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お家に一直線
湘南ホームライナー、7時半に乗って大磯へ向かっている。朝からの雨も上がり、気持ちのいい夜半だ。電車に乗る前に東急本店の地下でうなぎ弁当とグラッパ「ポリ」を買っておいた。イタリアの強い酒グラッパのポケット瓶である。ホームライナーという呼び名はお家に一直線という意味から付けたのだろう。 さて、電車に乗ると、やおら弁当を広げ、酒を口にして、読書となる。今夜、読むのは赤塚不二夫本とトキワ荘本だ。このところ、私はすっかりトキワ荘の伝説の漫画家たちに心を奪われている。とにかく、登場する人物の誰もいい。寺田ヒロオ、藤子不二雄の二人、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、森安なおや、水野英子・・・。信じられないほど善意の若者たちだ。そこで育まれた友情、同士愛、トモガキは何度読み返してもジンと来るものがある。名編集者丸山昭曰く、「トキワ荘はいわば旧制高校の寮生活のようなものであった。メンバーはここで人生を知り、漫画というものを学んだのだ」 トキワ荘には手塚治虫が住んでいるという噂が、トキワ荘がある椎名町界隈には広がっていた。近所の少年たちは手塚のサインが欲しいと、トキワ荘にこぞって出掛けた。現在、お米屋を営んでいるYさんも、当時中学一年生で、トキワ荘に出掛けた一人だ。 トキワ荘のみしみし言う階段を上がって、2階でキョロキョロしていたら、色の白い青年が声をかけてくれた。 「どこに行きたいの」。手塚治虫さんと答えると、その青年は「先生は、もうここにはいないよ。サインが欲しいなら書いてあげようか」といった。 その青年に導かれて、ある部屋の中に入ると、もう一人小太りのベレー帽をかぶった人が寝ていた。 「おい、石森。この子達にサインしてあげようよ」と色の白い青年が言うと、ベレー帽はのそのそおきてきてサインした。ネズミのキャラクターを描いてくれた。 色の白い青年は、いたずらっ子が寝転ぶ姿の漫画を描いて、その色紙に「ナマちゃん」と書き添えてくれた。少年Yは、今も、そのときに描いてもらった赤塚の漫画を大事に取って保管している。色の白い優しい青年が、今おもえば赤塚不二夫だったのだと、Y少年は還暦を過ぎた今になって感動している。 Y少年は当時中学一年生になっていたが、小学校の頃、よくトキワ荘の敷地のなかへ遊びに入った。庭先に使い古したようなGペンが落ちていたのだ。それを拾って学校へ持って行くと、クラスメートに自慢できた。それはいいけど、トキワ荘の評判は悪かった。というのは深夜遅くまで騒いだりおしゃべりしていることが絶えなかったのだ。近所から「うるさーい、今何時だと思っているのだ」と怒鳴る声が聞こえた、そうだ。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
出会いと人柄
ちょうど、南長崎で撮影するときだけ薄日がさした。80歳に近い丸山昭さんと水野英子さんをお連れして、トキワ荘のあった場所と近所のラーメン屋松葉で収録となった。赤塚、石森コンビに紅一点の水野さんが加わって、3人合作で作品を描いていた時期がある。このコラボレーションを仕掛けたのが、少女クラブの編集者、丸山昭さんだ。3人で使ったペンネームはドイツ人風U・マイヤー。(もちろん、うまいやをモジッテイル) とにかく、赤塚、石森は本当に仲がよかった。女子の水野さんが参加しても、妙な感情もなく、同士のような付き合いが続いたという。 トキワ荘から3人で近くの銭湯に行くことがあった。風呂嫌いの石森を赤塚が引っ張っていく。風呂屋の前で男女に別れて、帰りを待ち合わせる。水野さんが遅れて出てきても、赤塚石森は玄関で楽しそうにしゃべっていた。いつも二人はいっしょだった。 3人で徹夜して漫画を描くこともあった。夜中の2時を過ぎた頃から、二人は(特に赤塚)は下ネタを話しはじめる。下関から出てきたばかりの18歳の少女は、内心ぎょっとしながらできるだけ平然としてみせた。でも、これで鍛えられたから、男社会の出版社でも全然平気になったわ、と楽しそうに語る。 トキワ荘というのは、誰でも入れたわけではない。「漫画少年」で入選とか佳作になったような才能がある程度そろっていた。みんな漫画が好きだったから、一日中、漫画と映画のことだけ話していても楽しかった。ここは、旧制高校の寮のような「同じ釜の飯」仲間が醸成されたと、丸山さんはみている。 さきほどのU・マイヤー3人合作の話。ストーリーとコマ割は石森が担当し、主人公の男女を水野が描き、背景や草花、レタリングと仕上げを赤塚が担当した。その当時の、赤塚のペンタッチは細く繊細で緻密だ。なかなかの画力を感じさせる。後年、オイラは絵が描けないから高井研一郎にまかせた、なんて赤塚語録が流布されたが、水野さんに言わせると、赤塚の絵はなかなかのものだったという。シャイで口数が少なかったけど、ちょっとHだったしサービス精神は人一倍旺盛だった。 「おそ松くん」で小学館漫画賞を受賞したときごろから、赤塚は自信に溢れたようになっていったと丸山さんは分析する。でも、他者が赤塚に期待することを、精一杯やりとげようとサービスに徹した。 水野さんは赤塚の誰と会っても同じ対応をとることの見事さを評価した。けっして威張らない見下さないのだ。どんな人と会っても、自分のほうが一段低いところに置いて対応する癖は終生変わらなかった。 とにかく、二人から面白い話が一杯出た。これから、編集に入っていくのだが、どうやって短縮するか、かなり大変だぞ。と、嬉しい悲鳴。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
椎名町へ
午後に旧椎名町の二股交番へ行く。トキワ荘跡地での撮影が行われる。 3月の特番「赤塚不二夫」の取材である。 大事な二人の人物がその現地に来てくれる。漫画家の水野英子さんと編集者の丸山昭さんだ。 二人ともトキワ荘を知悉している。水野さんはおよそ1年間住んだことさえある。トキワ荘グループの紅一点。 丸山さんは「少女クラブ」の編集者として、そのアパートに出入りした。後に編集長時代、例のちばてつや傷害事件が起きた。穴を埋めるために原稿をトキワ荘に持ち込んだその人である。二人はどんな話をしてくれるだろうか。 さて、準備のため丸山昭著『トキワ荘実録』を読んだ。そこでどきっとすることを発見した。 平成元年に手塚治虫、2年に寺田ヒロオ、8年に藤子F不二雄、10年には石ノ森章太郎が死去している。いずれも60歳か61歳だ。なんと、今の私と同年じゃないか。早い。本当に早い。 昨年、赤塚不二夫が72歳で亡くなったときに早いと思われたが、他のメンバーに比べればずっと長生きしていたんだ。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
なーんだ知っていたくせに
本日は有休をとった。年度末になって、気がつくと20日ほど有休が残っている。たしか、3年前の第一次定年をむかえたときも、40日ほどの休みを捨てたことがあった。だいたい仕事人間だからすぐ会社へ行くくせがついてしまったのだ。昨日のロミさんの話で、有休はサラリーマンの大切な権利です、という言葉を思い出した。一昨日もロケに出て、昨日も終日外出していたから1週間休んでいない。ここでちょっと休むことにした。といっても出社して昼までオフィスにいたが、なんとなく映画を見たくなって、「今日は休みにするわ」と言いおいて退社した。渋東シネタワーでやっていた「チェンジリング」でも見ようかなと、駅まで歩く。 昼からの興行が13時45分。それまで1時間あるから、ツタヤに入る。店内放送で、今日は半額日とアナウンスされると、DVDが借りたくなった。で借りた。「アメリカを売った男」「ヒトラーの贋金作り」「長い長い物語」の3本。これを借りたら映画を見る気が失せた。ツタヤ地下一階のコミックスコーナーへ回る。すると、今私が調べている赤塚不二夫本、藤子不二雄本がずらりと並んでいた。興奮して、単行本とコミックスを1万円ほど購入。そのなかに、藤子不二雄Aの「愛・・・知りそめし頃に・・・」の一巻から5巻までがある。意味深なタイトルだなと思って開いた最初の一巻、冒頭に、愛・・・知りそめし頃にのエピソードが出て来る。主人公の満賀道雄こと藤子不二雄A21歳。彼が暇そうに写生をしているトキワ荘、昭和31年2月から物語で始まる。そのアパートの廊下でとびきり美しい女性と出会う。このとき藤子不二雄Aはドキっとしてハートマークが浮き出る。掃き溜めにツルではないかと、仲間の藤子F不二雄とも話し合う。この女性こそ小野寺由恵19歳、石ノ森章太郎の美しい姉だった。 石ノ森章太郎はこの三つ違いの姉のことが大好きでありせつない存在でもあった。というのは、彼女は幼い頃からひどい喘息で、そのため高校を行くことも断念したほどだ。病弱であったが、読書が好きで短歌をよくした彼女は、石ノ森章太郎の一番の読者であった。石ノ森は深く姉を愛した。シスコンだ。この姉は、ときどき上京して石ノ森章太郎の面倒をみるためにトキワ荘にやってきた。そして、次第に寺田ヒロオ、藤子不二雄、赤塚不二夫らと交友し、時には富士五湖までピクニックに出かけることもあった。トキワ荘グループのまさに紅一点だった。 この姉がある夜枕を並べて眠る石ノ森章太郎に、このアパートに好きな人がいるということを告白する。それを聞いた石ノ森は憤然と「そんなことを考えるより、病気を治すことのほうが先だろう」と姉を説諭する。石ノ森は少し妬いたのかもしれない。姉はさめざめと泣いた。その泣き声を石ノ森章太郎は後に思い出して、自分を責めるのだ。 姉はそれから半年もしないうちに、トキワ荘で突然発作を起こして急死した。 このことを記した石ノ森章太郎のエッセーには姉の思い人の名前は××さんとしかなかった。今回、「赤塚不二夫」特集を制作するにあたり、私は関係者にこの件についても訊いて回った。「それは我孫子素雄さんしか考えられない」という確証を、関係者から私は得た。 10日ほど前に、私は藤子不二雄Aさんにインタビューした。「石ノ森氏のお姉さんが好きだった人を知っていますか?」「え、誰ですかねえ」「藤子不二雄A先生、あなたですよ」「ええ恥ずかしいですよ、そんな40年も前のことを」といって藤子不二雄Aさんはおおいに照れていた。そのときは、この「愛・・・知りそめし頃に・・・」を読んでいなかったから、藤子さんも意外なことでびっくりしたんだなと思っていた。藤子さん自身はお姉さんのこと以外の別の人を懸想していたので、お姉サンの思いには気づいていないのだと思っていた。 ところが、「愛・・・知りそめし頃に・・・」では、満賀道雄はしっかり小野寺由恵を意識していたではないか。私がインタビューしたとき、藤子不二雄A先生は照れてトボケていたのだ。ということを今発見した。あのとき、事務所でのインタビューだったから、アシスタントや関係者が部屋の端っこで聞き耳を立てているから、おおいに照れたにちがいない。でも、この恋物語、なんとか形にしたいなあと思っている。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
漫画の進化
『子連れ狼』(画:小島剛夕)の作者小池一夫さんに芝のホテルロビーで会った。現代漫画の一期生である。今や、一期にあたるのは、さいとうたかを、藤子不二雄A、さんなどわずかになったと氏は語る。現在73歳。身長180センチの偉丈夫は少しも衰えては居ない。それどころか、日本漫画のちから(実力/能力)をもっと世の中に広めたいと意欲十分である。 話の初めに氏は面白いことを語った。小説全部の売り上げが200億、映画は洋画邦画合わせて2000億、それに比べて日本の漫画は13兆ある。なのに、世間では芥川賞、直木賞と騒ぐが、漫画に対しては正当な評価を与えていない。そこを改善もしていきたいと、速射砲のように話す。よく知られているが、氏は後進の育成にも力を入れていて、小池一夫劇画村塾を開いている。ここから、高橋留美子、原哲夫など錚々たる人たちが巣立っている。名前の知られている漫画家、小説家、ゲーム作家だけで300人の塾生がいるそうだ。すごい人脈である。その影響は日本だけにとどまらない。 70年代に『子連れ狼』、『御用牙』、『修羅雪姫』、『忘八武士道』など、セックスとバイオレンスに満ちたアナーキーな時代劇作品を多数発表した。その多くが映画化(またはドラマ化)され、70年代の映画界に大きな影響を与えた。クエンティン・タランティーノなどは、小池氏の影響をかなり受けているという。 「漫画はキャラ立てが大事だ」というのが小池さんの漫画論の中心にある。物語の中心にインパクトのあるキャラクターを布置することの重要性を説いている。だからキャラクター原論の提唱者ともいわれる。 ところが、最近、さらに新しい理論を構想しているというのだ。その内容については、まだ言えない。現在の漫画のすさまじい進化と大きな広がりが、かえってある停滞に陥ったのではないかと考えたところから、小池さんは新しい漫画理論を打ち立てようとしているらしい。その話を昨日聞いたのだ。とても興味深い。だが、これをどういう形の番組に出来るか、思案がいる。 さきほどの現代漫画の一期生のことだが、手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、梶原一騎、藤子・F・不二雄ら、ほとんど物故している。ちばてつや、水島新司という人たちは2期生だそうだ。私は、てっきり1期生だと思っていたのだが。本宮ひろ志、小山ゆうらは3期生にあたる。私が漫画の現役読者だったのは、せいぜい3期生までだなと、あらためて思った。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
冬雲の下で
寒い日である。もみじ山の風景も白茶けて殺伐としたものとなっている。鳥の声も今朝は聞こえない。大磯駅で定期券を購入する。半年でおよそ15万円。たいそうな金額だ。今度買い換えるのは8月の10日。暑い盛りだろうが、今朝の寒さからなかなか想像できない。 昨日、衛星第2放送で、お昼に長時間にわたって、手塚治虫特集をやっていた。これまでの手塚に関するドキュメンタリーを集めた特番だったので、ちょうど見たいと思っていた「青春のトキワ荘」と「私の自叙伝」を確認することができた。 「青春のトキワ荘」はフィルムドキュメントの名作だと思った。撮影の吉田ヒデさんがいきいきしている。とにかく、この「物語」のミソは、トキワ荘伝説の高名な漫画家たちでなく、ここから弾かれたり去って行ったりした人物に注目していることだ。 日本漫画史を彩る綺羅星のごとき作家―手塚治虫、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子・・・。功なり名を挙げた人たちだ。光の部分である。 影の部分。トキワ荘を離れて、漫画の世界から遠ざかり再び戻った、森安なおや。赤塚や石森と同輩にもかかわらず、現在は建築業のわたり職人となって、密かに漫画を描いている。11年かけて描いた漫画を、出版社に売り込みに行く様子をカメラはシビアにとらえている。彼が描いた漫画は、岡山の小作農の倅が運命に翻弄されて、太平洋戦争で18歳で死ぬという内容。原稿を見る出版社の編集者の目は厳しい。森安の絵もセンスも今とはずれているということで、とまどいを隠せない。不安げに見守る森安の顔に、視聴者のワタシも引き込まれる。 もう一人、影の国に住む漫画家がいる。トキワ荘の兄貴分で若い漫画家たちに影響を与えた寺田ヒロオ。彼は、昭和40年の時点で、トキワ荘を出て、遠く茅ヶ崎に新居を建て引きこもってしまった。商業主義に毒されてしまった少年漫画に見切りをつけたのだ。 番組は、トキワ荘での送別会・同窓会に収斂していく。老朽化したアパートが取り壊されることになり、かつての住人たちが集まって同窓会を開くことになる。巨匠たちがいそいそと仕度をして昔ながらの肉なしキャベツいためを作ったり、かつての姿を撮影した8ミリ映画を試写したりして、往時を懐かしむ。この宴に手塚を初め、ほとんどのメンバーが来る。森安も端っこに座っている。そのなかで、ただ一人、寺田は来ていない。 画面は切り替わって、茅ヶ崎の寺田を写す。今度の同窓会には行かないのかと訊くと、寺田は「行かない」と答える。懐かしくはないかと続けると、「いや、いいよ。トキワ荘はこの心の中にあるから」と答える。この言葉が深く沁みる。この言葉を味わうことができるように丹念に構成されている。それだけでも、この番組は成功していると思う。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
土曜の朝から
自分の体温で暖まった布団のなかで、うつらうつらしているところへ、「夢のなかのデート」が流れてきた。60年代の懐かしいコニー・フランシスの曲だ。一瞬、どこに私はいるのかと目くるめく。 小川洋子『物語の役割』(ちくまプリマー新書)を読んで感銘した。作家の秘密としての、物語の作り方を小川は告白している。短く、やさしい表現の新書だから、ぜひ読まれることを薦める。 彼女の大事な主題であるホロコーストと金光教のことが、実にディーセントに忍ばせてあることに感動する。 そこで紹介されていた彼女の作品「リンデンバウム通りの双子」。 主人公の私は日本の作家で、別れた妻と子どもがいる。その子どもがロンドンに留学しているのだが、現地の学校でトラブルに巻き込まれる。男は学校に呼び出され、急遽ロンドンに行くことになる。その私の小説をドイツ語に翻訳してくれているハインツがウィーンに住んでいて、私と文通している。ヨーロッパに行くついでに、そのハインツと会おうということになり、私はウィーンに赴く。リンデンバウム通りのアパートを訪れる。と、思いがけないことにハインツは年老いた老人でしかも双子であった、やはり年老いた兄カールと二人だけで古いアパートの5階に暮らしていた・・・・・。 荒筋だけでも面白そうだ。俄然読みたい気分となり、昼から、この本を大磯図書館へ探しに行こうと思う。でも、私が書きたいことは、この本のことではない。双子の老人と出会った場面のことだ。主人公がそのことを知ったときの、呆気にとられた表情を想像し、そのことにわくわくしているのだ。 1959年2月、50年前のちょうど今頃小学館の二人の編集者はトキワ荘を訪れた。ここに住む漫画家に、春に創刊される少年週刊誌に連載漫画を依頼するためだ。豊田編集長から命を受けて、このアパートに住む藤子不二雄という新進気鋭の漫画家を口説いて来ることになったのだ。なんでも、同じアパートに住む寺田ヒロオと編集長は仲良しで、その寺田がもっとも有望な若手だと藤子不二雄を推薦したそうだ。 木造アパートの2階に上がり、ドアをノックして、部屋に入ると二人の若者がいた。 「?」編集者は顔を見合わせた。 「あのう、どちらが藤子さんでしょうか」 「ぼくらです。ぼくらは二人合わせて、藤子不二雄です。」ベレー帽をかぶった線の細い若者と黒縁眼鏡の前髪を垂らした若者が口を揃えて言った。 なーんて、光景があったのではないかと、今サンデー・マガジン物語を制作している私は夢想してしまったのだ。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
漫画史の面白さ
子どもの日の特番を制作している。少年週刊誌の曙をテーマにしている。このところ流行っているドキュメンタリードラマの手法を用いて、そのテーマに挑戦しようと考えている。 ということで、1959年(昭和34)から10年ほどの漫画文化の歴史を追っているのだ。つまり、少年サンデーと少年マガジンの熱い挑戦が主題である。 ここ3年ほど、サブカルチャーの話題をいくつも番組にしてきた。「あしたのジョーの、あの時代」「21世紀を夢見た日々~日本SF50年」「ちばてつや 再びのマンガ魂 ありがとうトキワ荘の仲間たち」「新しい文化フィギュア」と並ぶ。これらの元になったのは、20年前に制作した「少年誌ブームを作った男・大伴昌司」である。あの当時は、私にとってちょっと変わった素材をドキュメンタリーにしたとしか認識していなかった。 ところが、この20年の間に、サブカルチャーと一段低く見られていた日本のキッズカルチャーは漫画やアニメを中心に世界から注目されるようになり、その研究も次第に深まった。 そして、今年はサンデー、マガジンが創刊されて50年という大きな節目をむかえ、私はその主題に真っ向から取り組むことにしたのだ。 関連の図書資料を読み込んでいる。と、面白いことに気づいた。少なくとも、週刊誌2誌の歴史ですら、きちんとした把握はされていないということだ。小学館、講談社の社史にはおおざっぱなことしか書かれていない。それぞれの社の元編集者の記した著書はあるが、あくまで自分の置かれた視点からの論評であって、相互の関係がはっきりしない。研究家の書も、ある時期を静的にとらえたものであって、通史としてダイナミックには把握されていない。だから、相互を重ねていくと、ずいぶん不自然な「事実」が浮かび上がってくる。 それを今検証しているのだ。当事者にインタビューして、事実関係の正否を確認しながら、漫画という文化がどう構築されていったかを確かめている。 この作業がめっぽう面白い。これまであまり注目されてこなかった編集者という存在が、漫画文化の結節点で重要な役割を果たしていることが、次第に明らかになっていく。 ある編集者が、少年週刊誌を成熟させたものとして3つの要素があると言った。一つは、漫画を支持してくれた少年読者、2つめは読者の心に直接ぶつかっていった漫画家、3つめは編集者。謙遜しながら語ってくれたが、私もまさに編集者の役割は大きかったと思う。 しかも、初期の頃の編集者たちは、あまり漫画が好きではなかった。漫画を編集しているということで、編集者のなかでも一段低く見られていた。そのことをバネにして、新しいメディアを作り上げていくのだ。小学館の少年サンデー、講談社の少年マガジン、この2誌は会社のカラーも雑誌のカラーもまったく違うタイプ。だからこそ、ニューメディアが組みあがったのではないだろうか。2項対立構造ではなく、弁証法的構造と言ったら言い過ぎであろうか。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
心優しいチビ太P
「ぼくって、誰にでも頭下げられるんです」と平山亨Pは言ってにこっと笑う。その笑顔がいい。笑っていても目だけは笑っていないという人がいるが、彼は違う。笑う顔は本当に破顔だ。屈託がない。 腰が低いのは東映京都の太秦撮影所で育ったからだ。撮影所では助監督のまわりは偉い人ばかりだ。絶え間なく頭を下げ続けた。それは苦にならなかった。師事した監督は時代劇の名匠松田定次。映画全盛に夥しい数で映画を作った人だ。芸術をめざすより、人を喜ばせるエンターテイメントをめざした人だ。その精神はしっかり受けついだ平山P。やっと映画監督を務めるようになった昭和38年、日本映画は下降局面にあった。太秦撮影所も仕事が減り、活気を失っていた。 40年に、平山Pは配置転換となり東映本社のテレビ部プロデューサーとなる。監督とPでは仕事は天と地ほど違う。よく辞表を書かなかったものですねと訊くと、「妻と子を路頭に迷わすわけにはいかなかったからね」とあの笑顔をまた見せた。 漫画が好きだったからよく読んでいた。ちょっと注意したいのは、当時、東大を出たオッサンが漫画を本気で読むなどということは考えられない。それをやっていたというのが、平山Pの特異点。貸本漫画で水木しげるの世界を発見しはまっていた。そして、少年マガジンの内田勝編集長の知遇を得て、本格的に水木しげるにアプローチする。半年後には「悪魔くん」のテレビ映画の撮影が始めていた、というから意外に行動派でもある。当時、木曜日夜7時は10chのNETでは最高4パーセントしかとったことがない枠だ。そこへ製作費のかかる特撮ものではあったが、平山Pは「悪魔くん」で挑戦した。ここが、彼の隠された美質。直感で得たものを信じ、やると決めたらトコトン前進していく。けっして諦めない。この頑張り屋の側面はあまり他人には見せない。 放送が始まると、初回は8パーセント。まだ低いが、それでも過去最高だ。現金だがけっして裏切らない子どものファンがいることを、平山pは実感した。次第に視聴率が上がっていく。製作費はかさんで赤字だったが、確実に番組イメージは上昇していった。 「この番組を作って一番嬉しかったことはですね」と平山Pは意外なことを語った。映画が斜陽となって仕事が無くなってリストラ寸前だった撮影所の仲間たちが救われたことだという。平山Pはなにより友愛を大切にする人だったのだ。 やがて、46年から始めた「仮面ライダー」は大ヒットする。これは、大阪毎日放送MBSの枠をゲットして作った。裏番組は視聴率40パーセントの「巨泉のお笑い頭の体操」だったが、ここの牙城を揺るがすほどの連続ドラマとなる。この企画は、平山Pが石森章太郎と苦心の末に作り上げたもので、昨日の聞き取りでも、平山Pはかなり微に入り細に入りして語ってくれた。その話は後日に譲るとして、このドラマがヒットして盛大なパーティが開かれたときのエピソードを紹介したい。 大阪の名門ホテルでパーティが開かれ、MBSの社長も出席して祝辞をもらった。そこで、平山Pは大きく頭を下げてお礼を言ったのだが、そのスピーチに関して今でも後悔しているという。「あの時、社長もいたからせっかくのチャンスだったのに、私は大野剣友会に毎月100万でもいいから振り込んでやってくださいって言えなかったのですよ」 話はややこしいが、こうだ。仮面ライダーがヒットしてキャラクター使用料だけでも○億ほどMBSに副収入をもたらすことになった。その利益から、普段ギャラが数万しかもらえないショッカーを演ずるスタントマンたちに、手当てをしてやってほしいと、平山Pは訴えたかったのだ。ところが、華やかなステージで、平山Pは舞い上がり、その進言をする機会を失い、そうした自分をいまだに責めているのだ。これは口先だけで言っているわけではない。本当に口惜しそうになんども語る。まことに、仲間を大事にするプロデューサーだと、あらためて思った。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
子供の力
なにげなくテレビをつけたら不思議な番組が流れていた。保育園の4,5歳の子供たちが泥んこ遊びをしている。保育園の園庭に水溜りを作って、泥だらけで遊んでいる。本当にこどもたちは楽しそうだ。木更津の保育所での出来事だそうだ。この保育所が近くの里山を利用して保育している様子をほぼ一年にわたって取材した番組らしい。ネットの番組表で確かめると、2007年に放送されたETV特集「里山保育が子どもを変える」の再放送だったようだ。 とにかく画に力がある。あるいじめっ子でありいじめられっ子のシュウタが、変容していくさまをきわめて自然に撮っている。あの「はじめてのお使い」のように幾つもクルーをカムフラージュして撮るケレンの映像ではなく、低いカメラのまなざしでしっかり記録している。つい、最後まで見入った。この保育園では小さな怪我は怖れずに子供に刃物を持たせたり、田んぼのなかに入らせたりする方針なのだ。この映像を見ながら、赤塚不二夫のちび太の世界を思った。赤塚が子供たちに伝えたかった世界とは、こういうことではないだろうか。 昨日、藤子不二雄Aこと安孫子素雄さんを取材した。今では、伝説のトキワ荘を知る貴重な人物だ。先生は、赤塚とトキワ荘の時代もスタジオゼロの時代もともにしている。そのゼロの時代を懐かしそうに話してくれた。そのスタジオには赤塚、藤子、つのだじろうの3つのプロダクションが同居していて、赤塚チームはいつもお祭り騒ぎだったという。銀玉鉄砲を撃ち合って騒ぐのだ。いい大人が自分の部屋で飽き足らず、藤子部屋やつのだ部屋まで駆け込んできた。真面目な藤子F不二雄は、最後に切れて「うるさーい」という。しゅんとしながら、部屋を出て行ってまた撃ち合いをやっていたという。安孫子さんは、赤塚マンガの秘密はそういう子供の心を失わないところから来ていると、証言した。この子供の心というのは、今夜見た里山保育の子供たちのものと同じだ。 そして、本日の午後、あの「キャップテンウルトラ」や「仮面ライダー」を作った東映の伝説的なプロデューサー平山亨氏に話を聞いた。80歳になる平山さんはおみ足が不自由だが、弁舌は少しも衰えていない。 「キャップテンウルトラ」や「仮面ライダー」の時代を3時間にわたって、滔々と語っていただいた。その平山さんも、子供をバカにしちゃいけない、こどもの見抜く力はすごいのだということを、繰り返し強調していた。平山さん自身、幼いときにこんな経験をしている。あるとき、注射をされることになり「ヤダ、ヤダ」と泣き叫んだ。医者や看護師らは「痛くない、痛くないよ」といって、捕まえて平山さんに注射した。すると、やっぱり注射は痛かった。裏切られたと思った平山さんはそこにいた看護師たちのスカートをパーッとめくったそうだ。あまりに頭に来たのだ。これぐらい、こどもというのは凄い力やプライドがあるもので、その子供をなめてはいけない、自分が担当した特撮ドラマでも、ジャリ向けのドラマかなんていう役者はどんなに有名でも、ぜったいに起用しなかったと、鼻の穴を膨らませて語ってくれた。そのお顔はチビ太に似ていた。その顔と、今夜見たシュウタの顔がさらに重なった。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか |
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