
1938年 1月25日、宮城県登米郡石森町(現在・登米市中田町石森)に父・康太郎、
母・カシクの長男として生まれる。(姉・弟2人・妹の5人兄弟)
本名:小野寺 章太郎
1950年 中学生になり近所の子たちを集め、正岡子規の句集に名を借り、マンガ同
人誌『墨汁一滴』を作るが、2号であえなく廃刊。−翌年(中学2年)、「毎日
中学生新聞の漫画投稿欄に4コマを初投稿、入選。投稿マニアとなる。
1953年 高校1年の夏休み『漫画少年』の投稿仲間らと「東日本漫画研究会」を作り、
肉筆回覧誌『墨汁一滴』創刊号を作る。−−−翌年5月(高校2年の春)、
手塚治虫氏より電報。”シゴトヲテツダツテホシイ”−−学校を休んで上
京。中間テストをはさんでアシストをする。
1954年 12月『漫画少年』新年号からの 「二級天使」 の連載でデビュー。
1956年 宮城県佐沼高校卒業と同時に上京。西落合に下宿、漫画家生活に入る。
−同5月、トキワ荘に移る。同月15日、姉さんが上京。−トキワ荘仲間が
中心の『新漫画党』第2次党員(党首寺田ヒロオ)となる。
1957年 年初、描き下ろし『火の鳥風太郎』の原稿料をすべてつぎ込み、最新ハイファ
イステレオ(レコードプレーヤー)を買う。−−翌年3月、上京したお姉さん
(由恵さん)亡くなる。
1959年 手塚治虫の誘いで東映・長編漫画映画「西遊記」の企画制作に参画。
1961年 8月、各出版社から原稿料を前借りし、集英社”取材記者”の肩書で出国。
シアトルの「SF大会」に出掛け、そのまま世界一周(70日間)に。
−−同年末、トキワ荘を転出。
1963年 5月、アニメーション製作会社(有)スタジオ・ゼロを鈴木伸一らと設立。
1964年 利子夫人と結婚(仲人・手塚治虫)。−−同年12月、日本漫画家協会
(現・社団法人)の発足と同時に入会する。
1966年 「ミュータント・サブ」「サイボーグ009」で第7回講談社児童まんが賞受賞。
1968年 「ジュン」「佐武と市捕物控」で第13回小学館漫画賞受賞。
1980年 10月「原稿7万枚突破記念・マンガ家生活25周年記念パーティ」開催。
1981年 (社)日本漫画家協会常務理事に就任。
トキワ荘同窓会。(翌年12月2日に解体された。)
1984年 12月『少年文芸作家クラブ(現・創作集団プロミネンス)』に入会。−−翌年、
デビュー30周年を機に、初心にもどるべく”そう呼んでもらえるはずだった
石ノ森”に改名。
1988年 「HOTEL」等で第33回小学館漫画賞受賞。「マンガ日本経済入門」で
第17回日本漫画家協会賞・大賞受賞。
---『(財)日本ホテルスクール教育センター』評議員に就任。
『メディア・コミックLACの会に入会。
1989年 9月『日本テレビ放送網(株)・番組審議会』委員に就任。−−同時に、
文字放送の審議会である『アクセス・フォア番組審議会』の委員も務める。
---中田町 ”名誉町民”に。
1990年 10月『経済審議会(経済企画庁)』臨時委員に就任→91年12月まで。
---日本酒が似合う人に贈られる『日本酒大賞』に選ばれる。
---『年間最優秀プロデューサーを選ぶ会』より”1990年最優秀
プロデューサー賞”を受賞。
1992年 4月『太陽の会』理事長に就任。顧問には海部俊樹、橋本龍太郎など。
中田町・石ノ森塾の塾長に。
1993年 財団法人・水と緑の惑星保全機構の評議員に就任。−−なお同年12月
から’96年3月まで『児童生徒の読書に関する調査研究協力者(文部省)』
の協力者も務めた。
1994年 1月1日『マンガジャパン』発足と同時に代表世話人に就任。
1995年 『上田市マルチメディア情報センター』オープンと同時に、名誉館長に就任。
1996年 9月『東アジアMANGAサミット’96』議長を務める。
---みやぎ夢大使に就任。
1997年 1月『地球ルネッサンス』提唱人に就任。
1998年 1月28日 東京都にて永眠。没後、残した偉大な業績に対し、以下を受賞。
勲四等旭日小綬章。日本漫画家協会賞・文部大臣賞。手塚治虫文化賞
・特別賞。
---なお、世界イベント村ぎふ永久名誉村長にも就任した。

