和製英語と化した感のある「コミック」という
呼ばれ方もしていますね。
つまり、手塚先生が改革をもたらした現代の日本漫画は
「漫」の字との戦いの歴史でもあったといえます。
私なんて別に開き直ってるのと、
カタカナ表記での「マンガ」っていうのは
その場しのぎの逃げの様な気がするので
漫の字と対峙してきた先人の作家の方には悪いかもしれませんが、
「漫画」という漢字表記にこだわっています。
って私の事なんかどーでもいいですね。
とにかく、その「漫」の字との戦いの象徴のひとつである
「萬画」の「萬」の字だけが
本当にまるで狙ったかの様に震災の被害にあってはがれ落ちた
石ノ森萬画館の映像をみてしまうと、
こうして色々と思う所がありますね・・・
あと、これはちょっと気になった事なんで書いておきますが、
いくつかの報道で「石巻市が石ノ森先生の故郷」といわれていますが、
石という字と、読みが似てて、記念館もあるから勘違いしやすいですが、
石ノ森先生は石巻市の出身ではありません。
隣の登米市出身です。
となりとは言っても、その登米市は市町村合併で新たに産まれた市ですので、
もっと厳密に言うと宮城県内陸の旧・中田町の字、石森出身です。
その出身地からペンネームを石ノ森章太郎にしたのです。
(本名は小野寺章太郎)
で、その旧中田町には「石ノ森章太郎ふるさと記念館」という
もう一つの記念館があります。
あまりに大きな被害状況に心が痛みます。
さきほどテレビ番組で
被災地のひとつである、石巻市の様子が報道されていました。
この石巻市には石ノ森章太郎先生の記念館
「石ノ森萬画館」が存在しています。
私は漫画好きですので、
阪神大震災の時でも「手塚治虫記念館はどうなった?」と気になりましたし、
今回の東日本大震災でも「石ノ森萬画館はどうなった?」と、
同様の心配をしていました。
石ノ森萬画館は石巻市内を流れる旧北上川の中州に建っています。
津波の被害をうけやすい立地条件です。
報道をみると、市内の仮面ライダー等の石ノ森キャラオブジェや、
萬画館の建物自体(細かい被害状況までわかりませんが)は無事だった様子です。
しかし、石ノ森萬画館の文字盤の「萬」の字がはがれおちていました。
私はそれに大きなショックをうけました。
「よりによって『萬』の字がはがれ落ちたか・・・」と。
さて、そもそもこの石ノ森萬画館。
なぜ「漫画」ではなく「萬画」という表記なのでしょうか?
それは石ノ森先生が生前、手塚治虫先生が逝去した時に発表した
「萬画宣言」からきています。
要約すれば「漫画」従来の表記だと、
単に「おもしろおかしいいたずら書き」という意味にも捉えられるので、
新しく「萬画」の字をあてていこうという提言です。
「萬」の字をあてた理由は、萬ほどの数の膨大な事象を表現することができる
メディアだから・・・と、簡単にいえばそういう事で、
「萬画宣言」の全文についてはネットで検索すればすぐにヒットすると思うので、
ここで全文紹介するのは避けておきます。
それから石ノ森先生は「萬画家」を名乗るわけですが、
あまり浸透しなかったのか、宣言後もだいたい「マンガ」と
カタカナ表記していましたね。
それでも、記念館は石ノ森先生の遺志を尊重して
「石ノ森萬画館」と命名されています。
思えば若き日の手塚先生は自作に
「これは漫画に非ず 小説にも非ず」
というただしがき(宣言?)を入れた事もあります。
それは自分の作品が従来の漫画のように
ただおもしろおかしいだけの単純なモノではない。
という意志の現れです。
かといって新しい呼び名も考えつかなかったのか、
とりあえず「しまりがない」という意味をもつ
「漫」という字の脱却をはかったのか?
「マンガ」「まんが」などの表記を主に使用する様になり・・・
後に大阪の日の丸文庫出身の若手漫画家・辰巳ヨシヒロ先生が
「劇画」の呼称を発案し、
それが定着しつつある時代もありましたが、
「マンガの神様」手塚先生が劇画の表現を嫌った為に
(劇画の手法は貪欲にとりいれてはいる)
やはり現在でも「漫画」の言葉が結局は生き残りました。
一般には「マンガ」とカタカナ表記されるのが普通ですね。
あと、ほぼ和製英語と化した感のある「コミック」という
呼ばれ方もしていますね。
つまり、手塚先生が改革をもたらした現代の日本漫画は
「漫」の字との戦いの歴史でもあったといえます。
私なんて別に開き直ってるのと、
カタカナ表記での「マンガ」っていうのは
その場しのぎの逃げの様な気がするので
漫の字と対峙してきた先人の作家の方には悪いかもしれませんが、
「漫画」という漢字表記にこだわっています。
って私の事なんかどーでもいいですね。
とにかく、その「漫」の字との戦いの象徴のひとつである
「萬画」の「萬」の字だけが
本当にまるで狙ったかの様に震災の被害にあってはがれ落ちた
石ノ森萬画館の映像をみてしまうと、
こうして色々と思う所がありますね・・・
あと、これはちょっと気になった事なんで書いておきますが、
いくつかの報道で「石巻市が石ノ森先生の故郷」といわれていますが、
石という字と、読みが似てて、記念館もあるから勘違いしやすいですが、
石ノ森先生は石巻市の出身ではありません。
隣の登米市出身です。
となりとは言っても、その登米市は市町村合併で新たに産まれた市ですので、
もっと厳密に言うと宮城県内陸の旧・中田町の字、石森出身です。
その出身地からペンネームを石ノ森章太郎にしたのです。
(本名は小野寺章太郎)
で、その旧中田町には「石ノ森章太郎ふるさと記念館」という
もう一つの記念館があります。
2007年11月17日
萬画家・石ノ森章太郎
石ノ森章太郎はとにかく筆の早い人で、月産500ページも描いたという伝説があります。
代表作は「仮面ライダー」「サイボーグ009」等。
現在も連綿と続くと特撮ヒーロー・戦隊ヒーローモノを生み出した事はもはや説明の必要はないでしょう。
だが、この人は他にも多種多様な意欲作を数多く書いています。
その代表作は「ジュン」です。
台詞が一切無い、絵だけでみせるそのファンタジーな世界観は漫画ファンの心をつかみました。
漫画に新たな可能性をもたらした"名作"といっていいでしょう。
いや、むしろ"問題作"でした。
「ジュン」を発表したのは雑誌「COM」
手塚治虫が「ガロ」に対抗し、新人発掘・育成のためにつくった雑誌です。
実際ここから多くの漫画家が巣立っていきました。
しかし、手塚治虫にとってこの雑誌は「火の鳥」を発表するためにつくった・・・
そんな面が大きかったのです。
手塚治虫は死後、漫画の神様として、聖人君子としてあがめられてますが、才能のある新人に対する嫉妬がすさまじい人でした。
どんな嫉妬があったかとか、どんな人物であったかは、本やネットで数多く語られているので、私はこのブログに手塚治虫の項をつくっていまさら語るつもりはありません。
当然その嫉妬心は才能にあふれる石ノ森章太郎にもむけられることになるのです。
続きを読む
代表作は「仮面ライダー」「サイボーグ009」等。
現在も連綿と続くと特撮ヒーロー・戦隊ヒーローモノを生み出した事はもはや説明の必要はないでしょう。
だが、この人は他にも多種多様な意欲作を数多く書いています。
その代表作は「ジュン」です。
台詞が一切無い、絵だけでみせるそのファンタジーな世界観は漫画ファンの心をつかみました。
漫画に新たな可能性をもたらした"名作"といっていいでしょう。
いや、むしろ"問題作"でした。
「ジュン」を発表したのは雑誌「COM」
手塚治虫が「ガロ」に対抗し、新人発掘・育成のためにつくった雑誌です。
実際ここから多くの漫画家が巣立っていきました。
しかし、手塚治虫にとってこの雑誌は「火の鳥」を発表するためにつくった・・・
そんな面が大きかったのです。
手塚治虫は死後、漫画の神様として、聖人君子としてあがめられてますが、才能のある新人に対する嫉妬がすさまじい人でした。
どんな嫉妬があったかとか、どんな人物であったかは、本やネットで数多く語られているので、私はこのブログに手塚治虫の項をつくっていまさら語るつもりはありません。
当然その嫉妬心は才能にあふれる石ノ森章太郎にもむけられることになるのです。
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2007年11月15日
突然の別れ
トキワ荘時代の石ノ森章太郎の生活はかなり派手でした。
当時かなり高価なステレオやテレビや8ミリカメラを買いそろえ、いくら売れっ子といっても、気がつくと家賃が払えなくなり、月末には寺田ヒロオから借金をする生活をしてました。
そんな弟の世話をするために姉・由恵は上京し、トキワ荘で同居をはじめます。
名目上は喘息の治療です。普通考えたら空気のいい故郷(宮城県)にいたほうがいいでしょう。
なのに、「東京の方がいい病院があるから」と無理矢理な口実で両親を説得しました。
当然空気の悪い東京の生活に耐えられず、由恵は体調を崩し故郷に帰る事になります。
それでも静養し体調が多少回復こともあって、またすぐに上京するのです。
姉・由恵はなぜそれほどまで弟・章太郎の事を思っていたのでしょうか?
体の弱い自分にはかなえられない夢を弟に託していたのかもしれません。
はたして再度上京した由恵は駅で喘息の発作をおこし、倒れます。
すぐに病院に運んだので、これで一安心と思った石ノ森は赤塚らと映画をみていました。
それが姉弟の今生の別れでした。
続きを読む
当時かなり高価なステレオやテレビや8ミリカメラを買いそろえ、いくら売れっ子といっても、気がつくと家賃が払えなくなり、月末には寺田ヒロオから借金をする生活をしてました。
そんな弟の世話をするために姉・由恵は上京し、トキワ荘で同居をはじめます。
名目上は喘息の治療です。普通考えたら空気のいい故郷(宮城県)にいたほうがいいでしょう。
なのに、「東京の方がいい病院があるから」と無理矢理な口実で両親を説得しました。
当然空気の悪い東京の生活に耐えられず、由恵は体調を崩し故郷に帰る事になります。
それでも静養し体調が多少回復こともあって、またすぐに上京するのです。
姉・由恵はなぜそれほどまで弟・章太郎の事を思っていたのでしょうか?
体の弱い自分にはかなえられない夢を弟に託していたのかもしれません。
はたして再度上京した由恵は駅で喘息の発作をおこし、倒れます。
すぐに病院に運んだので、これで一安心と思った石ノ森は赤塚らと映画をみていました。
それが姉弟の今生の別れでした。
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2007年11月13日
"天才"石ノ森章太郎
漫画家の話。三人目は石ノ森章太郎について語りたいと思います。
"天才"の定義は人それぞれ解釈が違ったりするでしょうが、それはさておき、石ノ森章太郎は"天才"の名をほしいままにしました。
けど本人は「天才なんて努力してないみたいだから、職人と呼ばれたい」と思ってたそうです。
なぜ天才と呼ばれてたか?
それは若くして素晴らしい才能に恵まれ、精力的に活動していたからに他ありません。
石ノ森章太郎はすでに中学生にして、「東日本漫画研究会」という今で言う同人誌グループを設立し、その主宰として全国から投稿者を集い、同人誌「墨汁一滴」を発行。もちろん自分の作品も発表しました。
そこで卓越したセンスと画力をみせつけ、早くも高校在学中には「漫画少年」誌にてデビュー作「二級天使」を同誌休刊まで連載しています。
それからは二十歳そこそこの若者でありながら、数多くの仕事を抱え、当時仕事の少なかった年上の赤塚不二夫をアシスタントに使うほど売れっ子になっていました。
なぜこの人はこんなに才能にあふれていたのでしょうか?
生まれ持った部分もあるでしょうが、石ノ森の才能が開花したのは彼の姉、小野寺由恵の存在が大きかったと思います。続きを読む
"天才"の定義は人それぞれ解釈が違ったりするでしょうが、それはさておき、石ノ森章太郎は"天才"の名をほしいままにしました。
けど本人は「天才なんて努力してないみたいだから、職人と呼ばれたい」と思ってたそうです。
なぜ天才と呼ばれてたか?
それは若くして素晴らしい才能に恵まれ、精力的に活動していたからに他ありません。
石ノ森章太郎はすでに中学生にして、「東日本漫画研究会」という今で言う同人誌グループを設立し、その主宰として全国から投稿者を集い、同人誌「墨汁一滴」を発行。もちろん自分の作品も発表しました。
そこで卓越したセンスと画力をみせつけ、早くも高校在学中には「漫画少年」誌にてデビュー作「二級天使」を同誌休刊まで連載しています。
それからは二十歳そこそこの若者でありながら、数多くの仕事を抱え、当時仕事の少なかった年上の赤塚不二夫をアシスタントに使うほど売れっ子になっていました。
なぜこの人はこんなに才能にあふれていたのでしょうか?
生まれ持った部分もあるでしょうが、石ノ森の才能が開花したのは彼の姉、小野寺由恵の存在が大きかったと思います。続きを読む